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痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
七章 クレマチスに透ける
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 蒼紫色の花が咲いている。

 アサコは日に透けるその花が欲しくて、小さな手を伸ばした。蔦を張って壁面に咲く花は、まだ小学校に上がったばかりのアサコには手が届かない。ぴょんぴょんと跳ねていると、後ろから小さな笑い声が聞こえてきたので、アサコは伸ばしていた手を引っ込めて振り向いた。

 あのお花がほしいの。

 手が届かない、美しく咲き誇る花を指差して言うと、その人は優しく微笑んだ。目尻に刻まれた皺が深くなる。少し垂れ気味の優しげな目は、アサコの母とも、アサコとも似ている。

「綺麗でしょう、そのお花。アサコもそのお花が好きなの?」

 アサコは大きく頷く。すると、老人はその場からいなくなってしまったが、すぐに手に大きな鋏を持ってやってきた。じょきん、とそれでアサコが欲しがった花のついた枝を大きく切り取ってしまう。花だけでよかったアサコは、その豪快さに驚いた。

「いいのよ。こうすれば、次の季節にはもっとたくさんお花が咲くから」

 切り取った枝をアサコに差し出しながら、老人は言った。

「ありがとう、おばあちゃん。どうして、切るとたくさんお花が咲くの」

「さあ、どうしてからしら。どうしてだと思う」

 質問を質問で返されても、アサコは不満を感じることもなく首を傾げた。質問して、祖母に質問で返されるのはいつものことだったから。

 花が甘く香る季節のことだった。母が仕事で海外に出ている間、祖母の家に預けられたアサコは毎日の様に祖母の家の庭で遊んだ。様々な草木が植えられたその庭が、アサコは大好きだった。

 この時なんと答えたのか、アサコは覚えていない。



「ニコ」

 アサコは渋々その声に従う。繋がれた手が、柔らかい声とは裏腹に拒むことを許そうとはしない。彼女が恨めしげに斜め前を歩くイーヴェを見ると、彼は口元を綻ばせた。

 朝、アサコが目覚めるとなぜか同じ寝台にイーヴェがいた。昨日の失態を思い起こすよりも先に、そのことに度肝を抜かれた彼女が暫く唖然としていると、目覚めたイーヴェにまた頬をぎゅっと摘まれたのだ。目覚めた瞬間から今日一日はあまり良い日になりそうもないという予感がして、アサコは朝っぱらから気が重かった。それは、昼になった今も続いている。

 周囲の視線が痛くて、顔を上げることができない。アサコは血の気の引いた顔で、まるで紐に繋がれた驢馬(ろば)の様にのろのろと歩いた。少年の姿をしたアサコと手を繋ぐことに、イーヴェは彼女が嘆きたくなるほどに何も感じていないらしい。それどころか、嘆くその姿を見て楽しんでいる節がある。

 一体これはなんだろうと、アサコはようやくちらりと周囲を見たが、すぐにまた足元に目を向けた。昨日初めて会ったばかりの王子と目があったのだ。少し離れてイーヴェの横を歩く彼は、アサコを凝視していた。おそらく、兄と手を繋ぐアサコを何者だろうと疑っているのだろう。当たり前だ。まだ幼さを残す少年が自分の兄と手を繋いでいれば、怪しいに決まっている。彼は今同時に兄の性癖も疑っているところだろう。

 イーヴェの「散歩しよう」という一言で、アサコはまた朝から鬘を被り、男装をすることになった。アサコは昨晩と同じくイーヴェと二人だと思っていたのだが、他の王子や侍女や重臣達も一緒だったのだ。ジュリアスとロヴィアはまだいい。イーヴェは他の王子たちがアサコの命を狙うかもと言った。少なくとも前者の二人には今のところそんな様子は見られない。だとすると、もう一人まだ姿を見ていない王子を除いては彼一人しかいないのだ。その可能性が全くないと言い切れない限りは、やはり気を抜くことができない。

 会話をしたこともないが、アサコはこの弟王子の視線が苦手だった。表情の薄さはディルディーエといい勝負で、だからといってアサコは彼にディルディーエと同じ様な親しみを抱くことはなかった。こいつは何だと思われているのかと考えるだけで、肩身の狭い思いになる。そもそも、アサコ自身どういう設定でこの場に自分がいるのかはっきりとは分かっていないのだ。イーヴェは友人として、と言っていたがどうもそういう雰囲気でもない気がしてならない。それもイーヴェの対応のせいなのだが、ともかくアサコはこの旅の間ずっとこんな思いをしなければいけないと思うだけで、どっと疲れた。それに声を出せないことがこんなにも精神的に疲れることだとは、思いもしなかったのだ。お陰でイーヴェに反論することも否定の言葉を投げることもできない。

