52.
「君が女の子じゃないかと、彼女達は疑っているみたいだね」
イーヴェのその一言で大体の事情を呑み込んだアサコは、はあ、と間抜けな返事をした。
どうやら双子の少女達は、アサコはイーヴェが気に入って傍に置いている少年だと他の王子に聞いたらしい。そこでまず小さな嫉妬心を胸に抱いた。いつも城にやってきた兄王子は自分達の相手をしてくれるというのに、散歩に誘ってもお茶に誘っても来てくれず、あろうことか少年と二人っきりでいる。それが驚くほどの美しさを持った少年だったなら彼女達ももしかすると納得したかもしれないが、少し可愛いだけの平凡な少年が、慕っている兄王子を独占していることが許せなかったのだ。
それだけだと何とも少女らしい、可愛らしくもとれる嫉妬だったかもしれない。しかし女の勘の様なものが働いたのか、彼女達は東屋で見たアサコに疑問を浮かべた。あれは少年ではなく少女なのではないか? 兄王子は少女に少年の姿をさせ、旅に同行させているのではないか? と。そういう発想が出る時点で、彼女たちはイーヴェの今までの女性関係を垣間見たことがあるのかもしれないと頭を過ぎったが、アサコは口を挟まずに黙っていた。
彼女達は白黒つけようとアサコの身体を調べようとしたらしい。ばれなくて良かったよと言うイーヴェに対して、アサコは複雑な顔をした。胸がもう少し大きかったらばれていたのかもしれないが、残念なことにそこに至るまでではなかったということだ。
しかしイーヴェの言い方から察するに、彼女達の中での疑いはまだ晴れていないらしい。今回のことで本物の少年だと判断されればアサコも流石に落ち込むが、それでも彼女達にまた絡まれる可能性は残ってしまったことで、これまた複雑な心境だった。
できれば関わらない様にと思っていたアサコだったが、その日の内に彼女達は自ら関わりにきた。
その双子から夜の散歩の誘いが来ているとサリュケから聞いたアサコは、思わず眉を顰めた。
「この場合、わたしは断って大丈夫なんでしょうか」
あくまで相手は貴族の子女である。アサコは王子殿下の友人として貴賓扱いを受けてはいるが、立場的には恐らく彼女たちの方が上なのではないだろうか。それに少年で通しているアサコが未婚の少女たちと夜の庭を散歩というのも常識的に見てどうなのか、元々ここの住人ではないアサコには判断がつかない。
サリュケは思案する様な表情をすると、笑みを浮かべて言った。
「断られてもそこまでの問題にはならないかとは思いますが……殿下にご同行願うのは如何でしょうか。少なくともあの方がいらっしゃるうちは、あの方々もなにも手出しはできないはずですわ」
彼女の助言通りイーヴェを誘えば、彼は快く了承してくれた。
結局四人の他にサリュケと双子の従者、イーヴェの近衛兵といった面々も揃い、ぞろぞろと庭を散策することになりアサコは拍子抜けした。思っていたよりも大所帯になった為、アサコ自体双子達と関わることも少なかったのだ。彼女達は最初出会った時と同じ様にアサコに話しかけてくることは殆どなかった。そんなことをしても無駄だと判断したのかもしれない。その変わりイーヴェの左右を陣取り彼の二本の腕を二人でそれぞれ抱きかかえる様にして腕を絡めて歩く姿は、後ろから見れば二人の少女が一人の青年を取り合っている様にも見えた。
アサコは飛び交う言葉の羅列を聞き流しながらその様子を眺めていたが、ふと気になって後ろを見た。サリュケを真ん中にして、双子の従者のまだ年若い青年とイーヴェの近衛兵である背の高い青年は、一言も口を開かずに、下手すれば存在を忘れてしまいそうになるほど静かに彼女達の後ろを歩いていた。
サリュケは勿論のこと、近衛兵の青年は城でアサコも何度か顔を合わせたことがある人物だった。彼はアサコと目が合うとにこりと人好きしそうな笑みを浮かべた。恐らくアサコがイーヴェの花嫁として城に滞在していた少女だと知っているのだろう。
