39
人工的な明かりに照らされた細長い道を、前を行く白い布に釣られる様に、早歩きで行く。
地下だからか、空気が篭っている様だった。
通り過ぎる人々は通路の脇に退き、お辞儀する。それらの目には明らかな憐れみが篭っていた。けれどその目線を一身に受ける少女にとって、それらは風景の一部でしかない。硬質な音を立てる床はふわふわと柔らかく軟体動物の様で、目に映るものは通り過ぎていくただの景色だ。意識は緩慢としているというのに、足だけが別の生き物の様に先を急ぐ。
少女は知っていた。目に映した途端に、それは現実のものとなって降りかかってくるということを。
目を閉じ、耳を塞いだとしても、それは防ぎようのない事実なのだということを。
けれど本当にそれを理解したのは、その先にある小さな部屋に入ってからのことだった。
画廊を出た時、ふと人の気配を感じてアサコは視線を彷徨わせた。大きな支柱の立ち並ぶ広い回廊は、しんっと静まり返っていて、人がいる様子はない。人が一人でもいれば、足音が響きすぐに分かる。
気のせいだったのだろうと振り返ると、そこにいたはずの侍女の姿がなかった。開いたままの画廊の扉の中を覗き込んでみるものの、やはり見当たらない。
「サリュケ……?」
呼んでも返事はなく、その声だけが広い空間に響く。アサコは眉を顰めた。
また何か良からぬ現象に遭っていることは、彼女にも簡単に予想できた。
高い天井近くまで続く大きな窓からは、ぼんやりとした日の光が差し込んでいる為、室内はまだ明るい。それでも、人の気配がないことはこんなにも不気味なのだと、思わず周囲を見渡す。ふと、まだ幼かった頃、忘れ物を取りに一人で放課後の教室に行った時のことを思い出した。まだ日も暮れぬ明かりのなか、見慣れた場所でさえ心がざわつく様な微かな怖れの感情を抱いたのだ。昼間でも薄暗いこんな城の中で一人でいて、怖ろしさを感じない訳がない。それに、こういうことがあるといつも何かしら嫌な感情を引き起こす出来事がある。
薄暗い回廊と比べると画廊の中の方が明るかったが、アサコは再び一人でその部屋に入る気分にはなれずに一応もう一度だけ侍女の名前を呼び、返事がないことを確認すると重い扉を閉めた。
とりあえず外に出た方がいいのかもしれない。外が安全で怖ろしくないとは言い切れないが、閉鎖された空間でいるよりは幾分かましな様な気がして、アサコはもと来た道を一人歩きだした。サリュケに何かがあったとは考え難かった。意識してみると、先ほどまであった鳥の囀りさえも聞こえてこなくなっていたのだ。どちらかというと、アサコの方がいなくなった方なのだろう。
無音に近い状態の中歩くと、その足音は異様に大きく響いた。自身の足音に怖気づきそうにもなったが、いつも襲ってくる強い恐怖は感じられなかった。頭の中は妙に冴えていて冷静さを保てている。けれどこの異常さに対する怖気は止められない。
「なにがしたいの」
ぽつりと呟く。答えを期待してのことではなかった。彼らはいつも一方的に思いを伝えてくるが、アサコの疑問に答えることは殆どないのだ。だから、アサコは未だにラカの真意さえも知ることはない。
代わりに泣いて。その言葉は本心からの言葉だったのだろう。けれど、それだけではない。彼女には、アサコを動かすもっと大きな理由があるはずなのだ。復讐、という言葉が思い浮かぶ。けれどアサコにはその方法が分からないし、もし分かったとしても出来そうにはない。復讐の仕方など、分からない。
ふとアサコは足を止めると、後ろを振り返った。一瞬、目の端に何かが動くのが映った気がしたのだ。
