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痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
七章 クレマチスに透ける
45/54

45.

 温かい飲み物を飲んで身体が温まったからか、うとうととしだしたアサコから木の杯を取り上げると、イーヴェはその隣りに腰掛けた。

「眠いなら、一度屋敷に戻ろうか?」

 アサコは瞼を重そうに持ち上げながらも、首を横に振った。久しぶりの街だ。出てきたばかりなのに屋敷に戻ってしまうのは勿体無い。最近寒いせいかすぐ眠くなるが、睡眠は十分にとっている。

 その仕草で彼女の気持ちが十分に伝わったのか、イーヴェは苦笑すると手を差し伸べた。アサコはその手に自身の手を重ねると立ち上がる。

 睡眠はしっかりとっているはずなのに、最近はよく眠くなる。この場所が以前暮らしていた場所よりも随分と寒いからだろうか。ジュリアスが言ったことが本当であれば、その眠気さえもアサコの意識が作り出したものになるのだが。彼が言う通りであれば、本来ならば人形の体は眠りさえも必要とはしないはず。そうは思っても一度感じた眠気はなかなか立ち去ってくれそうにない。アサコは繋いだ手を頼りにゆっくりと歩き出した。

 笑う気配を感じて顔を上げれば、優しく細められた目と目が合い、すぐに視線を落とす。すると今度は繋いだ手が目に入り、アサコは顔を歪めた。

 馬鹿みたい、と愛らしい少女の声が耳に響く。本当に馬鹿みたいだ、とアサコは思う。これでは、どうしようもないことのせいで苦しむために生まれたようなものだ。馬鹿みたいだけど、どうしようもない。一度生まれた感情の波は本人の意思を無視して膨らむ一方で、アサコはそれを操る術を知らない。

 ――苦しみを失くす方法を教えて差し上げましょうか

 それは、唐突に耳に響いた言葉だった。甘い女性の声だ。アサコはぎょっとして、けれどそれでも足を止めることなく横を見た。

 人ごみのなか、薄い黒の面紗を被った女が佇んでいた。全身を黒で覆ったその姿は異様なほどに浮いて見えたが、通りすがる人々は気にした様子もない。細い身体はひょろりと長く、夜の森の中で見る枯れ木の様に不気味だ。唯一肌が見えている手先は青白く、長い指は繊細なものなのに女性らしい美しさなどは感じさせず、どこか作り物めいていた。透けて見えた口元は異様なほどに赤く際立ち、弧を描いている。何かを囁くかのようにその口は小さく動いた。

 全身を悪寒が走りぬけ、訳もわからない恐怖がどっと心の底から溢れてくるのを感じ、アサコは目を見開いた。いつも見るものなのかと一瞬思ったが、いつもとは桁違いの禍々しさと身の危険を感じる。頭の中で警鐘が鳴り響いた。体中から体温が奪われていく感覚に、指先に感じている熱に縋った。

「……イーヴェ」

 掠れた声でなんとかその名を呼ぶと、手を握る力が強まった。

「大丈夫だよ、そのまま足を止めないで」

 その言葉で、黒服の女が本当に存在するものなのだとアサコは知った。彼にも見えているのだ。見上げると幾分か険しい横顔が見えた。

「あれは、なんですか」

 魔女、とイーヴェは呟く様に言った。

「恐れてはいけないよ。彼女たちは人の心の隙間から侵食していく」

 そんなことを言われても、一度芽生えた恐怖は簡単には消え去りそうもない。けれど、それでもイーヴェの声を聞いて少しは心が軽くなった。いつもの様に一人ではないのだ。

「やっぱり屋敷に戻ろう」

 アサコは頷くと再び横を見た。人の間を縫って早足で進んでいるのにも関わらず、アサコたちの方を向いたままの魔女の姿はなぜかなくならない。そのことに気づいたアサコは慌てて前を見た。

 ――私が、その苦しみを消してさしあげますよ

 また耳に響いた言葉に、アサコは必死で首を振った。

 誘惑のつもりなのかもしれないが、只管に気味が悪い。生きている人間でも、これほどの禍々しさを放つことができるのか。魔女とは、何かを手に入れるために大切なものを犠牲にした女のことだ。サリュケが言っていた言葉を思い出す。

