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痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
二章 天蓋のなか
5/54

05

 妙に生々しい光景を目の当たりにして衝撃を受けていたアサコは、隣にいる召し使いがため息をつくのに気付かなかった。よそ見するなとばかりに、横を向いて固まっていた顔をぐっと前に戻される。

「---------------」

 召し使いは外れていたアサコの胸元の釦をかけながら、大きめな声でなにかを言う。その声に驚いたのは、蜜事を交わしていた二人ではなくアサコだった。王子とその服を着替えさせている召し使いが、アサコたちの方を見る視線に気付き、隠れたくなる。もともとアサコはこの部屋にいたのに、勝手に忍び込んで見つかってしまったかのような気分だ。嫌な風に心臓がどきどきとしている。

 召使いの美しい娘は、切なそうな表情でイーヴェのことを見ていた。アサコだってそこまで幼い少女ではないけれど、他人の艶事を見て冷静でいられるほど大人でもない。二人は恋人同士なのだろうか。だとしたら事実はどうであれ、花嫁と周囲に思われ迎え入れられたアサコの存在は、二人の障害物になってしまうのでは。

 悶々としている間に、召し使いたちは部屋を出ていき、アサコとイーヴェは二人で部屋に残されてしまった。二人きりになるとますます気まずい気分になったアサコは、なんとかごまかそうと、イーヴェの顔を見てへらっと笑う。その顔が見苦しかったのかもしれない。イーヴェは驚いたように目を大きくすると、また困ったように笑った。

 それにしても、どう考えても今の状況はおかしいことにアサコは今更ながら気付く。もう寝る雰囲気なのだ。アサコは『花嫁』という言葉を思い出して固まった。まさか、一緒に寝ろということなのだろうか。現にイーヴェは部屋を出て行かないし、この部屋はもしかするとそもそもイーヴェの部屋なのかもしれない。

 視線を上げると、いつの間にか近くまで来ていたイーヴェに頭を撫でられた。その表情は穏やかだ。先程見た光景が頭の端にあるからか、年が近いと思っていた王子は、幾分か大人びてみえた。

 アサコはほっとして強張った肩から力を抜いた。犬と思われていてよかったと、初めて思う。たとえ犬と思われてなかったとしても、あんな美人が傍にいるのならアサコなど相手にすることもないだろう。あの召使いと比べたら、アサコは自分がちんちくりんだと思われても仕方がないと納得する。

 けれど、イーヴェに手を引かれて一緒に寝台に引き込まれそうになった時には、さすがに抵抗した。逃げるように部屋を出ようとして、廊下の薄暗さと静けさに、ディルディーエに助けてもらおうという思いつきもすぐに萎んでしまう。それに城の中は広すぎて、ディルディーエのいる部屋は地下にあったということしか覚えていないアサコは、きっと迷子になってしまうだろう。

「ディルディーエ」

 期待を篭めてアサコはイーヴェにそう言った。ディルディーエを連れてきてくれれば、アサコはこの、出会ったばかりの青年と同じ寝台で寝ずにすむ。

 けれど、イーヴェは微笑んで首を横に振ると、窓の外を指差してから寝台を指差した。夜も遅いから、寝ろという意味だろうなとアサコは解釈する。この王子は、アサコがディルディーエと遊びたいと思っているとでも思ったのだろうか。

「ディルディーエ」

 アサコがそう諦めず言うと、イーヴェもまた首を振って断る。そして、早く寝なさいとばかりに、寝台を抜け出そうとするアサコの首根っこを猫の子のように掴むと、寝台に半ば無理矢理寝かせ、自らもその隣にもぐり込んだ。

 ああやっぱりと、頭を抱えたアサコは、そのままイーヴェに抱きしめられた。なんとなく予想はしていたけれど、その行為にぎょっとした。先程までと比べると、今着ているものはお互い薄い。温かさはすぐに伝わってきた。イーヴェはアサコの瞼に口付けを落とすと、あの甘ったるい笑顔を見せる。