そして、それは彼女の気のせいなどではなかった。大きな支柱のもとに、一匹の大きな兎がいたのだ。その兎は、円らな瞳でアサコをじっと見つめていた。以前、同じ様な大きな兎を追いかけた時にはあの黒髪の少年と出会ったのだが、その兎は薄茶色だった。今いるのは艶やかな黒い毛皮を身に纏った兎だ。ちりりと何かが記憶の端を掠める。頭の中に浮かんだのは、何故か母の顔だった。
兎は誘う様にアサコの方に少しだけ近づくと、今度は背を向けて跳ねていく。アサコは一瞬躊躇したものの、その誘いに応じた。
兎は時折アサコがちゃんと付いてきているかを確認するかの様に、足を止め振り返った。そして音も無く再び跳ねる。
そうだ、音がないのだ。回廊に響くのはアサコ一人の足音だけで、ぴょんぴょんと跳ねる兎の方からは何も聞こえてはこない。そしてその割に先に進むのは早く、アサコは小走りに兎を追いかけた。
その女の子は、兎を追いかけたのよ。
そう母が言ったのは、アサコがまだ幼いころ、枕元でだっただろうか。そういえば、あの小さな鹿の置物はまだラカが持っているのだろうか。目の前の兎を追いかけながら、アサコはなぜかそんなことを考えていた。
それほど早く跳ねている様には見えないが、なかなか兎には追いつけない。むしろその姿は少しずつ遠ざかって行くようだった。回廊を抜けると、今度は長い廊下が続く。兎はふいに並んだ扉の一つ、薄く開いていた扉の中に入っていった。先程案内してもらった、博物館の様な部屋だ。
ふと我にかえると何の為に追い掛けているのか分からなくなったが、こうなったら意地だ。もう結構な距離を追い掛けた後で、僅かに息も切れ始めている。アサコはそっと扉の中を覗きこんだ。やはりそこにも人の気配はなく、先程入った筈の兎の姿も物陰に隠れてしまっているのか、見当たらなかった。
少し戸惑ったものの、アサコは足を踏み出した。すると、パンッと硝子が弾ける様な音が響き、瞬く間に彼女を囲む光景が変わった。その変化に頭がついていかず、アサコは瞬きすることさえ忘れて唖然と立ち止まった。いつもの夢だろうか、と自身の目を疑ったが、その身に感じる風も、聞こえてくる音も本物だ。夢ではない、と感覚が告げている。
そこは、彼女にとってよく見慣れた場所だった。
マンションの細い道、彼女の家がある五階の廊下だ。強い風で左右に揺れる黒髪が、その光景を見ることを邪魔する。遠く、近くから車が走り去る音が聞こえてくる。ぼうぼうと、耳の中で風が唸る。
アサコはのろのろとした動作で自身の体を見下ろした。黒のブレザーにチェックのスカートと、いつの間にかその身は従者の姿ではなく、制服に包まれていた。肩には学校指定の学生鞄を掛けている。やはり、これは夢なのだろうか。
青く広がる空では風で雲が走り、立ち並ぶビルや住宅の棟の窓は鏡の様にその空を映し出していた。柵の間から下を見下ろせば、アスファルトの道路を自転車に乗った青年が通り過ぎるのが見えた。
当たり前の光景。アサコにとって現実的で見慣れた光景。それを目にすると、つい先程まで見ていたものが夢だったかの様に思え、その気持ちはあっという間に膨らんだ。
兎の従者に羊の召使い、国に呪いを掛けた魔女に少年魔法使い、蜂蜜色の髪の王子様。そんな御伽噺の様な人たちや場所など、現実的な景色の前では瞬く間に薄れてしまう。
アサコははっとした様子で、殆ど走る様に歩き出した。同じ扉が等間隔で立ち並ぶなか、一つの扉の前で立ち止まる。その扉の上には『TUDURA』と表示された表札が掛けられていた。間違いない。やはりそこはアサコの家だった。
ドアノブに手を掛けると、ガチャリと引っかかる音がした。こんな明るい時間帯に母が家にいるわけないとようやくそこで思い至ったアサコは、肩に掛けていた学生鞄からカードキーを取り出し扉を開けた。
