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痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
三章 忘れものの庭
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09

 唐突に耳慣れた言葉を喋ったイーヴェをアサコは穴が開くほど見つめた。その視線に気づいていない筈はないのに、イーヴェはそれ以上は口を開こうとせず、彼女の視線さえ気にしていないようだ。

「今、喋りました……?」

 先程のイーヴェの言葉に驚いて混乱していたアサコは自身なさ気に聞いてみた。もしかすると気のせいだったのかもしれないとも思ったが、微笑んで首を傾げたイーヴェを見て今まで感じなかったほどの胡散臭さを感じ、眉を顰める。

「どうして首を傾げるんですか」

 アサコが訊いても、イーヴェは何故かだんまりを決め込んだ。言葉が分かるのならば、どうして知らんふりをするのだろうとアサコは顔を顰めたが、何も言いそうにないイーヴェを見て結局諦めた。今アサコのよく知る言葉を喋ったのが気のせいでなければ、なにか理由があるに違いない。からかわれているだけという可能性も大いにあったけれど、深くつっこまない方がいいような気がした。

 そうこうしているうちに外は暗くなりつつあった。夕日の残光が地平線にあったが、それも僅かで殆どがもう星空だ。廊下にはほんの少しの明かりしかない。じきに燭台に火が灯されるだろうが、そうなってしまってからディルディーエの部屋に向かうことはアサコにとって勇気のいることだった。あれから影は見ていないけれど、ふとした拍子に視界に入ってきそうで気が気でないのだ。

 アサコはイーヴェを放ってすたすたと歩き出した。今でも十分恐いから、思わずはや歩きになってしまう。どうしてかアサコたちの部屋の周辺では滅多に人を見かけることがない。しんっと静まり返った薄暗い廊下は不気味で仕方がなかった。ずっと続く自分以外の足音で後ろを振り返ると、思っていた通りイーヴェがどうしてか付いてきていたから少しほっとした。こんな時ばかりはありがたいと思ってしまう。

 ディルディーエの部屋の前に着くと、出てきたディルディーエは呆れたようにため息を吐いた。

「またか」

「……どうせなら、部屋を一緒にしてくれると助かります」

 アサコはバツが悪そうに小さな声で言った。ディルディーエは驚いたように少し目を円くする。

「冗談だろう?」

 そう言いたくなるほど鬱陶しいと思われているのなら、できるだけ自重しようと項垂れる。けれど夜になるとどうしてもディルディーエのいる明るい部屋が恋しくなるのだ。影を見てからはアサコは一人で眠っていない。暗闇で一人きりになると、きっとあの影がやってくるのだとアサコは何故か確信していた。アサコは、見つかってしまったのだ。

 アサコの様子を見て、その言葉が本気なのだとディルディーエは悟ったのだろう。また大きくため息を吐いた。

「王子なら喜んで一緒に寝て下さると思うが?」

「親しくない男の人と寝ろって言うんですか。ちょっと寝たことはありますけど、遠慮します」

「王子と一緒に寝たいと願っても、叶わない娘がこの国には山ほどいるのに」

「わたしは願ってません」

 アサコはうんざりとしながら言った。先ほどからイーヴェは部屋に戻る気配もなくずっとアサコの後ろにいる。先ほど有難いと感じたことを棚に上げて、犬みたいなのはそっちじゃないかと思ったけれど、仮にも一国の王子であるこの男に言う勇気は流石になかった。

 喋りながらもディルディーエが淹れてくれたお茶を飲むために椅子に腰掛けると、イーヴェもどうやらまだ居座るらしくアサコの隣に座った。温かなお茶を飲むとほっと息を吐く。お茶を淹れた本人は、分厚い本を閉じてアサコたちの向かいに座りはしたが、やはり用意したお茶に手をつける気配もなかった。アサコは今だにそのことが少し気になるが、もう口にすることはなかったし、イーヴェはそれが当然のように振舞う。言葉が通じないことに不便さを感じたり、兎や羊の召し使いを見て今だに驚いたりもするけれど、アサコはもう違和感なくこの場所に馴染んでいた。

「……変なの」

 ぽつりと呟くと、二人はアサコを見た。

 感じる違和感は、アサコ自身が色んなことに疑問を感じないことに対してだ。

「白い鹿は持っているか?」

 ディルディーエに唐突に尋ねられて、アサコは首を傾げそうになったが、隠しに入った小さな鹿を触って頷いた。アサコの体温を受けた鹿はやはり温かい。その鹿に触れる度、アサコの心臓はきゅっとなる。卓上に出すと、ディルディーエはそれを摘まんでじっくりと見たあと、もとの場所に戻した。大卓の上でそれは小さく、けれどかっちりと立っている。

「王子はこれと同じ物を歪みの城で見たらしい。姫が胸に抱いていたそうだ」

「え、そうなんですか」

 干からびたお姫様がこれと同じ物を抱いて眠る姿を想像して、アサコは気の抜けた返事を返した。自分がこの鹿を持っている理由も経緯も覚えていないのだから、ますますピンとこない。大事な物だとは思うけれど、本当になにも思い出せないのだ。干からびたお姫様と自分が同じ物を持っていると思うと、背筋が少し寒くなる。