双子の従者は幼い顔立ちの青年だ。まだ少年と言っても良いかもしれない。愛らしい顔はどこか不機嫌そうな仏頂面で、アサコと目が合ったかと思うとあからさまに顔を逸らした。
再び前を向いたアサコは小さなため息を吐いた。双子がアサコそっちのけでイーヴェに群がるのであれば、自分は来る必要はなかったのではないだろうかと思う。
夜の庭は暗く、煌々とした月明かりと頼りない蝋燭の灯火で照らされている。昼間よりも空気は一段と冷たく、双子もイーヴェも白い息を吐いているのが時折見えた。アサコ自身は体が冷えたのか、それとも別の理由でか吐息は白くない。そもそも息をしていただろうかと思ったアサコは、左手の甲を口元に寄せ確かめる様にほうっと息を吐いた。
ふと隣から何かを言われて、アサコは身体を震わせた。いつの間にか、隣には双子の片割れが立っていた。彼女は身を屈めると口元に笑みを浮かべ、上目遣いにアサコを見やったかと思うと、イーヴェにしていた様にその腕をアサコの腕に絡めた。そしてアサコの耳元で小さな声で呟いた。それは人の声とも虫の羽音ともとれる様な不思議な音だった。しかしアサコがそれに気をとられる前に、視界は一転した。
一見、先ほどと変わらない庭の風景だったが、僅かに木々の場所が違い、近く見えていた城はその姿を消した。
「急ぐのもどうかと思ったけど、時間がなかったから仕方がないわ」
未だアサコの腕を掴んだまま、少女はにっこりと微笑みそう言った。
「どうして、言葉……」
言ってしまった後でアサコは思わず口を噤んだが、後の祭りだ。それにそれどころではない。もう失せてきてしまっていた魔女への恐怖がぶり返してくる。左腕から少女をなんとか引き離そうとしたが、彼女は細い腕からは想像もつかない強い力でアサコを離さなかった。
「あら、あなた自身の暗示を解いただけよ。あなたは最初から私達の言葉を知っていたはずだもの。けど、もう必要ないでしょう?」
その言葉にアサコは疑問を感じながらも、それよりも胸を覆っている不安の元を見極めようと、愛らしい笑みを浮かべた少女の顔を見据えた。
「……魔女なの?」
「そうよ」
目を細めて少女は笑う。その様子にアサコはぞっとして後ずさろうとしたが、彼女の手がそれを許さなかった。
「また、ラカの心臓をとりにきたの……?」
震える唇で問いかければ、彼女は小首を傾げた後、合点がいった様な顔をしてふふっと笑った。
「魔法使いを仲介してもらったのよ。私が契約したのは、昨晩――ああ、そういえば貴女は理解してなかったかもしれないから、もう一度自己紹介でもしようかしら。私はラミラで、姉さまがファミア。まあ、もう覚える必要もないけれど」
だとすれば、あの魔女は双子のどちらかではなかったということか。それに仲介とは一体何のことだろう。
何より今は時間を稼ぐべきかもしれない。いくらなんでも中心を歩いていたアサコと双子の片割れが姿を消しては、他の人がすぐに気付いて探してくれるはず。彼女がどの様な魔法を使ったのかは分からないが、サリュケが付いて来てくれていたことは不幸中の幸いになるかもしれない。
「どうしてこんなことを」
「あら、なんでも知らないふりをする癖に一応疑問は持つみたいね、お人形さん。分からないの? すごく単純で簡単なことよ。それとも偽者のあなたにはこんな簡単なことさえ理解できないかもしれないわね」
ふとラミラは先ほどとは違った種類の笑みを浮かべた。
「私達は、殿下が好きだったのよ。あの方の為だったら何だってしてみせようって、小さな頃から思ってた。けれど、久しぶりにお会いした殿下はからっぽの人形にご執心。……取り戻そうと思ったのよ」
