37
何かがおかしい。
そう感じたのは、目覚めて体を起こした時だった。部屋の暗さから、もう夜も更けていることが分かったが、緑の天蓋の時計の見方が未だに解らないアサコには、何時頃なのかまでは知ることはできなかった。
体を起こすと、寝台の縁に突っ伏して寝ているサリュケに気づき、アサコは暫く意外そうな目でその姿を眺めた。サリュケは人前ではそんなに無防備な姿を晒さないと、何故か心の隅で思っていたのだ。
それにしてもそもそもなぜ眠っていたのだろうと思い、彼女は自分の姿に気づいた。上着や靴を脱いではいるが、男物の襯衣を着たままだ。そのことで眠りに落ちる前にジュリアスと話した内容を思い出し、眉を顰めた。彼が治すと言った通り、眠る直前まであったはずの不安は最初からなかった様に消えてしまっている。けれど、何かがおかしい気がした。記憶もあるのに、何かが抜け落ちてしまったような、何かが足りていないような感覚。
「……ディルディーエ」
ジュリアスの言葉を思い出し、アサコは小さく呟いた。
彼の言葉が本当のことなのであれば、アサコがこの場所へ来て一番最初に関わっていたのは、ラカではなくあの小さな魔法使いだったということになる。どうして、とまた疑問が浮かんだ。けれどそれ以上の感情は湧いてこなかった。ディルディーエは、もしかするとラカと出会わせたかったのだろうか。それとも、あの小さな城で一人ぼっちでいるラカに、アサコを与えたのかもしれない。ラカは、アサコの様な存在を求めていたのだから。
寝起きだからか、意識がはっきりとしない。アサコはぼんやりと仄暗い部屋の中を眺めた。しんっと静まり返っているかの様に思えたが、微かに女性の声が聞こえてきた。その声に釣られる様に、そっと寝台を抜け出す。靴も履かずに裸足のままで歩き出すと、床の冷たさがじわじわと足の裏に伝わった。眠りが深いのか、サリュケは目覚める気配もない。アサコはサリュケを一瞥してから、部屋を後にした。
廊下に出ると、女性の声は先ほどよりもはっきりとしたものになった。その時になって、ようやくアサコはそれが歌声であることに気づく。それは、元居た城で聞いたことのある、羊の姿をした召使いのものだ。
ふらりと裸足のアサコは音もなく歩き出す。普段であれば、彼女はその声の元へ行こうなどと思いもしなかっただろう。あの羊の召使いは苦手だ。言葉を交わし、紳士だと解ってもティンデルモンバを不気味だと感じてしまうくらいなのだ。言葉の通じない、どんな心を持っているかも判らない羊の召使いは今のところアサコにとって不気味な存在でしかない。それでも、その声には強く惹かれてしまう。哀しげな旋律は、懐かしい気分にさせられるものだった。そんな筈はないのに、遠い昔からその歌を知っている様な気にさえなる。
草や小石の感触がしても、アサコは構わずに歩いた。元より人形の体だ。少し傷つくことくらい気にすることもない。
声が近くなるにつれ、その歌の詩が緑の天蓋の言葉であることが判った。
暗い闇に染まった木々が、柔らかな風に揺られて散る。真っ黒な湖の前に、その召使いは立っていた。羊の突き出した口から女性の美しい歌声が出ている様は、目を疑うものがある。けれどアサコはそれよりも、羊の召使いがその場に本当にいたことに驚いた。彼女はあの城に残っていると思っていたのだ。まさか旅に同行しているとは知らなかった。
暫く木の陰で呆然としていると、ふいに歌が不自然に止まった。アサコは身体を強張らせ息を潜めた。気付かれてしまったのだろうか。その時になって彼女は自身の馬鹿さ加減にうんざりとした。いくら綺麗な歌声だったからと言って、どうしてこんなにものこのこと部屋を出てしまったのだろうか。先ほどまではなかった恐怖が湧いてくる。急激に夢から覚めた様な感覚に、眉を顰めた。逃げ出そうかとも思ったが、その勇気さえも湧いてこずただじっと身を潜める。それでもやはり彼女はアサコの存在に気づいていたのだろう。ゆっくりと毛むくじゃらの顔をアサコの方に向けた。その動物の顔には、何の感情も浮かんではいない。
横長の瞳孔が、アサコを捉えた様だった。アサコは身体をぶるりと震わせたが、手招きされても逃げることができなかった。意思とは別に、足は前へと進む。
二人の間があと数歩の距離となったところで、アサコは立ち止まった。羊の召使いが何か呟く様に、先ほどの歌声と同じ澄んだ女性の声で何かを言ったからだ。
アサコが思わずまじまじと羊の顔を見ると、彼女は長い羊色の睫毛を伏せ目を細めた。眠いのかな、とアサコは見当違いなことを思い、小首を傾げる。少しの距離を置いてそれ以上は自分からは近づいてくる気配のない召使いを見ていると、少しだけ先ほどまであった怖れは薄れていた。
