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痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
七章 クレマチスに透ける
46/54

46.

 ――どうして、私の分身。私の可愛いお人形さん

 ふと聞こえてきた声に、アサコは顔を上げた。

 部屋の中は少し慌しい雰囲気だった。二人の侍女が荷物を大きな荷箱に詰めている。

 屋敷に帰ってきた後、イーヴェはアサコをサリュケに任せるとどこかへ行ってしまい、それからすぐに彼女からこの屋敷を予定よりも早くに出立することを告げられた。魔女は魔法使いと契約を交わしたその地に根をおろすことが多いらしい。移動に危険は伴うかもしれないが、それでも此処に滞在するよりは遥かに安全だと判断されたとのことだ。しかし今からの移動では野営するはめになってしまうので、出立は明日の早朝になったのだという。

「安心なさって下さい。私がいる限りは他の魔女に手出しはさせませんわ」

 安心させる為かサリュケが言った言葉はアサコにとって十分な効果があった。

 荷造りの手伝いをしようとしたが、あっさりと断れてしまい、今は手持ちぶたさに椅子の上で足をぶらぶらとさせているばかりだ。当たり前だが、一人で部屋を出てはいけないと言われている。今回のことで今までよりも随分と行動が制限されることだろう。

 街で遭遇した魔女のことを思い出し、アサコは身震いした。あんな目に遭うくらいならば、制限くらい大したことはない。寧ろ守ってもらえることは感謝しなければいけないくらいなのだ。右手をさすってみたがやはり感触はなく、それはアサコとは別のものの様にだらりと椅子の上に乗っているだけだった。それにサリュケはいち早く気付いたようだったが、イーヴェの前では何も言わないでくれた。

「姉さん、何をそんなに怖い顔をされてるんですか」

 不意に横から覗き込まれ、アサコは目の前の顔の形を認識するよりも前に軽く仰け反った。口を一文字にしたまま目前の顔を凝視すると、穏やかな笑みを浮かべた青年は目を細めた。

「今は聞こえないふりなどされる必要はありませんよ」

 そんなことは分かっている。それよりも早く退いて欲しいという願いを篭めてその顔を睨んだ。先ほどからちらちらとサリュケが目線を寄越してきているが、すぐ近くにいるというのに信用のならない相手だと思われているのだろう。二人の剣呑さを知っているアサコは、早くこの自称義理の弟が部屋を出て行くことを望んでいた。けれど、彼がいれば心強いのは確かだ。

 部屋に戻ってからイーヴェと入れ替わりでやってきたのはジュリアスだった。そのことにサリュケは気を悪くしたに違いない。ジュリアスがこの部屋にいるということは、彼女一人ではアサコを守りきることができないと判断されたということなのだから。

「あなたは何か準備することはないんですか」

「ご心配なく。特にありませんので。それよりも姉さんと一緒にいることの方が今は重要ですよ」

 まずその物言いはなんとかならないのだろうか。本当にこの兄弟といると呑み込む言葉が増えるとアサコは思った。口にしても疲れる展開になるだけだと学習はしているので、決してそんなことはしない。

 それにしてもジュリアスは兄弟の中でものらりくらりとした存在らしい。こんな時に何もすることがないとは、忙しなく部屋を出て行ったイーヴェのことを思い出すと、ますます目の前の青年が昼行灯に見えて仕方がなかった。けれど、それはアサコも同様である。彼は一応彼女を守る為にこの部屋にいるのであって、本当に何もすることがなくただ侍女が忙しなく動く様を眺めているだけのアサコとは少し訳が違うのだ。

「気になっていたのですが、右手はどうされたのですか」

「……気付いてたんですか」

 アサコが小さな声で言うと、心配げな顔をしていたジュリアスは笑みを浮かべた。椅子の上にだらりと置かれた右手を自身の左手で覆い、撫でたが細い指先はぴくりとも動くことはない。落とされた彼の視線を辿り、アサコはようやくそのことに気付いたのだった。

「もう此処にラカの命は行き渡っていません。かろうじて少しの魔法が廻っているだけ。だから人の手としての形を保っていますが、ただの人形も同然。もう貴方の思い通りにはならないでしょう」

 ご飯を食べるのが大変だな、とアサコは暢気に考えた。文字を書かなくてもいい状況なのは唯一の救いだ。あと、左手が残っていることも。けれど、いつ他の箇所が駄目になってしまうのかも分からない身である。

