35
あまりの恥ずかしさに、アサコは顔を上げることができなかった。
他人を母親と間違えるのは、自分が母親に固着していると主張している様で、なんとも気まずい。ここでいつもの様にからかいで返されれば、その気まずさを押しやって怒りで誤魔化すことも出来るのだが、イーヴェはそんなアサコを面白がる素振りも見せなかった。それがますますアサコの恥ずかしさを増幅させる。中学生の時に、授業中に先生のことを「お母さん」と呼んだ男子生徒がいてクラス中の笑いを誘ったが、その子はその時こんな気分だったに違いないと思う。
「あの、寝惚けてて……間違えました」
目を伏せたままで言うと、小さな笑いが上から降ってきた。それに吊られてアサコが上を見ると、そこにはイーヴェは彼女が予想もしなかった表情で微笑んでいた。満面の笑みという訳ではないが、今までに見たこともないような優しさがそこにはあった。先ほどまであった恥ずかしさも気まずさも忘れて、アサコは思わずそれに見入った。
大きな手のひらが額に触れる。降りてきた唇は、その指の間に覗く白い額に落とされ、そのまま辿る様に薄い目蓋にも触れた。
呆然とした表情でアサコはそれを受け止める。少ししてその顔は真っ赤に染まった。
急に五月蝿く鳴り出した心臓の音を抑えるように、アサコは頭の天辺から布団を被るとその中で丸まりぎゅっと目を閉ざした。一瞬忘れた恥ずかしさとは別の恥ずかしさが湧いてくる。優しい笑みが頭にこびり付いて離れてくれない。アサコは自分自身でその反応に驚いていたが、布団に潜り込む前に見た驚いた様に目を大きくする彼の表情を思うと、彼もアサコの反応は予想外だったに違いない。今まで触れられてもふざけた戯れだとしか思っていなかったから多少気恥ずかしくとも、それを拒否することはあっても過剰に反応したことはなかったのだ。思いがけない優しさの篭ったあの表情を見たのが悪かった。それさえ見なければいつも通りの反応を示せた筈なのだ。
「君の母親は、君を大切にしていたんだね」
静かな声に、アサコは布団の中で目を開けた。それでも恥ずかしさはなくなってはいないので、布団の中から顔を出すことはまだできない。イーヴェの言葉は彼女にとって意外なものだった。大切にされていた自覚はある。いつも一緒にいる時間は少なくとも、母の愛情を感じて生きてきた。それをイーヴェが口にすることに違和感を感じはしたが、悪い気分になる筈が無い。じんわりとその言葉はアサコの心に沁み込んだ。見えていないことも忘れて小さく頷く。
「離れ離れは寂しいね」
その静かな声で、アサコは忘れかけていた寂しさを思い出す。離れ離れは寂しい。小さな頃から母があまり家にいないのは当たり前だったので、高校生になる頃にはそれには慣れていた。けれど小学生くらいの頃は家に帰る度、夜が訪れる度に寂しさを感じていたのだ。もしかすると、母はもう帰って来ないのではないだろうかという錯覚さえ抱くこともあった。途方もない寂しさ。それはどこか、『その箱を開けてはいけないよ』と言われた時の寂しさとも似ている。
布団越しに肩を撫でられるのを感じたアサコは、再び目を閉じた。この手は嫌いではないと、いつかも思ったことを再び感じる。真意がどうであれ、その手には温かさや優しさがある様な気がするから。
先ほどまであった恥ずかしさや緊張は抜け、アサコは心地よい微睡に身を預けた。目を閉じれば、とろりとした温かな闇に包まれる。
王子様は駄目よ。信じては駄目。