「リリ?」
以前聞いたことのある名前を思い出し、アサコは呟く様に言った。彼女もかつては人間の女性だったのだ。そう怖れることはないと自分に言い聞かせ、羊の目を見る。すると、羊の召使いは、アサコに名前を呼ばれたことが意外だったのか、円々とした目でアサコを見つめた。その目は薄い雲を通してぼんやりとした月明かりを受け、硝子玉の様に輝いている。
沈黙が続き、アサコは気まずさに身じろぎした。羊の召使いへの怖れは完全になくなったわけでなく、まだ沸々と心の中で湧いている。
「……さっきの歌は、子守唄なんですか?」
遠慮がちに訊いたすぐあとで、アサコは言葉が通じないことを思い出した。案の定、召使いは小首を傾げた。やはり言葉は通じていないらしい。どうやって立ち去ろうかと考えていると、召使いは小さく首を横に振った。アサコはぎょっとして、羊の顔を凝視する。
「いいえ、あれは死者を慰めるための歌です」
どきどきと心臓が鳴る感覚がした。まさか彼女までがその言葉を理解していると、アサコは思いもしなかったのだ。彼女も、ティンデルモンバたちと同じくディルディーエに言葉を分け与えられたのだろうか。けれど、リリと呼ばれるこの羊の召使いは今までアサコに関わってくることはなかったのだ。一度だけ、本当に一度だけ眠っている間に顔を覗き込まれたことはあったが、言葉を交わしたことはなかった。
アサコが驚きのあまり口を利けないでいると、リリは小さな息を吐いた。溜息ともとれるそれは、表情がない羊の顔からは判らないが、もしかしたら笑いだったのかもしれない。
「あなたは、本当に何も聞かされてはいないようですね」
静かな声は、馬鹿にしているものではなく、けれど何かに呆れている様だった。そして同時に少しの憐れみも篭められている様な気がして、アサコは微かに眉を顰めた。彼女が何を言っているのか全く分からない。
「魔女の呪いを掛けられた者の殆どは、あなたの言葉をきっと理解しているでしょう」
「え……」
「あなたの魔法使いは、何も教えてはくれませんでしたか?」
羊の口から紡がれる女性の声は、やはりどこかちぐはぐだ。口の動きは合っているが、吹き替えの様にも見える。
アサコは、今度は何と答えていいのか分からずに口を噤んだ。まただ。小さな魔法使いの姿を思い浮かべ、苦い思いが湧いてくる。彼を疑いたくはないのに、小さな疑心がふつりと湧く。ディルディーエも、別に必要のないことだと思い言わなかっただけかもしれないのに、一度生まれた疑心は少しずつ積もっていく一方だ。
「……お部屋にお戻り下さい。お風邪を召されてしまいますよ……いくら、そのお身体が人形のものであろうとも」
冷ややかな声で言われて、アサコは踵を返して駆け出した。小石が足の裏に刺さろうとも、立ち止まらずに走った。頭の中がぐるぐると混乱している。
人形の体、と誰かに面と向かって言われたのはこれが始めてだった。いや、違う。眠る前にジュリアスにも言われたのだ。けれどそれは彼が魔法使いの弟子だから分かることなのだと彼女は思っていた。
自分の知らないところで、自分のことが、もしかすると自分が知らないことまで周囲の人々に曝け出されている様な気がして気持ちが悪い。アサコは必死で走って城の廊下までやって来ると、ようやく足を止めた。あるはずのない心臓がどくどくと振動する。怪我をすると痛みを感じる身体は、走るとすぐ息がきれる。
冷たい壁に凭れてアサコは息を整えようと深呼吸した。自分で意識はしていたものの、いざ他人にその体のことを指摘されると心臓が鳴った。そしてそれが少しずつ落ち着いてくると、強い不安に襲われた。この人形の体を失ってしまえば、どうなるのだろうと今まで何度も思ったことではあったが、これほどまでに強く意識したのは初めてのことだったかもしれない。曖昧な輪郭であったものが、急にはっきりとした様だ。そもそもどうして、自身の体ではなく人形の体でいるのだろうか。そんなことも今まで疑問に思わなかった。それは、ジュリアスが言っていた魔法のせいだろうか。ラカの人形にラカがアサコを閉じ篭めたのであれば、まだ納得もいくが、それをしたのはアサコがこの場所で一番慕っている、あの小さな魔法使いなのだという。それが本当だったとして、どうして彼はそんなことをしたのだろうか。それに、本当の体は一体どこにあるのだろう。
「――アサコ?」
それは静かな声だったが、人がいるとは思っていなかったアサコはびくりと体を震わせた。
