表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
八章 踊る群れ星
48/54

48.

 名前を呼ばれた様な気がしてそっと目を開けてみると、輪になって覗き込んでくる三人の影が見えた。

 アサコは硬い石の寝台の上で、三人の顔を順番に見回した。薄暗い部屋の中で見下ろしてくる顔は薄ぼんやりとしてどのようなものか分からない。

 どうやら三人は腕を伸ばして輪を作り、アサコを中心にしてじっと覗き込んだまま動かない。静寂に包まれたその部屋の中で、ぽちゃんと水音が響いた。

 長い髪や華奢なその姿から、それが二人の魔女と従者の少年だとアサコは思った。夕闇の姫に痲蔓の花嫁、花嫁を守る為に付いてきた哀れな弟。アサコにとって彼らは怖ろしくないものの筈なのに、ただ像の様にそこにある彼らの姿にぞっとして身を捩ったが、身体に絡みつく紐がそれを許さない。

 助けて、と心の中で強く願ったが、誰に助けを求めれば良いのかも分からずにただぎゅっと目を閉じた。その瞬間、強い力で腕を引かれて身体が起き上がった。それと同時に身体を石台に貼り付けていた紐がぱらぱらと解け落ちていく。

 腕を引いたのはアサコよりも幼い背中の少年だった。少年は振り返ることもなく掴んだままのアサコの腕を引いて歩き出す。アサコもそれに従った。数歩歩いたところで振り返ってみれば、石台の周りには誰の姿もなく、石台の上から垂れ下がった紐があるだけだった。

 少年の揺れる蜂蜜色の髪を見下ろしながら、それが誰かは問わずともこの時のアサコには分かっていた。

 どこへ行くんですか?

 そう訊ねようと口を開くが、声が出ないことに気付いたアサコは愕然とした。とうとう声さえも失ってしまったのだ。

「どこへ行きたい?」

 前を歩く少年に訊ねられて、噤んでいた口が開いた。彼は心でも読めるのか、それとも偶然か。

「君は望むところへ行ける」

 それは嘘だ。アサコは何処へも行けない。元いた場所へ帰ることさえも儘ならない。それに例えどこへ行こうと、現実は目の前からなくなることはないのだ。

「君はこの城へ逃げ込んだ。けど、そう。本当にあったことは無くなることはないんだ……一つの方法を覗いては」

 方法?

 アサコが首を傾げると、少年は振り向いた。分かってはいたが、何度も記憶の中で見たその姿にアサコは息を呑む。

 ティエルデ。

 そう呟くように口を動かすと、遣る瀬無い気持ちが溢れ出した。

「僕たちは、集約された糸だ。一所ひとところに纏められ、絡まったものを解けばいい」

 意味が解らず、アサコはただただ首を傾げるしかなかった。

 不意に目の前に見上げるほど大きな糸巻きが現れ、くるくると回り出す。ティエルデはそれを背に微笑んでいた。

「それを使うか使わないかは君次第だよ」

 言われて見下ろせば、動かなくなったはずの右手で小さな金色の鋏を握っていた。

 どこを切ればいいんですか?

 口を動かせば漏れるのは空気ばかり。けれど幼い王子にはしっかりと伝わったらしい。彼は微笑みを絶やすことなく肩を竦めてみせた。

「君が選ぶんだ」

 アサコは道に迷った子供の様な顔をしてティエルデを見たが、彼が答えをくれないことを知ると、大きな糸巻きに近づいた。小さな鋏をそっと重なり合う細い糸の間に食い込ませると、一本の糸を刃の間に挟みこむ。溢れ出したばかりの血の様に鮮やかな赤だ。よく見てみれば錘は様々な色の糸に包まれていた。糸は予想以上に硬く、なかなか断ち切ることができない。鋏を握る白い指先が震えた。

「魔法使いに頼めばいい」

 それはディルディーエのことだろうか。彼に望めば、この糸は切れるのか。その言葉はアサコの中ですとんとはまった。

 この糸を切りたいと、気付けば強く願っていた。寧ろこの糸を切るために自分が存在しているのだとさえ思えてくる。

 再び指を動かすと、ぱちんっと弾けるような音がして細い糸は切れた。そこからぱらぱらと糸は解け、糸巻きから落ちていく。強く願ったというのに、それを見ればとても悪いことをした様な気分になり、アサコは途方に暮れた。切ってしまったものは元には戻らない。視線を彷徨わせても先ほどまでいた幼い王子の姿はなく、ますますどうすれば良いのか分からなくなる。