つまり、彼女達はその幼い恋心の為に、何かと引き換えに魔女になったというのだ。
静かな声で言った少女の様子に幾分か冷静さを取り戻したアサコは、もしかすると説得する余地があるのではないかと僅かな期待を抱いた。
もし彼女達がアサコとイーヴェが二人でいたところを見ていたとして、からかいを多分に含んだイーヴェの戯れのどこに愛情を感じたのかアサコには理解できない。イーヴェは時折甘い台詞を吐いたり過剰に接してくるが、彼が自身に愛情を抱いていないことはアサコの目にも一目瞭然だ。それを理解してもらえれば、彼女達の気持ちもやわらぐのではないか。
何とも曖昧な存在ではあるが、アサコもまだ死にたくはないし、影に戻ることも怖ろしい。いつまでも現状維持というわけにはいかないかもしれないが、それは今ではない。
「私はイーヴェに、きっとこれっぽっちも好かれてません。どこをどう見てご執心なんて思ったんですか」
自分でも虚しくなる様なことを意識してあっけらかんとした口調で言えば、ラミラの腕の力が僅かに緩んだ。
「あなたは殿下の花嫁なんでしょう? それに、聞いたもの、あなたがあの方を惑わしたって」
「まどわした……」
アサコは一瞬状況も忘れて呆れた様に呟いた。残念なことにアサコは自分に男を誑かす様な魅力も技術も持ち合わせていないと自覚している。それに彼女たちも色気も何もない身体をほんの少しでも見たはずだ。イーヴェ自身も、そんな簡単に惑わされる様な男ではないだろう。
「それにあなた、好きなんでしょう? どうせそれは所詮紛い物だと思うけど」
「……ちがう」
思わず返してしまった言葉にアサコ自身驚き口を噤んだ。
一瞬目を円くしたラミラは、すぐに狡猾な笑みを浮かべた。
「可哀そうに。あなたは何も生み出せない、何も手に入れることができないまま消えてしまうのね」
笑みを含んだその言葉は、アサコの胸に重く圧し掛かった。彼女が言っていることは真実だ。アサコはこの先も何も生み出すこともなければ、取り戻したいと思っていたものを取り戻すこともできず、何かを願っても手に入れることはできない。そんなことは言われなくとも、分かりきった未来のことだ。
それでも死にたくないと思うのは、おかしなことだろうか。
「私は殿下が好き。ううん、愛してるの、誰にも負けないくらい。あなたの心臓と引き換えに、殿下の心は手に入るの」
「魔法で捻じ曲げられたものでもいいんですか」
アサコが思わず口にした言葉で、ラミラは顔を歪めた。
「どうしても手に入らないのなら、それでもいいわ。ずっと苦しいの。あの方がいないと、ずっと寂しくてしょうがない……あなたの存在が、私達の人生を狂わせたのよ」
今にも泣き出しそうな顔で言う彼女に、アサコは目を見開いた。血が通わないはずの胸がどくどくと鳴る。それが強い罪悪感からなのか、彼女の魔法のせいなのかは分からない。
アサコの左胸の上に置かれたぴんと伸ばされた手のひらは、指に絡まった糸を引く様にすっと胸から離れた。
その途端、アサコの視界は黒く染まった。
等身大の人形の様に力なくその身体が倒れると、双子の片割れは意外そうな顔でその姿を見下ろした。
開かれたままの目は先ほどまでの意思の篭ったものではなく、虚ろなものだ。握り締めた手の中で、とくとくと小さく鼓動する温かいものがある。それにも関わらず、人形は人形の姿に戻っていない。
彼女は握り締めていた小さな心臓を両手で抱える様に胸元へと持っていくと、その場を走り去った。
城の近隣の森でアサコを見つけたのは、ディルディーエだった。彼はイーヴェとジュリアス、サリュケを呼び寄せるとアサコを預け、自身は小鳥の姿で飛び去った。
力なく横たわったままのアサコを抱き起こすと、イーヴェは青褪めたサリュケに事のあらましを訊いた。
