42
幼い頃、たくさん我慢したという記憶は彼女にはない。
寂しさをよく感じることはあったが、不平不満もなく、幸せを感じることの方が多かったと記憶には残っている。
母は時には怒ることもあるが優しく、祖母も厳しいけれどやはり愛情を持って彼女に接した。彼女もそのことを知っていたから、二人が大好きだった。彼女が産まれる前に祖父は亡くなり、父親の姿は写真でも見たことがない。元々、祖父母は駆け落ち同然で結婚したので親戚はいないも同然だった。時折やってくる叔父を含めた四人が彼女の大切な肉親だった。
友達は多い方だっただろう。活発とは言えないが、明るく人当たりの良い彼女の周りには常に誰かがいた。幼少の頃からの友達ともずっと付き合いがあった。
本当に平凡な日々を送っていたのだ。朝起きてカレンダーを見て、母の分も合わせて食事を作り一緒に食べると家を出る。通学途中の学生やサラリーマンで溢れた電車に乗り学校へ向かうと、友達たちと朝の挨拶を交わし、夕方までの勉強に勤しんだ。帰りに食材を買い揃えて夕食を作る。母の仕事はその時によって時間もばらばらなので、一人で食事を摂ることの方が多かった。
それでも家族の絆は深い方だと、彼女自身、友達の家族の話しを聞いては感じていた。
小さな頃から続く彼女の日常は、永遠に続くかの様に思われた。けれど、同時に彼女はいつもそれが壊れる日が来ることに怯えていたのだ。そして、彼女が怖れ続けていた変化の兆しがある日突然起こった。
彼女が高校生になったころ祖母が体調を崩し、病院によく通う様になった。祖母は特に大きな病を患ったこともなくいつも元気だったので、そのことは彼女の強い不安を誘った。
祖母は大抵タクシーやバスで近くの大学病院に通っていたが、時折母が車で送り迎えすることもあった。その度に彼女は祖母の容態を母に訊いては、大したことはないという言葉を聞いて安心していた。
「本当、心配性よね」
母親は苦笑して言いながら、小さな子にする様に彼女の頭を撫でる。その次に続く言葉はいつも決まっていて、彼女は母親のその言葉を聞くのを嫌っていた。
祖母が病院に通うことが日常になり始めた頃、珍しく国に帰ってきた叔父が彼女の家にやってきた。
「大きくなったね」
もう高校生にもなる彼女に、叔父は会う度にそう言う。彼女が小さかった頃はまだ叔父も祖母の家にいたので、小さい頃の印象の方が強かったのだろう。
彼女にとって彼は叔父というよりは、少し年の離れた兄の様な存在だった。母親よりも大分あとに産まれた叔父は、彼女が産まれた時まだ中学生になったばかりだったのだ。叔父も、たまに会う彼女をとても可愛がった。
それから彼は国に留まり、時折海外に行くという今までとは逆の生活をし始めた。祖母が体調を崩したことと関係しているのだろう。国内でも遠くにいることもあったので、毎日会うというわけではなかったが、以前よりも会う回数が多くなったことに彼女は複雑な反面、嬉しく感じていた。
定期健診に通いながらも祖母の体調も良くなり、穏やかな日々が流れた。
クリスマスの少し前の朝、母親が彼女に小さなトナカイの置物を二つ手渡した。クリスマスツリーに吊るつもりで造ったらしい。母親は昔から物造りが好きで、仕事以外にもオブジェなどをよく造っていたし、家にある家具の中には母親が造った物もあった。本人は完全な趣味として行っていることだが、その業界ではある程度知られているらしいと、彼女は以前叔父から聞いたことがあった。
朝珍しく寝坊した彼女は、よく見ることもなくそのトナカイの置物二つを制服のポケットに入れて慌てて家を出た。後になって考えてみれば、家に置いておけばよかったのだが、慌てていたので思わずそうしてしまったのだ。電車を待っている途中で、ふとそのトナカイの置物を取り出してまじまじと見る。少し汚れた様な白いそれは、小さいながらも本物の様な骨格に表情をしている。
「黒葛篭さん?」
後ろから話しかけられて、彼女は意味もなくぎくりと体を震わせた。そのせいで、指先でつまむ様にして持っていたトナカイの置物を落としてしまう。それはアスファルトの上で簡単に弾けて割れた。
「うわ。ごめん、驚かせちゃった?」
彼女に声をかけた男子生徒は慌ててそれを拾おうとしゃがみ込んだ。
足が取れてしまったトナカイを手のひらの上に乗せて、ますます慌てた男子生徒を安心させる様に彼女は微笑むと、もうひとつあるから大丈夫だと言った。