 ――その穢れた手を離して下さい

 甘い声から一遍、どす黒い憎しみに塗れた声が耳に響いた瞬間だった。ぱんっと何かが弾ける音がして、それが何か知る前に身体の平衡感覚が崩れた。つい先ほどまで感じていた温もりを失い、アサコは目を見開く。

 弾けたのは、イーヴェと繋がれていたアサコの手だった。しかしそこから血が噴出すことはなく、飛び散りぱらぱらと地面に落ちていくのは陶器の欠片だ。なくなってしまった手首の先と振り向いたイーヴェの顔を見ながら、アサコは後ろに倒れこんだ。

 どんっと強い衝撃に目を瞑って開けた時には、目の前の風景が変わっていた。立ち並ぶ木々に僅かな木漏れ日。痲蔓の森に似た景色にアサコは眉を顰めた。冷たい地面に付いた左手の感触はあるが、右手の感触は全くない。痛みはないが、恐ろしくて目を向けることができない。何かの勘違いか幻だったと思いたかったが、感覚を失ったことに気づいてしまうとそうはいかなかった。つい先ほどまで穏やかな気持ちで街を歩いていたのが嘘の様だ。

「捕まえた」

 先ほどとは違う耳元で囁かれた肉声に、アサコはびくりと身体を震わせた。肩に置かれた手に怖気が走る。黒い面紗が目の端に映った。

「そんなに怯えないで下さい。貴女は人形なのだから、死など本来恐れるものではないはずです」

 その言葉から、女が自身を殺そうとしていることを知ったアサコは、視線を彷徨わせた。助けを呼ぼうにも人の気配はない。粉々に飛び散った右手が頭を過ぎった。もし今この身体を失うと、一体どうなってしまうのだろう。影に戻るのか、それともそれさえも消えさってしまうのか。

 逃げなくてはいけない。そう思うのに、動き方さえ忘れてしまったかの様に身体はいうことをきいてくれない。

 細い指先が首筋を伝い、ゆっくりと下りていく。触れられたところから、肌が凍りついていくような感覚に捕らわれる。その指先が胸元に触れた時、アサコは苦しさを感じて顔を歪めた。心臓を直接掴まれたかのようだ。見ると、魔女の手は服の上から触れているだけにも関わらず、強い恐怖に襲われた。

「ど、して」

 この魔女が誰なのかも、なんの為に殺そうとしているのかもアサコには分からない。

 震えた声で訊くと、魔女はふと笑った。どうしても手に入れたいものがあるんです、と小さな声で呟く様に言う声に、アサコは眉を顰めた。どこかで聞いたことのある声だと気づくが、どこでだったのか思い出せない。

「その命の欠片、私に下さい」

 ぱきっと何かがひび割れる音がした。さあっと頭から血の気が引く様な感覚。間違いなくその音は、アサコ自身の身体から響いた音だった。

「……やっ」

 小さな声を上げた瞬間、近くで甲高い鳥の鳴き声が響いた。それと同時に、目の前に黒い霧が飛散して魔女の姿は消え去った。力の抜けたアサコの体は後ろでに倒れこむ。背や頭に衝撃が走ったが、それはとても曖昧なもので、その時アサコは自分の中の何かがほんの一部欠けてしまったことに気づいた。もしかすると、先ほどの音は身体が割れた音ではなかったのかもしれない。

 それでも、翳む視界の中で先ほどの魔女の姿がないことに安堵した。そして、ふと大きな鳥の姿に気づく。大きな鳥は羽ばたき、地面に仰向けに倒れているアサコの頭上に降り立った。見覚えのあるその姿にアサコは声を振り絞る。

「でぃ、ル……ディッエ」

 歪な自身の声にアサコは目を瞬かせた。どうすれば上手く音を発することができるのか忘れてしまった。これでは壊れかけの玩具だ。

 先ほどまであった恐怖は魔女の姿が見えないからか瞬く間に薄れていた。けれど同時にひび割れた隙間から感情が零れ落ちていく様に気持ちが凪いでいく。覚えのある感覚に、これで良かったかもしれないという考えが彼女の中で湧いた。絶望を知ってこの場所に来たのだから、これ以上の苦しさを味わいたくはない。

 けれど、温かい手を離したくないと思ってしまったのだ。ラカは最初から駄目だと忠告していたのに。

 ふと視界が陰り、目の前に現れた少年の姿にアサコは目を見開いた。身体のどこからかまた陶器が割れる様な音がしたが、それにも関わらずその姿を目にした途端、涙が溢れそうなほどの安心感が湧いてくる。恐怖も、彼に対する疑心さえもその瞬間忘れて、まだ動く左手を上げた。

