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痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
七章 クレマチスに透ける
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 低く垂れ込めた灰色の空の向こうには、白くぼんやりとした太陽がある。それは薄ぼんやりとした強さで大地を照らしていた。

 美しい油絵が並べられた部屋の中で、捨て置かれた様に横たわる人形を青年の手がひょいと掴みあげる。

 途端、深い沼へと沈んでいく様な感覚がして、青年はその薄い唇で緩やかな弧を描いた。

 光りを透かすと茶色に見える石の瞳と、長い年月が経つというのに今なお艶やかな黒髪、滑らかな白い肌。その人形は、つい先程まで誰かに抱きしめられていたような温かさがあった。

 ふと、これを自分のものにしてしまってはどうだろうという考えが、青年の頭の中に浮かんだ。けれどすぐにその考えを打ち消す。それは危険だ。本当に欲しいものを逃してしまうかもしれない。

 笛の音の様な、甲高い鳥の鳴き声が響いた。その場所には不釣合いな薄紫色の大きな鳥が、天鵝絨(ビロード) 貼りの床にぽつんと置物の様に佇み、じっと青年の動きを眺めていた。その様子に青年は苦笑する。

「あなたのお気に入りに手を出すつもりはありませんよ」

 青年の言葉に反応するでもなく、一定の距離を保ったまま鳥はただじっと彼を見つめ続けた。おそらく青年がこの部屋にやってくるまで、小さな騎士の様に人形を見守っていたのだろう。

 硝子玉のような金色の目がきょろりと動く。もう一度高らかな声で鳴くと、大きな羽根をばたつかせた。

「そうですね。これは兄に返すことにしましょう」

 青年が目を細めて笑うと鳥は大きく羽ばたき、高くにある小さな窓の縁に留まった。そしてそこから人形と、それを持つ青年を引き続き監視した。早く行けとでもいう風に、目玉をくるりと回しもう一声鳴く。

 今となっては見慣れたその鳥の名前を思い出そうと青年は微かに首を動かしたが、思い浮かぶのは知り合いの名前ばかりだった。というよりも、それが知り合いの名前だったか鳥の名前だったかも思い出すことができなかった。もしかすると、どこかで耳にしただけの名前かもしれない。元より名前を覚えるのは得意ではないし、本人はそれを短所だと思ったこともなかった。本当に必要な名前だけ覚えていればいい。

 鳥はよくよく考えてみると、いつも置物の様に静かで、魔法使いの部屋の片隅に鎮座していたのだ。名前を呼ばれているのを聞いたのは数年前が最後だったかもしれない。

 青年は鳥の名前を思い出すことをすぐに放棄して、手に抱えた人形に目線を落とした。艶やかな闇を落としたような長い髪が揺れ、彼の手の上を滑る。手のひらに伝わる温もりが消えることはなく、暫くすれば彼でなくともそれが人形そのものが持つ温かさだと気づけるだろう。

「朝を呼ぶ、か」

 青年が小さく呟くのを鳥は変わらず置物の様に眺めていた。けれど、その目は黒い石の目が一瞬揺らぐのを見逃してはいなかった。

 青年が部屋を出ると、鳥は羽ばたき、音もなくその後を追った。






 呆然と、アサコは見慣れた部屋を眺めていた。

 先ほどまであった少しの安心感は今や消え失せ、心の中では様々な不安や疑念がとぐろを巻き、今にも襲い掛かってきそうな体制で鎌首を擡げている。初めからその様な感情が無ければ、今頃何かの間違いだと思い、その理由を探そうとしていただろう。けれど、それを探す気にはなれなかった。その理由を探してしまえば、もう後戻りはできない気がしたのだ。

 まるで糸の切れた操り人形の様に、アサコは力なく腕を下ろすと、その手に持っていた携帯電話を床に落とした。そしてそれを追う様に自身も膝をつく。

 カチカチと響く時計の秒針に、窓の外から微かに聞こえてくる騒音は、その時やけに大きく感じられた。見慣れた筈の部屋の中、視線を彷徨わせる。部屋の中にあるものは、そのどれもが何かしらの思い出がある物だった。けれどその時、それらを目にするアサコの心に浮かんだのは、思い出などではなく強い疎外感だった。

