53.
ガタンッと音を立てて大きく揺れ、アサコはゆっくりと目を開けた。
不規則の様でいてどこか規則的な音は、耳に良く馴染んだ聴き慣れたものだ。窓の外を流れていく眩しい景色を見て目を細め、アサコは前の座席に座る少女に目をやった。
黒いワンピースを着た、アサコよりも幼い少女だ。眠っているのか伏せられた睫毛は長く、細い鼻梁はその下にあるぽってりとした唇と均整がとれている。くたりと座席に凭れ掛かり腕を椅子の上に力なく置く姿は、どこか作り物めいていた。
乗客はアサコと彼女しかいないのか、見渡しても両隣の車両まで人の姿を見つけることはできなかった。
「久しぶりね」
目を閉じたままの人形の様な少女に言われ、アサコは目を瞬かせる。
そうだっただろうか、そうだ、彼女と会うのは久しぶりのことだ。
アサコは久しぶりと少女に返した。
「あなた、これから何処へ行くの?」
アサコは小首を傾げた。自分が何処へ行こうとしていたのか、思い出せない。しかしすぐに合点がいく。電車に乗って、制服を着ているのだから、これから学校へ向かうところだったのだ。
そう考えたところで何か引っかかるものを感じて顔を顰める。
「そう、学校。あのつまらないところ」
少女は唄う様に言った。
自由気儘な彼女にはそう感じられるのかもしれない。それでもアサコにとってはそう悪いところではなかった。同じ格好をして同じように勉強をしていても皆それぞれで楽しいところだ。けれどそれを彼女に伝えるのは難しいだろう。もし、彼女がアサコと同じところで生まれ、同じ風に育っていたとしても今と同じことを言っていたかもしれない。
しかしアサコはふと気付いたことに目を大きくした。
此処はどこなのだろうか。窓の外に広がるのは万遍ない青空で、高い位置の線路でも走っているのかその下に何があるのかは見えない。
「あなたはあの日、学校へ行こうとしていた。この変な乗り物に乗って」
あの日とは、いつのことだろうか。困惑してアサコがじっと見つめると、少女は言った。
「あなたが、歪みの城に落ちてくる前のおなはなし」
まるで遠い昔の話をする様に言った少女は、人形の様にやはり動かない。
「もう終わってしまったの。だから、全部返してあげる。いらなければまた捨てて」
捨てる。そうだ、アサコはその方法を知っている。知っているけれど、もう捨てようもない。捨てたものはアサコ自身でしかないのだから。
「こわい?」
アサコは小さく頷く。
少女は「そう」と呟くと、操り人形の様な動きで右手を差し出した。アサコは左手を差し出すとその手を掴んだ。
手のひらに僅かな温もりを感じると同時に、目の前の少女の姿は砂の様に流れて消えた。そしてその直後に電車も、その向こう側の空さえも崩れてアサコは浮遊感を感じ暗闇に落ちた。
水の落ちる音がする。アサコはそこが歪みの城の地下だとすぐ気付いた。石台の上で、彼女はぺたりと座り込み手のひらをついていた。少なくとも、彼女の感覚ではそうだった。しかし見下ろした手はぼそぼそと蠢く黒い煙の様な、ただの影だった。そしてそれが下敷きにしているのは白い陶器の様な足だ。
影は振り向くと、石台の上で標本の様に様々な色の細布で台に貼り付けられた少女の姿を見た。長い黒髪は四方に流れ、薄暗闇の中にあっても水の様に艶やかで、青白い顔はどこか人形めいている。それは、先ほど電車の中で見た少女の姿とも似ていた。
影は周囲を見渡す様に動く。すると、水は落ちているのではなく下に張った水から水滴が天井に上っていることが分かった。すぐ近くに寝台があり、影はのそりと石台から落ちると、その上を覗き込んだ。
