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痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
七章 クレマチスに透ける
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 朝まで眠ることのできなかったアサコは、窓から差し込み始めた明かりに目を細めた。

 昨晩吐いた嘘が冗談だったと言っても聞いてもらえず、イーヴェは朝方まで散々アサコをからかったのだ。そこにサリュケもまざったので、アサコの疲れは倍のものとなった。結局彼らはアサコをまだ小さな子供だと思ったままでいるのだろう。もうそれならばそれでいい、とアサコは諦めた。

 今頃イーヴェたち兄弟は、馬で出かけているはずだ。アサコも元々はそれに付いて行くはずだったが、昨日のこともありこの城に残ることとなった。恐らくラカの掛けた呪いに綻びがないかを確かめに行ったのだろう。今日は少し遠くに行くとイーヴェが言っていた。彼らは本当にこの国を出ることができないらしい。アサコはぼんやりとそんなことを考えながら、硝子扉の内から湖を眺めた。

 国を出ることができないということが大変なことなのかは、アサコにはあまりよく解らなかった。アサコ自身、自分の国を出たことがなかったし、あまり他の地方にも行ったことがなかった。それに、出たいと思ったこともない。

 外交などはどうなっているのか少し気になるところだが、此処の人たちにそんな話を聞いたことはなかった。これはまたサリュケかディルディーエに訊けば教えてもらえるだろう。それよりも、やはりずっと晴れた空を見れないというのは、アサコを憂鬱な気分にさせた。以前まではそこまで気にすることもなかったのだが、それもラカの掛けた魔法のせいだったのかもしれない。

 アサコは灰褐色の空を見ると溜息を吐いた。別に曇り空が嫌いなわけではないが、此処へ来てからずっと青い空を見ていないのだ。此処の人々にとっては当たり前のことなのかもしれないが、様々な空を見て育ってきた身としては寂しいものがある。

 ジュリアスは魔法を掛けなかったらしい。昨日魔法が解かれてから、アサコはそれまでにはないほどはっきりとした意識で目の前の光景を見ることとなった。本人にとっては驚くほどの差ではなかったが、やはりところどころでジュリアスやサリュケの言葉は本当だったのだと意識する。どうして今まで疑問に思わなかったのだろうという点が、積み重なって今にも雪崩れを起こしそうだ。

「アサコ様、お茶が入りました」

 静かな声で言われて、アサコはサリュケに礼を言うと茶器の並べられた円卓の前に座った。

 人形の体だというのに、食べ物を食べたり飲んだりできるのはどうしてだろうか。自身の今の体についての異常さも今まで深くは考えることがなかったのだ。サリュケになら、その仕組みが解るのだろうか。

「アサコ様?」

 じっと茶色い水面を眺めたままそれに口を付けようとしないアサコにサリュケは小首を傾げた。

 やはり聞かないほうがいいのかもしれない。アサコは苦笑してなんでもないという風に、小さく首を横に振った。きっと理解することはできないし、もしそこに怖ろしい事実があれば正気ではいられない。それでも、ずっとこのままではいられないことも解っているのだ。人形の体のままずっといることはできない。いつかは、いや、近いうちに戻らないといけない。もしディルディーエが言っていた様に長い時が経っていなければ、母も祖母も、それに友達たちだって心配しているに違いない。怖ろしくとも、自分のことを知らなくてはいけない。ただ今はまだ心の準備ができていないのだ。この旅が終わって、あの城に戻ったらきっとディルディーエに訊こうとアサコは思った。そして、ラカが最期を迎えたあの森の中の小さな城にも行こう。

 そう決めると、不安が消えた訳ではないがやけにすっきりとした気持ちになった。昨日の様に感情の波に呑まれて頭の中が不安で占められることもなかった。本当のことを知ったあとどうなるかという緊張もある。記憶にはあまり触れないところで真実を知っていく。未だ知ることのない過去の出来事をどうするかは、自分のことを知ってからでもいいし、ディルディーエに相談してみてもいいだろう。あの小さな魔法使いにも疑うべき点があるとは言え、アサコにとって一番頼れるのはやはり彼なのだ。