 だめだ、と心のどこかが強く叫ぶ。けれど何がだめなのか分からない。

 ふと、机の上に置かれた小さな置物にアサコは焦点を止めた。手のひらに収まるほどの、白い鹿の置物。それは、ラカに持って行かれてしまった筈のものだった。けれどじっと見てみると、大きな角と後ろ足の一本が折れてしまっているのが分かった。接着剤で繋いだあとが残っている。

 アサコはゆっくりと瞼を下ろした。とろりとした闇に視界が遮られると、ほんの少しだけ気持ちが落ち着く。そして、両耳に手のひらを当てた。

 世界を遮断する方法を彼女に教えたのは、彼女の祖母だった。

 本当に怖いことがあってどうしても我慢できなくなった時は、こうしてゆっくりと呼吸をするの。

 降り懸かってくる現実は変わらない。けれどそうやって心を落ち着ければ、次に目を開けた時に現実を迎え入れる心の余裕を作れる。

 祖母はそんなことを言っていたかもしれない。けれど、いつからかアサコはその理由を変えて、そうするようになっていた。現実を遮断する。耳を塞ぎ、目を閉じる。瞼の裏にある安寧に身を委ねる。

 これは夢だ。足に触れる床の冷たさは本物なのに、アサコはそう思った。すると、ふと体が落下するような感覚に陥る。その感覚を彼女はよく知っていた。それは、とても悲しいことがあった時のことだった。目を閉じて耳を塞いだ。柔らかな闇に身を委ねた。そして、魔女と出会った。

 からっぽだった彼女に名前をつけたのは、魔女(ラカ)だった。魔女は彼女にいくつもの魔法を掛けた。その魔法は彼女に与えると同時に、真実を奪っていった。だから、真実を取り戻すと同時に今度はその魔法たちが逃げていく。

 そのことに気付くと、アサコは恐怖を感じた。全ての魔法を失くしてしまった時、自分がどうなるのかが分かってしまった。自分もいらなくなってしまったものだと知ったから。きっとアサコがあの仄暗い城にいたのは間違いではないのだろう。此処はもはや彼女の場所ではなくなってしまったのだから。

 微かに、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がして、アサコはその声に惹かれた。愛情や親しみも篭らないものなのに、心細さからその声にどうしようもなく縋りたくなる。そこに感情など、必要ではなかった。大切なのは、たった今、彼女の名前を呼んだという事実。

「アサコ」

 彼女は呼ばれた名前を復唱した。魔女が付けてくれた、その名前を。






 城の回廊を歩いている最中に弟が持ってきたそれに、イーヴェは僅かに眉を顰めた。

 人形だ。白い陶器の肌に、僅かに茶色く透ける黒い石を目として嵌め込まれている。長く黒い髪は艶やかで、それは魔女を思い起こさせた。そして、それはなによりもアサコとよく似ていた。

「なんて顔をするんです。お探しの貴方の花嫁ですよ」

「……魔法使いは、人を人形の姿にも変えることができるのか」

 ジュリアスは微笑むだけで、それには答えなかった。

 その様子にイーヴェは苦笑する。相変わらず血の繋がった弟ながらジュリアスは何を考えているのかわからない。しかし彼らの仲は良好と言ってよいものだった。五人いる兄弟の中では特にだ。

「人形を花嫁に迎えては、頭が狂ったと思われてしまう。どうやったら人の姿に戻るのかな」

「朝露を三粒、唇に落とせばいいのです。そうすれば彼女は目覚めますよ」

「朝露か……それだと朝まで待たないといけないという訳か。けれど明日の朝には出発なんだ。他に方法は?」

 ジュリアスは目を細めた。楽しげなその瞳に悪巧みの気持ちを見出だしたイーヴェは、笑顔を崩さず、促すように小首を傾げる。

「口付けを。朝露の代わりに口付けをすれば、彼女は人の姿になる」

 その馬鹿馬鹿しさに、イーヴェの眉が微かに動く。

 魔法を解く方法は、その魔法を掛けた魔法使いに委ねられている。最初にその魔法を解く鍵を設定しておくのだ。だから、彼がアサコを人形にする魔法を掛けたのであれば、解き方を知っているのは間違いないが、その口から出る言葉が間違いないとは言い切れない。

