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痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
七章 クレマチスに透ける
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 陶器は温かみのある柔らかな肌に、王子から姫君に贈られた石は艶やかな瞳に、魔女から与えられた心臓と涙の器官はつぎはぎの哀れな体に。

「影と同じだったんです」

 アサコは小さな声で呟く様に言った。彼女の髪を梳かす手はぴたりと止まり、言葉の先を促す。けれどアサコはそれ以上の言葉を紡ぐこともなく、じっと目の前の鏡を見つめていた。その瞳にはしっかりとした光が宿り、人形の様に意思を感じさせないものではない。それでも光りを透かした時の透明感や、肌の質はよく見れば人形めいたものだった。

 サリュケは再び手を動かし始めた。先ほどまで寝転んでいたせいか、その長い黒髪は乱れていたのだが、櫛を通せばするすると流れる様に細い背に落ちた。

「なにがですか」

 静かな声で訊かれ、アサコは鏡に映るサリュケへと目を向ける。

「わたしが、です。わたしは人形に閉じ込められた影で、ラカはわたしをこの人形に留めておくために魔法を使った」

 もしくは、あの小さな魔法使いが。

 アサコはあの城に残る魔法使いに思いを馳せた。彼はどの様な気持ちで、今まで自分に接してきたのだろうか。知らないふりをしていたけれど、その理由は。

 すべてを思い出したわけではない。けれど、なんとなくではあるが自身があの小さな古城にいた意味を家で知った。何かをきっかけに、祖母に教えてもらったまじないの様なものを実行したのだ。それは小さな頃にもよくしていたことだったけれど、その時は何かが違ったのかもしれない。

 目を閉じて、耳を塞いだ。そして、落ちたのだ。影として魔女の閉じ篭る城に。

 突拍子もないような言葉に、サリュケは表情を変えることもなく静かな瞳でアサコを見つめた。やはり、魔女である彼女は最初から知っていたのだろう。アサコが人形の身体でいることや、遠くからやってきたことを。そして、アサコ自身が未だ思い出すことのできないことまで知っているのかもしれない。それは、ディルディーエも同じだ。知っていながら、決して口にはしない。

 アサコが考え事をするように視線を落とすと、サリュケはふと窓の外を見た。木に、大きな鳥が停まっている。鳥は観察するように無機質な目でじっと二人の様子を見つめていた。

「……魔女の魔法は通常、魔法を掛けた本人が存在している間にだけ有効です」

 アサコの髪を梳かしながら、サリュケは静かな声で言う。

「魔法は言わば、思いと様々な要素が織り交ざったもの。どれだけ強い思いでも、いなくなってしまった人の思いはそれほど強く残ることはありません」

「……けど、わたしは歪みの城を出たあとでも、ラカを見たことがあります」

 夢の中でも、あの大きな城の中でも、ラカはアサコに話しかけてきたのだ。アサコはそれを幽霊の様なものだと思ってきた。影も、従者の少年も、幼い魔女も。だから他の人には見えないし、その声を聞くことはない。彼らはアサコのみに話しかけてきたのだから。

「アサコ様、死んだ者の想いを受け継ぐのは彼らを想う人たちです」

 どくりと胸が大きく脈打ち、アサコは目を見開いた。サリュケの言葉は強くアサコの胸を締め付けるものだった。それがどうしてなのか分からない。胸を締め付ける感情の正体を探ろうとして、アサコはふと気づいた。それは、罪悪感や後悔のようなものだ。それこそが、緑の天蓋にいるアサコの正体。アサコが捨ててしまった感情の固まりを魔法使いは魔女の人形に閉じ込めた。

 歪みの城は、捨てられた感情や記憶の吹き溜まり。ラカはそう言っていた。

 するすると、記憶が解けてくる。

 目を開けて一番初めに見たのは、大きな金緑の目。異形である筈のそれをできそこないであるアサコは綺麗だと思った。次いで差し伸べられた柔らかな指先は頬に触れたが、まるで寒さを耐える様に微かに震えていた。

 一つ一つの部品を確認するかの様に、アサコはまだ幼さを残す少女の姿を虚ろな目で眺めた。筋の通った小さな鼻にぽってりとした桜色の唇、夜の川の様に艶やかに波打つ黒髪、そして今にも泣き出しそうな笑顔。けれど彼女は決して涙を流すことはなかった。