「ディル、ディッエ」

「……どうしたい?」

 その声には僅かに労わる様な響きがあったが、それでも小さな魔法使いの顔は相変わらずの無表情で、アサコは苦笑した。彼は、アサコが望むのならこのまま終わらせることもできるというのだ。それは死ぬのではなく、何も考えることのない、一つの感情だけに囚われた影に戻ることを指す。

 伸ばされた手に、少年の手が重なる。指先を握られて、アサコはそっとその手を握り返した。

「つづ、けま゛す」

 それは愚かなことだとアサコは言いながら思った。影に戻りたいわけではない。けれど、心が不自然なほどに凪いでいる今ならば、そうなることも恐くない気がするのだ。今だったら恐怖を感じないまま、先に予測される苦しみから逃げることができる。それなのに、まだ続けるというのか。恐怖を感じない今、それでも仮初めの生にしがみ付くということは、何かに期待を抱いているのだ。それとも、離れがたいという気持ちがほんの少しでもあるからか。

「……わたしは、お前の願いならどんなことでも叶えてやりたいと思っているんだよ」

 うそつき、とアサコは思った。彼は信用できない。するべきではない。少なくとも、今までの嘘に理由が見当たるまでは。

 アサコの一番の願いを彼はきっと叶えることはできない。母や祖母に会いたい。本当に叶えて欲しい願いは、元の場所に帰ることなのだから。彼は最初に帰り道が分からないと帰ることはできないと言っていた。けれど最初からそんなものは存在しなかったのだ。道は一方通行で、アサコは歪みの城に生きていく為に捨てられた強い感情の塊だったのだから。そうでなくてはならない。以前見たあの光景や携帯から聞こえてきた機械的な声は、短い夢でなければならないのだ。

 指先からじんわりと伝わってくる熱は感覚のなくなっていた身体をゆっくりと温めていく。アサコが微笑むと、ディルディーエは一見表情のない顔に哀しみを滲ませた。

「わた、し、イッヴェっにぁおい空、を見せたい」

 心臓が鼓動するのを感じながら、アサコは言った。口にした願いは彼女の身体に熱を与えた。人として生きていくために今必要なことなのだと彼女自身感じていた。負の感情ばかりに囚われてしまったらいけない。きっとその時こそ、あの薄暗闇の中で彷徨っていた頃と同じようになってしまう。

 指先から、心臓からじわじわと体中に熱が拡がっていく。本当にこの身体は人形なのだと嫌でもアサコは思い知った。からっぽの陶器の身体に与えられたラカの命と涙、小さな魔法使いの魔法と、遠い世界のアサコが捨てた感情の塊。どうしようもない。

「ディル、ディーエ、さいっごまで、いっしょに」

 今思いつく限りの願いを声に出すと、アサコは口を噤んだ。

 最初に会った時よりも、目の前の少年の姿をした魔法使いは幼い顔立ちになっている。指先から伝わった熱が身体中を廻るころ、アサコは避けがたいもう一つの未来を予感した。

 ディルディーエは小さく頷くだけで何も言わなかった。けれどそれだけでアサコは満たされた気持ちになることができた。胸に当たり前の様に巣食う不安は消えないが、それでも迷いが消えていくようだった。自由なら、したい様にすればいい。どうせ先の見えない未来のために準備できる事柄など何もないのだ。

 握られた手に力が籠められる。強い風が吹いて瞬きをした次の瞬間には、目の前の少年の姿はなくなっていた。代わりに覗き込んできた青年の姿にアサコは小さく息を吐いた。伸ばしたままだった手を強い力で引かれ、体を起こす。そして眼前に広がる、倒れる寸前とは違った景色に目を瞬かせた。

 先ほどは歩道の真ん中、人通りの激しい中にいたのだが、今目の前に広がる景色は高い建物の棟に囲まれた路地裏だった。それを背景にしてイーヴェが顔を覗き込んできたのだが、アサコは働かない頭でぼんやりと、なんと言い訳したものかと考えた。魔女に攫われたのはいい。それをありのままに伝えることには問題はないだろう。しかし、先ほど手が割れてしまったことはどう言おうか。そう思い、視線を落とすと右手はしっかりと元通りになっていて、アサコは再び目を瞬かせる。

