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痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
七章 クレマチスに透ける
44/54

44.

 結局水鳥の姫は二人の前に姿を現すことはなく、アサコは諦めて部屋に戻ることにした。どの道気になっていたことは全てサリュケが話してくれたのだ。わざわざ彼女に質問することも残っていなかったが、あと一つだけ訊いてみたいことはあった。一体、どんな気持ちなのか。以前聞いた言葉から彼女が今でも悲観に暮れていることは分かっていたので、訊けなくて正解だったのだろう。けれど、彼女にそれ以外の気持ちがあるのかはやはり気になった。

 霧は徐々に晴れ始めていた。もうすぐこの湖畔の城を立つ。そうなれば、二度と水鳥の少女と会うこともないだろう。アサコは漠然とそう思った。これからもこの国で暮らし続けるのであれば、またこの場所にやってくることもあるかもしれない。けれど、たとえそうであったとしても一年後のこの時期まで城に居座り続けるわけにはいかない。それに城に居続けるということは、イーヴェの花嫁に本当になってしまうということだ。全くの仮面夫婦になることが簡単に予想できたが、人形の身であるとはいえ、好きでもない人間と結婚するのには抵抗がある。

「……アサコ様」

 緊張の混じった声で囁きかけられ、アサコははっと顔を上げた。

 薄っすらとかかる霧の向こう側に、黒髪の青年が佇んでいた。昨日顔を合わせたばかりのイーヴェの弟の一人、アドヴェサスだ。何か考え事をするかの様に、霧で白く染まった景色を眺めている。食事会の時には社交的で朗らかな人に見えたが、一人でいる為か表情の浮かばないその秀麗な顔からは冷たさを感じた。

 アサコが思わず立ち止まると、彼もようやく彼女に気付いた様に顔を横に向けた。先ほどの冷たさを感じさせない笑みを浮かべて何かを話しかけてくるが、その言葉はアサコには理解できない。サリュケが言葉を返すと、小さな溜息を漏らして肩を竦めた。一方アサコは、ジュリアスに言われた言葉を思い出し、早く言葉から去りたいと思っていた。イーヴェが出した人物設定に今は深く感謝する。少年の姿で言葉も通じなければ、他の人たちとの交流は難しく、ぼろを出してしまう可能性も限りなく低い。それでももしばれてしまったらという考えがこびり付いて離れない。油断は禁物だ。

 サリュケとアドヴェサスは何度か言葉を交わしていたが、アサコは強い視線を感じていた。それが兄が連れてきた年下の友人に対しての興味なのか、疑いなのかの判断は難しく、彼女は一人そわそわとした。サリュケが早く会話を切り上げてくれるのを待つしかない。

 しかし、アドヴェサスは再度話しかけてきた。アサコは思わずぎょっとして身を強張らせたが、手を差し出されて握手を求められているのだと知ると慌てて自身の手を重ねた。ぎゅっと握られると内心冷や汗を掻いたが、にこやかな笑みで話しかけられれば曖昧な笑みで返すしかない。そんなアサコの反応にアドヴェサスは不服だったのか、一瞬眉を顰めたが次の瞬間にはぱっと手を離して挨拶の言葉を言い、さっさとその場を去った。

 あっと言う間のことだったが、アサコはどっと疲れを感じて息を吐いた。まさかこんな所で会うとは思ってもみなかったのだ。サリュケがいて良かったと心から思った。ふと見ると、彼女は何かを考え込む様にアドヴェサスが去った方を見つめていた。

「サリュケ?」

「……アサコ様、私達も参りましょう。もうじき出発ですよ」

 そう言って笑みを浮かべた彼女は、アサコの手を引いて一刻も早くとでもいう風に歩き出した。

 出発は霧が晴れきらない内からとなった。一行の前に立ったアサコは振り返ると湖畔の城を眺めた。懐かしく哀しい気持ちになるのは、目に使われた石の記憶のせいだろうか。馬車に乗り込む時、微かに空気が動く気配がし、耳に柔らかな少女の笑い声が聞こえた気がした。