 城にいた頃は、この子を助けてあげたいなどと思ったことはなかった。同情心を抱くことはあったが、それもぼんやりとしたものだったのだ。あの城にいた頃、強く感じていた感情は不安や恐怖。それ以外の感情は殆ど湧くことがなかった。当たり前だ。アサコはそれ以外の感情の殆どを持ち合わせていなかったのだから。

 けれど、イーヴェに目覚めさせられ、あの城を出てからというもの、少しずつ他の感情が芽生えていった。今は、ラカを助けたいと思う。けれど、彼女はもういない。

「ディルディーエは、今どうしてるんでしょう」

 霧消に彼に会いたくなったアサコは、ぼんやりとした様子で呟いた。

 何も知らないのに、小さな魔法使いを慕っていた。その気持ちは今も消え失せることはない。おそらく彼が色んな嘘を吐いていたとしても。

「あなたが呼べば、来てくれるかもしれませんよ」

 笑みを浮かべてサリュケは言う。アサコは二度瞬きをしてから小首を傾げた。

「ディルディーエは、わたしのことどう思ってるんだろう。わたし、分からないんです。ディルディーエが、何を考えてるのか。どうしてわたしに嘘を吐いたのか。最初に会った時、わたしが何なのかもどうして歪みの城にいたのかも分からないと言ったんです。ラカのことも最初は知らない人みたいに言ってたのに」

「帰ったら、訊いてみてはいかがですか。彼はきっと答えてくれるでしょう」

 優しい笑みを浮かべるサリュケを見て、アサコは母の姿を思い出した。決して似ているわけではないが、なぜかふと思い浮かんだのだ。

 母も、祖母も今どうしているのだろうか。アサコは今も間違いなくあの家に住んでいる。それはここにいるアサコにとって不幸中の幸いともいえた。二人ともアサコを心配して心を痛める必要もないのだ。きっと今も普通に日常生活を送っているはず。変わったのはアサコの心の一部だけで、今もあの家で暮らしているアサコ自身でさえ、その変化に気づいていないのかもしれない。

 ああそっか、とアサコはサリュケに届かないほど小さな声で呟いた。嘘を吐いていたからと言って、ディルディーエを責めることはできない。彼といる時のアサコの気持ちも、純粋なものとはいえないものだったのだから。

 その不安から、ディルディーエを心の拠り所としていた。けれど、アサコは彼自身に今までそれほどの興味を示したこともあまりなかったのだ。少し気になったりすることはあったが、彼自身の過去や心は極端にいえば必要のないものだと思っていたのかもしれない。安心できて、揺らぐことのない場所の様に思っていた。母や祖母の代わりにしていたのだ。

 サリュケは長い黒髪を結い上げ、その頭に鬘を被せ整えると、鏡の中のアサコに向かってにっこりと微笑んだ。

「さあ、参りましょう。殿下がお待ちですよ」

 その一言でこれからある食事会のことを思い出したアサコは、小さく頷いた。昼食は部屋でゆっくりととりたかったのだが、イーヴェに他の兄弟たちとの昼食に参加するように言われたのだ。なんでも、遅れてきていた弟の一人が到着したので紹介したいらしい。アサコにとってみれば、自身の命を狙っているかもしれない人たちの一人など、紹介してほしくもないと思ってしまうのだが、断ることはできなかった。それによくよく考えてみれば、自分が本当に命を持っているのかも怪しいのだ。アサコが持っているのはアサコとしての記憶や感情。そしてその感情すらももともとのアサコのものは一部しか持ち合わせていない。その記憶や感情を人形の体に定着させているのは、恐らくディルディーエの魔法。仮に刺されたり毒を盛られたとしても、死ぬことなどないのかもしれない。

 アサコはぎゅっと拳を握ると立ち上がった。食事会には、ジュリアスも来ているのだろう。できれば彼とは顔も合わせたくないが、彼が何か知っているのは明らかだ。それに、ディルディーエを師と仰ぐくらいなのだから、彼のこともある程度は知っているのだろう。

 もうあの家に、アサコは自分の居場所などないことを知ってしまった。切り離された感情は捨てられ、元に戻ることはない。歪みの城で過ごしたことのある彼女は、そのことをなんとなく理解していた。あの場所に蓄積されていた感情や記憶の群は、時折扉の隙間から出て行ってしまうことはあったが、それは元の在り処に戻ったわけではないのだろう。持ち主である本人がその感情のことなどすっかり忘れ去ってしまう頃に消えてしまうのかもしれないし、いつまでも城の中を徘徊し続けるのかもしれない。それとも、時折あの城から溢れ出しては緑の天蓋の中で居座り続けるのかもしれない。

