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痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
八章 踊る群れ星
49/54

49.

「訊きたいことがあるのだろう」

 静かな声で言われて、アサコは顔を上げた。一瞬何処にいるのか分からずに周囲を見渡す。そして今いる場所が馬車の中なのだということに気付くと、今度はイーヴェの姿を探したが見当たらなかった。

 貴族の屋敷を出てどの位経ったのだろう。気付けば寝ていたアサコはいつの間にか停まっていた馬車に目を瞬かせる。乗ったまでは覚えているが、座ってからの記憶が殆どない。しかし出発した時は確か向かいにはイーヴェが座り、隣にはディルディーエが座っていたはずだった。

 再び目の前にちょこんと行儀よく座る魔法使いを見ると、アサコは遅まきながら頷いた。大きな目でじっと見つめてくる姿は幼いが、その表情やその身に纏う空気は年老いた人のものと似ている。思わず手を伸ばしたくなったがぐっと我慢し、服の裾を握りしめた。

「いっぱい、あります」

 押し殺す様な声で言えば、ディルディーエは表情を変えることなく小首を傾げた。

「なら、全て答えよう」

 あっさりと言われた言葉に、アサコは目を円くした。なら何故、今まで嘘を吐いたり隠したりしたのか。拍子抜けして、何から訊ねればいいのかますます分からなくなってしまう。

 数秒を置いて、アサコは自身の膝を見つめながらようやく口を開いた。

「わたしは、どうして此処に?」

「全くの偶然としか言えない。あの城は名前の通り、歪んでいる。様々な場所から様々なものが置き去りにされる場所なんだよ。そこへ辿り着いたお前は、偶然ラカと波長が合ったに過ぎない」

 何故か突き放された様な気分になり、アサコは顔を歪めた。

「どうして、ラカのこと知らないふりをしたんですか?」

「お前自身に思い出して欲しかったんだよ。私が知っていると知れば、思い出さない内から全てを訊こうとしただろう」

 彼の言う通りだ。そして、聞けば思い出せるというものでもなかったのかもしれない。しかし何故彼がそう思うのか、その真意は図りかねた。

 アサコが顔を上げると、彼女を見つめていたディルディーエは微かに眉を動かした。

「全部、思い出したのかい」

「……殆ど、全部だと思います」

 そもそも何を忘れているのかも分からないからはっきりとは言えない。しかし、一つだけどうしても思い出せないものがある。元の場所にいた時の記憶が、正確に言えば此処にくる前の記憶がすっぽりと抜け落ちているのだ。何故歪みの城に落ちたのか、ラカと波長があったのか。もう少しで思い出しそうなのだが、その先には靄が掛かっている。

「けど、前に全部思い出したらいけないって、ディルディーエが……」

「それが、ラカとお前の約束だっただろう。体が動かなくなるのはラカの意思でも何でもない。お前の意思だよ」

「え?」

「思い出した時、お前はお前自身を放棄したくなるだろう」

 だからこそお前は歪みの城にいた。そういわれてアサコは目を見開く。

「そうです。ラカも言ってた、思い出さなくていいって」

「ラカはお前の願いを酌んだ。私もそれに従おう」

「どうして? ラカと契約をしたからですか」

 しかし以前サリュケは魔法使いと魔女は主と従者なのではなく、あくまで契約者なのだと言っていた。その契約者がいない今、魔法使いはその意思を継ぐ必要もない筈なのだ。

「魔法使いは夢を見ない」

 それはアサコも知っていた。彼らは滅多と睡眠をとることはないが、稀に眠ることがある。しかし人の様に夢は見ない。見るのはただただ過去の記憶なのだと。しかしそれが一体何だというのだろう。突飛な言葉にアサコは眉を顰めた。

「人から見れば途方もない年月かもしれないが、過ぎてみれば全てが一瞬の出来事の様だった。けれどその全てを私たちは忘れることはない」

 人は忘れるからこそ生きていけるのだと誰かが言っていたことをアサコは思い出す。魔法使いはそれに当てはまらないらしい。それはきっと後悔を知らない生き物だからだ。魔法使いの殆どは自身の感情を持たない。悲しみも後悔もなければ、全てを覚えていてもそれらに縛られることはないのだ。

「ラカと過ごしたのも私にしてみればほんの一瞬のことだった。けれど繰り返し見る過去はその時のことばかりなんだよ」

 ようやく合った辻褄に、アサコは「ああ」と小さな声を漏らした。それならば、ラカがティエルデの迎えに気付かなかったことにも合点がいく。答えはとても単純でとても愚かなものだったのだ。彼が今でもラカの魔法を繋ぎ続けている意味。薄々気付き始めていたことだったが、自分が僅かに失望を感じていることに少し驚いた。