 アサコは数歩後ろに控えているサリュケの存在を意識した。彼女もイーヴェに負けず劣らず人をからかうことが好きな様だが、旅の間の心の支えは彼女だけだ。イーヴェやジュリアスとの会話はいくら言葉が通じるからと言っても疲れる。イーヴェに至っては、言葉が通じてから一段と性質(たち)が悪くなったのだ。今になってみれば、言葉が通じていなかった頃はまだ可愛いものだったとさえ思える。

「そういえば、寝言を言ってたよ」

 その言葉にアサコはぎょっとしてイーヴェを見た。

 緑の天蓋の言葉ではないそれはひっそりと伝えられたが、弟王子に聞こえていなかっただろうかとアサコは気が気でなかった。もし聞こえていたら、その言葉が理解できないものだとしても不審に思われたに違いない。どうしてこんな時に言うのだろうか。その様子を客観的に見れば、アサコが慌てる様を楽しんでいることに気付けていただろうが、焦りでいっぱいの彼女には気付けなかった。昨晩の夢の内容をはっきりとは覚えていないアサコは何を言ったのか予想もつかないし、訊きたいが疑問を口に出すこともできない。何故か叔父と暮らしているという夢を見たのは覚えているが、途中からどうなったのかも覚えていないのだ。

 アサコの状況と心情とは別に、庭の景色は素晴らしいものだった。どこからどこまでが庭なのか彼女には全く判らなく、それがますます彼女の疲れを増幅させてはいたが、周囲を見渡せば目を奪われるのには十分な美しい景色が広がっていた。澄んだ広い湖に浮かぶ水鳥たちに、たくさんの木々には美しい花が咲き誇っている。唯一残念なのは、相変わらず薄灰色の空だけだ。

 花々に彩られた木々にアサコは目を奪われた。強い風が吹いて、たくさんの花びらが舞っている。故郷の春に見た景色を思い出させる光景だった。ふと、その花びらの向こうで少女が佇んでいるのが見えた。長い黒髪を風に靡かせて、その少女は手に持った大きな花で顔半分を覆い隠している。

 ラカの様にも見えるが、いつもとは少し様子が違う。少女は口元だけで仄かに微笑んだ。

 ぞっと全身に怖気が走るのをアサコは止められなかった。訳も分からない強い不安に襲われ、体中から血の気が引くように冷たくなっていく。周囲からは音が引き、まるでそこには自分とその少女しかいない様にアサコには感じられた。

 笑わないで、と思った。少女の存在が怖ろしいのではない。その笑みが怖ろしいのだ。

 ぽってりとした唇がゆっくりと開く。声が聞こえる距離ではない。それでもアサコには少女が何と言っているのかはっきりと分かった。

 おかえりなさい。そう言ったのだ。

「――ニコ」

 強く手を引かれて、周囲の音が突如として戻ってきた。それでも上の空でいたアサコは、最初それが自分を呼ぶ声かも分からずにゆっくりと隣りを見上げた。怖気は止まらず、震えだしそうになる体を必死で抑えるために、繋がれた手を無意識のうちに強く握った。

「幻でも見ていたのかな」

 耳元で囁かれ、アサコは眉を顰める。

 幻、なのだろうか。アサコ自身、時折姿を現す彼らが幻なのか何なのか分からない。彼らは神出鬼没で気づけばその姿をアサコに見せ、それこそ幻の様に瞬く間に消えてしまう。それなのに幻だと断定できないのは、それほどまでに彼らはアサコにその存在を強く主張するからだ。

 イーヴェの言葉に潜む疑心を感じ取ると、やはり居心地が悪かった。彼が自分を疑うことは仕方がないことなのだとアサコは知っていたが、それでも、たとえお互いの意にそぐわないことだとしても今一番近くにいる人に疑われているし、もしかするとそれにより嫌われているかもしれないと思うと辛いものがある。そもそも二人は出会った時の状況が悪かった。魔女の城に魔女と共通の特徴を持つ少女がいれば、疑われてしまっても仕方がない。それに、事実アサコはラカと交流したことがあるのだ。ラカはアサコに決して失うことはできない絆を残した。自身の命に仮初めの身体。

 ふらふらと覚束無い足取りでアサコは歩いた。少女の姿を見てからというもの、具合は悪くなる一方だった。常であれば胸に浮かんだ不安もすぐに薄れていくというのに、それは増していくばかりで怖気も止まらない。とても酷いことが起きた時のように、さあっと頭は冷えている。しゃがみこんで泣き出したい気持ちを必死で抑えた。一体何が起きたというのだろうか。