 ゆっくりとお茶を飲むと、喉元を温かさが通り過ぎていくのを感じた。視界が湯気で微かに霞む。まだ大丈夫だ。少なくとも、今はまだ此処に借り物とはいえ体があって動くことができる。

「おいしい」

 そう言ってアサコが微笑むと、彼女の様子を見守っていたサリュケはほっとした様に笑みを浮かべた。

 まだ大丈夫だ。そう思い自分の不安を押し殺すことは、アサコにとって此処へ来る前からの癖の様なものだった。



 じわり、と墨が滲む様に真っ白だった頁に文字が浮かんだ。小さな魔法使いは微かに眉を顰め、その小さな指先でそっと規則正しい文字をなぞった。水面に映った景色の様に、それらの文字は指の動きに合わせて歪む。けれどそれも一瞬のことで、すぐに元の美しい文字に戻った。

 あの子が泣いている、と出だしはこう書かれている。

 あの子が泣いている。何を訊いてもあの子は首を横に振るだけ。自分の名前さえも知らない。けれど、私はあの子の名前を知っていた。この城に暫くいて気付いたこと。この城は歪んでいる。その歪みがあの子を呼んだ。この城の歪みが歪みを呼ぶから、あの子は此処にいる。あの子の名前は――。

 ディルディーエは黒い表紙の大きな本をぱたんと閉じた。文字が浮かんだということは、魔法が解けたということだ。それはラカの魔法が弱ったということでもある。当たり前だ。永遠の魔法など実在しないのだから。ラカの魔法が繋がっていくのは、ディルディーエが生きている間だけだ。彼がその命を終えればラカとの契約も切れる。その時には、ラカが掛けた全ての魔法も終わることだろう。

 ふと目を閉じると、花冠を頭に乗せて微笑む少女の姿が目蓋の裏に浮かんだ。魔法使いは夢を見ない。けれど記憶はつい先ほどのことの様にはっきりと思い出すことができるのだ。魔法使いにとって記憶に古いも新しいもない。それらは決して色褪せることもなく存在し続ける。けれどどうしてか、その少女がいた頃のことはとても古いものの様に感じられた。そして彼は知るのだ。遠い記憶を思い起こす人の感情とはこういうものなのかと。

「明日、宵闇の城を発たれるそうです」

 ディルディーエは小さく頷くだけで何も言わなかった。言葉を掛けた兎の従者がぴくりと耳を動かす。真ん丸な赤い目を細める。

「アサコ様をどうなさるおつもりですか」

「どうするつもりもないよ。あの子は自分の意思で動くだろう」

 私はその姿を見守るだけだよ、と彼は小さく呟いた。

 机の上に積まれた本を一瞥したあと、兎の従者が黒い表紙の本に目を留めるとディルディーエは口元を歪めた。従者は見たこともないような彼のその表情に瞬きをする。魔法使いは元々感情を表さない生き物なのだ。ディルディーエは人の中で生き、まだ少し人に近いところはあるだろう。けれど、それでもその様に皮肉気に笑う彼をティンデルモンバは初めて目にしたのだった。

「それは、ラカ様が遺した書なのでは。目隠しの魔法を掛けられていると聞きましたが……」

「ああ、そうだよ。王子からはそれを解く様に言われていたのだけどね。内容は大体呪いには関係のないことだったよ。アサコに関することが殆どだった」

「では、魔法は解けたのですね」

 ひくひくと桃色の鼻が動くのを眺めながら、ディルディーエは小首を傾げた。

 書かれていた内容は、恐らく王子たちが望む様な内容ではないだろう。どの道、イーヴェやジュリアスに至っては呪いに関することをその書に求めていたわけではない。

「お前も呪いが解けることを望んでいるのかい」

「勿論です。私はずっと元の姿に戻ることを望んできました」

 ディルディーエはまたもや小首を傾げ、兎の執事を見上げた。今度は本当に不思議そうにしている。その様がただの幼い子供の様に見えて、ティンデルモンバは目を瞬かせた。小首を傾げるのはこの小さな魔法使いの癖だが、その様な表情は十年に一度見るか見ないかだ。出会った当初よりも随分と幼くなってしまった魔法使いの姿を新鮮な気持ちで眺めた。