どきどきと心臓の音がいやに鳴る。嬉しいのか不安なのか、アサコはその瞬間自身の感情を知ることさえできなかった。
玄関に入ると、アサコは懐かしさと同時に違和感を感じた。何かが違う気がしてふと足元を見れば、そこには男物の靴が置かれていた。母子家庭のため、家に男物の靴が玄関に並ぶことは滅多にない。けれど、それはアサコにとって見慣れたものの一つだった。くたりとした編み上げのショートブーツは叔父が昔から愛用していたものだ。
叔父が来ているのだろうかとアサコは小首を傾げたが、家に人がいる気配はない。けれどまさか靴も履かずに叔父が帰る訳もないだろうから、もしかするとリビングのソファででも寝ているのだろうか。
そう思い、アサコはなるべく音を立てない様に靴を脱いだ。叔父は寝起きが悪い。その割に些細な物音でも目を覚ましてしまうのだ。機嫌が悪くなるわけではないが、無理に起きた時の叔父の様子は見ていて可哀想になるほど眠そうなので、アサコは小さな頃からずっと叔父だけは起こさないようにと気を使っていた。母は別である。姉弟揃っての低血圧で、寝起きがすこぶる悪いのだが、彼女はアサコに甘えているふしがあった。それを知っていたアサコは、必要であれば叩く勢いで母を起こしていたのである。
ゆっくりと廊下を歩きながら、冷たい壁に触れる。先程から大きく鳴る心臓にも、アサコは微かな違和感を感じていた。どうして家に入ったのだろうとふと思い、その疑問にも違和感を感じた。
あの場所とは違い、小さな頃からの慣れ親しんだ場所なのに、懐かしさを感じながら様々なことに違和感を感じる。例えばこの靴下越しに感じるフローリングの冷たささえ、今の彼女にとっては違和感の対象になっていた。まるで、此処は自分の居場所ではない様な心細さも感じた。
開いたままのリビングの扉から中を覗き込む。ソファに寝そべる叔父の姿を想像していたのだが、その予想が外れていたことにアサコは小さく肩を落とした。誰かに会いたかったのかもしれない。現実的な光景に、決定打を与えて欲しかったのかもしれない。
母の声が聞きたいと霧消に思い、アサコは学生鞄から携帯を取り出した。母の携帯に電話するのは、本当に止むを得ないことがあった時だけだ。まだ幼かった頃でさえ、声が聞きたいからと電話を掛けたことはなかった。それでも、この時彼女はそんなことを考える前にボタンを押していた。
電子音が耳の中で響く。けれど、そのすぐあとでアサコの予想もしていなかった声が聞こえてきた。
『お客様のお掛けになった電話番号は現在使われておりません』
え、とアサコは思わず声を漏らした。番号を手打ちした訳ではなく、登録されていた番号に掛けたのだ。番号を変えたとしても、母は真っ先にそれをアサコに伝えているはずだった。繰り返し聞こえてくる声に、アサコは呆然と立ち竦む。繰り返される女性の声を数回聞いたあとで、ふとパソコン机の横に貼られたカレンダーに目をやった。
十月。そういえば、あの不思議な場所へ行く前は何月だったのだろうか。年数を見れば、それは此処での最後の記憶の時と変わりなかったので、少なくとも何年も居なかったことにはなっていないのだろう。
そもそも、制服を着て、学生鞄を持って、廊下で何をしていたのだろうか。もし夢を見ていたにしても辻褄が合わない。そして、そのカレンダーには予定がみっちりと書き込まれていた。それは母とアサコとの習慣だった。母は仕事で遠出する時や飲み会がある日などは必ずそのカレンダーに書いていたし、アサコも友達との約束があれば誰と遊ぶなど事細かに書いていた。けれどアサコはそのカレンダーにも違和感を感じた。母の字ではない。海外や地方の名称が書かれ、一週間、もしくは数日矢印が引かれているところを見ると、それがどこかでの仕事の予定なのだと知ることはできたが、少し丸みのある母の字とは違い、美しいが角ばった字でそれらは書き込まれていた。見覚えのある字だが、明らかに母のものではない。