そこには、石台の上に貼り付けられた少女とどこか似た顔で眠る少女の姿があった。影はその白い頬に手を伸ばす。滑らかな頬に触れると、少女は大きな目を開いた。金緑の印象強い瞳で影を見抜くと、何も言わずに立ち上がり、音も立てずに石台へ向かう。白く華奢な腕を伸ばすと、手のひらをもう一人の少女の左胸に当て、糸を引く様に動かした。すると左胸から握りこぶしほどの光の塊がずるりと引き出されて少女はそれを両手の平で大事そうに包み込み、自らの胸にしまいこんだ。
何かを言う様に唇を動かすが、影には聴くことができなかった。
暫くすると、それは影が記憶するものの巻き戻しであることが分かった。石台から起き上がった少女と幼い魔女は、他のところから見ると良く似ていた。
少女が影に追いかけられる場面、膝を抱えて座り込む少女に魔女が話しかける場面、影が、一人の少女の姿に変わる場面、全てが巻き戻される。そして全ての場面で水音は聞こえても、彼女達の声を聴き取ることはできなかった。
強く引き上げられる様な感覚に襲われた後には、場は変わっていた。制服を着た少女が白線の前で立っていた。彼女が何かを拾おうとして白線の内側に手を伸ばしているところから巻き戻っていく。家で仕度をする少女の姿、そして家には叔父の姿もあったが、母の姿はなかった。朝が落ちて夜に満たされ、黄昏時から日が上がる。東に太陽が落ちるまで、少女は休みだったのか家で叔父と過ごしていた。
再び西の空から太陽が昇り始めるよりも前、彼女は自室のベッドの上で呆然と天井を見つめていた。その姿は歪みの城の地下であった貼り付けの少女の姿とよく似ていた。
表情を失くした顔で叔父に肩を抱かれる少女、白と黒の幕がはためく。花に囲まれた二つの写真。誰かが開けた棺の中を影が覗きこむと、包帯で顔を全て覆われた人の姿が見えた。
場面は容赦なく変わっていく。もう分かった、もう良いと思っても声も出ない。影はただその様子を眺めていることしかできなかった。黒い服を着た人々の列は途切れることはない。たくさんの人が泣くなか、少女は涙を流すことはなかった。
泣けなかったのだと、影は知っていた。泣くまでに感情が付いてこなかった。彼女の全てを置き去りにして時間は進んでしまった。白く伸びる煙も、耳に流れ込んでくるお別れの言葉も、全ては身体を通り抜けていった。
場面は戻る。殺風景な個室の中央にぽつんと置かれた白いベッドの上を叔父と少女は見下ろしていた。そこには棺の中にあった白い包帯でぐるぐるに巻かれた身体が横たえられていた。狭い通路を手を引かれ歩く少女の姿。彼女たちに向かって頭を垂れる医師や看護婦の姿。叔父の肩に頭を預けて椅子に座る少女の姿。器具を運び込む医師たち、全て戻っていく。閉ざされた個室で、大きなベッドに横たえられた包帯塗れの女性の姿。彼女は、少女に僅かに動く手を伸ばし言う「死にたくない」と。聴こえはしないが記憶とその場面はかちりとはまった。
真夜中に携帯が鳴った。その日、母は眠りについていた彼女を起こすと、具合が悪くなったという祖母を病院に連れて行くと家を出た。そして、病院に向かっている途中に運転手が居眠り運転をしていたトラックと車が衝突し救急搬送されたが、祖母は即死、母は半日を過ぎる頃には息を引き取った。そして事故の原因であった運転手も亡くなったのだという。
知っている。アサコが捨て、ラカが鍵をかけたどうすることもできない感情を。
場面は、母が家を出る前まで戻っていた。巻き戻しは、そこで終わった。部屋の扉を開ける音がする。母は眠る彼女の額を撫でると、小さく微笑んだ。影はその手を伸ばす。けれど影は影でしかなく、母の身体を煙の様にすり抜けた。母は事の次第を伝えると、あの晩と全く同じ様に部屋を出て行った。
この時、アサコがはっきりと目を覚まして何かを言っていたら、数分数秒でも遅れていたら、事故には遭わなかったかもしれない。考えてもどうしようもないことを何度も考え続けた。「死にたくない」と言った母の言葉はずっと耳の中でこだまする様だった。