振り返ると、どうして気付かなかったのか不思議になるほど近くにイーヴェが立っていた。
「……イーヴェ、驚かさないで下さい」
恨みがましく言いながらアサコが睨みつけると、イーヴェは肩を竦めた。
「驚かさないでほしいのはこっちだよ。君、急にいなくなったんだって? サリュケが血相変えて君を探し回ってたよ。ジュリアスの仕業だと思った彼女が、殴りこむ勢いでジュリアスの部屋の扉を叩くのを止めるのが大変だった」
倍以上の言葉を返され、アサコはさあっと青褪めた。気持ちよさそうに寝ている彼女をわざわざ起こさないでおこうと思ったのは間違いだったらしい。それよりも、そもそもあんな真夜中に部屋を一人で勝手に出たのがまずかったのだ。険悪な雰囲気だった二人の姿を思い出すと、ますます彼女は蒼くなった。
「まあ、幸いジュリアスは不在だったんだけどね」
青褪めているアサコを前にしても暫く間を置いてから言う彼は、やはり性格が悪いと言っていいだろう。アサコは小さく息を吐くと再び飄々としている男の顔を睨む様に見上げた。そんなアサコをまじまじと見ると、イーヴェはふと笑いを漏らした。それを見たアサコはますますむっとした顔つきになった。
「一体なんなんですか」
「いや、なんでもないよ。ほら、部屋に戻ろう。サリュケも心配してるから」
そう言ってイーヴェが手を差し出すと、アサコは反射的にその手に自分の手を重ねた。そんな自分自身にアサコは驚き手を引こうとしたが、その前に握られる。その手の感触は、最近では慣れたものだった。 アサコは繋がれた手をじっと見た。自分の手が、骨ばった大きな手に包まれているのを意識すると、急に顔に熱が上った。怪訝そうに見られると、とても居た堪れない気持ちになり俯く。今更こんなことで恥ずかしがる必要はないとは思っても、一度熱くなった顔は火照ったままで、その熱を冷ます為に違うことを考えようと必死になる。
ゆっくりと歩くイーヴェの歩調は、アサコには丁度良い速さだった。蝋燭は灯されていても薄暗い廊下には、人気はあまりなかった。恐らく真夜中と言ってもいい時間帯なのだろう。足音が異様なほどに良く響き、アサコはぼんやりとしていたとはいえ、よくこんなところを一人で歩けたものだと驚いた。それほどまでに城の中は不気味だった。石造りの城は、元居た城と造りはよく似ているがやはりところどころは違う。この城には窓が少ない。小さな窓がぽつぽつとあるだけで、イーヴェ達が住まう城の様に廊下に連なる大きな窓はなかった。廊下を歩いていても外がよく見えていた城とは違い、此方の場合は覗きこんでやっと外の様子が伺える程度だ。いつからこの城があるのかは訊いてみないことには分からないが、もしかすると、イーヴェが言っていた水鳥の少女を隠す為に造られた城なのかもしれない。そう思うと、アサコの肌は粟立った。まだ幼さを残したいたいけな少女が窓の外を覗こうとしている様を思い浮かべると、ぞっとした。それは何も知らなければ微笑ましい光景なのだろう。けれど、この城に住まう者たちは皆知っていたはずなのだ。王がこの城を訪れる理由を。一人の少女が囲われている理由を。それを知っていて誰も少女に手を差し伸べることは出来なかったのだろうか。その境遇はまさにラカがあの城にいた時とものと似ていた。周囲の大人たちは知っていたのだ。王がラカにどの様に接していたかを。ラカがあの城に連れて来られたのがティルディエの花嫁としてではなく、王の慰み者としてなのだと。
「……イーヴェ」
「うん?」
「此処にいた女の子を誰も助けようとはしなかったんですか」
イーヴェは足を止め振り返った。視線を落としたアサコを暫く眺めてから、少し気だるげな仕草で首を傾げる。
「さあ? 遠い昔の話だから、そこまで細かいことは誰も知らないんじゃないかな」
「イーヴェだったら、助けてあげましたか」
「それも分からないな。他人だったら、王に歯向かってまで助けないだろうね」
アサコもそうだと思った。少女を助けなかった大人たちを酷いと思うのに、いざ自分がその位置にいたのであれば、その人たちと同じ風に少女を助けようとしなかったかもしれない。誰も他人の為に自らを危険に晒したりはしたくないだろう。
「その話が気になってたの?」
「ちょっとだけ。その子が此処にいたことを想像したら……」
「昔の出来事に胸を痛めるのは悪いことじゃないと思うよ」
そうだ。それは話に聞いただけの昔の出来事なのだ。