 良好な仲を築けているとは言っても、イーヴェは二番目の弟を信用していなかった。彼は魔女の様に言葉にほんの少しの真実を混ぜて、他を覆い隠してしまう。それが例え兄弟が相手であってもだ。

 魔法使いは嘘を吐かない。けれど、人間である魔法使いの弟子は嘘を吐く。

 とはいえ、試してみるぐらいならいいだろう。何も心臓を差し出せと言っているわけではなく、小さな唇に口付けをと言っているだけなのだから。

「ああ、けどその前に彼女を寝台に寝かせてあげてください。丁重にね。陶器の肌が割れてしまっては大変ですから」

 どこまで本気なのだろうか。やはりイーヴェはその判断ができずに、とうとう眉を顰めた。

 どちらにしても、ジュリアスが抱える人形が本当にアサコであれば人の姿に戻さないわけにはいかない。

「それよりも先に、それは本当にアサコなのか?」

「ええ、間違いなく。触れてみてください。そうすれば僕の言うことが本当だと解りますよ」

 弟に促されるまま、イーヴェはその人形の頬に触れた。すべすべとした陶器の感触はなんら変哲もないが、それは僅かな熱を孕んでいた。人であれば心臓があるだろう場所に指を押し付けてみれば、とくんとくんと微かに脈打つ感覚がした。おそらくそこにあるものは、鳥の心臓ほどの大きさだろう。

「なるほど。生きている様だね」

 驚いた様子もなく、彼はさらりと言う。微笑む弟に手渡された人形をまじまじと見つめた。緑色の柔らかな素材の子供服を着せられたそれは生きているにしては軽く、そこに命があるのかと彼に疑いの念を抱かせるほどだった。

 後から様子を見にくると言って姿を消してしまったジュリアスと入れ替わる様に、少し離れた場所で二人の様子を見ていた従者の青年が、イーヴェのもとまでやってくる。

「どうされますか」

「弟の言う通りにしてみよう」

 イーヴェが戻ると、侍女や従者たちは不思議そうな顔をした。それも仕方のないことだった。花嫁を捜しに行くと言って部屋を出た王子が、花嫁ではなく花嫁に似た人形を持ち帰ったのだ。その光景はさぞ彼らの目に奇妙な光景として映ったのだろう。けれどイーヴェが平然としているのを見ると、誰も口を挟めなかった。

 イーヴェは従者の青年に人払いさせると、人形をそっと寝台に寝かせた。

「アサコ?」

 確かめる様に名前を呼ぶが、人形は動く気配もない。ただ、その温度は失われることはなく、瞳は思考を持っているように静かに煌めいていた。

 そっと小さな唇に唇を合わせると、柔らかな体温が伝わってくる。窓の外からその様子をじっと眺めていた大きな鳥が、高らかに鳴いた。

 次の瞬間、瞬く間に人形は人に変わった。そのしなやかな手が伸びて、イーヴェの服を掴む。縋るようなその仕草に、イーヴェは驚いた様に目を大きくしたもののすぐにその顔に甘やかな笑みを浮かべた。

 開けた茶色く透ける目から、一筋の涙が零れる。何かを呟く様に、薄く開いた口が微かに震えた。

「アサコ」

 イーヴェが囁くように呼ぶと、アサコは泣き出しそうに顔を歪めて彼に抱きついた。

 暫くして喉を鳴らして泣き始めたアサコを宥める様に、イーヴェは細い背中を撫でる。小さな子供の様に泣く彼女は、それでも声を殺しているようで、時折小さく唸った。

「そんなに怖かった? 人形になるのは」

 その言葉に、アサコはびくりと身体を震わせる。イーヴェはその反応を肯と受け取り、小さく笑った。

 恐る恐るといった様子で体を離したアサコは、戸惑いを浮かべた顔でじっと伺うようにイーヴェを見つめる。イーヴェは笑みを浮かべたまま、涙の伝う彼女の頬を親指で撫で、小首を傾げる様な仕草でアサコの顔を覗き込んだ。