 なんにしても、帰る云々のはなしではなくなってしまった。アサコはもうここにあるしかないのだ。だとすれば、此処にいる方法を考えなければいけない。此処へやってきてから今まで、呆然と日々を過ごしてきたが、もうそういう訳にもいかないのだ。生きられるのであれば、生きていく術を見つけなければいけない。


 部屋を出ると、見計らっていたように隣室からイーヴェも出てきた。

 目が合うとイーヴェはいつもの様に微笑んだが、アサコは思わず顔を逸らした。先ほど泣いたことを思うと気まずいし、恥ずかしい。確かに彼には何度も涙を流しているところは見られているが、先ほどは自分の心から泣いたのだ。

 幸い、彼はアサコが泣いたのはジュリアスに人形の姿に変えられて怖かったからだと思っているらしい。あれが本来のかたちだと知れば、彼はどうするのだろうか。

「ニコ」

 仮の名を呼ばれて、アサコは一瞬反応に遅れたものの差し出された手に殆ど反射的に手を重ねていた。

「……犬じゃないんですよ」

 気恥ずかしさを誤魔化すためにむっとすると、小さな声で言う。イーヴェは目を円くし、次の瞬間に笑い出していた。和やかな空気に、近くにいた従者の青年がほっとした様子でいるのを見て、アサコは瞬きした。

 手が引かれて被せられた長い髪が舞う。長い廊下を歩いてきながら、アサコは自分の手を引きながら先を歩くイーヴェの背中を眺めていた。

 強い既視感を感じる。以前にも、誰かに手を引かれながら歩いた。彼の背格好は、その誰かと似ているのかもしれない。今とは違い、その時はとても急いでいた。それは夢の光景だったのだろうか。アサコは急ぐ手に引かれながら、ぼんやりとその背を眺めていたのだ。

 ――嘘つき。

 ぽつりと、そんな言葉が頭に浮かぶ。

 それは、アサコが歪みの城に落ちる寸前、祖母のおまじないをしながら呟いた言葉だった。

 辿り着いてしまう。堰を切った様に流れてくる記憶の波は止め処ない。それらは以前そうだったように、アサコの足を止めてしまうこともなく当たり前の様に彼女の思考を埋めていく。

 ふと、微かな花の香りがした。隣りを見ると、黒髪の少女がアサコ達と共に歩いていた。相変わらず、手に持った大きな花で目元を隠し、口元には薄っすらと笑みを浮かべている。

 アサコはどういうわけかその少女が現れたことに驚きを感じることもなく、以前ほどの怖れを抱くこともなかった。

 音もなく、少女はふわふわと髪や服を靡かせながらアサコの横に付く。誰も彼女の存在には気づいていないようだ。ジュリアスと出会った時の状況と似ている。自分一人が切り離された様な感覚。魔法か、あるいは幻か。

「幻覚?」

 アサコが小さく呟くと、少女は口元に笑みを浮かべたままその顔を彼女の方に向けた。

 ――さあ。あなたがそう思うのなら、そうなのかもしれない。

 そんな言葉がアサコの頭の中に浮かんでくる。

「ラカ?」

 その声があまりにも彼女の知る魔女のものと似通っていたので、アサコは思わずその名を口にしていた。

 ――『ラカ』は、夢のなかの女の子。わたしと妹のお友達。

「――え?」

「アサコ」

 その呼び声と共に、少女は忽然と姿を消した。アサコが瞬きを繰り返すと、イーヴェは苦笑した。

「どうかした? ぼんやりとしていたけど。もう着くよ」

 少女のことを口にするでもなく、アサコは首を横に振った。そして繋いだままの手に気づき離そうとしても、柔らかな強さで握り返されるばかりだった。それで何か陰口を叩かれたとしても理解することはできないが、周囲の視線が痛いのだ。もちろん、その視線はアサコだけに注がれるものではなく、イーヴェにも向けられているというのに、彼はそれらを面白がっているようだった。確実に今彼は同性愛者の疑いをかけられているのだろうに、嫌ではないのだろうか。

 つくづく変な人だと思いながらも、アサコはそれ以上の抵抗もせずに引く手に従った。

 連れられた場所は、広間ではなく外だった。湖の近くで長い長方形の食卓が準備され、そこではイーヴェの弟達と数人の男達がすでに席に着き、会話を楽しんでいる様だった。そしてそれを囲むように給仕の侍女や従者たちがじっと立っている。