「じゃあ、そこから巻きなおそうか?」

 ありがとう、ごめんね。そう静かな声が聞こえ、目の前が白く爆ぜた。



 目を開けてすぐ傍にあった寝顔に、アサコは緩慢な動きで瞬きを繰り返した。

 伏せられた長い蜂蜜色の睫毛を引っ張りたい衝動に駆られたが、ぐっと我慢して眺めるに留める。穏やかな表情で眠る姿は、幾分彼を幼く見せた。

 日が昇り始めているのだろう。窓から見た空は相変わらずの曇りだが、ほんのりと光を宿している。出発の日だ。もうあと一刻もすればきっとサリュケが起こしにくる。そうは思いつつも、うつらうつらとしていると、先ほど見た夢をぼんやりと思い出した。いつも見るような夢とは少し違っていた様な気がするが、それは意味の分からないものだった。ただ悪いものではなかったという気はする。答え合わせで回答が合っていた時の様な、安心感や達成感があったのだ。

 そんなことを考えているうちに、アサコの瞼は再び落ちた。

「今また寝ると辛いよ」

「……起きてたんですか」

 眉を顰めて言うと、わしゃわしゃと頭を撫でられてアサコは目の前の秀麗な顔を睨んだ。

「犬じゃないって、何度言ったら解ってくれるんですか」

「じゃあ、何になりたい」

「え?」

 突拍子のない質問に、アサコはぽかんとした。言われている意味が解らない。何度か瞬きを繰り返している間も、イーヴェは彼女の答えを待っている様で言葉を発しようとはしなかった。ただただその顔に甘ったるい笑みを浮かべているだけだ。答えを誤れば、酷い目に遭いそうであることだけはなんとなく解った。

「……人間として扱ってください」

 恐らく一番無難であろう答えを選んだつもりだったが、深くなった笑みを見てアサコはぶるりと震えた。慌てて寝台から抜け出そうと起き上がり、寝着が捲れ足が剥き出しになることにも構わず寝台の上から降りようと片足を踏み出す。サリュケが見ていたらはしたないと眉を顰めただろう。けれど今はそれどころではなく、肉食獣に狙われた草食動物の気持ちだった。 

 寝台から出た足が床に着こうかという時、寝台に付いていた左手を強い力で引かれてアサコは仰向けに倒れた。目を円くして天蓋を呆然と見ていると、逆さまから覗き込まれてぎょっとする。見下ろしてくる顔には先ほどと同じ笑顔が浮かんでいた。

「可愛がっているつもりだったけど、もっと別の可愛がり方のほうがお望みだったかな?」

 そう言って顔を近づけてくるイーヴェに、アサコは口をぱくぱくさせた。違うと否定したかったが、予想以上のことに声が出ない。どんどんと近づいてくる顔に思わずぎゅっと目を閉じれば、耳元でふと笑う気配がし、生暖かいものが耳たぶを擦った。ぞぞっと身体を寒気の様なものが走り、鳥肌が立つ。いつも以上の酷いからかいように、目尻に涙が滲んだ。

「――王子、そこまでにしてやりなさい。からかいが過ぎる」

 耳に馴染んだ、落ち着いた子供の声にアサコは瞬きをした。その拍子に涙が頬を伝い落ちたが、それを拭う事もせずに見えた小さな影を見つめる。

 顔を上げたイーヴェは突如部屋に現れた少年にさして驚いた様子もなく、僅かに肩を竦めた。

「早かったですね。それにしても無粋じゃないですか」

 言いながらもアサコの腕を引き、抱き起こす。

「……ディルディーエ」

 言いながらも自身の情けない声にアサコは苦笑いしそうになった。名を呼びながら手を伸ばせば、幼い子供の手はしっかりと白い指先を掴んだ。触れた手は相変わらず冷たかったが、指先から拡がる安心感に、もう片方の腕を伸ばして自身よりも小さな体に抱きつく。全身を包み込むような抗いようのない安心感に、疑問も疑心さえも消え去ってしまう。

「どうして此処にいるんですか」

 魔法使いを呼び寄せるという話をしていたのは昨夜のことだ。彼が鳥の姿になっても一晩で移動できるような距離だっただろうか。

「そろそろ頃合だと思ったんだよ」

 少しの時間離れた方がいいと言っていたが、そのことだろうか。旅に出てからそれ以前よりもたくさんの疑問が生まれた。腕を首に回したまま、体を離して幼い顔を覗き込む。感情を映さない、理知的な瞳は相変わらず底知れないほどに澄んでいた。