弛緩した頭の中で、ラカの言葉を思い出す。けれどイーヴェの弟の話を聞いてから、アサコは彼を以前ほど怖いとは思わなくなっていた。彼もまた一人の人間だったのだということを意識すると、それはたちまちアサコの緊張の糸を解いてしまった。その糸を再び結ぶのは彼女にとって難しいことだ。何故か軟化したイーヴェの態度も、彼女の警戒を解く理由の一つになっている。
いつかは帰る場所のことを思い出しては、アサコは殆ど無意識に、此処に現実感を抱かない様にしていた。母親のこと、祖母のこと、学校のこと、友達のこと。此処は夢見心地でいるべき場所だ。そうしないと帰れなくなってしまう気がした。けれど、触れる人々の温かさや甘やかな花の香り、目に見える鮮明な景色や自分の中に巻き起こる感情は、拭い去りようもない。少しずつこの世界のものが指先や耳、鼻や口に、心に染み込んできていることを感じている。ディルディーエに感じた様な感情を他の人に抱いてはならない。好意の感情を抱いてしまった時、苦しむことになってしまうことは目に見えている。全てのことに感情を見出さなければ、そこに何かを感じることも少なくなる。そうすれば、この温かな手さえも無感動に受け止めることができる。
間もなく、アサコの意識は夢に落ちた。
「ねえ、それって大切なこと?」
窓から差し込む明かりを辿れば、大きな木の枝の間から差し込む太陽の光りが見えた。ゆらゆらと、風に揺れる枝の動きに合わせてその光りはちらちらとアサコの目に反射する。
「ねえ、聞いてる?」
咎める様な声に、アサコは前を向いた。
教室の片隅、窓から一番近いところにアサコの席はあった。いつもは賑やかな教室には、誰の姿もない。授業が終わって皆そそくさと帰ってしまったのだろう。運動場の方から、掛け声が響いてくるがそれは遠い世界のものの様だった。
前の席の椅子を後ろに向け、アサコの方を向いているクラスメイトに彼女は目を向ける。開いた窓から風が吹き込み、薄汚れたカーテンを揺らす。クラスメイトの少女の顔は外から差し込む陽光のせいではっきりとは見えないが、少女が笑っていることは目を細めたアサコにも知ることができた。
「学校って、本当つまらないところね。みんな同じ服を着て、狭い部屋に押し込められて、退屈な話を何時間も聞かせられるなんて」
なんの話しをしていたのだろうかと、アサコは思考を巡らせた。ぼんやりとしていたせいか、彼女との会話の内容を一切思い出せない。けれどそれを彼女に訊いてしまうことは躊躇われた。
そうかな、そんなことないよ、とアサコはやんわりと少女の言葉を否定した。彼女の言うことも尤もだが、アサコは学校が嫌いではない。勉強が好きなわけではないが、学校に来ればたくさんの友達や先生と会うことができるし、学校という集団の中でしか感じられないような楽しさもあるのだ。
少女はアサコが同意を示さなかったのが不服だったのか、笑みの形を描いていた口元をむっとへの字に曲げた。
また、風が静かな教室の中に吹き込む。今度の風は教室のすぐ横に生えている木から、何枚もの葉を連れてきた。今日は風が強い。窓を閉めた方がいいかもしれないと、アサコは再び窓の方に目をやり手を伸ばしかけた。けれど、アサコはその手を止め、驚いた様に目を円くした。
「これって、夢? どうしてラカが教室にいるの」
くすくすと、少女は笑いを漏らした。
いつもの夢とは違う。いつもは、彼女の陣地での夢だった。教室の中でラカがいる。しかも、アサコと同じ制服を着て。夢の中では何でもありうるが、彼女が現れる夢は夢であって夢ではない。アサコは大きな違和感を今更ながらに感じ、眉を顰めた。
「学校って、つまらないところ。ここにいる子たちも、みんなそう。あなたの世界って、とてもつまらないところだわ」
「住んだこともないのに、分かるの?」
「分かるのよ、アサコ」
