51.
城の中を案内されている間、アサコは何度もイーヴェの肩に目を向けた。しかし小鳥の姿をしたディルディーエは、本物の小鳥の様に一切口をきかなかった。
肩に小鳥を止めたイーヴェの姿は、アサコに小さな頃に母に読んでもらった絵本を思い出させた。しかしあれは確か燕だったと思い直す。どこまでも健気な燕は、王子の頼みを叶えているうちに温かな南の国へ渡り損ねてしまい、結局は凍死してしまうのだ。彼らの善行を見守っていた神様によって一人と一羽は楽園で永遠に幸せになるという物語。
アサコはどうしても幼い頃、この物語に納得がいかなかった。王子は、燕を行かせるべきだったのだと、ずっとそう思っていた。そうすれば燕は他の仲間達と共に南へ渡り、死なずにすんだのだ。この一人と一羽の関係が優しく運命的に繋がれている様に描かれていても、アサコは自身の良心の為に燕を利用した王子が好きになれなかった。
一番哀しく感じたのは、たった一羽燕が取り残されたことだ。どれだけ素晴らしい人だったとしても、出会ったばかりの人に家族と離れてまで手助けをしてあげることは自分にはできないとアサコは思った。良心が痛んだとしても、それは肉親と離れる痛みと比べれば劣る。周囲に人がいたとしても大切な家族がいなければ、世界に一人ぼっちになってしまった様な途方もない寂しさを感じるのではないだろうか。王子は結局、自分が憐れに思った人間を助けたいと願い、実行したが、その小さな存在を助けることはできなかった。
城内は見事なほどに藍色で統一されていた。現在のこの城の主である貴族の趣味などではなく、この城は昔からずっとそうだったのだとイーヴェは説明した。ちなみにこの城に住まう貴族の一家は彼の血縁なのだそうだ。そんな身内にこんな姿を見られても平気なのだろうかと、アサコは思わず繋がれた手を見下ろした。
城に着いたばかりに紹介を受けた貴族の面々を思い出す。厳しい表情をした壮年の男性と、微笑みを浮かべた柔らかな物腰の女性、その子供たちは三人。母親と似た笑みを浮かべた青年に、猫を思わせる双眸の双子の少女たち。これまた見目麗しい一家だと思っていたのだ。
「此処にはどれ位滞在するんですか?」
アサコは小声で訊ねた。今歩いている渡り廊下に人気は無いが、声を出しているところを誰かに見られては厄介だ。
薄く藍色がかった灰色の石畳みと柱と天井。そこに壁はなく、庭園に植えられている木花が風にそよぐ様がよく見渡せる。時々どこからか高い鳥の鳴き声が響き、アサコは思わずその姿を探した。そういえばディルディーエの鳥は何処へ行ったのだろうか。あの魔女の一件で姿を現したが、今も近くにいるのかもしれない。
「二、三日かな。状況によって変わるけど」
魔女のことを言っているのだと思い、アサコは頷いた。おそらく魔女が今近づいてくることはないだろうが、魔法使いがいても油断は大敵だということだろう。
早くあの城に戻りたいなとアサコは思った。王城が自分の居場所だとは到底思えないが、旅に出たからたくさんのことを知ってしまった。城に戻った時、ティンデルモンバに頼みもう一度言葉と文字を習おう。できることを増やしておけば、きっと選択肢も増えることだろう。
それから二人と一羽は城内を巡り、庭園へ出た。庭園と言っても、城周りを囲うそれはアサコの目には森に見えた。ただその中にも整えられた道があり、東屋や石像が所々に設置されていることから城の敷地内ということが判った。
暫く歩きアサコの顔を見たイーヴェは表情を曇らせ、休憩を提案した。寝起きよりは随分と意識ははっきりしていたが、やはり万全という訳ではないアサコは頷いた。身体のだるさは相変わらずで、外に出ればましになるだろうと考えていた頭も靄がかかったかの様にぼんやりとしている。
東屋の長椅子に座ると、イーヴェの肩に乗っていた小さな小鳥はアサコの膝の上に飛び移った。円らな目でアサコの顔を見上げるが何も言わない。
アサコは自分の内に湧き上がる感情に抗いきれず、思わず手を伸ばしたが、二人の少女の声が東屋に響き手を止めた。
声がした方に目を向けると、そこにはそっくりな容貌の少女二人が笑みを浮かべ優雅なお辞儀をしていた。かと思えば、顔を上げた彼女たちは緑の天蓋の言葉で何かを話し始めた。それは主にイーヴェに向けられている様だったので、アサコはまぬけな顔でその様子を傍観した。