 馬車の窓から覗き見る景色はとても幻想的で、数日間滞在していたとはいえ、現実から遮断された場所という印象を受ける。

「夕闇の姫とは会えたかい?」

 静かな声で聞かれて、アサコは窓の外から目を離した。布張りの座席にゆったりと腰掛け、足を組んだイーヴェが笑みを浮かべて彼女を見つめていた。彼の笑顔に感じる胸の痛みは最初から今まで、まだ消え去ってはいない。アサコはそれをラカや水鳥の少女の痛みの残滓だと思っていた。

 アサコは小さく首を横に振った。イーヴェはそれ以上何かを訊ねてくることはなく、そう、と呟くと窓の外に目をやった。霧の中で揺れるぼんやりとした灯りは、幻のようだ。緩やかに動き出した馬車の中で、アサコは幼い少女と少年の姿を見つけた。湖の畔で、手を繋いで微笑みあう姿は、あっと言う間に霧に紛れて見えなくなってしまう。記憶の残滓だ。それが誰のものなのか分からなかったが、かつては確かにあったもの。

 目の前がぼやけて涙が落ちるのを止めることはできなかった。それが何に対してなのか無自覚のまま、アサコはイーヴェの視線を気にしてさっと頬を拭った。


 次の目的地までの道のりが長かったのか短かったのかは、寝てしまっていたアサコには分からなかった。目が覚めると真っ先に空気の冷たさと毛布の柔らかさを感じた。薄く開けた目で向かいに座り窓の外を眺めているイーヴェの姿を捉える。ぼんやりとした思考でやはり綺麗だと思ったが、目が合った途端に意識がはっきりとした彼女は体を起こした。

 窓辺で流れていく木々を眺めていたところまでは覚えていたが、その後の記憶がない。自分で座席に寝転んだ覚えもなかったので、イーヴェが寝かせてくれたのだろう。靴まで脱がされているのに気付くと、アサコは恥ずかしさから僅かに眉を顰めた。

「おはよう。もうそろそろ着くよ」

「……おはようございます」

 柔らかく掛けられた声につい無愛想に返してしまう。窓の外を見れば、霧は晴れていたが景色は白かった。思わず硝子窓に手を付いて外を覗き込めば、くすりと笑う気配がした。しかしそんなことが気にならないほど、アサコは久しぶりに見る雪景色に見入った。地面はもちろんのこと、道を囲むなだらかな傾斜や木々も白く染まっている。

「雪景色がそんなに珍しい?」

「わたしが住んでいたところでは、こんなに積もることは滅多になかったんです」

 全くなかったというわけではないが、これほどまでに積もるのは年に一度あるかないかだったのだ。つい興奮が声に表れてしまった。

 間もなくして馬車は大きな屋敷の前で停車した。薄茶色の石壁に屋根には雪が積もっていたがその縁から青灰色をしていることが分かる。見上げるばかりのその屋敷は城までとはいかなくとも十分に立派なもので、アサコは思わず小さな感嘆の声を漏らした。

 馬車を降りると、土の感触にアサコは少しばかり落胆した。雪の感触をすぐに楽しめると思っていたのだが、屋敷の前は除雪され、少し離れたところまで行かなければ雪に触れることはできない。しかし今そこまで行く勇気はアサコにはなかった。馬車を降りると屋敷前で待っていたのであろうお仕着せを着た使用人たちと美しい壮齢の婦人、そして口上に髭を蓄えた背の高い紳士が目の前でお辞儀をしたからである。それがイーヴェや他の王子たちに向けられたものであると分かってはいても、イーヴェのすぐ傍にいたアサコは驚いた。

 おそらく婦人と紳士がこの広大な屋敷の持ち主なのだろう。やはり彼らが何を言っているのかはアサコには分からなかった。最初の礼を終えると紳士はイーヴェと抱擁を交わし、親しげに話し始めた。その様子を見れば、最初のお辞儀ほど畏まった間柄ではないと知れる。彼らの会話の様子をぼんやりと見ていたアサコは、柔らかに微笑んでいた婦人の視線が自身に向けられていることに気づき、目を瞬かせた。婦人はイーヴェに何かを言うと、今度は彼が振り返りアサコを見た。

