07.
侍女が持ってきた鳥籠に入った美しい鳥を見て、アサコはため息をつく。まただ。部屋に寄越された贈り物の数は、とうに二桁を越えていた。
ディルディーエに王子の悪癖を聞いたアサコは、当然のようにイーヴェを避けた。イーヴェはたくさんの召し使いの女性や貴族の夫人たちと関係を持っているらしい。とんでもない女たらしなのだ。身分の高い娘を花嫁に迎えると、都合が悪い理由がなんとなく解った。身分が高い、というよりは自尊心が高い女が嫁いでくると、まずいのだろう。そんな娘に召し使いといちゃいちゃしているのを見られたら、きっと大変なことになってしまう。
「女の敵じゃないですか」
アサコが低い声で言っても、ディルディーエは肩を竦めただけだった。
幼い娘の姿をしていても、元大人と言うだけはある。アサコが憤慨しているのに対して、ディルディーエは大したことではないと考えているらしい。
「だからと言って、お前がどうして王子を避ける? 周りの者はとんだとばっちりだ」
「とばっちり?」
「王子は機嫌が悪い」
アサコは眉を顰める。とてもそんな風には見えなかった。イーヴェとアサコが会ったのは、つい先程のことだった。イーヴェは満面の笑みで、面白そうに、あろうことか嫌がるアサコを追いかけまわしたのだ。
部屋はディルディーエがあっさりとその日のうちに分けてくれたが、それでもイーヴェの部屋の隣だ。まるで嫌がらせのように遠慮なく部屋に入ってくるイーヴェに、アサコは疲弊していた。
贈り物もだ。機嫌をとるように次々と部屋に持ってこられるそれらは、ディルディーエ曰くどちらかと言えば子供向けの品物ばかりだった。
美しい声で鳴く小鳥に、綺麗な硝子の器の中でひらひらと泳ぐ紺色の魚、綺麗な花束、ここまではよかった。けれど、殆どは大きな動物の置物だったり、くるくる回る風車のような玩具、きらきらしとした天井から垂らす飾り、大きな硝子円蓋の中に作られた小さな立体模型だったりした。お陰で、アサコの部屋は二日足らずで子供の部屋どころか博物館のようになってしまったのだ。
これもディルディーエに聞いた話しだが、アサコが着せられている服も、アサコにとっては普通の服に見えるが、実は子供向けのものらしい。王子にだけではなく、召使いの者たちにまで子供だと思われていると思うと、怒るどころか悲しくなってしまった。
今だってそうだ。初めて見る侍女がお茶を持ってきてくれたのだが、アサコの方にだけたくさんの砂糖と牛乳を入れようとしたので、必死で止めたところだった。
「ああ、そうだ。お前が着ていた服の中に、これが入っていたらしい。侍女に昨日渡されたのだけど、返し忘れるところだったよ」
言ったディルディーエは茶器の用意された卓上に、小さな鹿の置物を置いた。大きな角の生えた、牡鹿だ。白いそれは、精巧に作られていて小さくても堂々と立っている。本物を小さく、白くしたようだった。
「これ……?」
首を傾げるアサコに対して、ディルディーエも微かに首を傾げた。
「覚えがないか?」
覚えがあるような、ないような、奇妙な感覚に顔を顰める。
ポケットに入っていたのなら、それは間違いなくアサコの物なのだろう。手にとって見ると、アサコの手で包み込めてしまう程の小ささのそれは、意外に冷たく、少し重かった。
――かたちは違っても、同じ悲しみを持っていたから私たちは出会えた。
そんな言葉が浮かんだ途端、様々な感情に胸を締め付けられ、それらの正体がなにかも分からないまま、アサコの目からはぽろぽろと涙が流れた。小さな鹿をぎゅっと両手で包んで、胸元に持っていく。何かは分からないけれど、とても大切な物だ。思い出せない自身の記憶の中に、何があるのだろうかとアサコはこの時心の底から思った。大切なことを忘れてしまっている。とてもとても、大切なことだ。
目を閉じて堪えるようにぽろぽろと、声もなく涙を流すアサコを見て、ディルディーエは珍しく心配そうな面持ちで、アサコの肩に触れる。そうされると、徐々にアサコの心はすっと軽くなっていった。
「どうかしたのか?」
幾分か落ち着いた様子を見てから、ディルディーエは尋ねた。
「わたし、どうしてあのお城にいたんでしょう。自分のこと、もっと知りたいです。私は多分、あのお城で……」
そこでアサコは口を閉ざした。
きっと、あの城の中に暫くいた筈だ。不思議なことに、今になってそのことを思い出した。城の中は外からの光りが差し込むこともなく、ぽつぽつと点された蝋燭の灯りも頼りなく、いつも暗かった。アサコはいつもその闇に怯えていた。どこかに確かな灯りがない時でも、ぼんやりとした光りが溢れていた城の廊下。大きな部屋には、たくさんのまやかし。そして。
「うっ」
アサコは大きな何かに包まれて、呻いた。見なくても分かるイーヴェだ。けれど今ばかりは、流石に抵抗する気もなく、アサコはその体に寄り掛かった。ぴくりと反応されたが、気にしない。ディルディーエの不思議な魔法にかかってしまったのか、記憶は再び靄の中に隠れてしまう。
あと少しで、あの子のことを思い出せるのに。
そう思いながら、重い瞼を閉じた。
歌が聞こえる。優しい歌声が紡ぐのは、きっと子守唄だ。
その声を聞いてアサコはほっとする。懐かしい声だ。けれど、ふと目を開いて目の前にあった顔に心臓が止まりそうになった。
ひつじ!