母が造ってきたオブジェは数え切れないほど家にある。それでも簡単に壊していい物とは思えなかったが、男子生徒を責める程ではない。そもそも彼は彼女に声をかけただけなのだ。
学校で一日の大半を過ごすと、彼女はそのトナカイのことなどすっかり忘れてしまっていた。いつもの様に学校帰りに夕食の買出しに行き、テレビを点けてアナウンサーの声を聞き流しながら食事の準備に取り掛かる時、制服のポケットにトナカイの置物を二つ入れたままだったことをふと思い出したが、沸騰した鍋に気を取られてあっという間に忘れた。
その日、母親は珍しく早くに帰ってくると彼女の食事の準備を手伝った。基本家事は二人で分担しているが、母親の方が家にいる時間が少ない分、彼女の方が多くの家事をこなしていた。彼女自身、食事を作ったり掃除洗濯をするのが嫌いではなかったし、疲れて帰ってくる母親には十分休んで欲しいと思っていたのだ。
食事の間、二人は取りとめのない話しをした。その日学校であったこと、友人と話したこと、仕事仲間の話し、次の休日の予定など、話題はたくさんあった。
寝る身支度を整え、温かな気持ちでベッドに入った彼女はもう一度だけ制服のポケットに入ったトナカイのことを思い出したが、食事中した母との会話の内容を思い出しながら、すぐに眠りについた。
その日は、緩やかで幸せな夢を見た。それは日常的な内容ではあったが、彼女にとっては幸せな夢が続いた。真夜中、母親に揺り起こされるまでは。
甲高い鳥の鳴き声が森の中で木霊した。
アサコはひゅっと乾いた咽で僅かに息を吸った。それでも苦しく、息の仕方が思い出せない。
目の前の薄紫の瞳が残酷に煌めいている。それは好奇心に溢れていて、彼女の様子を楽しんでいる様でもあった。
「寸でのところで止められた様ですね。やはり師匠には敵わない」
浅い呼吸を繰り返すアサコに、ジュリアスは微笑む。
「惜しかったですね。あと少しのところで、あなたは全てを取り戻せたのに」
その言葉の意味を理解することもできずに、アサコは薄紫の瞳を見つめた。彼は、全てを取り戻しかけたと言ったけれど、強い喪失感が彼女の胸を満たしていた。
以前みた夢を思い出す。真夜中に、母に寝ているところを起こされた彼女は、行ってらっしゃいと言ったのだ。後からその言葉を強く後悔した。数時間、数分数秒の差で、運命は変わってしまう。ほんの少しのずれさえあれば、良かったのだ。けれどそれが分かるのはいつもその後で、知った時にはもう遅い。だから後悔する。
その時までは、人を強く憎むことなど知らなかった。失うことを恐れながらも、その喪失感を想像もできなかった。
――やめなさい
静かな、けれど凛とした声がアサコの耳に届いた。そういえば彼女の声を聞くのは久しぶりだと、ぼんやりとした頭で呑気なことを思う。
――鍵をかけるの
けれど、まだ足りない。一番大事なことが抜け落ちたままだ。それを止めているのは、ラカの魔法でありアサコの意思である。
一度は求めたはずのその記憶は、彼女の意思を無視して止め処なく溢れ出てくる。
「憎しみはいつか義務になる。どの道誰もが忘れてしまうその感情も、甦ることはあるのです。閉じ込めた分、その反動は大きい。魔法使いは残酷だ」
彼女の中で意味を成すこともないまま、その言葉の羅列は耳の中を流れていく。
ジュリアスはアサコの頬に触れかけた手をぴたりと止めた。微笑を浮かべたまま、ゆっくりと視線を動かす。東屋の外に佇んでいたイーヴェと目が合うと、その笑みを深めてアサコの耳元で囁いた。
「残りの記憶が欲しくなったら、私のもとへ来て下さい。あなたの選択は間違っていない」
ジュリアスはそう言い残し彼女の頬を一撫ですると、立ち上がり、緑の天蓋の言葉で兄と二、三言葉を交わした後、その場を去った。
息を吸って吐く。それがこんなにも難しいことだったろうかと思うほど、空気の真ん中にいるにも関わらず苦しい。けれども頬を撫でられた時に魔法を掛けられたのだろうか、ゆっくりと呼吸は戻ってきた。
アサコは突然自然なものではなくなった自身の呼吸を意識する。もしかすると死ぬまでこんなにも意識していくのかもしれないと思ってしまうほど、その時彼女にとって呼吸は不自然なものの様だった。