「弟が酷いことをしたね。あとで謝らせよう」

 疑問の言葉を吐きそうになったアサコは、ひくつく喉のせいでしゃくりあげるような声しか出せなかった。何かが食い違っているようだとその時ようやく気付く。イーヴェはアサコが元から人形であったことを知らない様な口ぶりだ。寧ろ、人であったのに魔法で人形に変えられたと思っているようだった。

 弟とは、ジュリアスのことだろうか。真っ先に思い浮かんだ顔に、アサコは微かに眉を顰めた。おそらく、彼は魔法使いの弟子である一人目の弟が、アサコを人形に変えてしまった犯人だと思っているのだ。それだと合点がいく。

 けれど、アサコはその誤解を晴らそうとは思わなかった。目の前の青年に、自分が人形だとばれてしまうのがどうしようもなく怖いことの様に思えたのだ。なにも彼が自分に特別な感情を、例えば愛情な様なものを抱いてるとは到底思えなかったし、寧ろ彼の中での自分への感情は、とても良いものとは言い難いものだと、アサコ自身感じていた。けれど、最近は人として見られている様な気がしたのだ。それがいつからなのか分からないが、今では、確実に。

 彼の弟で魔法使いの弟子であるジュリアスは、彼女を人形と知っていて、その様に接してきているようだった。だから、苦手なのかもしれない。態度や言葉は甘く柔らかいものだが、彼は言外に彼女を諭すのだ。お前は人形だ、と。それは被害妄想なのかもしれない。けれど、彼女はそんな風に感じていた。

 涙は中々止まってくれず、彼女の意思と反して流れ続けた。ひくひくと喉を鳴らしながら泣いていると、目の前の顔が苦笑を浮かべる。

「君はよく泣くね」

 反論しようとして、アサコは口を噤んだ。その声と顔は馬鹿にするものではなく、優しさを感じられるものだったから。それに、彼の言うことは間違いではない。アサコは此処へ来てからというもの、以前より沢山泣いている自覚があった。特に、彼には泣いている姿を殆どその度に見られてしまっているのだ。今更反論のしようもない。

 またひとつ、真実を取り戻してしまった。帰りたいと思えなかったのは、彼女に至ってはおかしなことではなかったのだ。あの場所は、彼女の帰るべき場所ではなかった。そもそも、彼女に帰るべき場所など始めからなかったのだ。アサコはそれに気付くと、途方もない寂しさでどうすればいいのか分からなくなった。本当のことを一つ知ったというのに、魔法が逃げた様子はない。いっそ、全ての魔法が解けてしまえばいいのにとも思うが、それがとても怖ろしいと思ってもいる。

 止め処なく涙を流し続けるアサコの頬に、イーヴェはそっと口付けた。その唇は、目尻、額とゆっくりと移動していく。アサコはぎょっとして身を固めた。それは優しさを感じられるもので、決して不快なものではなかったが心臓が大きく鳴りはじめる。顔に熱が集中する。

 俯いたアサコの(おとがい)に手を当て、イーヴェは彼女を上向かせるとその顔に笑みを浮かべ、小首を傾げた。

「泣き止んだ」

 ひくっと最後に一度喉が鳴り、アサコはその言葉で自分が泣き止んでいたことにようやく気付いた。現状に、真実を知った悲しみも一瞬遠のいてしまったのだ。再び涙を浮かべることはなかったが、胸にぽっかりと穴が開いたような空虚な気持ちになった。

 あれは、夢だったのだろうか。本来、アサコのいるはずの場所。アサコの家。学校への道のりに、白い校舎。車の走る音、学生達の笑い声。青空の下、花々に囲まれた祖母の家。いつも柔らかな笑みでアサコを迎え入れた祖母。家にいれば、遅くとも母親は帰ってきた。いつも草臥れた様子で玄関の戸を開けるとアサコの名前を呼んだ。アサコはそれに呆れたふりをしながら言うのだ。おかえりなさい、と。