アサコは微かに震える指で、祖母の名前を探し、その番号に掛けた。のろのろと廊下を歩きながら、自分の部屋の扉を開ける。そこは以前と変わりのないままだった。大人になっても使えるようにと祖母が小学校入学の時に買ってくれたこげ茶色の木の机に、生成り色のカバーを掛けられたシングルベッド、古びた本棚に小さなテレビボード。カチカチと秒針の進む音がする壁掛け時計。
数回電子音が鳴った後で電話に出る音がする。アサコがほっと息を吐いたのも束の間、再び先ほどと同じ無機質な女性の声が彼女の耳に届いた。
「いなくなった?」
静かな声に、金色の髪を結い上げた美しい侍女は深く頭を垂れた。
「申し訳ございません。微かな魔法の気配を感じたあと、お姿を消してしまわれたのです」
押し込めてはいるのだろうが、その声からは悔しさや焦りが滲み出ていた。
布張りの椅子に腰掛け、その肘掛けに頬杖をついたイーヴェは小さく首を傾げた。目の前の侍女が言うことは事実なのだろう。彼女は嘘を吐かない。彼がすぐ嘘を見破ってしまうことを知っているからだ。魔女の殆どが真実を嘘に織り交ぜあやふやに仄めかすなか、彼女は希少な存在と言えるだろう。イーヴェはそんな彼女を気に入っていた。信用に足る人物だと。彼女の賢さや魔法は、できるものなら手元に置いておきたいものだ。
そんな彼女がアサコがいなくなったという報告を持ってきたのは、彼が兄弟たちと城に戻ってきてすぐのことだった。
「ラカの仕業かな?」
明日の予定を訊く様な軽やかな声に、サリュケは一瞬口を噤んだ。
魔女が魔女のことを言う時には、制限が設けられている。魔女は他の魔女のことをべらべらと他人に喋ることはできないのだ。情報は大きな力を持つ。だから彼女達、魔女は多くの秘密を持っていた。その姿を殆ど人前に現さない者さえいるのだ。
魔女の殆どは、その人生のなかで大きな障害にぶつかった者達だった。それ故にとても臆病で、賢い。けれどその異質な力やそれを手に入れる為の行動は忌み嫌われ、遠い昔から差別の対象になってきた。時には迫害を受けることもある魔女たちは、いつしか自分たちに関わる真実を隠す様になったのだ。
「……いいえ、殿下。あれは、いつもアサコ様に纏わりつくものとは違うものでした」
「サリュケ、疲れてるんだ。悪いけど、回りくどい話しをしている気分じゃない」
柔らかな口調と笑顔で言われた言葉に、サリュケではなくイーヴェの後ろで控えていた従者の青年が青い顔をした。頼むから早く知っている情報を話してくれとでも言う風に、彼女に強い視線を送る。
「ミケルカ」
「はっ」
急に名前を呼ばれて、青年はぴんと背筋を伸ばした。
「城内と、この付近を隈無く捜させるんだ。いいね?」
「承知致しました」
従者の青年はつい先ほどの恐れなど微塵も感じさせない、きびきびとした動きで礼をした。
この空間から出られることに安心を覚えたのか、強張っていた顔からは幾分力が抜けている。青年はイーヴェの視線が外れるともう一度敬礼し、そそくさと部屋から出て行った。部屋に残るのはイーヴェとサリュケ、もう一人後ろに控えていた青年だけだ。出ていく青年にちらりと視線を向けたものの、こちらの青年は落ち着いた様子だった。表情を変えることなく、置物の様にじっと立っている。
一見穏やかに見えるイーヴェの様子は、慣れた者からしてみれば迫力のあるものだった。ぴりぴりと苛立っている。それが何に対しての苛立ちなのか判別をつけることは難しく、サリュケは洩れそうになったため息を抑えた。少なくとも、綻びを見つけることができなかったことに対しての怒りではないだろう。彼は最初から綻びなどないことを知っている。それでもなお毎年の様にこの旅に出るのは、恒例の行事と化しているからだ。国民の生活を見て回るいい機会でもある。