「人の姿に、ということかい」

 ええ、とティンデルモンバが答えると、ディルディーエは「ふむ」と一人納得した様に小さく頷いた。

「やはり、ラカの魔法は色んなものを歪めてしまったようだね」

 その言葉が何の意味を持つのかを兎の従者は理解することができなかった。彼の独り言は無視するに限るという第一王子の言葉を思い出し、問いかけるのはやめておいたが、その言葉は妙に彼の心に引っかかった。魔法使いの部屋を出て階段を上がる間も、長い廊下を歩いている間も。けれど、外へ出るとそれも嘘の様に彼の心の中から消えうせていた。

 従者が部屋を出て行くと、ディルディーエは椅子からそっと降りた。少しずつ小さくなっていく体のせいで、今では椅子に座ると足も届かない。子供の体とは不便なものだと時折思うが、魔法を使う彼にとってはそれも些末なことだった。

 机の上に置いた本の黒い表紙に触れると、微かな少女の笑い声が彼の耳に届く。

 ――ねえ、ディルディーエ。どうしてあなたはあのお城にいたの。どうしてあのお城は歪みの城と呼ばれているの?

 当時、魔法使いの名前を知ったばかりの少女が投げかけた質問。彼はその一つにしか答えなかった。なぜあの城が歪みの城と呼ばれていたのか。大昔からのことだったので、当時でももう殆どその意味を知る者はいなくなっていた。彼はこう答えた「あの城の中には小さな歪みがたくさんあるからだよ」と。歪みは様々なものを飲み込んでは吐き出す。吐き出したものは元へ帰ることはなくあの城の中へ少しずつ蓄積されていた。人の様々な感情や小さな物たち。あの城の一角には用途も解らない様な物がたくさん転がっている場所もある。アサコはその中の一つだった。

 アサコが城で見たという影の正体も、ディルディーエには見当がついていた。時折歪みが吐き出しすぎたものであの城から溢れだしてくるものがある。様々な人の感情や思いが交じり合い、できた影だ。それは城下町や森を徘徊し、居合わせた人々の不安を誘う。勿論彼らにその影が見えているわけではない。けれど確実にそれらは人々の感情を撫でていくのだ。

 悲しみや不安や嫉妬、人が捨ててしまった感情の塊があの影の正体だった。それをラカは魔法を使って、アサコに自身の悪夢を見せるという役割を与えたのだ。

 「可哀想な私のお人形さん」。ラカがアサコのことをそう呼んでいたのをディルディーエは知っていた。確かに彼女は哀れむべき存在だ。歪みに吐き出され、狂気に呑まれた魔女に捕まった。

 トントンッと、ディルディーエが指先の爪で机を叩くと、鳥籠の中の鳥が高らかに鳴いた。騒がしく大きな羽をばたつかせ、次の瞬間には檻の間をすり抜けて鳥籠を飛び立っていた。きっとアサコが見ていたら、ぎょっと目を見開いていただろう。その鳥籠の間から大きな鳥が飛び立つのはどう見ても不可能なのだ。

 部屋の中を一周飛び回ると、その鳥は机の上に止まり頭を垂れた。小さな指が頭を撫でるとピィと小さく鳴く。

「行っておいで。見失っては駄目だよ」

 ディルディーエがそう囁くと、薄紫色の鳥は一鳴きして羽ばたいた。

 すっと開いた扉から鳥が飛び去って行くのを見送ると、ディルディーエは黒い本を抱えて自身も部屋を後にした。



 昼食を摂ったあと、城の中を探検してみませんか、とサリュケが提案した。

 アサコにそれを断る理由はなく、むしろ大賛成という風に何度も頷いた。元いた城にいた時のように行動を制限される訳ではなく、ここでは気兼ねなく歩きまわることができるのだと思うと、少し嬉しくなる。部屋に閉じ篭っていると、心の中がどんよりとしてくるのだ。昨日イーヴェにも少し案内はしてもらったが、女三人の方が気軽に楽しめそうだった。敢えて一つ嫌なことをあげるならば、やはり鬘が少し鬱陶しい。どうせならこの機会に髪を短く切ってしまいたいとも思ったのだが、口にするとサリュケに必死で反対されてしまった。此処では髪の短い女性は神に誓いを立てた者だけなのだという。