「……魔法使いは、もっと賢い生き物なのだと思ってました」

 ありったけの皮肉を篭めたつもりだったが、ディルディーエは僅かに口角を上げただけだった。悲しくなったのは、言った本人であるアサコの方だけだったのかもしれない。それとも彼は自分自身のことに気付いていないのだろうか。

 魔法使いは叡智を持つ。しかし一体それが何だというのだろう。感情が生まれたばかりの彼らには、人の悲しみや苦しみを理解し難いのだ。それは幼子と、どう違うというのか。

「どうして、泣く?」

「わからない、です」

 喉を引きつらせて言うと、ディルディーエが小さな手を伸ばしてくるのが見えた。手が触れそうになったところでアサコは身を引くと、服の袖で乱暴に顔を拭った。そうして大声を上げたい衝動をなんとか抑えた。

 ほんの少しのすれ違いが重なってここまできてしまったのだ。本当に、もうどうしようもない。後悔などではない。アサコにはどうすることもできなかった。だからこそこんなにも悲しい。

 アサコが泣きじゃくっている間、小さな魔法使いはただ黙って彼女を見つめているだけだった。そこにはやはりなんの感情も浮かんではいなく、理解し難い何かを無感動に眺めているだけの様に見えて、アサコはますます悲しみを募らせた。



 ガタガタと揺れる振動にアサコは薄く目を開ける。正面に見えた、組まれた長い足に再び目を閉じた。

 どうやら泣き疲れてまた寝てしまっていたらしい。最早一日に寝ている時間の方が長いだろう。

 もう一度目を開けると、そのままの体制で周囲を見渡した。小さな魔法使いの姿はなく、代わりに気だるげに肘を突き外の風景を眺めていたイーヴェと目があった。アサコが数度瞬きすると、小さな笑みを漏らす。

「おはよう」

「おはようございます」

 つい最近同じ様なことがあった。アサコは思わず足の感覚を確かめる。大きな毛布を被せられているが、どうやら靴は脱がされていないらしい。体を起こすのが億劫で、寝転んだままイーヴェを見上げた。

「……ディルディーエは?」

「馬車の屋根にでも止まってるんじゃないかな」

 今は小鳥の姿でいるということか。何となく心もとなさを感じたアサコは、胸元に毛布を手繰り寄せた。動かなくなった右手を左手で握り締める。

 その仕草が寒がっているように見えたのか、イーヴェは寒いのかと訊ねてきた。アサコは首を振ると再び彼を見上げる。よくよく考えれば一国の王子に対して無礼な態度かもしれないが、今更だ。

「次は、どんな所に行くんですか」

 次の行き先を詳しく聞いていなかったことを思い出して、アサコはぼんやりとした様子で訊いた。ディルディーエから得た答えのせいか、無力感が全身を包んでいる。魔女に対して感じた恐怖も遠い昔の出来事の様だ。

「今回は少し道のりが長いよ。東の森を迂回して、明け方、藍鶺鴒(らんせきれい)の領主の城に着く」

「らんせきれい?」

「ああ、着けば分かるよ」

 何にしても一日中馬車に乗っていることになりそうだ。先ほど馬車が停まっていたのは馬に休息をとらせるためだったのだろう。

 アサコは重い身体をのろのろと起こした。毛布が肩からずり落ちるのを一瞥し、すぐにその目を窓の外に向ける。日は傾きつつあるのだろうが、まだ黄昏時とは言えない。木々に囲まれた道を走っているが、これが東の森というものではないらしい。

「あんまりぐっすり眠ってたからさっきは起こさなかったけど、昼食を食べていないだろう。お腹が空いているようだったら、温かいスープがあるよ」

 毛布をアサコの肩に掛けながらイーヴェは言った。

 アサコはいつもの癖で右手でお腹を触ろうとして動かないことに一瞬驚いたが、すぐに思い出して小さなため息を吐くと首を横に振った。空腹は感じていない。あるのは身体全体を包む倦怠感だけだ。それが寝起きのせいなのか、思い出した記憶のせいなのかは今はまだ分からないが、もしかすると本人が感じているよりは深刻な状況なのかもしれない。

 本来であれば食物を摂らずともいいはずの身体なのだ。けれど今までそれを欲していたのは、アサコの人として生きていた時の強い記憶や感情がそうさせていただけ。死を間近に感じるほどの空腹を感じたことのない彼女が空腹の記憶だけで息絶えることはないだろう。