 アサコはその様子を現実感を持てずに眺めた。木々の間から差し込む光は緩やかで、決して晴れ晴れしいものではない。それでも外で食事をしたりするのかと、的外れなことを考えながら、もう見慣れたはずの顔立ちの人たちを見た。この光景は、まるでそうだ。小さい頃に母に読んでもらった絵本の御伽噺のようだ。

 イーヴェが着くと席に着いた人たちは会話を止め、笑顔で緑の天蓋の言葉で口々に何かを言った。そして、アサコを見て一瞬それぞれ様々な表情を浮かべたものの見事なほどにそれを引っ込め、すぐに彼女にも笑顔を向けてきた。それでも相変わらず、無表情な弟は表情を浮かべることはないし、眠そうな少年王子は微かに笑みを浮かべたものの眠そうなままだ。ジュリアスの方を見るとばっちりと目が合ってしまい、アサコは思わず目を逸らした。頭上ではイーヴェが緑の天蓋の言葉で席から立ち上がった男と言葉を交わしている。

 従者の青年に案内された席に二人はそれぞれ着いた。イーヴェは空けられていた誕生席に、アサコは今回はどういう訳か前回とは違い、兄弟達よりも下座だった。眠そうな少年王子と知らない青年の間に挟まれたアサコは少なからず戸惑った。少年王子は、確かロヴィアと言ったか。一度しか言葉を交わしたことはないが、相変わらずアサコを見る目には強い感情が篭っているようだった。彼女自身それに気づいていた。少なくとも、そこに好意はないだろう。それに嫌われる理由ならいくつでも思いつくが、好かれるような理由は今のところひとつも思いつかない。鬘を被り、男装はしているものの、彼は彼女がアサコだということを知っているはず。だとしたら、同時に国中に呪いをかけた魔女だとも思っているのだろう。全くもって無実の罪だと主張したいが、まさか今そんなことを言えるわけがない。それに恐らく言っても信じてもらえないだろう。イーヴェでさえ、未だアサコのことを信じてはいないのだ。アサコはそれに憤りを感じることもない。信じられる要素が少ないのは、彼女自身自覚しているから。

 食器の当たるささやかな音と、緑の天蓋の言葉が食卓の上を行き来する。アサコは理解することのできない言葉の群をぼんやりと聞きながら、目の前に出された料理をゆっくりと咀嚼していった。紫色の小さな実を乗せられた肉は、何の肉かも分からないが軟らかくて美味しい。杯に注がれた紅色の温かい飲み物は、少し苦味のあるものの甘くて咽をさらりと流れていく。この味覚はどこからくるのだろう。自身の身体が人形だと分かった今、色んなことに疑問が湧く。

「暢気なものだね」

 それは小さな声だった。けれど、アサコの耳にはっきりと届いた声には、明らかな嫌悪感が混ざっていた。その声に吊られる様に横を見ると、ほんの一瞬だけロヴィアと目が合った。隣の席と言っても間に一席分くらいの空間はある。おそらく彼は意識して彼女の耳に聞こえる様に言ったのだろう。

 やっぱり嫌われてるんだな、とアサコは思わず漏れそうになった溜息を飲み込んだ。分かっていたことだが、こうも態度に出されると流石に少しは気分が沈む。しかし以前温室で出会った時にはそんな素振りを見せることもなかったのだが、それはティンデルモンバがいたからだったのか。

 食事が一気に咽を通りにくくなった。代わりに飲み物を飲み干すと、咽がかっと熱くなった。先ほどはちびちびと舐める様に飲んでいたせいか気づけなかったが、杯に注がれたそれは温められた果実酒だったらしい。しかし、血も通っていない体である。酔うことはないだろうと、すかさず空になった杯に注がれた酒を再び口にした。周囲の人々が呆気にとられたようにその姿を見つめているとも知らずに。

「ニコ」

 呼ばれて、アサコは数秒遅れでイーヴェの方に目を向けた。その隙に後ろに控えていた侍女が、僅かに酒の残った杯と水の入った杯をさっと置きかえた。

 にこやかに話しかけられても、その言葉を理解できないアサコは首を傾げるしかない。

 彼の視線が自分ではなくその後ろに向けられていることに気づいた彼女は、食事中後ろを振り向くことは無作法だと以前ティンデルモンバに教えられたことを思い出していたが、ふと頭上から声が聞こえ影が差したことに驚くと、思わず後ろを見てしまった。その途端、顔面に何かがぶつかる。頭上からの大きな笑い声で彼女がそれが服だと気づくと同時に、眼前に今度は男の顔が現れた。アサコは思わず声を上げそうになったが、口をぐっとへの字に曲げてそれを押し留める。目の前に現れた男の姿をアサコは驚きの眼差しで見つめた。