そうだ、これも以前あった感覚だ。さらりと通りすぎるはずの空気が、硬い物質に変わる瞬間。今もそこから抜け出してなどいない。空気は硬く、息をすることはこんなにも苦しい。そのうち上も下も分からなくなる。あてどころのない憎しみや悲しみは身体の中で渦巻き、掻き混ぜられる。
彼女の母親は嘘吐きだった。けれどそれも仕方がないことだった。誰も予期せぬかたちで、母は彼女との約束を破ってしまったのだから。けれど、一体何の約束を破ったのだろう。
「顔色が悪いけど、大丈夫?」
心配そうな声が上から降ってきたが、アサコは顔を上げることはなく、すぐ前に立っている人の長靴を眺めた。大丈夫です、と小さな声で答える。
「……震えてるけど?」
言われて、アサコはようやく膝の上に載せた手が震えていることに気づき、ぎゅっと杯を握り締めた。ふと、影が差す。彼女が顔を上げるまでもなく、その前に膝を着いたイーヴェが彼女の顔を覗き込んだ。
「泣いてるかと思った」
そんな酷い顔をしているのだろうか。それとも、ジュリアスに虐められていたとでも思ったのか。イーヴェは一言言うと、アサコの目元を拭った。けれど指先を濡らすものなどない。アサコは泣いていないのだから。
もう一度、大丈夫ですとアサコが言うと、それ以上は何も言わずにイーヴェはじっと彼女の様子を眺めた。澄んだ緑色の瞳に心を見透かされそうで、居心地が悪くなる。アサコはゆっくりと目を逸らした。
心の中がもやもやとしている。けれど、どこかほっとしている。取り戻さなくてよかったと思う。それと同時に、そう思うことに罪悪感を覚える。様々な矛盾が渦巻いている。彼女はジュリアスが言った「死にたくない」という言葉を無意識のうちに心の隅に追いやっていた。
先ほど思い出した記憶。あの夜中、アサコは幸せな夢など簡単に覆される悪夢を見たのだ。けれどその内容を思い出せない。
おかあさん、と口を動かした。
いつだったか、布団に入ってから仕事で疲れた母を心配して小さな声でそう呼んだことがあった。その時は母もまだ二十代の若さで、時折仕事に失敗しては落ち込んでいることもあったのだ。母はそれを娘には見せない様にと思っていたのだろうが、アサコは彼女の小さな変化にも気づいた。
母は言うのだ。いい子だからたくさん寝るのよ、と額を撫でながら。
「んっ」
急に口の中に入ってきたものに驚いて、アサコは目を見開いた。じんわりと甘みが口の中に広がる。
砂糖菓子だ。そう気づくまで、アサコはぱちくりとイーヴェを見つめた。
「なにするんですか」
口の中の物を咀嚼してからむっとした声で言うと、イーヴェは甘ったるい笑みを浮かべた。
「甘い物を食べると嫌なことも少し遠のくだろう?」
一体誰の言葉なのだろうか。少なくとも彼自身は嫌いなわけではないだろうが、甘党ではないことをアサコは知っていた。恐らく彼はたくさんの女性たちと付き合ってきたのだろうから、その中の一人が言ったことなのかもしれない。多くの世の中の女性たちと同じく甘い物が好きなアサコは、勿論その言葉に異論はない。けれど急に口に入れられたせいか、妙におもしろくない気持ちになり無意識に唇を突き出した。
イーヴェは浮かべた笑みを絶やさずに、アサコの頭を撫でた。相変わらず彼のアサコに対する子供扱いはなくならない。おそらく直す気もないのだろう。舌に残る甘さが心を解していく。それでも、抜けた記憶のせいで訪れた不安や恐怖は完全にはなくならないが、いつの間に息苦しさはなくなっていた。
ラカが言っていたことを思い出す。彼女は王子様は駄目だと言っていたのだ。心を許してはいけない存在。憎むべき相手の一人。特にイーヴェは、ティエルデの血を色濃く受け継いでいる。けれど、ティエルデではない。そもそも、ティエルデはラカに会いにあの城に何度も、動くことができなくなるまで通い続けていたのだという。ラカはそれを知らずに彼を憎み続けたのだ。
彼のことを苦手だと思うのに、確実に情が湧いてきている。そのことをアサコは自覚していた。ディルディーエに対するものとはまた少し違ったものであることも。
頭を撫でる手はどこまでも優しく、決して嫌いではない。完全に心を許してもいいのだろうか。ラカの忠告を無視して。
「……わたしに家族がいるって言ったら信じますか?」
唐突な質問だったからか、イーヴェは微かに首を傾げる仕草をした。
「信じるよ」