その少女達はこの城の貴族の娘達だった。美しい金色の髪を髪飾りの様に一部だけ編み上げ後は背中に垂らしたその姿はまだどこか幼い。彼女達は以前からイーヴェと認識があり、仲が良かったのだろう。彼の腕に自分達の腕を絡めると、心底愛らしい笑みを浮かべた。その姿は仲の良い兄妹たちの様にも見えて微笑ましいものがあるが、頬を赤らめた少女達の視線の意味にイーヴェは気付いているのだろうか。よもや血縁関係にある少女たちに手を出すほどの女狂いだとは思いたくない。
アサコは膝の上にいるディルディーエに目を向けた。小さな小鳥の姿の彼は鳥が暖をとる時の様に、足を引っ込め丸くなっていた。我関せずといった様子だ。
通訳者はいなくとも、何となく彼女達の言っていることは解った。おそらく散歩に自分達も同行したいと言っているのだろう。それとも、城に一緒に戻ろうと言っているのかもしれない。ともかく彼女達はイーヴェと共にいたいのだということがその様子から伝わってきた。一方のイーヴェは優しげな笑みを浮かべて応答している。
彼がもし彼女達に応えるつもりならば、自分だけでも城の部屋に戻して欲しいとアサコは念じた。彼女たちを含めた散歩など、疲れるだけだ。
ニコ、と愛らしいけれどどこか険のある響きで呼ばれたアサコは、はっと顔を上げた。自分の存在などお構いなしだと思っていた少女二人の視線が突き刺さり、アサコは思わずうめき声を上げそうになった。二人はアサコに向かって何かを言っているが、もちろんそれを理解できないアサコは怯むばかりだ。しかしイーヴェが言葉を発すると、少女達は驚いた様な表情を浮かべ、イーヴェを見上げた。そのまま彼が言葉を続けると、彼女達の顔色はみるみる青褪め、先程アサコを呼んだ時の声とは全く違った、どこか弱弱しい、縋る様な声で彼の名前を呼んだ。それでも変わらず腕を捕まえていた彼女達は、笑みを浮かべ何も言わなくなった彼の顔を暫く見つめたあと、その腕をようやく離して逃げる様に東屋を出て行った。
「……なんだったんですか」
双子の少女達が去って暫くしてから、アサコは訊いた。イーヴェは苦笑すると彼女達の非礼を詫びたが、彼女達の何が非礼だったのかも解らないアサコは眉を顰めるばかりだ。
「自分達も一緒に散歩に行きたいと言ってきたんだ。案内するからとね。子供の頃から何度も来ているから案内は必要ないし、君に変な気を使わせたくないから二人で行くと、君を誘う前にも言ったんだけどね」
アサコは目を円くしてイーヴェを見上げた。彼は一度断っていたのか。では、彼女たちの顔が青褪めたのは何故だったのだろう。まさか、自分は少年愛好家だとでも言ったのだろうか。
しかしアサコの考えを読んだかの様にイーヴェは言った。
「また今度と言ったのにこそこそ付いて来るなんて、君達はそんな礼儀知らずに育ったのかいと言ったんだ」
その言葉はよほど彼女たちの痛手だったのだろう。貴族の令嬢でなかったとしても、自分の好きな人にその様な言われ方をすれば傷付くに違いない。
「意外です。女の子には甘い言葉しか吐かないと思ってました」
アサコのその言葉こそ礼儀知らずだったが、イーヴェは怒った様子もなく肩を竦めてみせた。
「君、俺を何だと思ってるのかな」
「女好きだと言ってました……ディルディーエが」
魔法使いに罪を擦り付けてアサコは言った。しかし、その現場を彼女自身目撃したことがあるのだ。
生々しい現場を思い出し、アサコは俯いた。膝の上を見てみれば、ディルディーエは相変わらず丸まったまま動かない。ほんのりと伝わってくる温かさにアサコは複雑そうな顔をした。
そういえば小鳥の姿は寒くないのだろうか。そう思うとやはり手を伸ばしてその小さな体を両手で包み込んでやりたくなったが、東屋の外へ目を向け意識から彼の存在を追い出そうとした。
東屋を出る時にはディルディーエは再びイーヴェの肩に飛び移った。まるでそこが自分の定位置だとでも言う風に居座るその様子は、一見とても愛らしい。一言も言葉を発しないので、それがディルディーエであることをつい忘れてしまいそうになる。何故彼は何も言わないのだろうか。感情の無さそうな様子とは裏腹に、彼はおしゃべりとまではいかないが決して無口ではなかったはずだ。少なくともアサコの前では普通に喋っていた。それとも、小鳥の姿の間は無口になるのだろうか。
アサコは差し出された手に手を重ねると、悶々とした気分で歩いた。
この調子だと積もりそうだなと呟いたイーヴェの言葉は当たり、日が暮れる頃には外は一面白に塗り潰されていた。
アサコを心配したサリュケが晩餐会も欠席した方が良いのではないかと言ってくれたが、庭を元気に散歩していた姿を双子の少女たちに見られたのだ。昼も欠席してしまったのだから、流石にそれは感じが悪いだろうとアサコは参加すると伝えた。