アサコは散歩の途中に見た少女のことは言わないでおこうと思った。あの少女は、水鳥の少女だったのかもしれない。おかえり、と言われた理由は分からないが、少女はアサコに酷く禍々しい印象を残して消えた。灰白色の空の様にぼんやりとして陰鬱な空気をあの少女は笑顔でいながら纏っていたのだ。
再び歩きだしたイーヴェに手を引かれて、アサコもゆっくりと歩き出す。部屋に着くと、サリュケに抱きつかれてアサコは何度も謝った。もう二度と部屋を勝手に出て行かないことを約束して下さいと言われて、ふとこの人たちと一緒にいるのはいつまでなのだろうと思った。ふとした瞬間にそんな風に思う時があるのだ。彼女たちとはこの旅に出る少し前に出会ったばかりだ。それでもあの城での言葉が通じる初めての同姓として、アサコは十分に心を許しているつもりだ。けれど、そんな彼女にもディルディーエにさえも言っていない疑問がある。この人形の体で、魔女の命で、自分はどれだけこの場にいるのだろうと。
サリュケに頬や頭を撫で回されて苦笑していると、もう一人の侍女がじっと見つめてきていることにアサコは気付いた。その目線は、まだ繋がれたままのイーヴェとアサコの手を伝い、アサコの顔を見た。目が合うと、一瞬あとに娘は小さく微笑んだ。以前見た愛らしい甘い笑みとは違うそれに、アサコの頬はかっと熱くなる。最初は恥ずかしかったものの、部屋に入ってきた時にはそのことも忘れてしまっていたのだ。手を繋がれた時とはまだ違う恥ずかしさが湧いてくる。
勢い良く手を振り払うと、その手は意外なほどにあっさりと離れた。
「さあ、アサコ様お眠りになって下さい。夜更かしはいけませんよ」
すっかり乳母の様な口調になってサリュケは言った。
先ほどまで寝ていたのだからその言葉は少々ずれていたが、それよりもすっかり目が覚めたアサコは首を横に振った。
「小さい子供じゃないんだから、そんな言い方しないで下さい」
苦笑しながら言うとサリュケは目を円くする。
「まあ、アサコ様。私から見ればアサコ様はまだ愛らしいお年頃ですのよ」
「……わたしの歳、知ってるんですか?」
「十三歳なのでは?」
不思議そうに問われて、アサコは愕然と目の前の美女の顔を見つめた。その様子からして、彼女が冗談で言っている訳ではないことが分かる。アサコの記憶が正しければ、眠っていた間の年数を数えないのであれば、今は十七歳のはずなのだ。以前から子供扱いを受けているのは感じていたが、まさかそれ程までだとは思っていなかった。少し幼いとは言われたこともあったが、まさか十三歳になど間違えられたこともなかったはず。
サリュケは黙り込んでしまったアサコを見て困惑気味に首を傾げ、すぐ近くで二人の様子を見守っていたイーヴェをちらりと見た。
「殿下に聞いたのですが……」
「君を紹介する前に年頃を訊かれて、知らなかったから多分そのくらいだろうと思ってそう言ったんだ」
その年頃だろうと思いながらも、二人はあの様な悪ふざけをしたのかとアサコは入浴時のことを思い出して軽い眩暈を感じた。子供だと思っている相手にあの様な悪ふざけをするなど、とんだ大人たちだ。
「……イーヴェは、何歳なんですか?」
あまりにも今更な質問だったが、お互い様だ。アサコは自分の歳を言うのではなく、質問した。何故かそのまま自分の歳を言うのは癪に障ったのだ。
「二一歳だよ」
その答えはほぼアサコの読みと一緒だった。言葉が通じていなかった頃はまだもう少し若いと思っていたが、それは笑顔が時折無邪気なものに見えていたからだ。今になってはとんだ見当違いだったということが痛いほどよく解る。アサコはわざと勝気な笑みを作ると、少しでも偉く見える様に顔を上げた。
「だったら、わたしの方が年上ですね」
その場にいた、アサコと言葉の通じない侍女以外の二人が驚いた様に目を円くした。
勿論嘘だったが、いつもからかわれていた分のほんの何分の一かの仕返しだ。それにそう言えば、彼らの態度も少しは改まる様な気がした。大人として扱ってほしいとまでは思わないが、からかって遊ぶのはやめてほしい。せめてディルディーエがいないこの旅の間だけでも。
イーヴェはまじまじとアサコの頭の天辺から足の爪先まで眺めたあと、薄い唇で弧を描いた。
「そうだったんだね。今までの無礼を許してほしい」
そう言ってアサコの手を取るとそっと口付けを落とした。アサコが呆然としている間に、その右手は彼女の頬を包み、そのまま耳の淵を優しくなぞる。
「これからは大人の女性として接しましょう」
右耳に触れるくらいの距離で囁かれ、アサコは肩を震わせて自分が吐いた嘘に早くも後悔することとなった。
たとえ本当に年上だったとしても、年齢は関係なくからかわれるのだ。