「ニコ」

 呼ばれて間を置いてからはっとする。それが今の自分の名なのだと思い出すと、アサコは慌てて彼らの前まで行った。おそらく紹介を受けるのだろう。目上の人に対しての礼の仕方はこの旅に出る前に習っている。しかし上手くできるだろうか。言葉は発することができないので、難しい挨拶の言葉を覚えなくてよかったのは幸いだ。

 片膝を付いて右手を胸元へ持っていけば、手袋の嵌められた繊細な手が差し出されるのが見えた。そのことに安堵すると同時に、緊張で胸が鳴る。そっと壊れ物を扱う様にその手を下で支えると、指先に口付けを落とした。聞いて見るだけでは不安で、サリュケに頼み込んで彼女相手に練習は一度している。女性相手だけではなく、目上の人にならば男性にもすることがあるらしいが、男性の場合は殆ど握手で済まされるらしい。

 くすりと僅かな笑い声が聞こえて、アサコは思わず顔を上げそうになって踏み留まった。耳が聴こえないことになっているので、声や物音に出来る限り反応してはいけない。彼らだけならともかく、周囲には他の王子たちもいるのだから。

 肩をとんっと叩かれてアサコはほっと息を漏らすと、ようやく顔を上げて立ち上がった。イーヴェが肩を叩いてくれるのを合図に立ち上がる約束だったのだ。次に紳士が手を差し出してきたので、その手を重ねて今朝方イーヴェの弟と握手をしたことをふと思い出したが、すぐに目が合うと婦人と紳士に温かな笑みを向けられて、自然と微笑み返すことができた。滞在する屋敷の主人達が優しそうな人たちでよかったと安心した。

 従者に部屋まで案内された後は、間もなく昼食会だった。今朝方まで滞在していた夕闇の城の時と同じく、行き交う言葉に何となく耳を傾けながら、アサコは周囲の様子を伺った。夕闇の城の時よりも朗らかな雰囲気だ。屋敷の主人が朗らかな人柄のせいもあるだろう。アサコも少し肩の力を抜いて食事を進めることができた。しかし、部屋に戻る頃には思っていた以上に緊張していたのか、ぐったりと疲れが出た。会話はないとはいえ、食事の礼儀作法にも気を配らなければいけなかったし、相槌代わりの愛想笑いを忘れてはいけなかったのだ。イーヴェと目が合うと、あろうことか彼は面白いものを見るような顔でその様子を眺めていた。夕食も同じ風になるのかと思えば気が滅入る。

 部屋に着くなり盛大にため息を吐き、鬘を外そうとしたアサコをサリュケは笑顔で引き止めた。

「アサコ様、殿下がお誘いを」

「……なんのですか?」

 ろくな事はないだろう。昼食時の彼の表情を思い出してアサコは眉を顰めた。

「街に出ないかと仰られてます。もしお疲れでしたら、お断りしておきますが」

 その一言でつい先ほどまでの疑いもさっと消え失せた。今のアサコにとってそれほどまでに魅力的な誘いはない。城にいた時も一度連れ出してもらったことがあったが、それ以来街へは出向いていないのだ。それに先ほど見た白銀の景色が彼女の脳裏に浮かんだ。すぐにわくわくとした気持ちが高まってくる。

「行きたいです! 街に出てもいいんですか?」

 そんな彼女の先ほどまでとは全くと言っていいほど違う声色に、サリュケは苦笑した。

「勿論ですわ。殿下が仰られているんですよ? お忍びで行かれるようなので、演技をなさる必要もないでしょう」

 アサコがもう一度行きたいと言うと、サリュケは笑顔のまま部屋に先に運び込まれていた衣装箱の中から真新しい外套を出して彼女に着せた。今の靴では寒いからと、中に毛皮の縫い付けられた長靴と履き替えさせられると、アサコは待ちきれないようにすぐに立ち上がった。