こんなはずじゃなかった。何もかも全ていつも通りに過ぎていくはずだった。いつも通りに過ごしていたのに、気付けばとても大切な人が二人も一気にいなくなるなんて考えもしなかった。いつかはお母さんの方が先に死ぬのよ、と母はよく言っていたけれど、それはこの時ではなかったはずだ。もっと彼女が大人になって、母も年をとってからの随分先の話だったはず。
ほんの半日の間に、家に帰ってくる人はいなくなってしまった。どうしようもないほどの寂しさと怒りと怖ろしさ、虚無感に呑み込まれた。
事故に遭い、死ぬまでの何時間もの間、母は苦しみ続けた。死にたくないと願いながら死んでしまった母の苦しさの半分もきっと理解することはできない。間もなくやってくるであろう自らの死を予感し、どうしようもなく怖くて辛かったのだろうと予想することしかできない。
「ねえ、やっぱりいらない?」
気付けば目の前に広がるのは部屋の光景ではなく、歪みの城の地下だった。彼女は首を横に振る。すると、魔女は安心したかの様な、それでいてどこか淋しそうな顔をして「そう」と呟いた。
「……ほんの気まぐれだったのよ。あなたに命をあげようと思ったのは。どうせもう何も変わらないなら、あなたに私の代わりに生きてもらうのもいいかもしれないと思ったの。新しい何かが欲しくなっただけ」
魔女は白く滑らかな右腕を掲げた。その時ようやく影は彼女の姿が薄く透けていることに気付いた。
「けれど、もう終わりね」
彼女は爪先で踊る様に水の上を歩く。それにあわせて波紋を描く水に、ゆらゆらと暗闇ではない景色が映った。
そこには、長い髪を靡かせて森を駆ける一人の少女の姿があった。双子の片割れだ。彼女は大切そうに両手で何かを胸元に抱いていた。
「私たちの心臓が魔法使いの手に渡ったら、この遊びも終わり。あなたの望みも叶わない。魔法使いの寿命があと僅かと言っても、それは人の一生分に値するほどなんだもの」
その言葉に影は疑問を抱く。自分の望みとは一体なんだっただろうか。
水面が揺れる。走る少女の姿は掻き消えて、次に映ったのは等身大の人形を抱える青年の姿だった。
身体の後ろで手を組んだ魔女は、悪戯気な顔をして影を覗き込んだ。
「からっぽのあなたが初めて自ら望んだもの、なんだかわかる?」
なぞなぞの様に彼女は問いかけたが、影は知っていた。
青く晴れた空を、星を見てみたいと言ったのだ。その願いを叶えてあげたいと単純に思った。自分にとって当たり前でとても素晴らしいものを彼にも見せてあげたいと思った。
悲しみも何もまだ薄れはしないけれど、その中でそれは微かな温もりを伴っているようだった。
「どうなるかなんて私にも分からない。私が正気のうちに全部返すわ。だって望むものがあるあなたは、もう私のお人形じゃあないでしょう?」
そう言って、彼女は影をそっと抱きしめた。
柔らかな温度を感じて、影はないはずの瞼を閉じる。足元の冷たい水の水温に滴る水の音、ぼんやりとした感覚が徐々にはっきりとしたものに戻ってきた。失ったはずの心臓の鼓動を感じる。
僅かに身体を離した魔女は、自分と良く似た少女の額に自分の額を合わせた。
「泣いて。だけど、それは私の代わりじゃない」
羽を撫でる様な柔らかな動作で頬を撫でられた時、たくさんの記憶が溢れ出した。小さな頃、手を引かれて歩いたこと、小さな手にはそれがとても確かなもので離しがたいことであったこと、どうして母はいつも傍にいてくれないのだろうと泣いて困らせてしまったこと、母と祖母と叔父で祝ってくれた誕生日の日のこと。いつからか母が口癖の様に自分の方が先にいなくなってしまうのだからと言っていたことの意味。