 その様子をイーヴェがじっと見ていることにも気づかずに、緩慢な動きで彼女は彼を見上げた。

「……わたし」

 恐る恐る出した声は歪なものではなく、はっきりとした言葉になって出たので、アサコは内心安堵した。

「さっき見た魔女と、気づいたら森の中にいて心臓をとられそうになりました」

 口にしてみれば随分と間抜けに聞こえた。言葉をもっと選ぶべきだっただろうか。けれど目の前の景色が目まぐるしく変化したせいか、寝起きの様に頭がはっきりとしない。それでもイーヴェはそのことを気にした様子もなく、神妙な顔で頷いた。

「どこか傷つけられた?」

 アサコが首を振ると、彼はどこかほっとした様に表情を緩めた。その様子にアサコは小首を傾げる。

「どうやって逃げたんだ?」

「……ディルディーエが助けてくれました」

「魔法使いか」

 納得した様に頷くと、イーヴェはアサコの腕を引き立ち上がらせた。

「急いで屋敷に戻ろう。魔法となると、俺は君を守りきれない」

 しっかりと手を繋ぐと歩き出したイーヴェの背を見上げながら、アサコは彼の言葉に僅かに首を傾げた。なぜ彼は疑いを持っている相手を守ろうとするのだろう。それとも真意は他にあるのか。どちらにしても彼が言うことを否定するつもりはない。屋敷に戻ればサリュケもいるし、信用に足らないが魔法使いの弟子であるというジュリアスもいる。

 自分が曖昧な存在なのだと自覚していたつもりだったが、先ほどの光景はアサコに彼女自身の現実を伝えてきた。人形とアサコの繋ぎ目の一つであり、最も重要である命を魔女にとられるかもしれないと思うと恐ろしかった。けれどぼんやりとした意識の中で全てを諦め、それなのにディルディーエに問われればこうして生きることを続けると口にした。死にたいと思ったことなど思い返す限りではない。それでも、そうなってもいいと思えるほどに、これから先の未来の予感に恐れているのだ。どれだけ続くか分からない自身の存在と、それなのに芽生えてしまった感情の行く先。悲しみや後悔の渦に巻かれながら終わってしまうのは、とても恐ろしい。

 繋がれた手に力を入れると、どうしても先ほどの光景が浮かんだが、魔女はディルディーエが追い払ってくれたのだから暫くは大丈夫だろう。

 手を引かれるままに歩いていると、視界が広がった。再び人通りの多い道に出てその流れに従う。少し歩けばそこが先ほどまでいた道なのだと気づいた。黒い服を着ている人がいるとつい目が奪われてしまう。薄灰色に染まった街の中で、黒は殊更目立つ。

 先ほどは不可抗力だったが、それでも離れてはいけないとできる限りイーヴェに近づいた。

 驢馬が荷車を引く音や人々が行き交う音、呼び込みの声や子どもたちの笑う声があちらこちらから聞こえてくる。会話のなくなった今、アサコはその場で流れる音に耳を澄ました。折角の街なのに残念でならないという思いと、早く屋敷に戻りたいという気持ちが複雑に入り混ざる。先ほどまであった緊張感や恐怖は繋がれた手のひらから伝わってくる熱のせいか、いまや鳴りを潜めていた。

 やはりこんな喧騒は好きなのだと思った。人があるなかに自分もいるのだという現実感が湧く。それは以前いたところでも同じことだった。電車が走る音に信号機の音や、どこからか流れてくる音楽や行きかう人の声。思い出したそれらに、ふとよく見知った声が混ざる。耳元で響いたと思えるほどに鮮烈に思い出されたその声に、アサコは思わず立ち止まった。

「アサコ?」

 振り返り見下ろしてきた緑色の瞳にアサコはほっと息を吐く。何でもないという風に首を振ると再び歩き出した。けれど先ほどまでの様に街の喧騒に心を委ねるほどの余裕は今度こそなくなってしまった。ざわざわとざわめく気持ちを抑える様に、アサコは口を引き結んだ。耳を閉じたかったが、繋がれた手はそのままで、先ほど壊れた手は見た目は戻っているが実のところ感触もなく動かすこともできなくなっている。

 おかあさん、と口の中で呟いた声は喧騒に紛れて誰の耳にも届かない。ジュリアスが以前彼女に伝えた呪いの言葉は何の前触れもなく、この時はっきりとしたものとして甦った。




 










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