できれば跳び退きたいところだったけれど、驚きすぎて体は金縛りにあったように動いてくれなかった。湿った息が顔に吹きかけられる。
羊は覗き込んでいた顔ににんまりと笑みを作ると優しげな女性の声で何かを言った。
「--------------」
「-----」
また分からない言葉。けれど、その声はもうアサコにとっては耳に馴染みのあるものとなっている。
巨大羊よりは、女たらし王子の方がましだ。そんなどちらにも失礼なことを思いながら、羊の召使いがようやく離れてくれたことにほっとした。イーヴェが近づいて来て、今度は目線をさ迷わせる。ディルディーエはいないのだろうか。
「ディルディーエ」
アサコが呼ぶと、イーヴェは苦笑する。
ゆっくりと伸ばされた手が、アサコの額を撫でていく。大きな手で包み込まれるようにゆるゆると撫でられて、心地よさに目を閉じた。この手は嫌いじゃない、とアサコはぼんやりと思う。優しさを含んでいるのが分かる柔らかい手つきだ。
またうとうととし出した頃に、部屋の扉が開いて冷たい空気が流れ込んできた。
――おいで、おいで、まづるにねむるちいさなこ。
耳の中でそんな歌がこだまする。歌はその一節で途切れ、次に訪れたのは静寂だ。
夢の続きがやってくる。アサコは寝ぼけた頭でそう直感した。
「本当に馬鹿ね」
愛らしく、けれどしっかりと響く声で少女は言った。小さな卓上には、駒のような小さな動物の置物がたくさん転がっている。
そうだ、遊戯の途中だった。いや、人形遊びの途中だったのかもしれない。卓上の置物を見てそう思う。
アサコはゆっくりと視線を上げた。向かいに座るのは、愛らしい容姿をした少女だった。円卓の上に両肘をつき、頬杖をついている。黒色の髪に金色の目は、黒猫を連想させる。緑柱石のドレスは、その少女によく似合っていた。
「王子様は、駄目よ」
言って、少女はたくさんある小さな人形の中でぽつんと立っていた王子様を取り出し、駒を動かすようにとんとんと卓上を滑らせていくと、唐突にその人形を消してしまった。投げたり、落としたのではない。文字通り消したのだ。
「どうして」
アサコが声に批判を混ぜて訊くと、少女は逆に首を傾げた。
「どうして? ……だって、王子様はうそつきだもの」
そうだ、王子様はうそつきだった。アサコはそれを思い出して、卓上から、黒絹の礼服を着た白い兎を取り出した。
けれど、兎は裏切り者だ。どうしよう。
羊は? 羊は母親の心と、蔑みの心を持っている。
「だめね、いい駒が残っていない」
少女は呆れたように言ってため息をつくと、卓上の駒たちを手で払って消してしまった。
次に少女が出したのは、たくさんの幻だった。湖を飛び立つ水鳥たちに、街中を歩く人々の群れ、美しい夕暮れの空。それらは古い映画の映像のように、丸石を積み重ねた壁にいびつに映っては消えていく。
最後の映像は、いつも決まっている。その映像を見たくなくて、アサコは目を逸らすけれど、それを目の前の少女は許さない。気付けばアサコの目の前に幻は現れる。
「目を逸らさないで」
少女は言う。アサコはそれに従う。それに背いたって、ろくなことにはならないのは十分に解っていた。それでも、それを見たくないという気持ちの方が勝ってしまうのだ。
俯いた先、足元の水にその映像は広がった。愛らしい少女が映っている。波打つ黒い髪に一見黒色にも見える深緑色の大きな瞳。色彩は似ていても、アサコとは明らかに違うものだった。柔らかそうな肌は、透けるような白。最初はいつもその美しさ、愛らしさに目を引き寄せられる。けれど、続く先は悲惨な未来だ。叫び声が聞こえる。アサコは耳を塞ぐ。優しい笑みが見える。アサコはぎゅっと目を閉じる。
そうやって、少女はいつもアサコに絶望を植え付けた。それは決してアサコのものではなかったのに。
目を覚まして、アサコはぎょっと体を震わせた。二度も続けて最悪な目覚めだ。
目の前にある顔を押しのけようとしたが、逆にぎゅっと体を抱きしめられて呻く。部屋は分けてもらったはずなのに、何故かイーヴェは同じ寝台の上で気持ち良さそうに眠っていた。寝ている顔には当たり前だが邪気はなく、アサコは少し気を緩めた。
それにしても綺麗な顔をしているなあ、と眺める。伏せられた睫は、どう見てもアサコより長く、すっと通った鼻筋は狂いがない。整っているだけではなく、その顔には女性に好かれそうな甘さがあるから、あんな所業が許されるのだろう。
そう思うと苛々としてきたアサコは、力いっぱいイーヴェの胸を押した。もてるからって、いい気にのるなよ、とまるでもてない子の台詞のような言葉が浮かんでくる。
ようやく目を開けたイーヴェは、とろんとした目でアサコを見つめた。
「うっ……また! 顔が近いです」
「大丈夫か?」
上から降ってきた声に、アサコは顔を上げた。
「ディルディーエ!」
まるでアサコにとっての救世主だ。助けを呼ぶように必死で手を伸ばすと、イーヴェにますますぎゅっと胸の中に閉じ込められて、窒息しそうになる。
「大丈夫そうだな。私は仕事を残しているから、帰るよ」
「まって」
「じゃあ、--------」
必死の訴えも届かず、もしかしたら届いていたのかもしれないが無視されてしまった。最後にイーヴェに対してか、アサコの解らない言葉で喋る。
無情にも閉まる扉の音を聞きながら、アサコは必死で暴れた。