08
この坂を抜ければ、あの場所に着く。
ごろごろと何度も寝返りをうって、アサコはとうとう体を起こした。昼間眠ってしまったせいか、眠気が湧いてこない。諦めて寝台から抜け出すと、部屋の中を見渡した。魚も鳥も、ぴくりとも動かない。みんな寝静まっている。今が何時頃になるのかは分からなかったが、隣の部屋にいるイーヴェも流石に眠っているのだろう。
窓の外では大きな月が煌々と輝き、その光りは部屋の中まで至っていた。月明かりに引き寄せられるように裸足のまま歩いていく。足の裏の冷たさを感じながら硝子戸を開けると、冷たい風が流れ込んできて窓掛けを揺らした。元々この城の部屋のどこにも窓掛けなどかかっていなかったけれど、アサコが住んでいたところでは一般的なもので、無いと少し落ち着かないと漏らすと、その数時間後には取り付けられていたのだ。本当に至れり尽くせりだと苦笑してしまった。
露台に出ると、庭の綺麗に敷かれた芝生や木々が見えた。そのずっと先には街が見えたが、真夜中だからか灯りも少ない。ぼんやりとそんな景色を眺めていると、寒さで体が震えた。隠しに入っている鹿に無意識に手を触れると、それはアサコの体温でか、ほんのりと温かかった。硬くてさらさらとしているそれを撫でている時、下の方で何かが動いているのが見えて目を凝らす。木の影でよく見えないが、確かに何かが動いている。
「……っ」
それが木の下から出てきた途端、アサコはひっと息を飲んだ。
人だ。けれどそれは、どれだけ目を凝らしても月明かりに照らされても、人のかたちをした黒い影にしか見えなかった。月明かりにぼんやりと照らされた芝生の上をゆっくりと、重い足を引きずるようにして一歩ずつ歩いていく。歩いている途中で、細長い腕と足を音も無く何度もおかしな角度に折りながら時々立ち止まった。
どこに向かっているのだろうか。背筋がぞっとする恐ろしさを感じながらも、アサコは目を離すことができなかった。無意識にぎゅっと鹿を握った少しあとに、ゆっくりとその影はアサコの方に顔を向けた。目が無いから見えているのかも分からないが、ぎょっとしてアサコは後ずさる。けれどそれ以上は動けなかった。少し離れたところにそれはいるのに、恐怖が体と意識を縛る。
影は、その場所から何かを乞うようにアサコの方へ両手を伸ばした。何かは分からないが、アサコは首を振る。すると、影は叫ぶように大きな口を開けたように、アサコには見えた。
「やっ」
そこでようやく、アサコは体を翻して走った。ばんっと扉を体で開けて廊下に転げ出ると、すぐに立ち上がって周囲を見渡した。長い廊下に灯りはない。廊下の突き当たりは、闇に覆われて見えない。アサコは隣りの部屋に駆け寄ると、思いっきり扉を叩いた。
「だっ」
勢いよく開かれた扉に思いっきり鼻をぶつけて鼻を押さえていると、腕を引かれて部屋の中へ入れられる。
「イーっ」
名前を呼ぼうとしたら、しいっという風に人差し指をさされて口を紡ぐ。その顔は珍しく真剣だ。
アサコが見たものを、イーヴェも見たのだろうか。あれは駄目だ。不吉なもの。けして触れてはいけないもの。
あんなものを見るのは初めてだったが、アサコはそんな風に感じた。
「-----------」
静かな声でイーヴェは何かを言うと、アサコを寝台に座らせ、肩から上着を被せた。手を重ねられて、自分の体が震えていたことにようやく気づいたアサコは、深呼吸をした。
「あれは、なんなんですか?」
訊くと、イーヴェは苦笑して首を傾げた。少し困惑しているようにも見えたが、アサコは気にせずに、そわそわと窓の方を見てから扉を見た。今にもあの影が此処にやってくるような気がしてならない。
アサコの視線に気づいたイーヴェは、露台にでると何かを探すように辺りを見渡したが、やがて肩を竦めて見せた。何もいないということなのだろう。アサコは小走りでイーヴェの元まで行くと、先程影がいたはずの場所を見たが、そこにもう影はなく、周囲に目を凝らしてもそれらしきものは見当たらない。それが逆にアサコの恐怖心を煽る。先程までは確かにいたはずなのだ。今もどこかにいるはず。
イーヴェの様子から見て、彼はあの影を見ていないのだろう。アサコが子供のように闇に怯えているとでも思っているのかもしれない。
「ディルディーエ、ディルディーエ」
イーヴェと会って幾分かは落ち着けたが、恐怖を拭い去りきれないアサコは、その名前を呼んだ。
イーヴェは先程と同じ表情で頷くと、扉の方へ向かう。ディルディーエを連れて来てくれるのだろう。アサコの尋常でない様子で、さすがのイーヴェも何かを察してくれたのかもしれない。
アサコは寝台に座ったままイーヴェが扉に手をかけるのを見ていたが、同時にはっとして慌てて彼に駆け寄るとその腕を掴んだ。一人で置いていかれるなんでとんでもない。
よほど必死な形相をしていたのだろう。イーヴェは一瞬驚いた顔をしたあと、また苦笑した。扉横の小さな台の上の燭台を手に取ると、扉をゆっくりと開く。戸惑いもなく部屋の外へ出ようとするイーヴェの後ろに隠れるように身を屈めて、アサコもそのあとに続いた。そこら中に闇が散らばっている。その中から、今にもあの影がにゅっと出てきそうで、アサコはどきどきしながら肩に掛けられた上着を握る。