ラカはそう言うと、静かに椅子から立ち上がりスカートの裾を摘まみくるりと回った。スカートの襞がふわりと広がる。そこから突き出した白い足が裸足の指先が、踊るように爪先立ちで教室の床を踏んだ。
「戻ることなんてないのよ。だって、あなたは私のものだもの。そのことを忘れちゃいけないわ。それは、とても重要なことなのよ」
アサコは自分の姿を見下ろす。彼女と同じ制服に包まれた身体は白い。肩までだった筈の髪は、いつの間にか腰の辺りまで伸びていた。見慣れたはずの制服に自分の身体。なんの変哲もないのに違和感を感じるのはどうしてだろうか。
とても、重要なこと。
けれどアサコはそうは思えなかった。確かにアサコの身体はラカの所有物であった人形なのだが、心はアサコなのだ。
「私以外に心を許さないで。あなた自身がそれを望んだはずでしょう? 大切な人はいらないって」
揺れていた羊色のカーテンが、白と黒の縞々に変わる。笑みを浮かべるラカは、それを背景に血の気の引いたアサコの顔を覗き込んだ。
「ねえ、アサコ。私の可愛いお人形さん、私の哀れな分身」
ラカは耳に接吻するようにして囁く。
「私を失望させないで」
「ラカ?」
震えるアサコの声に満足した様に、ラカはくすくすと笑った。
「目が覚めたら」
そこでラカの声がぷつりと途絶えた。それはアサコの唐突な目覚めが原因だった。それとも、アサコはその続きを見ていたが目覚めと同時に忘れてしまったのかもしれない。
けれど、目の前に見えた顔にアサコはそれが夢の続きなのだと知った。
「アサコちゃん、大丈夫? 随分魘されていた様だけど」
随分と、目まぐるしい夢だ。アサコは夢の中であるにも関わらず、大きな溜息を吐きたくなった。教室でいたと思ったら、アサコは今度は家のリビングのソファに横になっていた。
「怖い夢でも見た?」
尚も心配そうに訊いてくる叔父をアサコはまじまじと眺めた。彼の顔を見るのは一体何年ぶりだろうか。母の年の離れた弟である叔父は、写真家で海外暮らしをしている。数えるほどしか会ったことがなく、最後に顔を合わせたのは、確か小学四年生の頃だった。その時彼はまだ高校を卒業したばかりだった筈だ。母とは十二も歳が離れているせいか、叔父と姪というよりは兄妹という方がしっくりとくる。それでもアサコはこの叔父に強い血の繋がりを感じ、よく懐いている方だと自覚していた。
それにしても奇妙な夢だ。叔父がアサコと母の家にいるのは彼女にとっては可笑しいことだったが、それでも先ほどのラカほどに違和感を感じることはなかった。久しぶりだというのに久しぶりという感じもしない。きっと夢だからだろう。
「別に、怖い夢なんて見てないよ」
「そう……風邪を引くからそんなところで寝ちゃ駄目だよ。せめて何か羽織ってこないと」
気遣わしげな声に、アサコは侍女の姿を思い出して小さく笑った。アサコの上にはソファに置かれていた大判のひざ掛けが掛けられていたが、きっと彼が掛けてくれたのだろう。日が沈んだ後の部屋の中は、肌寒い。
彼女の様子に不思議そうに叔父は首を傾げたが、すぐにその顔にはほっとした様な笑みが浮かんだ。
「何か可笑しいこと言った?」
「ううん、シュウちゃん。なんでもないよ」
そう、と叔父は微笑むとカウンターで間仕切られた台所の方へ行ってしまった。アサコはソファの上からぼんやりとその様子を眺める。制服のスカートが着たまま寝ていた為に、皺になってしまっていることに気付いたが、夢の中だからいいかと直さずにいた。
叔父は冷蔵庫の中から、慣れた様子で具材を取り出していく。料理を始めそうな気配に、アサコは小首を傾げた。夢なんていつも可笑しなものだが不思議で仕方が無い。どうして叔父がこの家で料理なんかする夢を見るのだろうと思った。