 この時ディルディーエが近くにいれば、アサコはすぐにでもその自らの異常を訴えただろう。先ほど感じたイーヴェの疑心のせいで、彼にそれを伝えようとは思えなかった。結局はアサコも彼のことを信じきれてはいないのだ。サリュケになら言えただろうが、彼女は少し離れたところを歩いている。

 この後の散歩はアサコにとって更に辛いものとなった。周囲の音をまともに拾うこともできない程に、アサコは不安を抑えるのに必死になる。唯一幸いっだったのは、周囲に気を使う余裕もなくなってしまったことだったかもしれない。

 ふと視線を上げれば、弟王子とまた目が合った。彼はアサコに訝しげな視線を向けたあとで、先ほどまで少女が立っていた木の下にそっと目を向けた。彼にも、あの少女の姿が見えていたのだろうか。

 疑問を抱く前に、アサコは地面に膝を着いた。

「ニコ?」

 彼女の前にしゃがみ、覗きこんだイーヴェの目が見開かれた。

 ぽたぽたと地面を水滴が濡らす。大きな目から溢れ出した涙が白い頬を濡らしていた。アサコはそれを止めることもできずに、涙で滲む地面を呆然と眺めた。今までにもこんなことはあった。訳も分からずに強い感情に呑まれて涙を流したこともある。けれど、今回はいつもよりもはっきりとした感情で胸が締め付けられた。理由はやはりどうしてなのか分からない。それでもこれはラカのものではなく、自分のものだという自覚があった。どうしようもない不安や寂しさ、そこに混じる悲しみ。どうしてなのか解らないから、止めることもできない。溢れ出してくる感情はこんなにもはっきりとしているのに、その理由は分からないのだ。

 慌ただしく駆け寄ってくる足音が聞こえて、柔らかな香りがアサコを包んだ。

「アサコ様、城に戻りましょう」

 小さな声で囁かれ、アサコは微かに頷いた。サリュケだ。ひんやりとした柔らかな手で頬を包まれ、小さく深呼吸をする。今何かが起こっている訳ではないと、自分を落ち着かせようとアサコは目の前の黄緑色の瞳を見た。強い意思を持っているかの様に感じさせるその瞳は、アサコの心を見透かす様だ。

 緑の天蓋の言葉でサリュケはイーヴェに何かを言い、アサコを立ち上がらせた。両腕を二人の侍女に支えられながら、アサコはゆっくりと歩く。先ほどまでよりは少し落ち着いた気分になっていたが、それでも涙は止まらなかった。

 城の前までやってくると、サリュケが立ち止まった。

「大丈夫ですか?」

「はい。ごめんなさい……ちょっと疲れちゃったみたいで」

「アサコ様、私には嘘を吐かなくてもいいのですよ」

 静かな声で言われて、アサコは口を噤んだ。私には、ということは、彼女はアサコがイーヴェに時折嘘を吐いているのを知っているのかもしれない。そう思うと、罪悪感を感じ居心地が悪くなった。そうでないと解っていても、責められている様にも感じてしまう。

 返事を返さずにじっと黙り込んでいると、サリュケは小さなため息を漏らした。

「とりあえず、お部屋へ戻りましょうか」

 部屋へ戻るまで、アサコと二人の侍女は無言だった。アサコは一人居た堪れない気持ちでのろのろと歩いた。部屋に着くと、サリュケはアサコの上着を脱がせ、彼女を椅子に座らせて鬘をとった。

 目の端に長い黒髪が流れていくのを見ながら、アサコはそっと胸に手を当てた。不安はじわじわと心のを占めている。意識してしまえば、また涙が零れそうになる。

「魔法を掛けられた……いいえ、解かれた様ですね」

「まほう?」

「ええ、アサコ様。お気づきですか? あなたにはたくさんの魔法が掛けられている。その一つが解かれたのです」

 アサコが不安げに眉を動かすと、サリュケは彼女に柔らかな笑みを向けた。

「その反動で、不安定になっているだけですよ」

 本当なのだろうか。安心させるように浮かべられた笑みに嘘など見当たらないが、アサコにはこの不安は無くならないものの様に思えた。

「ご心配なさらないで下さい。寝て、目が覚めればきっと治まっています」

 髪を梳かれ、アサコは促されるまま寝台に入った。

 彼女は魔女だ。きっと根拠もなくそんなことを口にしたりしないだろう。そう思いそっと目を閉じる。しかし目蓋の裏の闇にさえ不安を覚え、眉を顰めた。

 何かが心の中で蠢いている。それは何か一つでも間違うと暴れだしそうな、脆く、危ないものだ。もしかすると、失くした記憶と何か関係があるのかもしれない。だとしたらそれには触れようとしない方がいい。欠けた記憶は、アサコと人形の体、ラカの命を繋ぎ留める鍵だ。全てを取り戻してしまったら、アサコはきっと此処にはいられなくなる。それは先日知ってしまったことだった。もしそうなってしまったら、その時自分がどうなるのかアサコには想像もつかない。