「何を思い出されたんですか」

 緩く握られた右手を他人事のように眺めていたアサコは、その質問に眉根を寄せた。答えようとして口を開くが、咽に石が詰まったかの様に重苦しい。何度か開いては閉じてを繰り返して、ようやく掠れた声で言う。

「お母さんのことです」

 そう口にした途端、思い出さない様にしていた母の姿が頭の中ではっきりと浮かんだ。

 言葉と共に思い出したのは、顔も見えない母の姿だ。白い敷布に埋もれて、それと同じ位白い包帯で顔を覆われ、それがいつも溌剌としていた本物の母なのかアサコにはその瞬間分からなかった。けれど強烈に印象に残っているのは、白を汚す鮮烈な赤だった。

「どうしてお母さんが、あんなことを言ったのかも……」

 けれど、その先が思い出せない。あり得る結末は二通りしかないというのに、そこまで分かっていながらその先を考えることができないのだ。これが、以前ラカが言っていた鍵なのだろうか。アサコにはそれを開ける方法が解らないし、解りたくないとも思う。知ってしまえば、全てが終わってしまうのだ。

「知っていると言ったでしょう。貴女が望むのであれば、私が教えてさしあげますよ」

 耳元で囁かれた言葉に、アサコは小さく首を振った。

「知ってはだめなんです。秘密は秘密のままに……そうじゃないと」

「そうじゃないと?」

「影に捕まります。捕まるのはこわいです」

 半ば無意識の様にどこか遠くを見ながらアサコが言った言葉は他の人が聞いても全く意味の解らないものだっただろう。けれどジュリアスは彼女の様子に口角を上げた。

「どうして怖いと思うのですか」

「こわいものを見せられるんです。ずっと、その繰り返し」

「……それは、貴女自身の記憶ですよ」

「――アサコ様、準備が終わりましたよ。イーヴェ殿下のいらっしゃる所に向かいましょうか。部屋に篭っていては気が病んでしまいますわ」

 目をぱちくりさせてサリュケを見るアサコとは違い、明らかな妨害にあったジュリアスはその顔に満面の笑みを浮かべた。

「随分と早かったけれど、まさか手を抜いたわけではないよね」

「ご冗談を。お疑いになられるのであれば、ご確認して頂いて構いませんわ」

 もちろん、婦人の荷物を探るなど紳士の風下にさえ置けないですが。言葉の裏の声さえ滲み出てきそうなその様子にアサコは顔を微かに引きつらせた。この部屋を早く出たいと思う。切実に。この二人が揃わないのであればどこだって良い。

 助けを求める様にもう一人の侍女を見れば、山盛りになった荷物の傍で行儀よく佇んでいた彼女は愛らしい顔に柔らかな笑みを浮かべていた。言葉が通じないとは今に限っては幸せなことである。

「わたし、早くイーヴェのところに行きたいです」

 二人の様子に蹴落とされながらも、アサコはなんとかそう言った。

 今の状況ではそれも切実な願いだ。彼ならばこの二人を何とか収めることができる気がした。けれど、もしかすると面白がってその様子を眺めるだけだろうか。そんな予感を打ち消してアサコは立ち上がった。何にしろ、今の状況よりは幾分かはましの筈だ。今は魔女とは別の意味で心底恐ろしい。

「まあ。アサコ様、そんなに殿下とおられたいんですの」

 邪気を抜かれた様な顔でサリュケが言うものだから、アサコは気恥ずかしさを感じて顔を仄かに赤く染めた。これではイーヴェのことが恋しいと言っている様なものだ。けれど、それでもアサコが小さく頷くと、サリュケは今度は少し高くなった声でもう一度「まあ」と呟いた。

「それでは、姉さん。私もお供しますよ。安心といえる時が来るまでは、お傍にいます」

 そう言って立ち上がると、ジュリアスはアサコの耳元で囁いた。

「その身体は不安定な状況です。もし何かあった時、彼女だけでは対処しきれませんよ」

 何かとは今の右手の様な状況のことを指しているのだろう。うっかりと頷きかけたアサコは踏みとどまった。侍女であるサリュケも彼女の傍を離れるわけではない。ということは、彼が傍にいると必然的に今の組み合わせができるわけだ。それはできる限り勘弁してほしいと思う。

「……だったら、サリュケと仲良くして下さい」 

「……それはいくら姉さんの望みだったとしても、残念ながら叶えることはできません。魔女はいくつもの制約に縛られた哀れな存在です。いざという時、その制約が貴女を助けようとする手を阻むかもしれない。貴女のお傍を外すのであれば、彼女の方ですよ」