「つまり、魔女が彼女の心臓を奪っていったということ? それなのに助かる可能性はあるのか?」
「はい、殿下。アサコ様はまだ生きています。けれど、それも心臓が魔法使いの手に渡るまでのこと。早急に取り戻さなければいけません」
「君には魔女の居場所が分かるのでは?」
イーヴェが訊くと、サリュケは唇を噛み締め首を横に振った。
「通常であればその筈なのですが……今回は感じ取ることができませんでした。おそらく自身の存在を隠しているのでしょう。魔法使いもそうです」
「師匠であれば魔法使いの居場所を知ることはできるでしょう。心配する必要はない。本来ならば魔法使い同士は干渉しないはずなのですが、今回はあちらから間接的とはいえ関わってきた。見物ですね」
サリュケが今にも掴みかかりそうな勢いでジュリアスを睨むと、彼は薄い笑みを浮かべて肩を竦めた。
「しかし僥倖を得ることができそうでなによりです。それとも、それも師匠とあの方の意図だったのか……彼女は上手くいけば彼女自身の命を育むことができるかもしれない。魔女の心臓を盗られてもこの姿を保てていることは良い兆候です」
「どういうことだ?」
「ジュリアス殿下」
押し殺した声で止める様にサリュケは呼んだ。呼ばれた本人はアサコの身体を挟んで兄の向かいに片膝をつくと、アサコの額に掛かった前髪を掻き分け、透き通った茶色の瞳を覗き込む。少しの間そうした後、顔を上げると彼は笑みを消しサリュケへ目線を向けた。
「慎重なのも大切だけど、判断を見誤るな」
遠くから高い鳥の鳴き声が響いた。
サリュケは怯む様に眉を寄せると、イーヴェの腕にだらりと身体を預けたアサコを一瞥し、そのすぐ上にあるイーヴェの顔を見た。
アサコは人形であり、その命は一人の少女の記憶と魔女の命と魔法使いの魔法でできていることを隠してきたのは、アサコを守るという点からするとサリュケから見てイーヴェは信用できない人物だったからだ。それは今でも変わらない。彼は人としての情を持ってはいるが、その情に流されることは殆どない。王子としてこの国の為になら人を殺すことも厭わないだろう。
最近ではアサコに優しく接し、情を抱いている様にも見えるが、それは判断材料にはならない。けれど本当にアサコを守るには、彼の助けは必須でもある。彼が事情を知り本気でアサコを守ろうとすれば、今回の様なことも防げたかもしれないのだ。この国では誰も彼を敵に回したいと考えはしないのだから。
「殿下、全てをお話します。そして、魔女として国にこの身を捧げることを誓います。ですからどうか、アサコ様をお守り下さい」
膝を折り、深く頭を垂れたサリュケにイーヴェは目を細めた。
本来、魔女は国に干渉することは殆どない。人としての生を捨て魔法に身を投じた彼女たちは、自分の欲望のままに存在する。魔女になるきっかけとなった強い願いを主軸として生きていくのだ。魔女になった時、魔法使いの魔法を共有し世界の理を垣間見ることで価値観の比重が変わる。この時人としての感覚が極端に薄くなってしまう。魔法使いでもなく人間とも言えない彼女たちを亡霊と呼ぶものもいる。
忌み嫌われる彼女達はその姿を隠し、表立って出てくることはしない。王子に呼ばれ城に滞在するサリュケの存在は極めて異端だった。しかし王や王子達に忠誠を誓っているわけではない。彼女はあくまで自分の意思で城に滞在し、去りたくなった時に去っていくのだ。
けれど誓いを立てることはできる。その場合、魔法に近い彼女達は自身の言葉に縛られることになる。
「君が肉親以外に情を抱くとはね。それが同情なのかなんなのかは知らないけど……前にも言ったけれど、彼女のことはできる限り守ろう。けれど、内容によってはそれも約束できない」
全ては話しを聞いてからだと言うイーヴェにサリュケは頷いた。