ディルディーエの部屋は、確か地下だったはずだ。ここからは少し遠い。アサコは付いて来たことを少し後悔しながらも、今更一人、部屋に戻る気にもなれずにイーヴェのあとを黙って歩く。すると後ろが気になりだして、何度も振り返っていると手を握られた。見るとイーヴェは、少し表情を険しくしていた。何か、異常があるのだろうか。不安になり握られた手を引っ張ると、微笑まれる。それが誤魔化しのように思えたアサコは、きょろきょろと落ち着きなく視線を彷徨わせた。
――馬鹿ね。
そんな声が聞こえた気がして廊下の突き当たりに目を凝らすと、少女がゆらゆらと幻影のように立っていた。夢で見た子だ。アサコは目を見開く。
少女は、悲しそうに微笑む。
――王子様は駄目って、言ったじゃない。
「どうして……」
アサコは思わず呟いた。少女の言葉に対して答えたわけではない。どうして、夢の中の少女がここにいるのだろうと思ったのだ。
一方イーヴェは、急に立ち止まって廊下の先をじっと見つめるアサコに困惑しているようだった。彼から見れば廊下の先には何もないし、勿論誰もいやしない。こんな真夜中だ。城中寝静まっている。
――天蓋のなかは、醜いものの、吹き溜まり。
そう少女の声がアサコの耳の中で響くと、その姿はゆっくりと闇に溶けて消えてしまった。
細い螺旋階段を下り、辿り着いた扉の中から灯りが漏れ出してくるのを見て、アサコは駆けると椅子に座り難しい顔をして本を読んでいたディルディーエに、勢いよく抱きついた。
「どうした? アサコ。王子も連れ添われて、こんな真夜中に」
呆れたように言いながらも、ディルディーエは離れようとしないアサコの背を撫でてやる。
「こわいのを見たんです! くろい影……人のかたちをして、かくかくしながら歩いてたんです」
「影?」
ディルディーエが眉を顰めて王子を見ると、王子はわからない、という風に首を振るだけだった。ディルディーエは、王子に椅子を勧めると、なかなか離れようとしないアサコを引き剥がすようにして王子の隣の椅子に座らせた。
三人の真ん中にある大きな机の上には、複雑な造りの実験器具のようなものや、本でいっぱいだ。部屋の壁はほぼ一面を本棚で覆われていて、部屋の隅っこには植木鉢に植えられた、アサコの背ほどの木がぽつんと立っていた。そしてそのすぐ横には大きな鳥籠が掛けられている。
頭上に吊るされた硝子球の中で、小さな羽がくるくると回るのを見ながら、アサコはほっとしていた。ディルディーエの部屋は明るい。そこにはあの影が入り込む余地などないように感じられた。
「で、アサコ。なにを見たのかな」
ディルディーエは改めて聞く。アサコは落ち着いて話せるように、また小さく深呼吸をした。あの影を思い出すと、どうしても怖気が走ってしまう。
「くろい、人のかたちをした影です。庭で、ゆっくりと歩いてました」
ゆっくりと話すアサコに、ディルディーエは二度小さく頷いたあと、アサコの知らない言葉の方でイーヴェになにかを言った。イーヴェもそれに対しての答えか、何かを言ってアサコを見た。
「王子は見られていないらしい。けれど、廊下の灯りが消されていたことが気にかかると言っている」
「廊下のあかり……」
確かに、部屋に入る前には灯されていた蝋燭の火が全て消えていた。窓が開いていたわけではないから全て消えてしまったのではなく、おそらく誰かが故意に消したのだろう。
アサコは夢の中の少女の話しをしようと口を開いたが、結局言うのを止めた。どうしてかあの少女の話はしない方がいい様な気がした。
そろりと扉の間から顔を突き出して、廊下を見渡す。日はもう沈みかけていて、廊下は赤く染まっていた。またすぐに暗闇がやってくる。
アサコは意を決して部屋を出た。日が完全に沈んでしまう前にディルディーエの部屋に行かなければならない。
庭にいたあの不気味な影を見てからというもの、アサコは夜一人で眠るのを極端に恐がった。あの日から今日まで、ディルディーエの部屋で眠っている。ディルディーエは夜眠らないようだった。少なくとも、アサコはディルディーエが眠っているところを見たことがない。アサコが夜になる前に部屋に忍び込むと、いつも呆れたようにため息をつき、アサコに寝台を貸すと自分はずっと本を読んでいた。アサコとイーヴェが真夜中に部屋に行った時も、ディルディーエは本を読んでいたのだ。一体いつ寝ているのだろう。
足音をたてないように意識して歩いていると、ぐっと首根っこを捕まれて、アサコの心臓は止まりそうになった。どきどきしながら振り向くと、イーヴェがにっこりと笑って立っている。その手は捕まえた襟首を離そうとしない。
「イーヴェ」
アサコは少しほっとしながらも、その笑顔になぜか迫力を感じて後ずさりそうになったが、動けなかった。
「----------------」
にっこりと笑いながら何かを言う。なかなか離されない手にいらっとして、アサコはイーヴェの手を振り払った。
「犬じゃないんですよ!」
「まあ、そうだろうね」
「え……?」
突然その口から飛び出した耳慣れた言葉に、アサコは自分の耳を疑った。