 きっちりと髪を結われ、その上から鬘を被せられるとアサコは微かに眉を顰めた。鏡越しにサリュケが苦笑しているのが見えたが、やはり楽とは言い難い頭の感覚に表情を変えてしまうのは仕方のないことだろう。

「どちらに行かれたいですか? アサコ様。画廊に図書室、かつてのこの城の主は芸術好きだったと聞きます。面白い物がたくさんありますよ」

 かつての城の主とは、少女をこの城に閉じ篭めた王だろうか。それともこの城に閉じ篭められていた少女だろうか。それを少し疑問に思いながらも、アサコはサリュケの言葉に瞳を輝かせた。此処へ来てからというもの、娯楽とは無縁に等しい生活を送ってきたのだ。町へ出た時に気になるものはたくさんあったものの、結局あれっきり城内を出ることもなくこの旅に出た。幼い子供ではないが、探検という言葉には心が躍る。その気持ちがサリュケにも伝わったのか、彼女は満面の笑みを浮かべた。

「メリーネは明日の支度もあるので、行くのは私とアサコ様の二人ですよ」

 鏡越しにもう一人の侍女がお辞儀をしたので、アサコは目を大きくした。そういえば、この城を出るのは明日だと聞いていたのを思い出す。

「次はどこに行くんですか?」

「北上します。小さな町ですが、とても賑わいのあるところですよ」

「町?」

「ええ。今度はお城ではなく、貴族のお屋敷に宿泊することになります。そのお屋敷がある町ですよ」

 今滞在している城の様に孤立している場所ばかりになると思っていたアサコは、目を大きくした。まさか町に泊まることがあるなど思いもしなかった。一度行った町の賑わいを思い出すと心が躍る。

「さあ、出来ましたよ。行きましょうか」

 鏡に映った自身の姿を見て、アサコはやはり違和感を感じた。亜麻色の長い髪は普段黒髪のアサコにしてみれば、自身にはとても似合わないものだと思えた。けれど、サリュケとメリーネと呼ばれた侍女からしてみれば、そうではないらしい。にこにこと鏡の中のアサコを見ている。アサコは鏡に映った自分の姿から目を逸らすと立ち上がった。

 どうせ明日城を出るならと、アサコは画廊や図書室、行けるところなら一通り行きたいとサリュケに言った。

 一番最初に案内された場所は、博物館の様な場所だった。広い空間には、不規則に動物の標本や様々な大きさや色の鉱石、アサコほどの背丈の硝子天蓋の中には用途のよく分からないものが展示されていた。なんの部屋なのか訊くと、サリュケはかつての主の蒐集物を収納している部屋だと言った。広くて物がたくさんあるのでかくれんぼができそうとアサコが冗談で言うと、サリュケが半ば本気でしましょうかと言ったので、アサコは慌てて首を横に振った。どうやらまだまだ子供扱いされているらしい。

 大きな硝子天蓋を覗いていると、ふと硝子の向こう側にある狼の標本の間を何かが通り抜けた。気泡や均一ではない分厚さの硝子越しでははっきりと見えなかったのと、ほんの一瞬のことだったのでそれがなんだったのかアサコには判らなかった。鼠でも走り去ったのだろうか。

 次に案内されたのは画廊だった。大小様々な絵が飾られているその広い部屋は、古い油絵の具の様なにおいがした。その絵の殆どはこの湖畔の城付近の風景画だった。景色を切り抜いたかの様に美しい絵に、アサコは目を奪われた。けれどどれも見る者に物寂しさを感じさせる雰囲気があった。