あっさりとイーヴェは言う。
アサコはそれが意外で、目を円くした。以前、母や祖母の話しを彼にしたことはあったが、その時はなにも気にせずに言ったことだった。彼が信じているとも思わなかったし、別に信じられなくてもいいという気持ちもあったのだ。
イーヴェは自分のことをどう思っているのだろうかと、アサコは考える。以前はただの少女のふりをした魔女だと思われていたのだろう。それとも、もしかするとラカが作り出した幻影だとでも思われていたのもしれない。今はどうなのだろうか。以前は時折あった突き刺す様な視線を感じることはなく、たまにからかわれるもののその言動は優しいものだ。
疑われたくないのであれば、全てを話せばいい。ラカの身に起きたこと、ラカが緑の天蓋の人たちを、王や王子を恨んだ理由を。どうして自分があの場所にいたのか。なぜラカのことを知っているのか、知っていることは全て。
それでも彼はラカを憎むことを止めることはできないだろう。弟が彼女に殺されたことは、また別なのだ。
アサコは小さく深呼吸をした。たとえ信じてもらえなくても、話してみればいい。それが間違いなのかも合っているのかも分からないが、このままでいることは決してよくないような気がした。
「わたし、長い間……どのくらいか分からないけど、あのお城でずっとラカと一緒にいたんです」
イーヴェは微かに眉を動かしたが、口を出すことはなくその先を促す様に、目を伏せたアサコをじっと見つめた。
「最初目が覚めた時、金色の大きな目をした女の子が覗き込んできたんです。その子は自分のことをラカと言っていました。ラカは、名前も思い出せなかったわたしをアサコと呼びました」
「名前を思い出せなかった?」
アサコは頷いた。名前を思い出すどころか、ぼんやりとしていて殆ど何も考えられなかった。けれど、意識はその時からあったのだ。もしかすると記憶があるだけで、その前からも歪みの城にいたのかもしれない。
――私はラカ。こんにちは、私の可愛いお人形さん。あなたのお名前は?
ラカは鈴を転がした様な愛らしい無邪気な声で確かそう訊いたのだ。けれど、彼女は答えることができずにじっと目の前の金色の瞳を見つめた。猫の目だ。奥行きの感じられる透き通った瞳は、時折ほんのりと緑に染まることもあった。
彼女はラカに呼ばれた名前を呟いた。アサコ。少し違う気もしたが、それは馴染みのある名前のようだった。ずっとそう呼ばれてきた。母親に、祖母に、叔父に、友人たちに。
アサコはラカの名前を呼んだ。すると、ラカは奇跡が起きたとでもいう風に本当に嬉しそうで、どこか寂しそうな笑みを浮かべたのだ。
記憶はすぐに戻ってきた。歪みの城にやってくるまでどこにいたのか、自分のことも、生まれてからそれまでなにがあったのかも。薄暗い城の中は、緩やかな悪夢の様だった。じわじわと不安や恐怖が心を蝕んでいく。最初は、アサコも影の様なものだったのだ。アサコ自身はその時のことなど覚えていないが、ラカと会ったあとも暫くはぼんやりとしていた。数えられるほどの数の感情だけに縛られていた。けれど、今となってはその時の感情をどうしても思い出せない。ただただ空虚だった様に思える。ラカの狂気に、ラカの記憶に対する恐怖だけは今でも強く覚えているのに。
「イーヴェ、ラカにどうやって復讐するんですか。前にラカを……殺したいと言ってたけど、ラカはもういないのに」
そう言うと同時にアサコは胸が痛むのを感じた。決して友人だったとは言えない同年代の少女。自分にとってラカという少女はなんだったのだろうと思う。彼女に対しての恐怖ばかりが目立つのに、本当にもういないのだと思うと悲しい。鹿の置物をあげた時の愛らしい少女の顔が思い浮かぶ。一番大好きだった人を憎みながらあの暗い城の中で彼女は一人死んでいったのだ。その時はアサコも傍にいたのだろうが、それでも孤独だったに違いない。
無意識のうちにアサコはぎゅっと外套の端を握り締めていた。先ほどの息苦しさの原因を自ら遠のけていることに、彼女自身気づかない。違う記憶を追いかけて、先ほどの記憶を押し込める。
――王子様が接吻をして、目覚めたお姫様はその王子様にひと目で恋に落ちるなんて、馬鹿なのね
くすくすと笑いながらラカは言った。その時、アサコは台の上に貼り付けにされながら、ぼんやりと眠り姫の話を彼女に聞かせていたのだ。その話をラカはいたく気に入っていて、それまでにも何度か話したことがあった。