「水鳥の姫ですわ、殿下」
「……へえ? どうして、水鳥の姫がアサコに関わってくるんだい?」
微かな好奇心を滲ませた声で、イーヴェは尋ねた。
「それは私にもわかりかねます」
「彼女を返してくれるかな?」
まるで自分のものの様に言う王子に、サリュケは微かに眉を顰めた。そして、従者の青年の表情が微かに動くのを彼女は見逃さなかった。
イーヴェにとってのアサコという少女の存在は、重要でありながら取るに足らない、紙一重のものだということにサリュケは気付いていた。いれば重要な手掛かりにもなるかもしれないので手元に置いておくが、いなければそれはそれでいいと思えるような存在。おそらくその程度にしか思っていないのだろう。
その存在にすでに情を抱きはじめている彼女からしてみれば、そんなイーヴェの考え方は決して好ましいとは思えないものだった。だからと言って、それを嫌悪する訳でもない。
「心配してるんだ。彼女は俺の花嫁だからね」
サリュケの心を読んだかの様にイーヴェは言う。サリュケは今度はあからさまに顔を顰めた。
「お疲れなのではなかったのですか? ご冗談を仰る余裕がおありなのでしたら、城の者たちと共にアサコ様をお捜しになられた方が良いのでは?」
その言葉に、イーヴェは苦笑すると肩を竦めた。
「魔性の者は同じ魔性に惹かれるのかな。魔法使いといい君といい、あの子に少し情を抱きすぎている様に思うのだけど」
「この際ですからはっきりと申し上げますが殿下、あの方は魔女ではありません。お気づきでしょう? ラカ様と関わりを持っていたとしても、あの方は普通の人の子なのです」
イーヴェは仄かな笑みを浮かべるだけで、言葉を返すことはなかった。肘掛けに置いた手の指先で、トントンと肘掛けを叩く。
「それは気付かなかったな。君はいつから知っていたのかな?」
サリュケは口を噤んだ。ここからは慎重にいかなければいけない。今、アサコは彼の保護下にいるが、それも彼の意思次第で変わる。アサコには知らされていないが、まだ彼女が花嫁として迎え入れられたとは公表されていないのだ。城下町で噂の的になっていることは確かだが、公表されない限り、それはただの噂でしかない。もしアサコの身になにかがあったとしても、なかったことにされるだけだ。王子達は困ることはないし、上手い具合に物語の続きを作りあげ、それを伝えるのだろう。
つまり、そういう曖昧な存在なのだ。アサコという少女は。
もし彼の保護を失ってしまえば、他の王子たちに殺されてしまう可能性が大きくなる。疑いは晴れないだろう。ラカの気配をその身に纏う彼女を、呪いを受けた彼らがラカだと疑ってしまうのは仕方がないことなのだ。イーヴェが公表していないとはいえ彼女を花嫁として迎え入れてしまったせいで、他の王子たちは今のところ彼女に手を出せない状況だ。アサコを疑う者たちは、第一王子が何を考えて彼女を迎え入れたのかと、様子を伺っている。
「最初からですわ、殿下。魔女は他の魔女の気配に敏感です。彼女自身が魔女でないことは一目見て判りました」
けれど、とサリュケは一息置いてからそう呟いた。
「ラカ様の気配をあの方が纏っているのも事実です。殿下、アサコ様をどうなさるおつもりなのですか」
「言っただろう、彼女は俺の花嫁だ。ただ傍においておきたいと思うだけだよ、花嫁としてね」
相変わらずその顔に穏やかな笑みを浮かべながらイーヴェは優雅な仕草で立ち上がると、その笑みを深めた。