 ひんやりとした手が額を撫でる感触にアサコは集中した。ふと気を抜けば、溢れ出してしまいそうな何かを必死で押さえ込む。不安が不安を呼ぶ。

 トントンと部屋の扉が叩かれる音が、静かな室内に響いた。サリュケは枕元から動かず、もう一人の侍女が扉を開ける姿をアサコは薄く開いた目で捕らえた。いつもにこにこと愛らしい笑みを浮かべる侍女が、珍しく困った様子で振り向き、サリュケに何かを言う。するとサリュケは、小さく首を横に振りながらもう一人の侍女に言葉を返した。

「姉さん、お加減はいかがですか」

 最近では聞き慣れてしまった声に、アサコは閉じかけていた目を大きく開いた。その途端、青年に顔を覗き込まれ、驚きで体を震わせる。いつの間に部屋の中に入ってきたのだろうか。

「……ジュリアス様、お言葉ですが、殿下といえど婦女子の部屋に無断で立ち入るのは無礼なのではないですか。それにアサコ様は知っての通りご気分が優れないご様子です。また時を改めて下さりませんか」

 聞いたことのないような彼女の硬い声に、アサコは自分を庇うようにして立つサリュケの後ろ姿を見た。その向こうには、金色の髪を後ろで縛り、穏やかともとれる笑顔を浮かべる青年の姿が見える。部屋を開けた侍女は、おろおろろした様子で二人を見守っていた。

 もしかするとサリュケはジュリアスを嫌っているのだろうか。アサコの頭にそんな疑問が浮かぶ。王子と侍女という関係で言えば、サリュケは彼に何かを言える立場ではない。けれど二人は魔女と魔法使いの弟子でもあるのだ。

「愚かなサリュケ。魔女の約束事を忘れたのかい」

 嘲笑を含んだ声だった。明らかな侮蔑が浮かんだ眼差しは、普段は一見穏やかにも見える彼からは想像もできないものだ。アサコは自分がその眼差しや声を直接向けられたわけでもないのに、少し怖ろしくなった。以前は時折向けられていたイーヴェの冷たい眼差しを思い出す。

「……いいえ。過ぎたことを致しました。けれど殿下、貴方方の間にも約束事があったのではございませんか?」

 ジュリアスは冷たい笑みを浮かべたまま、目を細めた。

「よく知っているね。流石は魔女だ。けれどこれはその約束事には背いていないよ」

 その言葉のあとに目を向けられて、アサコは思わず体を震わせた。ジュリアスの顔には先ほどまであった冷たさはもうなかったが、それでも先ほどその表情を見たばかりなのだ。それでも彼に対する怖さよりも少女を見た時から止むことのない不安や心細さの方が大きい。

「ああ、酷い顔色だ。もう一度魔法を掛けなおすこともできますが」

 伸ばされた手が頬に触れる。アサコはそれを拒みはしなかった。手のひらから伝わる熱がじんわりと拡がり、不安が少し和らいだ。触れる感触は柔らかな子供のそれとは違うのに、ディルディーエの手が触れているように感じる。ほっと息を吐き目を閉じる。それでもじわじわと胸の内では不安が湧き上がり、その手に縋りたくなった。

 ジュリアスは目を細め微笑んだ。目を閉じているアサコにはそれが見えていない。見えていたのなら、すぐさまその手を拒んでいたはずだ。

「姉さん、貴女の秘密を一つ教えてさしあげましょう。分からないから不安になるのですよ……サリュケ」

「……はい」

 扉が開く音がしてアサコが目を開くと、サリュケともう一人の侍女が部屋を出て行くところだった。サリュケは心配気な目でアサコを見ると、アサコが止める間もなく扉を閉めた。

 先ほどとは違った意味で頭からさあっと血の気が引く。アサコはつい先ほど目を閉じた自分を呪いたくなった。頬に触れている手から逃れるように顔を背け、寝台の前で屈む目の前の青年を睨む。

「……魔法を使ったんですか」

「なんのことですか?」

 首を傾げる仕草が小さな魔法使いのものと重なり、アサコは眉を顰めた。わざとしている様にしか見えない。

 ジュリアスは寝台の前に膝を着くと、寝台に腰掛けるアサコの顔を覗き込んだ。

「次から次へと湧き上がってくる不安を止める術を貴女は知らないでしょう。その不安は貴女が本来持っていたものなのです。彼女が言っていた様に、元々掛けられていた魔法が解かれただけ」