 彼越しに見えるサリュケの表情に再び冷気が宿るのを恐れながら、アサコは顔を顰めた。魔女に感じていた怖ろしさはあるが、危機感はつい先ほどのこととはいえ今や薄れてしまっている。魔女と魔法使いの弟子の二人もをこの部屋に残したということは、イーヴェは強い警戒心を抱いているのだろうが、当の本人はどちらかがいれば十分なのではないかと感じていた。

「魔女はまた来ると思いますか?」

 黒い霧が飛散したことを考えると、あれは魔女の本体ではなく、影の様なものだったのかもしれない。ディルディーエが追い払ってくれたのだから暫くは大丈夫だろうと思うが、そもそもあの魔女は何が目的だったのだろう。苦しみを消すと言いながら、アサコの命を奪おうとしたのだ。

 ジュリアスはふいに視線を上げて目を細めた。その顔には微笑を浮かべたまま。

「やってきますよ。貴女は狙われている。多少強引な手を使ったとしても、貴女を殺そうとするでしょう」

 まるで何もかもを知っているような口ぶりにアサコは眉を顰めた。

「どうして? 理由が分かりません」

「簡単なことですよ。兄弟の誰かがそう仕向けたのか、若しくは貴女が個人的な恨みを知らぬ間にかってしまったのか」

 ぎょっとしたアサコにジュリアスは優しい笑みを向けた。

「何にしろ、魔女は貴女の近くで機会を窺っていることでしょう。決してお一人にはなられないように」

「……個人的な恨みなんてかう機会もなかったと思うんですけど」

 王子たちが実際に自身の命を狙っているかもしれないというのは、以前耳にしていたことながら現実味がない。誰かの恨みを買うにしても此処へ来てからというもの、係わってきた人の数など両手で収まるほどだ。ディルディーエにイーヴェ、目の前のジュリアスにサリュケ、ティンデルモンバにロヴィア王子。その他は言葉も通じない人たちで顔を合わせてもすれ違うばかりだ。

「貴女の思いもよらない場所でかっている可能性もあるということです」

 どれだけ思い返しても恨みを買うほどの酷いことをした覚えはなかったが、それ以上ジュリアスに訊ねるのもおかしいだろうと思った時、ふと強く嫌われていると思う相手がいることを思い出した。ロヴィア王子は、アサコに対してその感情を隠すこともなく嫌悪感を露にしていたのだ。それはアサコが王族に呪いを掛けた魔女だと思っているからかもしれない。他の兄弟も同じだ。ジュリアスが言っていた通り、兄弟の誰かがニコの正体を知り仕掛けてきたのかもしれない。それにジュリアスは、あの黒髪の王子がアサコを殺そうとするだろうと言っていなかっただろうか。

 ただの可能性だったものが急に現実的なものになる。何にせよ、今身近にいる人々以外に気は許さない方が良いのだろう。それとも、目の前の王子さえ疑った方が良いのだろうか。

 一人の侍女を残して、三人は部屋を出た。イーヴェは他の弟たちと次の目的地のことについて話し合っている。ある程度のことは伏せて、街で魔女に襲われたことは伝えたらしい。もしかすると引き帰す可能性もあるかもしれないとサリュケは言った。王族が魔女に襲われるなど、ラカのことを除けば前例がないという。人に忌み嫌われ蔑まれる魔女は、通常その正体を隠すため人前に姿を現すことさえ珍しい。サリュケが魔女であることは、イーヴェとディルディーエ、魔法使いの弟子であるジュリアス以外には知られていないのだという。しかし魔女には魔女の正体が分かる。それでも彼女たちはその秘密を話すことは決してしない。魔女には魔女の協定のようなものや情報網があり、尚且つその中での禁制があるのだ。

 険悪な二人に挟まれ廊下を歩いていると、再び耳に響いた声にアサコは足を止めた。ラカ、と名前を呼びそうになった口を噤む。

 急に立ち止まったアサコを見下ろす二人分の視線を感じながらも、彼女は響く声に耳を傾けた。

 ――うそつきには、針を千本飲ませるのだったかしら

 それは、嘘を吐いたら酷い目にあうというものの喩えだ。アサコはそう思いながら止めていた足を再び動かす。彼女の声を聞くのは久しいが、姿は見えない。その声は、もちろん彼女の左右にいる二人には届いていない。今となってはその理由がアサコにも分かっていた。それはアサコ自身が放つ声だ。アサコのなかにある、ラカの命が放つ声。アサコ以外の人に届くことはきっとない。