 それらの光景がとても遠いもののように感じられた。まるで全てが幻だったのではないかと思ってしまうほどに。けれど、それらの儚い記憶は彼女の胸を痛いほどに締め付けた。

「アサコ?」

「青い空って、想像できます?」

 気付けばアサコはそんな言葉を口にしていた。そこには皮肉もなにもない、純粋な疑問だけが滲んでいた。見たこともないものを人は想像できるのだろうか。

 イーヴェは苦笑した。

「少しは。けど、やっぱり想像の範囲でしかないな。昔、外から画家が持ってきた絵は見たことがあるよ。藍青石(らんせいせき)から抽出した顔料で色塗られた空は、美しかったことを覚えてる。子供頃のことだけど、今でもはっきりとね」

 何処か遠くを見るような目で、イーヴェはアサコと目線を合わせながら言った。それは幼い子供が憧れを抱く様の様にも見えて、アサコは思わず彼の様子に見入った。

 当たり前に目にしていた青い空を思い出す。時たまその色を意識して感動することもあったが、普段それは当たり前の光景として日常に馴染んでいた。曇り空や雨雲も嫌いではなかった。刻一刻と変化していく空を見ることに時折楽しみを感じることもあったのだ。

 けれど、此処の空はいつも曇り空。昼と夜はあるものの、その変化のなさはまるで時間を止めたかの様な奇妙な静けさがある。

「その絵は」

「父が焼き捨てたよ。そんな空を見れる画家への嫉妬か、子供に余計な憧れを抱かせないためか、多分色んな理由があったんだろうけど、父は魔女の呪いをその時にはもう諦めて、受け入れていた。子供心に酷いことをすると思ったな。その絵は間違いなく素晴らしいものだったし、もう一度見てみたかったから」

 父という言葉にアサコは思わず瞬きした。イーヴェの父と言うことは、緑の天蓋の王だ。今まで話には少しだけ聞いたことはあったが、未だ見かけたことさえない。彼の母にしてもそうだった。イーヴェたち兄弟を思えばさぞ美しい人だろうと予想できるが、どのような人かまでは想像もできない。

 少なくとも、アサコはイーヴェの話を聞く限りでは王様は少し怖い人なのかもしれないと思った。呪いを諦めて、イーヴェが美しいと言った絵を燃やした王様。

 ぼんやりと考えていると、ふと笑い声が耳元で聞こえ、アサコはぶるりとその身を震わせた。次いで耳たぶを食まれ「いっ」と色気のない声を発っし、耳を押さえながら咄嗟に後ずさる。

「なにするんですか!」

「残念。誘われてるのかと思った」

 そう口にする割りには残念そうな表情を露とも見せず、彼はさらりと言った。アサコはその飄々とした顔を信じられないものを見るような目でまじまじと見た。慰めてほしいなどとは思わないが、先ほどまで喉を引きつらせるほど泣いていた相手に、その態度はないのではないかと思ってしまう。お陰で本当に涙は引き切ってしまった。

 アサコはぐいぐいと目の前にいるイーヴェの胸を押しやって、なんとか彼を寝台の上から押しやると、あろうことかくすくすとその様子を見て楽しんでいた彼の顔を睨んだ。

「君が見た空はどんな色だった?」

 その言葉と表情に毒気を抜かれて、今度は間抜けな顔をしてしまったことにアサコ自身気づけないでいた。

 ころころと表情を変える彼女に、イーヴェは内心苦笑した。彼女が本当に魔女の使いだとしたら、とんだ手練か間抜けかだ。そんな彼の考えを読んだかの様に、アサコは唇を尖らせる。

「……色々です。青かったり、日が沈む頃には橙色にも紫色にもなるし、季節によって雲の形も変わるし」

 口にしてみて、それらが素晴らしいものだったのだと今更ながらに気づく。緑の天蓋の空を見続けると、あれは本当に奇跡の様なものだったのだとさえ思えた。青空も、星空さえも彼は見たことがないのだ。

 見せてあげたい、と自然とそんな考えが彼女の中に浮かんでいた。おそらくイーヴェはまだそれを諦めていない。弟の復讐という目的も、この国を出てみたいという気持ちも、色んな理由があるだろうが、曇り空ではない晴れ渡った空を見てみたいという憧れも彼の中にはあるのだろう。アサコにはそんな風に感じられた。

 あまりにも自然な気持ちだったので、彼女は気づかなかった。それがあの仄暗い城で目覚めてから、初めて抱いた感情だったということには。









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