彼女が魔女かどうかなど、実のところさして重要ではない。大切なことは、ラカとどのような関わりを持っているのかだ。魔女の呪いを解く鍵となるのか、魔女への復讐に使える人物なのか。
ただの巻き添えの少女であれば、可哀相ではあるが、利用しない手はない。長い年月のなかで、彼女の様な存在が現れたのは初めてのことなのだ。
それは大きな変化だった。王子たちはもの心がついた時からラカの存在や呪いを理解し、諦めてきた。長い時の間に呪いを掛けた魔女に心酔するものさえいた。何度も夢で見る美しい少女の姿に心を奪われたのは、イーヴェやその弟も同じだった。
イーヴェが弟の死に触れて一番始めに知ったのは、怒りではなく恐怖だった。それまでは、夢の中に出てきていた少女と語り伝えられる呪いの魔女とは頭の中で上手く繋がっていなかった。彼女はそんな酷いことをする娘には見えなかったのだ。
自身の半身とも言える兄弟の悲惨な死は、まだ幼い彼に受け止めきれるものではなかった。皮肉にも魔女の呪いによって出来た檻はこの国を守り、他国の戦争に巻き込まれることもなくここ数百年を過ごしてきたのだ。その間、内乱が起こるでもなくこの国は平和であり続けた。時には不穏な事件が起こることもあったが、この国の人々にとって死とは悲しくも穏やかなもので、殆どの場合が他人の手によって与えられるものではない。それは王子たちにとっても同様のことだった。人の死は非日常なもので、すぐ隣りにあったとしてもどこか遠いもののよう。その瞬間だけ、音もなくすぐ身近に忍び寄り、命を奪っていく。
彼の弟の死は、王子たちに衝撃を与えた。それまでは誰もが魔女に仄かな恋心の様な感情を抱いていたのだ。今思えばそれこそが異常だったのだと言えるが、当時、誰もがその現実を現実として受け入れることが難しい状態だった。
時折外からこの国にやってくる者もいるが、その者たちは貴重な情報源だ。大切な客人として迎え入れられる。そんなことを繰り返しているうちに国の噂は広まり、今ではこの国は外の者たちから理想郷の様に扱われているらしい。なかなか辿り着くことのできない、不思議な土地。実り豊かな土地に争いごとも知らない人々。
国交が途絶えたわけではない。もし呪いが解けたとして、侵略されてしまえば終わりだ。この国に呪いが掛けられた頃から、近隣の国との友好条約を結んできた。使者の行き来はずっと行われてきたことだった。彼らは外の情報を持ち込んでくるが、それらはあくまで国の上層部から見たものだ。だからこそ商人や、時折迷い込んでくる旅人の話は重要なものとなった。
この国を出ることができないのは王子たちのみ。その他の者たちは国を出ることができるが、一度出てしまえば今度はなかなか辿り着くことができない。その為に、この土地を出る者たちは肉親を置いていく。そうすれば、血に引き寄せられるのか、帰ってくることができるのだ。豊かな土地で作られた食物や織物などは外ではとても希少な物として高く売れる。特に商人たちにとってこの地はまさに理想郷と言えるだろう。
けれど、弟が死んだ日、王子達の目が覚めた時から、彼ら王族の者達にとって此処は檻の中も当然だった。いや、それまで気付かなかっただけで、元から此処は魔女の檻の中だったのだ。果ての無い青い空など空想上のもので、天蓋の外での出来事や人の営みはどこか遠い世界のもの。
本当のところ、呪いを知る者たちは呪いが解けることを望みながら、その先に続く未来を恐れている。大きな変化はこの国に何をもたらすのか。きっと良いことばかりではない筈だから。
「呪いが解けるだけでは意味がないんだ」
呟く様なその声はサリュケの耳にしっかりと届いたが、彼女は何も言うでもなく、従者を引き連れて部屋を出て行くその後ろ姿にお辞儀した。