 復讐を果たすと意味も分からないままに誓った。それは結果的には彼女が言う通り嘘となるのかもしれない。今のアサコには、自分の意思で動く自信があった。ラカの操り人形のようにはならないし、意味も分からないままイーヴェを危険な方向へと誘い込む気もない。

 したいことを見つけた。叶うかも分からない願いを抱いた。もう人形ではない。アサコの溢したただの感情の欠片ではなくなった。だからだろうか。ラカの姿を見ることも、声を聞くこともなくなってきていたというのに。

 ――ああ、残された時間は少ないわ。約束を忘れないで

 ふいに、その約束がなんだかったのかと疑問に感じたアサコは、目を大きく見開いた。ラカの為の復讐かと思っていたが、何かもっと違うことだったのではなかったと思う。それはラカとの約束だっただろうか。

「――アサコ様?」

 降ってきたサリュケの囁き声にアサコは瞬きをした。いつの間にか目的の場所に着いていたらしい。開かれた扉の隙間からいくつもの目線が向けられ、ぎょっとする。部屋の中には大きな円卓があり、イーヴェの他に王子たちとこの屋敷の主がそこを囲っていた。彼らの様子は様々だったが、彼らの中に自身を殺そうと考えるものがいるかもしれないと思うと、今更ながらに恐ろしさを感じる。アサコは思わず後ずさり、すぐ左隣にいたジュリアスの服の裾を掴んだ。

「ニコ」

 一番奥の席で卓上に肘をつき手を組んでいたイーヴェが笑顔で言った名前に、アサコは呼ばれているのだと思い、躊躇しながらも一歩踏み出す。臣下の礼をとるも、いうことをきかない右手では随分とだらしないものになってしまったかもしれない。それを隠すために深く頭を下げた。顔は上げても向けられる視線が怖くて目線を上げることはできない。

 ようやくイーヴェの前まで来ると、アサコは密かにほっと息を吐いた。よくできましたとばかりに笑顔で頭を撫でられて、顔が熱くなる。

 周囲から緑の天蓋の言葉が聞こえてきたが、アサコはイーヴェをじっと見た。ああ、やっぱりと確信が胸を突く。気がつかなければ良かったと思うけれど、今更どうしようもない。

 振り向くと部屋の入り口で立つジュリアスと目が合った。その笑みが深まるのを見てアサコは眉を顰める。彼は何もかもお見通しなのだろうか。

 イーヴェのすぐ隣の席を勧められて腰掛けると、嫌でも他の王子たちと目が合う。黒髪の王子は興味深そうにアサコとイーヴェの顔を見比べ、寡黙な王子は蟻でも観察するかの様な目でアサコを見ている。ロヴィア王子から向けられる嫌悪感の満ちた目線に耐え切れずにアサコは視線を落とした。

「此処では誰も君に手出しできない」

 小さな声で囁かれた言葉に少しの安心感を得るが、それでも向けられる視線が気にならなくなるわけではなかった。様々な言葉が卓上で飛び交うが、それらの一言さえも聞き取ることができずにアサコはぼんやりと意味の分からない会話を聞いていることしかできない。

 ジュリアスも席に着き、部屋に入ったサリュケが部屋を閉じる。その瞬間、閉じられる扉の隙間から黒ずくめの女の姿を見たアサコは目を見開き身体を強張らせた。その間にも扉は鈍い音を微かに響かせながら閉じられる。ぞっと背筋が凍る感覚を覚えながら、アサコは隣に座るイーヴェの服を引いた。

「……い、イーヴェ……」

 消え入りそうな声しか出なかったのは幸いかもしれない。混乱し、今の状況も忘れているアサコの声は彼以外の周囲の人間には届いていないようだった。

「どうしたんだい」

 組んだ手で口元を隠しながら小さな声でイーヴェが問う。彼は魔女の姿に気付かなかったのだろう。間違いなくあの枯れ木を思わせる魔女は扉の向こうにいる。逃げるべきなのだろうか。けれどイーヴェたちがいる此処にいるのが一番安全だろう。

 固まった様に動くことができない彼女の様子をイーヴェは一瞥すると、彼女が何を見たのかを察したのだろう。近くに控えていた従者に耳打ちすると、部屋の扉を開けさせた。そのことにぎょっとしたアサコは思わず大きな声を上げそうになったが、開いた扉の向こう側には先ほどの魔女の姿はもうなかった。






 






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