 イーヴェは眉を顰めるとアサコの頬に触れ、安心したかの様にほっと息を吐いた。その様子にアサコは目を瞬かせた。

「どうかしたんですか?」

「いや……なんでもないよ」

 答えながらも彼は頬に触れていた手を滑らせて細い首筋に触れる。指先の冷たさにアサコは思わず身じろいだ。

「随分と冷えてる」

「そう思うなら、冷えた手を離してください。寒い」

 思っていたよりもつっけんどんな言い方になってしまい、アサコは言った後で後悔したが、仕方がない。相手は心配してくれていると分かっているのに、その思いやりに動揺してしまい、つい憎まれ口になってしまう。

 そんなアサコの後悔になど気付いた様子もなくイーヴェはくすりと笑いを漏らした。徐に立ち上がり、彼女のすぐ横に座る。

 特に気分を害した様でもないと分かり、アサコは密かに安堵すると体の力を抜き、僅かに傍らの身体に凭れ掛かった。じんわりと伝わる温もりに目を細める。

「……猫みたいだな」

「なんですか」

「離れたと思ったら、気が向いた時には擦り寄ってくることもある」

 何を言われているか理解したアサコは、酸っぱいものを舌先に乗せられた様に顔を顰めると背筋を伸ばした。

「魔法使いには随分懐いているようだけど」

「だから、犬みたいな言い方しないで下さい」

 この場合、猫と言った方が正しかっただろうか。そんなどうでもいいことが頭を過ぎったが、本当にどうでもいいことなので口には出さない。しかしふと隣を見上げてみれば、そこにあったのはいつものからかいを含んだ笑みなどではなく、どこか真剣な眼差しだった。

「魔法使いも、君を気にしている。幼い頃から彼のことは知っていたけど、あんな彼を見たのは初めてだよ」

 その言葉にアサコは俯いた。彼が見たのは、人を気遣う魔法使いの姿だろうか。

 魔法使いがアサコを気遣うのは当たり前のことだ。それは彼の情からくるものではないことをアサコはつい数時間前に知った。彼から見れば、アサコはラカの代役にもならない、ちっぽけな人形でしかないのだ。彼は、ラカの大切にしていた人形が壊れるのではないかという危惧を抱いていただけ。

「……ディルディーエは、わたしのことなんて人間とも思ってないのに」

 そもそも、彼が人間に血の篭った眼差しを向けているのかも甚だ疑問である。彼の感情の在り処は、遠い昔に置き去りにされてしまっているのかもしれないのだから。

 考えれば考えるほど、気持ちは沈んでいく。それと同時に身体を酷く重く感じた。この身体の中には砂でも詰まっているのかとさえ思えるほど。

「どういうこと?」

 優しい声で訊かれて、思わず全てを吐露してしまいたくなる衝動に駆られ、体に巻きつけられた毛布を握った。そして顔を上げ、口を開きかけたところでアサコは絶句した。正面の、先ほどまでイーヴェが座っていた座席には、彼に似た弟のジュリアスがにこにこと微笑みながら座っていたのだ。アサコとは対照的にイーヴェは驚いた様子もなく、彼にしては珍しく苦い顔で溜息を吐いただけだった。

「……その現れ方はやめろと何度も言っているだろう。心臓に悪い」

「そんなこと言いながら驚かない兄さんは、驚かしがいがない」

 手のひらで額を押さえながら言われた兄の言葉も、当の弟は何処吹く風だ。

「花嫁と二人の馬車に、急に現れるなんて無粋にも程がある」

「婚前の娘に馬車の中で悪戯をするような鬼畜ではないと信じていました」

 笑みを絶やさず言ったジュリアスの顔をアサコは眉根を寄せて見つめた。ジュリアスが毒を吐くのはサリュケを相手にした時だけだと思っていたのだが、兄弟喧嘩でもしているのだろうか。

 アサコが小首を傾げると、ジュリアスも真似るように首を傾げた。

「それ以前に、イーヴェはわたしのこと飼い犬程度にしか思ってませんよ」

 嫌味という訳ではなく、アサコは今でもなおその様に感じている。不本意ではあるが、それには実のところ慣れつつあり、その扱いに居心地の悪さを感じてはいないという現状だ。

 妙に真面目な顔で言ったアサコが面白かったのか、ジュリアスは珍しく噴出しそうな顔をした。

「兄さん、貴方の花嫁はこの様に感じているようですが?」

「接し方を改めるとしよう」

 にっこりと微笑みながら言われた言葉にアサコはぶるりと身震いすると、座席の上で後退した。寒気に窓が開いているのではと思い、背中に当たった扉を見上げたがしっかりと閉じていた。

「やっぱり犬でいいです」

 神妙な顔をして頷きながら言うと、とうとう我慢が出来なかったのかジュリアスは口元を押さえて震えだした。















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