「最近、よく夢を見るの」
アサコがぽつりと漏らした言葉に、叔父は振り返った。
「夢?」
「そう、夢」
夢の中で夢の話しをするなど、なんて可笑しなことだろうか。
アサコは苦笑しながら口を開いた。叔父の視線が自分に向いているのを感じながら、その真っ直ぐな目を見るのが何故か怖くて、スカートの襞を眺めた。
「女の子が、暗いお城の中で、泣きながら王子様を待ってるの」
「それは……」
何と言おうかと、戸惑っている様な声だった。真っ直ぐに向けられていた視線が外される。アサコはそのことにほっとして、ようやく彼をまともに見つめることができた。二重の垂れ下がった目に、すっと通った鼻梁、柔らかそうな茶色の髪。彼は、アサコの母とよく似ていた。歳が離れていても、流石は血の繋がった姉弟だ。
「女の子は魔女になって、長い時間を生きて、その内に王子様は死んじゃうんだけど、それでもずっと待ってるの」
自分のその言葉にアサコは何か引っかかりを感じた。勿論夢の話はラカのことだ。けれど、これとは別にとてもよく似た話を知っている様な気がした。なんだっただろうと思うけれど、何だったのか思い出せない。小さい頃に聞いた御伽噺だっただろうか。
「どうして、待ってるんだ。王子様はもういないのに」
人の好い叔父は、アサコの夢の中の話しにも真剣に耳を傾けてくれる。これも夢なのだと再び意識すると、アサコはその奇妙さにくすっと笑いを漏らした。
「王子様が好きだからじゃないかな。死んでも、それが分かってても、待たずにはいられないんだよ」
ラカが何を考えているのかは、アサコにもはっきりとは分からない。けれど以前見たことのある悲しげな笑みは、アサコにそうなのではと思わせた。彼女は、きっと王子を憎みながら、好きだという気持ちを捨てきれてはいないのではないだろうか。ディルディーエは、ラカの涙と王子に対する気持ちを代償にしたと言っていたが、ラカを見る限りその気持ちは消えていない様に思えた。もしくは、一度は失くしてしまったその気持ちは、時折姿を変えながらも、彼女の中から絶え間なく溢れていたのかもしれない。
「……最近、あまり眠れてないんだろう。疲れが溜まってる様だね。今日は早く寝た方がいい。まだ眠いなら、夕食が出来たら起こしてあげるから、温かくして寝るんだよ」
やはりサリュケと同じ様なことを言われて、アサコは少し笑いながらソファの上で丸まった。
テレビから聞こえてくる賑やかなバラエティ番組の音声に、つけられたばかりの暖房の音に、台所から聞こえてくる調理器具がぶつかる音。なんて現実的な夢だろうか。アサコは温かなひざ掛けの下で目を閉じた。次に目を開けた時は、きっとあの城の中だろう。眠る前に思ったことが、夢に影響を与えたのかもしれない。おそらくアサコは、自分の居場所に心を繋ぎとめようとしている。色んな理由を付けて、イーヴェに心を許してしまわない様にしている。
心の中では、嫌な予感が渦巻いていた。はっきりと形を成さないそれは、ラカとティエルデの夢を見てからだったかもしれないし、つい先日からのものだったかもしれない。ラカの忠告は聞くべきだ。彼女は狂気に塗れているが、時折正しいことを言う。それを聞き逃してはいけない。
けれど、一番近くにいる人に心を許さずにはいられない。解けてしまったものを再び結ぶ術をきっとラカも知らないのだろう。それとも忠告をしながらも、彼女の本心は別のところにあるのだろうか。
とろりとした闇の中に入ると、すぐに現実的な音は遠ざかっていった。次に目覚めた時に顔を合わせるであろう人物のことを思い出しながら、アサコは夢の中で眠りについた。