「ちかい」

 呟いてその顔を手の平で突っぱねようとしたアサコは、その前にさらにぎゅっと抱きしめられて顔を顰めた。相手に人間扱いされていないと思うと、どういう訳か恥ずかしさも湧いてこなかった。けれど、だからと言って眠れそうにもないと思っていたアサコだったが、それでも温もりに心地よさを感じてしまったのか、いつの間にか眠りについていた。



 夢の中で、アサコはあの歪みの城の中にいた。長く続く廊下をふらふらと、けれど迷いなく歩く。どこに向かっているのかは、自分でも分からなかった。

 丸石が敷き詰められた床に薄く張っている水は、周囲の闇を吸い込んで黒光りしている。廊下に並べて取り付けられた燭台には、ぽつぽつと火が灯されていたが、それでも暗い。端々に暗闇が散りばめられ、蠢いている。

 アサコはふいに、自分が歩いている少し先を小さな鳥が飛んでいることに気づいた。薄暗闇の中でほんのりと青く光っている。急に現れたようにも見えたけれど、先程からいたような気もした。青い小鳥は、大きな鷲に姿を変え、流れるように黒い大きな猫に変化した。水の上に降り立ったその猫は、音も立てずにアサコの方を振り向く。猫は、金色の瞳をしていた。黒い体は闇に溶け、その瞳だけが浮かび上がる。

 気が付けば、そこには少女が立っていた。アサコを見つめる瞳が、揺れた蝋燭の灯りをゆらりと反射した。足元にある水のように滑らかに波打つ長い髪が、肩から滑り落ちる。着ている結晶のような淡い色のワンピースは、風もないのにふわふわと漂うように揺れる。むき出しの足はやはり白い。

「わたし、あなたのこと知ってる」

 アサコは気が付けばそう口走っていた。少女は微かに首を傾げた。薄暗いここでも、少女が美しい顔立ちをしているのが分かる。細く伸びた鼻筋に、ぽってりとした小さな唇。柔らかそうな頬に、大きな愛らしい目。けれど、その瞳の色が、少女の存在を異質なものに見せる。

「そりゃあ、そうでしょうね」

 少女はさも当然、という風に言った。凛とした声が廊下に響く。

 水の上で浮かぶようにして立っていた少女の足は、少しずつ水の中へと沈んでいく。とろりとした闇色の水が、白い足首に絡みつく。

「あたたかなお日様を見ることはできた?」

 少女は言いながら小首を傾げた。アサコは首を振って否定する。

 空は薄曇り。青い空を覗くことさえできなかった。

「人がたくさんいる市場は?」

「大きな湖に浮かぶ、鳥たちは?」

 少女はぽんぽんと質問を投げかけてくる。それらに対してのアサコの答えは、否ばかりだ。アサコはそんな自分に悲しくなったが、少女は責めるでもなくどこか満足げに微笑んだ。

「……お迎えは来たの?」

 今度は、アサコが質問した。

 とろとろと、少女の頭のてっぺんから顔が、溶け始める。それを見てアサコは、火を灯された蝋燭の蝋を思い浮かべた。美しかった少女の顔はあっという間に、無残にも元の形がどんなものだったのか分からないくらい、どろどろになってしまう。結晶のような服は、ぽろぽろと崩れ落ちては水に沈んでいった。

「わたしたち、ずっと一緒にいたじゃない」

 少女は僅かに残った口でそう言うと、どろどろと滑らかな肌色の山になり、そのまま溶けてなくなってしまった。





     *





 兎の従者は、まんまるな赤い目をぐるりと回した。それだけでアサコの心臓は縮こまりそうになる。

 昼頃アサコのいる部屋にやってきた給仕は、昨晩アサコの服の着替えをしようとした妙齢の召使いと、先程アサコの前に置かれたグラスに、やけに洗練された動きで赤い飲み物を注いだ、兎の従者だった。白い手袋をつけたそのぽってりとした手は兎の足そのものなのに、とても器用に物を掴むのだ。