あれはなんの遊びだっただろうか。確か鬼ごっこに飽きたラカは次の遊びをしようと提案してきたのだ。
「解っているよ。彼女はもういない。復讐のしようもない」
苦笑してイーヴェは言う。
憎しみを向けるはずの相手はもうこの世にはいない。その空虚さにアサコは覚えがある様な気がした。
許して下さい、と何度も頭を下げられた。その様子を無感情な瞳で見つめ続けた。
これは誰の記憶だ。
アサコは眉を顰めながら、ふと今更ながらあることに気づいた。
ラカは、いつ死んでしまったのか。少なくとも、イーヴェ達双子の兄弟が生まれてからということになる。アサコはあの台の上から、二人が出会ったところを見たことがあるのだ。あの時のラカもすでに幻だったのだろうか。けれど、幻のラカに人一人を殺す様な力はあったのか。それとも、あの二人の出会いはただの夢だったのだろうか。
頭が酷く痛んだ。水に濡れた服を纏ったように体が重い。考えることを放棄しそうになる。けれど、そうすると今までと同じになってしまう。変化を求めるわけではないが、真実が欲しい。それがとても良いものとは思えなくとも。それこそ彼女の中にある矛盾だ。
鳥が鳴いている。静かなその場にその鳴き声はよく響いた。
ふと頬に触れた温かさにアサコは顔を上げると、体を強張らせた。息がかかるほど近くにあったイーヴェの顔には、甘やかではあるがどこか暗い笑みが浮かべられていた。
「ジュリアスに、何か言われた?」
アサコがその答えに詰まっていると、彼の笑みは深められた。
出会った頃には気づけなかったが、人の警戒心を解く様なその甘い笑みには、どこか含みがある。腹の底では何を考えているのか分からないのだ。恐らく彼はその笑みの効果を知った上でそれを作っているのだろう。
「……その顔、苦手です」
意識せずに思ったままのことを口に出してしまったアサコは、イーヴェの表情の変化を見て自身の失敗に気付き、ばつの悪そうな顔をした。アサコは彼の表情のことを言ったつもりだったのだが、考え直してみれば彼の顔を否定しているような言葉になってしまった。
それはイーヴェにとって、よほど予想外な言葉だったのだろう。先ほどの笑みなど消えうせ、目を円くしてしている。
アサコがどうやって言い直そうかとまごついている間に、イーヴェは噴出すと大きな声を上げて笑い出した。それには今度はアサコの方が目を円くする番だった。思わず長椅子の上で彼から距離をとる様に後ずさりする。
「あの」
「いや、ごめん。そんなこと言われたの初めてだったから」
それはそうだろう。誰も王子相手に面と向かってそんな失礼なことは言わない。アサコも言ってしまったあとでしまったと思ったのだから。表面的には身分差のそれほどない国で育ったので、不敬罪などという言葉は彼女の頭にはない。そもそもしまったと思ったのも、彼女のそれは本人を前にしてうっかりとそんな言葉を零してしまったことに対してのものだ。
アサコを気を取り直す様に溜息を吐いた。
「特に大した話はしてませんよ。さっき食べた食べ物の話とか、お菓子の話です。あと、さっき来られた弟さんのこととか」
「そう。じゃあ、もう知ってるかもしれないけど、彼は唯一王の血を引いていない子でね。この国を出ることができるんだ。いわば外の世界を見て回る俺たちの目だよ。他の兄弟はみんな異母兄弟だ。あ、ちなみに言い忘れてたけど、ジュリアスは魔女の子だよ」
「はあ……は?」
さらりと言われた言葉を一度は聞き流したアサコだったが、理解すると同時に目を大きくした。
魔女の子。
ラカの呪いを受けている王家にとって、魔女とは忌むべき存在だったのではないだろうか。以前、寝る時に、ディルディーエが少し話してくれたことがあったのだ。サリュケが魔女と知っているのはほんの一部の人間だけで、それは公にはされていないことらしい。
彼女を侍女に推薦したのは他でもない、イーヴェなのだ。
「王も彼が産まれるまでは知らなかったことなんだけどね。さあ、そろそろ行こうか。ここは冷える」
またもや爆弾発言をさらりと口にしたイーヴェは、優雅な動作で立ち上がった。
話が二転三転してしまった。人が少ないせいか、確かにここは先ほど昼食を摂ったところよりも冷える。
アサコは差し伸べられた大きな手に手を重ねた。