 肩まで伸びた癖のある黒髪に、緑の瞳。その色彩はこの国では滅多に見かけないものだと、以前イーヴェが街に出た時に言っていたのだ。アサコ自身、此処へきてからというもの黒髪の生きている人の姿など鏡の中でしか見たことがなかった為、目の前にいる人物はまた幻のようなものだろうかと疑った。

 男は、ひとしきりアサコとイーヴェ、そしてその弟たちに何かを言うと、空いていた席に当たり前の様に着いた。その様子にアサコは目を白黒させる。彼が、遅れてきていた弟王子だというのだろうか。誰かにそのことを訊くわけにもいかず、残りの時間を悶々とした気持ちで過ごすしかなかった。

 昼食会が終わるとそこに留まる者もいたが、ジュリアスがさっと立ち上がるのを見てアサコもその後を追った。幸い後からやってきた黒髪の青年がイーヴェや他の弟たちと話をしていて、みんな彼に注目している。

 ジュリアスは、静かな動作で木々の間を進んで行く。がさがさと音を立てながら付いて行くアサコには気づいているのだろう。その歩みはゆっくりとしていて、彼女は急がずとも付いていくことができた。

 暫く歩くと、小さな東屋が見えてきた。古びて蔦は這っているが手入れはされているのだろう。中には落ち葉もなく、それなりに綺麗だ。ジュリアスはそこにするりと入ると、長椅子に静かに腰掛けた。アサコが東屋の一歩手前で立ち止まると、いつもの微笑みを浮かべる。

「何か、お訊きになりたいことがあるのでしょう? 姉さん」

 そう言って、隣の席を手のひらで勧める。アサコはその誘いに乗ることはなく、東屋に入ると立ったままでジュリアスを見た。

「お座りになって下さい。ほら、食後のお茶はいかがですか。甘いお菓子もありますよ」

 彼が言う通り、どういうわけか中央に置かれた小さな卓の上には、茶器とお菓子が置かれていた。

「どうして分かったんですか」

「食事の時に何度も目が合いましたからね。これは先ほど用意させました。まだ冷めていないはずですよ……それに、そろそろ来られる頃だと思っていました」

「どうして」

「とりあえずお座り下さい」

 そう言って、自分の隣をとんとんと叩いたジュリアスは、アサコが向かいの席に着くといかにも残念そうな表情を浮かべた。

 アサコは思わず胡散臭いものを見る目で彼を見る。訊きたいことはたくさんあるが、それよりもいざ彼を目の前にすると意気込みも萎み、逃げ出したい様な気持ちの方が勝ってくる。

「アドヴェサス」

「え?」

「彼と顔を合わすのは初めてだったでしょう。驚かれたのでは?」

 その質問で、アサコは彼が先ほど現れたイーヴェの弟らしき黒髪の人物のことを言っているのだと思い至る。ティンデルモンバと初めて出会った時の驚きと比べれば僅かと言ってもいいほどだが、驚いたのは確かだ。以前だったら見慣れていた黒髪も、此処へきてからというもの生きている人間では目にしたことがなかったのだから。

「男の人の黒髪は、不吉なものとして見られるって前に聞きましたけど……」

「ああ、そうですね。彼は以前いた側室の子です。王家の血は引いていません。従者ほどの年齢の頃には迫害を受けたでしょう」

 そうだ。イーヴェは少年従者のことがあったから黒髪の少年は不吉なのだと言っていたのだ。真実の話を知らない民衆たちの間でも、王を殺した人物として伝えられている。閉ざされたこの国では不吉の象徴だ。

 湯気の立つお茶を杯に注ぐと、ジュリアスはそれを差し出した。

「けれど、兄弟仲はそう悪いものではありません。彼は上手く立ち回る術を知っている。さて、姉さん。彼は呪いの被害者ではない。あなたを憎む理由もないのですが、どういう訳かあなたを殺そうとするでしょう」