 ティンデルモンバは紳士だ。そう言ったのはディルディーエだった。ティンデルモンバとは、この大きな兎の従者の名前らしい。紳士だと言われても、アサコには巨大化した、二本足で立つ不気味な兎にしか見えない。着ぐるみだと何度か思い込もうと努力したが、その毛並みや動きはしなやかで、それにどう見ても本物に違いないのでそれは叶わなかった。

 つややかな赤い眼は、先程からアサコをじっと見ている。紳士だと言うのなら、食事中の娘をやたら凝視するのは止めて欲しいとアサコは思った。

 ディルディーエは、昼前に一度顔を見せたが、仕事があると言って一時間もしないうちに行ってしまった。目が覚めるとイーヴェはすでにいなかった。また少ししたら来ると言っていたディルディーエを待って、部屋でぼんやりしていると、この二人の給仕がやってきたのだ。

 何かが詰まったような喉で、食べ物を無理矢理飲み下す。緊張して、食べ物の味も殆ど分からないまま、長い昼食の時間は終わった。けれどどうしたわけか、昼食を終わってもティンデルモンバが部屋を出て行くことはなかった。黒い燕尾服を着た兎の従者は、じっと棒のように、姿勢正しく扉の近くに佇んでいる。

「外に出たい……」

 アサコは泣きそうになりながら、天井近くまである大きな窓の縁に座り込んだ。そこが兎の従者から一番離れた場所なのだ。窓の外では、広い敷地の向こう側に御伽噺にでも出てきそうな町並みが広がっている。

「――それでは、そのように手配致しましょう」

 低く落ち着いた声に、アサコは恐る恐る振りかえった。どう見ても部屋の中にはアサコと、兎の従者しかいない。

 ティンデルモンバはどこか楽しげに鼻をヒクヒクと動かし、口の端を吊り上げて笑みの表情を作った。

「驚かせてしまいましたね。私も、ディルディーエ様にお言葉を分けて頂いたのです。アサコ様が不自由な思いをされないようにと」

 卒倒しそうな面持ちで、アサコはその言葉を聞いた。


「どうしてそんなにこわがることがある? ティンデルモンバはお前に何もこわい事をしていないだろう」

「まさか、そのようなことは」

 部屋にやってきたディルディーエの言葉を聞いて、アサコは頭を抱えたくなった。ここの人にとっては当たり前のことかもしれないが、アサコにとって兎の従者は怪物だ。その存在自体が恐ろしいのだから仕方がない。けれど、それを本人の前で口にするほどの無神経さをアサコは持ち合わせてなかったし、度胸もなかった。

 ディルディーエには昼前に少し漏らしたが、この小さな少女は、アサコがティンデルモンバを恐れる理由を理解できないようだ。

「ディルディーエ様、アサコ様は外出されたいようです」

 兎の従者が言うと、ディルディーエは首を振った。

「なんで」

 アサコは驚いてディルディーエを見つめた。ディルディーエが次にやって来たら、外に連れて行って欲しいと頼むつもりだったのに。まさか否定されるとは思いもしなかったし、その理由も分からない。

「……歪みの森から王子に連れられて来た時、町中の人間にお前は見られた。緑の天蓋はどちらかといえば平和だが、危険がないわけではないからね」

「え、じゃあずっとこの場所にいないといけないの?」

 言って、アサコは部屋の中をぐるりと見渡した。とても広く綺麗な部屋だが、もう見慣れ始めている。何日も閉じ篭るとなると、じきに嫌になるだろう。それに、町や他の場所への好奇心も多いにあるのだ。

「城の敷地内だったら、私が案内してあげよう。けれどけして外へ出てはいけないよ」

 ディルディーエはきっぱりとそう言い放つと、卓上に置かれていた果物を指で弾いて消してしまった。








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