 一体どこから話しを聞いていたのだろうか。扉は分厚く外に静かな声が漏れるほどではない。

 元々持っていたものなどと言われても、アサコには覚えのない感情だった。いや、全くない訳ではない。その感情を抱いたことはあるかもしれないが、それがいつだったのかは覚えていないのだ。

「師匠は、あなたをよほど大切にしていた様ですね」

 ジュリアスはそう言いながら再びその手を伸ばした。今度は避けられて苦笑する。

「秘密ってなんですか。どうしてジュリアスがわたしの秘密を知ってるんですか」

「あなたにはたくさんの魔法が掛けられている」

 先ほどサリュケが言ったことと全く同じことをジュリアスは言った。

「目隠しの魔法ですよ」

「目隠し?」

 その言葉を反芻し、アサコはまたじわりと湧いた不安に眉ねを寄せた。なにか、とても嫌な感じがした。自身に魔法が掛けられていることは知っている。人形の体なのだと思い出した時から、それはよく解っているつもりだった。ラカの魔法が、アサコを此処へ繋ぎ止めているのだ。けれど、目隠しとは一体何のことだろう。

「貴女は騙され、守られている」

 ぐらりと頭が揺れた。寝台の上に倒れそうになるのを抱きとめられ、目の前の黒い服を掴む。急速に湧き上がってきた眠気で、アサコはそのまま体を起こすこともできずに自分を支える腕にその身を預けた。薄く開けた目で覗き込んでくる薄紫の瞳を見る。

「魔女は私の話をよほど貴女に聞かせたくないらしい。解けた魔法は一つです。それは貴女の感情を抑えるものでした。……怖ろしいですか?」

 ジュリアスが訊いていることは解っている。アサコは小さく頷いた。

 怖ろしいのは、理由が分からないことだ。強烈な眠気のせいか、先ほどまでの不安は少し和らいでいるが、あれが元々アサコが持っていた感情なのであれば、目覚めてもその感情は都合よく消えてはいないだろう。

 服を握る白い手を取り、ジュリアスは微笑んだ。不安のためか、縋るように握り返してくるその手の力は弱い。細い指に指を絡め撫でると、アサコはこそばゆそうに手を震わせた。

「不安や疑問はあなたが失ったものを取り戻すきっかけにもなってしまう。彼女はそう考えたのでしょう。記憶と共に少しの感情も閉じ篭めた。覚えはないですか? 今までそんな感情を抱いた時、それはすぐに薄れていたのでは?」

 アサコは小さく頷く。もう喋るのも億劫なほどに朦朧としていたが、まだ彼の言葉はなんとか理解できた。

 私の可哀想なお人形さん、と言う澄んだ少女の声を思い出す。すぐに薄れていった疑問の正体など、今更思い返してみても分からない。あんなにも不安になるのであれば、魔法を掛けた彼女を恨む気持ちにもなれなかった。それにしても、サリュケは魔法が解かれたと言っていたが、一体誰に解かれたのだろうか。ジュリアスの話を聞く限りでは、ラカの仕業ではない様に思える。

 そんなことを思いながらも、アサコは体中に纏わり付く眠気に抗えないでいた。気を抜いてしまえば、すぐにでも意識を手放してしまいそうだ。まだ眠るわけにはいかない。慎重に話す彼が、まだ秘密を口にしていないことには、微睡の中にいるアサコにも流石に分かっていた。

「ああ、そうですね。貴女が眠っていまう前にお話ししましょう」

 アサコの心を読んだかの様に、ジュリアスは言った。

 その言葉とは裏腹に、優しく額を撫でられてアサコは思わず目を閉じてしまう。

「あなたをその人形の体に閉じ込めたのは、ラカではありません。貴女が一番信頼している、魔法使いですよ」

 ぴくりと、白い指先が震えた。

 薄っすらと目を開けると、ジュリアスは冷たい光りを宿した目で彼女を見つめていた。

 どうして、とアサコは疑問を口にしたつもりだったがそれは声にもならず、微かに動いた口から漏れるのは小さな吐息だけだった。どうして、と単純に浮かんだ疑問が頭の中で繰り返される。他には何も考えられない。

 ジュリアスは目を細めると、薄く開いた唇をゆっくりと撫でた。

「一つだけ、と言ったでしょう。彼女の不興を買うのは、私の本意ではないのです」

 その言葉を理解する前に、アサコは眠りに落ちた。









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