「これは、あの湖の絵ですか?」

 一面に水面が描かれた絵の前でアサコはサリュケに訊いた。水面には草花とこの城が映っている。

「ええ。この城に滞在していた専属の絵師が描いたものです。違う者が描いたものもございますが、ここの絵は殆どその絵師が描いたものですわ」

 言われてみれば少し雰囲気の違う絵もあったが、物寂しい雰囲気の絵はこの絵師のものなのだろうとアサコは思った。この城に滞在していたのならば、この絵から感じられる寂しさの様な感情は、その絵師が感じていた感情の一部なのかもしれない。その絵師にも恐らく水鳥の少女と接することがあったのかもしれない。

「あちらをご覧になって下さい」

 そう言って、サリュケは一番奥に飾られた一際大きな絵を手で示した。

「……ラカ?」

 アサコは思わず小さな声で呟いた。ラカもこの城に来たことがあるというのだから、彼女の絵があっても不思議ではない。けれど、それにしては少し雰囲気が違う。

「いいえ。この方は水鳥の少女と呼ばれるロティエラ様です」

 そう言われても、すぐには信じられないほどその絵の中でどこか哀しそうに微笑む少女は、ラカと似ていた。黒く波打つ長い髪に、新緑の大きな瞳。ぽってりとした唇は緩やかな弧を描いている。

 散歩中に見たあの少女はやはり水鳥の少女だったのだと、アサコは確信した。その途端、ぞっと背筋を悪寒が駆け上った。

 アサコも以前、この絵と似た絵を見たことがあったのだ。ラカのおぞましい記憶の中で、その絵の少女は新緑の森の中微笑んでいた。

「もしかして、ラカは……」

 この人の身代わりに? その言葉は喉で痞えた。

 ようやくイーヴェの言葉の意味を知る。ラカとティルディエにも縁の深い場所。王がラカを緑の天蓋へ連れ帰る理由となった少女がかつていた城。ラカを囲った王は、おそらくイーヴェの話しの中に出てきた少年王子だったのだろう。叶わなかった恋に焦がれて、少女とそっくりなラカを自分のものにしようとした。

「遠い昔の話しですわ、アサコ様。本当のことを知る人は今はもういません。けれど、静かに伝えられている話しはあります。ロティエラ様は、水鳥になる直前にある魔法使いと契約を交わしたといいます。叶わない恋であれば、せめて静かに王子の傍にいたいと言って魔法使いに魔法を掛けてもらったのです。王子が美しいと言った湖の風景の一部になる様に」

 これ以上この穢れた姿をあの人の前に晒したくない。せめて彼が美しいと言ったあの景色の一部になれたなら。

 ふと、そんな言葉がアサコの頭に浮かんだ。

「その前に、ロティエラ様は故郷に残してきた妹君に大切なものを渡して欲しいと、魔法使いに頼みました。王子から贈られた石です」

 その風景も目に浮かぶ様だった。

 場所は、あの美しい湖畔だった。眩いほどの星が瞬く夜だった。二人とも、その瞬間は自分たちに付き纏うおぞましい現実など忘れて笑っていられた。そんな二人の姿は、ラカとティルディエともよく似ていた。

「……わたし」

 左目を抑えながらアサコが小さな声で呟くと、サリュケは心配げに小首を傾げた。

「ご気分が優れませんか?」

「いえ、なんでもありません」

 目から手を離し、アサコは苦笑した。

「この絵を描いた人は、この人と王子様のことを知ってたんですね」

 すぐ横の壁に掛けられていた小さな絵を見てアサコは言った。紙いっぱいの夕暮れに染まった草原には、二人分の人影が描かれている。

「ええ、彼はこの二人を見守っていた人の一人だといいます。できることなら、二人の恋が実ることを望んでいたのでしょうね」

 遠い昔の話。本来ならばアサコが知ることもなかったであろう場所であった出来事。もう過ぎてしまった出来事は、聞いて、知ることしかできない。未来に残るのは人々の好奇心と、物語と化した過去の出来事への哀れみなどの感情だ。

 けれどアサコは聞いただけの話に自分のことの様に、今その光景を目にしているように感じてしまう。自身の記憶を探っているいる様な感覚を振り払うように、彼女は絵からそっと目を逸らした。



 

 






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