「それは、まだお姫様が持っているんですか?」

「ああ、置いてきたそうだ」

「……あの、わたしお姫様のことが知りたいです」

 アサコが言うと、ディルディーエは微かに眉を顰めた。聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれないとアサコは思ったけれど、じっとディルディーエの返事を待った。隣りではイーヴェが我関せずという顔で優雅にお茶を飲んでいる。

 異国から嫁いできたお姫様の物語は、ディルディーエに一度聞いている。心の優しいお姫様。それならば、アサコが見たあの少女は誰なのだろうか。あの少女は夢の中で残酷なほど無慈悲に微笑む。アサコに絶望を植えつける。その絶望の正体さえも目が覚めてみれば曖昧だったけれど、胸の中に生まれた突っ掛かりはとれない。

「記録はあまり残っていない。何しろ随分昔のはなしだし、伝説のようなものだよ。以前話した物語りがこの国では語り継がれている」

 アサコは釈然としないながらも、それ以上聞こうとはしなかった。アサコの周りは隠し事だらけだ。ディルディーエも、イーヴェもきっと何かを隠している。それはアサコがあの城にいたこととなにか関係があるはずなのだ。知ることに対して心の何処かが否定しているけれど、先日影を見てからは知らないことが不安になってきていた。

 難しい顔をして黙り込んだアサコを見て、ディルディーエはまたため息を吐いた。その気配で彼女は顔を上げる。

「寝仕度は済んでいるんだろう? もう寝なさい。また明日考えるといい」

 そう言って天井から吊るした硝子の球体を見た。中でくるくると回る風車の羽のようなものは、時計の役割を果たしているらしいということをアサコは先日知ったが、その見方はまだ分からない。此処へ来てからは、大体の時間の感覚や周囲の人たちの動きに習って行動している。

 隣りをちらりと見ると、イーヴェはまだお茶をゆっくりと飲んでいたが、アサコと目が合うとにっこりと微笑んだ。まだ暫くこの部屋にいるつもりなのだろう。アサコはむっと唇と突き出して立ち上がると、ここ数日で自分のもののようになりつつある寝台へ向かう。ディルディーエの部屋は、物が多いせいかそんなに広く感じない。部屋の隅にぽつんと立った木に何気なしに目を向けてみると、その木には握りこぶしほどの大きさの白い花が咲いていた。昨日はまだ蕾もなかった筈なのに、どういう仕組みなのだろうか。

 寝台に入り込むと、ぽつぽつとディルディーエとイーヴェの声が聞こえてきた。何を言っているのかは理解できないが、人の気配に安心しながら目を閉じる。ディルディーエの部屋で寝るようになったここ数日の間、少女の夢は見ていない。けれど今日は違った。眠りの訪れと共に、アサコは夢の気配を感じる。もしかすると、自分が夢に近づいているのかもしれない、ぼんやりとそんな考えが浮かんだけれど、あの少女が現れると同時にそれも消えうせた。


 背の低い木々が立ち並んでいた。それらには椿に似た白い花がぽつぽつと咲いていて、甘い香りを放っていた。

 少女はその香りの下で微笑んでいた。向かい合うのは美しい少年だ。少年は優しく微笑み、木から一輪の花を摘むとその根元を少女の口元へ差し出した。少女はぷっくりと出ていた蜜を小さな舌で舐めとり微笑む。

 少年は顔を傾けると少女の柔らかそうな下唇を啄んだ。唇と唇の僅かな隙間をなぞるようにゆっくりと舌を這わせる。少女が逃げるように首を竦めるとそのあとを追って、食むように口付けた。

 蜜月は一瞬で過ぎ去ってしまう。次の瞬間、少女は少年と似た面影を持つ男の前に立っていた。幸せそうに微笑んでいた少女の顔は絶望で蝕まれていく。

 この先を知っている。

 その少女とアサコはいつの間にか重なり、一人になる。アサコは逃げ出そうとしたけれど体が思うように動かない。彼女は追体験をさせられているに過ぎないのだ。

「……やっ」

 ようやく搾り出すように出た声も小さく、すぐに空気に溶けてしまう。

 男の手が伸びてくる。何度も首を振るけれど逃れられない。自分の恐怖とは別に、少女の心が死んでいくのをアサコは感じていた。


「アサコ」

 強く肩を揺さぶられてはっと目を開けると、イーヴェが心配そうに顔を覗き込んでいた。ぎょっとしてアサコは身を硬くする。イーヴェは先ほど夢の中で見た少年とも、男とも似ていた。恐怖で頭からは血の気が引いていた。

 捕まれた肩は熱い。

「アサコ」

 もう一度名前を呼ばれて、忘れていた呼吸をすると、涙が出てきた。あれはあの少女であって、アサコではない。少女が少年に呼ばれていた名前を思い出す。

「……ラカ」

 呟くと、それは妙にアサコの舌に馴染んだ。小さな呟きにイーヴェが顔をしかめたことに、アサコは気付かない。頬を伝った涙がぽつりと落ちて寝着を濡らす。ひどい、どうして、と憎しみや哀しみで胸が締め付けられて、アサコは立てた膝に顔を埋めた。ひくっと喉が引き攣るのを止められない。涙はとめどなく流れて、羽根布団に染みを作る。

 ここへ来てからは泣いてばかりだ。いつも理由がはっきりと分からないのに涙が零れる。

 そっと優しく頭を撫でられて顔を上げると、イーヴェが微笑んだ。その表情は夢の中の少年と重なって、アサコの胸は酷く締め付けられるのだった。






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