「そんなに急がなくても雪や街は逃げませんよ。……出られる前に、一つ約束して下さい。殿下とは決してはぐれないと」

 その言葉で彼女は付いてこないのだと知ったアサコは少なからず落胆した。以前と同じ様にイーヴェと二人で出かけることになるのだろうか。あの時ははぐれてしまったのだ。サリュケは夕闇の城で忽然と姿を消したアサコのことを心配しているのだろう。

 アサコが頷くと、それでもサリュケは心配そうな顔をして彼女に毛皮の帽子を被せた。それでもアサコがくすぐったそうにふふと笑うと、笑みを浮かべて彼女の顔を覗き込んだ。

「雪はお好きですか?」

「はい」

「雪がよく降る場所を魔法使いは好むといいます。彼らは雪が積もる音を好むのだそうですよ」

 小さな子供に御伽噺を聴かせるような柔らかな口調で言ったサリュケは、帽子からはみ出した髪を指先で整え、目を細めた。

「もし何かあった時は、魔法使いの名前を呼んで下さい。彼はあなたの為なら必ず駆けつけるでしょう」

 そう言われて、アサコは思わず目を円くした。彼女がそこまで心配する理由が分からない。ラカや彼女を取り巻くものたちは恐ろしいが、アサコには決して害を与えないだろう。ともすれば、王子たちのことが気がかりなのだろうか。

 それに思い至ったアサコはぶるりと身震いした。絶対にはぐれないようにしなくては。しかし、いくらディルディーエが魔法使いとは言っても、こんなにも離れた距離を一瞬で移動できるとは考え難い。ともかくイーヴェと離れないようにするのが一番だろう。

 アサコの返事にようやく満足したのか、サリュケはいつもの微笑みを浮かべた。



 屋敷から街へは馬車で向かうことになったが、その距離が短かったので、アサコは驚いた。彼女が歩いて行けばよかったのではと思えるほどだったのだ。それと同時に、街の賑やかさに目を奪われた。以前イーヴェに連れて行ってもらった城下町と比べれば人の量は少し少ないが、それでも普段人の多いところに行く機会がなかったアサコからすれば十分なものだった。

 ところどころで立ち上る白い湯気は時折視界を白く染める。景色は雪に染められているが、人通りの多い石畳の上は泥だらけだ。時折立ち並ぶ屋台には、動物の肉が立ち並び吊られているものや、生きた鳥を売る見せもあった。それらに目を奪われつつも前を歩くイーヴェの姿を見失わないように気を張っていた。アサコに合わせた歩調でゆっくりと歩いてはくれているが、人通りも多く視界の悪い場所で見失ってしまう可能性は十分にある。

 街中に入って間もなく、硝子の球体の中で針がくるくると回る時計ばかりを置いている店の前で足を止めたイーヴェにつられて、アサコも足を止めて振り返った彼を見上げた。

「アサコ、おいで」

 そう言って差し出された手と彼の顔をアサコは思わず見比べた。流石に街中でそれはしないだろうと思っていたのだが、彼はそれをこんな人ごみの中でもやはり気にしないらしい。

 半分諦めの様な気分でアサコは手を重ねた。人目も気になるが、はぐれるよりはましだろう。手袋をつけていたので、いつもより抵抗なく自らぎゅっと握ると、イーヴェは意外そうな顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。無意識にほっと漏らした息に、アサコは口を引き結ぶ。

 ディルディーエ、と思わず心の中で小さな魔法使いの名前を呼んだ。切り捨てられた感情の固まりから、新たな感情が生まれることはあるのだろうか。

「何か温かい飲み物でも飲もう。此処は酒が有名な街でもあるんだよ」

「……お酒飲めないです」

「火を通して度数は殆ど飛んでしまってるから大丈夫だよ。甘くて飲み易いものもあるし……ほら、君より小さい子も飲んでる」

 言われてみれば、大鍋で赤い飲み物を炊いている屋台の近くで、湯気の出るそれを飲んでいる子供の姿をちらほらと見かけた。その姿を見れば、飲めないなどと言えるわけがなかった。それに立ち上る甘い香りは確かに美味しそうである。