 ぎょっとしてアサコは受け取りかけた杯を危うく落としそうになった。寸でのところでジュリアスが上から彼女の手を支えたので、お茶は杯の中で大きく揺れるだけに止まる。

 彼は、にっこり微笑むと小首を傾げた。

「一応忠告しておこうと思っただけですよ。あなたは一度気を許してしまうとその人を疑うことはしないでしょう。彼は人当たりが良いですからね。だからと言って、簡単には信じない方がいい」

「……わたしは、死ぬこともあるんですか?」

 アサコは、強張った面持ちで訊いた。今の自分が普通ではないからこそ知っておきたいことだ。

「そうですね。姉さんが今生きているのは、魔法とあなた自身の意思があるからです。例えば、今あなたは酔っているでしょう。少し顔が赤い。先ほどたくさん果実酒を飲まれたからだ」

 目を円くして両手で頬に触れたアサコに、ジュリアスはくすくすと笑いを漏らした。からかう為に言った嘘ではなく、確かに顔が少し赤いのだろう。触れた手の指先にいつもよりも高い熱を感じる。言われてみれば、頭もぼんやりとする様な気もしてきた。

「それです。あなたは自らの記憶に左右されやすい存在だ。あなたは酒を飲んだと思えば酔うし、痛みを感じるはずがなくとも傷つけば痛みを感じる。経験はなくとも、そういうものであるとあなたは知っているからだ。それと同様に、放棄すれば自然と分離する」

 彼は、何と何とがとは言わなかった。それでもアサコは理解する。

 最初はディルディーエの魔法だけで人形の体に縛り付けられていたが、今ではその一つではいけないらしい。アサコ自身の生きる意思がなければ元通りになるということだろう。

 けれど、彼の言うことが正しいのならば、その時の思い込み次第でどうにでもなるとも思える。それをアサコが告げると、ジュリアスは首を横に振った。

「あくまで、無意識の中の意識にですよ。その時の思い込みで何かが変わるわけではありません」

「はあ」

「今までどおりでいればいいのです。特になにかを意識することもない」

 今までどおりとは一体なんだろうか。アサコはイーヴェに拾われてからのことを思った。夢の中にいる様な、緩慢とした意識で全てを見ていた。ティンデルモンバの姿に驚き涙を流したものの、あの時自分の状況がほんの少し分かっただけで、それでも現実感は余り湧いていなかった。その後もそうだ。誰かと会話をし、色んなものを目にしてきたが、全て夢の中の出来事の様だったのだ。少なくとも、彼女はそう感じていた。夢の中でだって、強い感情に支配されることは稀にあるのだから。

「じゃあ、抜けている記憶を知っても、離れることはないんですか?」

 この人形の体から。アサコはあえて口には出さずに問うた。自分の体がラカの人形だと知った時から今まで、はっきりとした実感を持てていない。持ちたくないのかもしれない。はっきりと口に出してはあまり言いたくないと思うのだから。

 人形の体と分かれてしまった時、あの城に溢れる影の様になってしまうのだろうか。そんな不安を心の奥底に押し込めた。

「知りたいですか? あなたが自ら姫君に差し出した記憶を。ほんの数日間の出来事の記憶です」

「……知ってるんですか」

 バサバサと近くから音がして、ジュリアスはアサコから目を離した。警告のように甲高い鳥の鳴き声が響く。アサコは振り返ったが、屋根でその姿は見えなかった。

「知っていますよ」

 ジュリアスは目を細めてアサコを見つめた。慈愛に溢れた表情の様にも見えるが、その目に宿る光りはどこか冷たい。

「白い部屋で、あなたは呪いの言葉を受けた。歪みの城へ落ちてからも、その言葉はいつまでもあなたの中で響いて止まなかった。その言葉をあなたに向けたのは、あなたの母親です」

 目を見開き、無意識に耳へと当てられたアサコの手をジュリアスは掴んだ。風が吹いて、東屋の中にまで落ち葉が舞い散る。

 そんなことはないはずなのに、じわりと汗が出るような感覚がする。

「まだ思い出せませんか? あなたの母親はこう言ったのです」

 耳元で囁かれる言葉に、アサコは動くこともできずにいた。

 ふやふやと柔らかい細長い廊下を案内されるままに歩いた。通り過ぎる人々は通路の脇に退き、お辞儀する。それらの目には明らかな憐れみが篭っていた。目の前の出来事にまるで現実感を感じることができなかった。通された部屋で見た光景を呆然と眺めていた。

 そこへ辿り着くまでも、その後もずっと鮮烈に残っていた言葉がある。

「死にたくない」








 

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