晩餐会は前回訪れた貴族の屋敷でのものと、大して代わり映えのしないものだった。食事自体はそれぞれの土地の名産や貴族の格の差が多少現れているのかもしれないが、どれだけ美味しそうな料理を並べられても食欲のないアサコには、それを比べる気は起きなかった。料理を一つ口に含んではゆっくりと咀嚼しながら、目の前で繰り広げられる楽しげな様子をぼんやりと見つめた。時折思い出した様にこの城の主とその妻の視線はアサコの方へ向けられたが、彼らの関心が向かうのは専らイーヴェを含めた王子たちの様だった。その王子達はと言うと、兄のアサコへの関心を恋情と勘違いしたのか、彼女をいない者として扱うことにした様にイーヴェとジュリアス以外は目を向けてくることはなかった。意外だったのは、ジュリアスが貴族の長男と仲が良さそうなことだった。ジュリアスと会話を続けていた青年は、ジュリアスがアサコに目を向けると釣られた様に彼女に目を向けて微笑んだ。しかしそれほど関心はないのか、アサコが会話をできないことを知っているからか話しかけてくることはなかった。
目を向けられないのであれば、それほど居心地が悪いわけではない。しかし時折強い目線を向けてくる者たちもいた。双子たちだ。彼女たちはたとえアサコと目が合っても逸らすことはなく、アサコが思わず目を逸らしてしまっても、その猫の様な大きな目でアサコをじっと見つめてくるのだった。
晩餐会が終わり部屋を出て、ようやく割り振られた客室に戻れると安堵の溜息を吐きそうになったところ、ぐっと腕を引かれたアサコは息を呑み込んだ。
慌てて振り向くと双子の少女達の顔が間近にあったので、アサコは寸でのところで声を上げてしまいそうになるのを我慢した。彼女達はイーヴェに向けていた愛らしい笑みを浮かべると、そのままアサコの両腕を引き、近くにあった扉の中へ誘い込んだ。ぎょっとしたアサコは部屋に入れられる前に助けを求める様に廊下の先を見たが、イーヴェは弟や貴族夫婦と会話に気をとられているのか気付いてくれない。それとも彼女達はその時を見計らったのだろうか。一瞬ロヴィア王子と目が合ったが、彼はアサコの様子を見ていたものの、扉が閉まる直前に酷薄な笑みを浮かべて目を逸らした。
扉が閉まると、少女達は部屋の中にあった長椅子にアサコを座らせ、緑の天蓋の言葉で次々に話しかけてきた。しかしアサコが困ったように首を傾げていると、一人が溜息を吐き何かを呟き、身を乗り出してアサコの着ていた上着の留め具を慣れた手つきで外していった。そのことにアサコが唖然としている間に全ての留め具を外し終えた彼女は次に手をかけた。烏賊胸の繋ぎ目まで釦を外されたところで、ようやくアサコははっとしてその手を阻んだ。
一体なんだというのだろうか。彼女たちの意図が読めないまま、とにかく慌てて釦を留めようとするが、片手ではなかなか上手く留めることができない。もたもたとしていると手首を掴まれ、顔を上げた途端に強く頬を叩かれて、アサコは呆然とした顔で見下ろしてくる二つの顔を見つめた。
二人は先程までとは違った冷たい目でアサコをじっと見つめながら、何かを言っている。低く抑えられた様な声は怒りを抑制している様に聞こえるが、やはり何を言われているのか解らない。
しかし少女達の声を遮るようにして高い鳥の鳴き声が響き、三人の目線が一斉に扉の方へ向かった。そこにはいつ部屋に入ってきたのか、青い小鳥がちょこんと立っていた。その鳥は絨毯の上をとんとんと跳び少し移動すると、羽ばたきアサコの頭の上に載った。双子の視線が再びアサコの方へ向かう。しかしそこに先程までの怒りはなく、毒気を抜かれた様にぽかんとした表情をしていた。アサコには見えないが、彼女の頭の上に載った小鳥は寛いだ様子で羽繕いを始めたのだ。
なんとも言えない微妙な沈黙がその部屋に満ちた時だった。扉が開き、イーヴェが姿を現すと、三人は間抜けな顔をしたままそちらを見た。
一番立ち直りが早かったのは双子の片割れだった。一人がその顔にいかにも愛らしい笑みを作るともう一方も同じ笑みを浮かべ、アサコを隠す様にその前に横並びで立った。
未だ状況についていけないアサコは、ぽかんとした顔で双子の背中を見上げるばかりだ。ふと思い出し頭の上に手を伸ばすと、小鳥の姿をしたディルディーエは彼女の手に跳び乗った。頭上で飛び交う緑の天蓋の会話を聞き流しながら、アサコはディルディーエの乗った手を自身の顔に近づけた。
とりあえず助けてくれたのだろう。小さな声で「ありがとうございます」と囁くと、小鳥は小首を傾げた。