 アサコの返事を待たずにイーヴェは近くの屋台に近づくと、鍋の中をぐるぐると掻き混ぜていた老女に一言声を掛け、硬貨を手渡した。老人はにこりともせず慣れた手つきで小さな取っ手の彫られた木の器に酒を注ぎ、小さな葉っぱを浮かべる。手渡されたそれを見て、アサコは小首を傾げた。

「薬草だよ。良い風味になるんだ」

「イーヴェって、王子様なのに物知りなんですね」

 嫌味などではなく、素直に関心しての言葉だった。そもそも王子とはどういうものか良く知らないが、世間知らずな心象ではある。しかし、見た目のらしさとは違い、イーヴェはそれに当てはまらなかった。普段からお忍びで城下町へ出ているせいかもしれない。庶民的なこともよく知っているように思えた。

「色んなことを知っておくに越したことはないからね。まあ、俺の場合は好奇心もあるけど」

 そう言って微笑むと、杯に注がれた酒を一口飲んだ。アサコもそれにならい、口をつけた途端、熱さで眉を顰めて慌てて口を離した。ジュリアスが以前アサコの意識の問題だと言っていたが、本当なのだろうか。舌は火傷した様にひりひりと痛んだ。息を吹きかけてある程度冷めるのを待つ。

「大丈夫? 火傷した?」

 舐めてあげようかと言うイーヴェを無視して、アサコは赤い液体を少しだけ飲んだ。甘酸っぱい果実酒だ。僅かに酒の風味はするが、気になるほどではない。寒さのせいか、少ししたら飲みやすくなった。

 イーヴェは無言になったアサコを石段に座らせると、自身はその隣りに凭れかかって人ごみを眺め、すぐに横に目をやった。頬を赤くしながら、黙ってちびちびと飲む彼女の姿を眺めていたイーヴェは苦笑した。大きさは違えど、夢中になって飲むその姿は、そこら辺にいる子供たちと変わらない。

「お母さんが好きそうな味」

 ほとんど無意識に零した言葉だった。ぽつりと呟かれたそれはほんの小さな声だったが、イーヴェは聞き逃さなかったらしい。彼は微かに小首を傾げた。

「家族の下に帰る方法は何もないのかい?」

「……分からないんです。家の場所も、わたしがいなくなってからどれくらいの時間が経っているのかも」

 アサコの家族はまだ存在するのだろうか。本物のアサコが元の場所からいなくなってはいないことだけが唯一安心できることだった。切り離された存在であるアサコは、元の場所に帰る必要はない。アサコ自身がそれを拒んだから、今アサコは此処にいるのだ。けれど、本物と変わりなく記憶を持ち、感情を持ってしまった。諦めようと考え始めてはいたが、母や祖母に会いたいという気持ちは簡単には消えない。

「此処ではない、たぶんすごく遠いところから来たんです。初めてこの場所を見たとき、御伽噺みたいだと思いました。最近までずっと、現実感がなかったんです」

 それは以前サリュケにも言ったことだった。現実感が生まれたのは、自身が人形だということを知った辺りからだった。それこそ夢の様なはなしではあったが、実感せざる得なかったのだ。自身の身体が人形であることを知ってからは、ますます先が見えなくなってしまった。けれど、此処へ来てから元いた場所と関わりのないところで、唯一願ったことはある。

「イーヴェ、わたし晴れた空が見たいです。此処はすごく綺麗な場所だけど、だから余計に」

 素直な気持ちで言うと、それはよほど予想外な言葉だったのだろう。イーヴェは目を見開いた。それも仕方がないことだろう。彼はアサコをラカの駒か、ラカ本人だと疑っているのだから。けれどアサコはやはり、イーヴェに晴れ渡った空を見せたいと思った。以前に湧いた考えは気紛れなどではなく、心の中にずっと留まり、徐々に大きくなっていた。そしてその感情は、形を変化させていっている。アサコ自身、それには気付いていた。ラカに与えられた記憶から流れる感情ではない。それは間違いなく彼女自身のものだった。














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