ざらりとしたものを手のひらにのせられる感触がして、懐かしく感じるそれをアサコはぎゅっと握り締めた。
「あなたは、わたしの大切なお友達」
彼女が言い終わると同時に感じた、身体の中心を強く引かれる様な感覚にアサコは思わず目を閉じた。
血が巡る様な、風が耳元を撫でる様な音が大きく響く。これで終わりなのだろうか、そう思った時、静かな女性の声が聞こえて、アサコは目を開いた。先ほどと何も変わらない、城の地下室だ。けれどそこにラカの姿はなく、哀しそうに目を伏せ石台を見下ろす女性の姿があった。長い黒髪のせいだろうか、どこかその姿はラカの姿を思い起こさせるものがあった。
そして、彼女が見下ろす石台の上を見たアサコは目を瞠った。
「――貴方も、いつか知るかもしれないわね。それが、手遅れではなければ良いのだけど」
そう言った女性は愛おしげな表情で石台の上で仰向けで寝る青年の頬を撫でた。
青年は今にも眠りにつきそうな顔で頬を撫でる女性を見つめていた。感情の篭らない目は、彼がまどろみの中にいるからなのか、それが通常のことであるのか判らない。
「その相手が私であれば良かったのに……さようなら、私の魔法使い」
女性がそっと青年の唇と自身のそれを合わせて、彼女の視界は暗転した。
手のひらを小さな手で握られる感触がした。馴れ親しんだそれに、アサコは従う。ゆっくりと引かれて、真っ暗闇の中を進んでいく。
どこに行くの?
彼への複雑な想いも忘れて、アサコは心の中で問いかけていた。それだけでも彼には十分だったのだろう。手を握る力が強くなった。
『お前を連れ戻すよ』
その声は水の中で聴いた様にぼわぼわと響いた。
何処へ?
その疑問に答えはなかった。けれどその答えは彼女自身が知っていた。
彼は嘘吐きだ。道は一方通行で、帰り道などない。時間は容赦なく進む。帰りたかった場所へ帰ることは決してできない。
死んでしまった人への引力を知っている。彼を攻めることはできない。
まるで長いトンネルを歩いている様だった。その感覚は酷く曖昧で頼りない。目に見えないものをアサコは実感することができなかったが、手のひらの温もりだけは確かなものだと実感できた。その手が引く方へ行くことはきっと間違いではない様な気さえする。
何分、何時間その暗闇を歩いたのだろうか。急に差し込んだ強い光にアサコは再び目を閉じた。
「アサコ様!」
先ほどまで聴こえていた声とは違う、はっきりと響いた肉声にアサコはそっと目を開けた。眩しさに瞬きすると、いつの間にか目の端に溜まっていた涙が頬を伝って落ちた。
覗きこんでくる人たちの顔をしっかりと認識する前に、強い力で抱きしめられて息を詰める。
「……イーヴェ?」
もう失ってしまったと思っていた声が喉から出る。目の端に映る蜂蜜色の髪をぼんやりと見つめた後、アサコはゆっくりと彼女たちを見る人の顔を見た。彼女らしくない、今にも泣き出しそうな顔をしている女性に、いつもと変わりない笑みを浮かべる青年。その後ろで、感情の篭らない瞳で見下ろしてくる幼い少年。
その人たちの姿にもう違和感を感じることもない。けれど、此処は違う世界だ。例え此処でなかったとしても、もう戻ることはできない。
アサコは目の前の温もりに縋る様に、背中に腕を伸ばしてイーヴェの外套を握り締めた。ひくりと咽が鳴る。
お母さんの方がどう考えたって先に死んでしまうのに、今のままじゃ心配で死に切れないわ。
そう言った母の声。愛されている自信があったし、アサコもその分依存した。どれだけその想いが強くても、叶わないものは叶わない。
会いたい、一緒にいたかった、どうして。肩に顔を押し付けて小さな子供の様にそう泣き叫ぶアサコに目を見開いたイーヴェは、その顔を歪めると、頬に触れる小さな頭を掻き抱いた。