「妬けますね」

 首根っこを掴まれ後ろに引かれたアサコは、咽の奥で小さく呻いた。

「貴方が来たということはそう急ぐ必要はなくなりましたが、予定通り此処は出ます。アサコ、サリュケがもうそろそろ来るだろうから、彼女が迎えにきてから一緒に部屋に戻って着替えてくるんだよ」

 そんなことはわざわざ言われなくても分かっていたが、なんとなく凄みを感じたアサコはこくこくと頷いた。再び頭を撫でられたが、今度は文句を言わず大人しくされるままにした。背中に感じる熱を必死で意識しないようにしていると、その様子を見ていたディルディーエが小首を傾げた。それに気付いたアサコはあまりの恥ずかしさに眉尻を下げる。自身の感情の変化に気付かれてしまったのだと知ると、まともに彼の顔を見れなかった。

 サリュケが部屋にやってくるまでの間、アサコは頭上で交わされる二人の会話をぼんやりと聞いていた。腰に回された腕に手を添えて何度か押しのけようとしたが、離れる気配がないと早々に諦めて後ろの体に凭れ掛かった。すると遠のいたと思っていた眠気が、たちまち足の方からじわじわと立ち上ってくる。今は寝起きなので仕方がないかもしれないが、最近本当によく眠くなる。気付いたらうたた寝していたということがままあるのだ。瞼を閉じたり開けたりしていると、ぼんやりとした視界の中でディルディーエがじっと見つめてきていることに気付く。彼は何かを言う様に小さく口を開いたが、声を発することなく口を閉ざすと同時にアサコから目を逸らした。

 暫くしてやってきた侍女たちに連れられて部屋に戻ったアサコは顔を洗い、着替えを済ませようやくすっきりとした頭で、ディルディーエが来たのだということを再度意識した。嬉しいという気持ちと安心感、それに彼に対しての不信感がごちゃまぜになる。訊きたいことはたくさんあったが、触れた瞬間にそんなことはどうでもいいと思えるほどの安心感を感じてしまった。けれど、疑問のままにはしておけない。何故嘘を吐いたのか、何を隠しているのか、そして何よりも訊きたいのは、王子が城へやってきた時にラカがそれに気付けなかった理由だ。ラカは窓のない城の地下に篭りながらも、外のことを感知していた。アサコが迎えが来た時どうやって知るのだと訊ねると、王子が来れば分かるのだと言っていたのだ。城を広く覆う蔦は触覚の様なもので、触れた人のことを知ることができるのだと。それは以前、何の力も持たなかった彼女が魔法使いに譲り受けた魔法の一部のはずだった。そしてこれはサリュケから聞いたことだが、魔法は完全に譲渡されるものではなく、魔女が生きている間に魔法使いに借りるもので、その源は魔法使いなのだという。

 アサコは睨みつけるように目の前にある鏡を見た。白い素肌に今は隠されているが真っ黒な髪。この姿を保っているのも、彼の魔法なのだ。彼に質問をぶつけることで、それが彼にとって不利益なものだった場合、考えたくはないがこの姿も失ってしまうかもしれない。

 準備が整い立ち上がったアサコをサリュケは心配気な顔つきで覗き込んだ。

「アサコ様、お一人で思い悩まれないで下さい」

 腕に手を添えられて言われた言葉に、アサコはようやく自分の顔が強張っていることに気付き僅かに力を抜いた。彼女を信頼していないわけではないが、ディルディーエを疑う言葉を本人以外にはっきりと言いたくないという気持ちはある。きっと言えば、彼女はアサコが安心するような言葉を与えてくれるだろう。そしてアサコはそれに安堵を覚えることはできるかもしれないが、あくまでそれは憶測でしかない。一番の疑問は、答えを追い求める気持ちを薄れさせない為にも、一番最初に彼にぶつけるべき気がした。

 アサコは微笑むと答えを頷くだけに止め、部屋を出た。そして部屋の直ぐ前、硝子窓を背にして立っていたディルディーエと目が合うと立ち止まる。無言で差し伸べられた手に躊躇していると、彼は僅かに首を傾げた。

 最後まで一緒にいたいと願った。だからこそ、今更知ってもどうしようもないことでも、アサコはその答えを得たい。けれど、彼を悲しませたくないと、何故かふとそんな考えが頭を過ぎる。

 自分のものよりも僅かに小さな手をとると、アサコは視線を落とした。















評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