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本当に酔いが醒めた頃に部屋にやってきたイーヴェと共に、アサコは城の前に広がる湖畔を歩いた。
日はもう完全に沈み、頼りになるのは薄い雲を通して降ってくる月明かりとイーヴェが持つ角灯の灯りくらいだ。それに城から漏れる橙の灯りもあるが周囲は暗く、よく言えば幻想的だが、不気味だった。
アサコはごくりと唾を飲んだ。すぐ近くにある湖から、黒く染まった木々から何か出てくるのではないかと想像してしまう。イーヴェは城の中を案内するとは言ったが、さっと説明しただけですぐに外に出た。どの道案内されても明日か明後日には此処を発つと聞いていたアサコはそれでもよかったのだが、わざわざ夜に湖畔の案内などしてくれなくてもいいのにと思った。
この後は晩餐会が控えているのだが、その緊張でアサコの胃は縮こまっていた。この地へやってきてからというものイーヴェやディルディーエとお茶をすることはあっても、食事は一人でしかしてこなかったので今日顔を合わせたばかりの人たちとの畏まった食事会など想像しただけで疲れてしまうのだ。それも彼らは曲がりなりにも国の権力者たちだ。アサコは普段何気なくイーヴェと接しているが、本来は畏まらなければいけない立場にある。それも今更だから注意されない限りは直すつもりも彼女にはないのだが、食事となるとそんな彼とでも緊張してしまいそうな気がしていた。
食器の形状や作法はアサコが知るものとよく似ていたのでそれ程困ることはなかったが、その程度のことだ。完璧に使いこなせるというわけではない。
「ここは昔、ラカと王子も訪れたことがある場所なんだ」
この場所を歩く意味にようやく気付き、アサコは顔を上げた。城を出たのは話しをする為だったのだろう。それが目的だったのならば部屋で話しをすればよかったのではとアサコは思ったのだが、彼にも何か考えがあってのことだったのかもしれない。
「夕闇の城というのは、彼らに関係するところでもあるんだよ」
「物語、ですか」
アサコは周囲に響かないほどの声で言った。こんな中で灯りも持たずに出歩く者などいないだろうが、もしイーヴェの弟王子に関係する者に聞かれたら面倒なことになってしまうかもしれない。
イーヴェは仄かに笑みを浮かべ、頷いた。金色の艶やかな髪が揺れる。アサコは角灯に照らされたその横顔を見て、すぐに目を逸らした。
「昔、この国にもまだ青空が広がっていた頃のこと。小さな王子が父に連れられてこの城に来たらしい。その時、この城には夕闇の姫と呼ばれる少女が囲われていたんだ」
「夕闇の姫」
頷きイーヴェはアサコを見た。
「その少女は夕闇の様な青み掛かった不思議な長い黒髪に、琥珀色の瞳をしていたらしい。王子はその娘と王城付近の森で出会ったことがあったから、父に連れられて来たこの城での再会は衝撃的なものだった。彼女は父の情婦としてこの城に囲われていたのだから。彼はその少女に恋していたんだよ」
物語というには、あまり幻想的な話ではなさそうだ。アサコは無意識に眉を顰めた。この物語にもまた、不幸せな結末が用意されているのだと想像がつく。歪みの城に閉じ篭った姫君の物語も、作りかえられているとはいえ良い結末とはいえないものだったのだ。心を閉ざした心優しい姫君は結局以後、王子には会えていないのだから。その子孫の王子が迎えに行きその王子の花嫁になるなど、それもまた一見幻想的な物語の運びにも思えるが、実のところ皮肉でしかないではないだろうか。
アサコの様子に気付いてか気付かずか、イーヴェは口を閉ざすことなく言葉を続ける。
「少女は王子に王の情婦として城に囲われていることを知られて、城から始めて逃げ出そうとした。彼女もまた王子に恋をしていたんだ。けど、恋をしていたのは彼女たちだけではなかった。王も、まだ幼さの残る少女にその感情を抱いていた。王は、少女がこの先も自分のものにならないのなら、いっそ殺してしまおうと思った」
想像していたよりも良くない結末にアサコは視線を落とす。すぐ近くで水音がした。魚が跳ねたのだろうか。自然と音がした方に目が向く。不思議な感覚がした。
ふっと笑う気配がして、アサコはまた顔を上げた。
「来る時に、黒い水鳥がいるのを見た? その水鳥は姿を変えた夕闇の姫だと言われているんだ」
それならば、アサコは馬車の中から朦朧とした意識で捕らえていた。他の白い水鳥に混ざってその鳥だけが唯一黒い姿をしていたのだ。静かに水面を行く姿は一見優雅にも見えたのだが、そんな言い伝えがある鳥だったのだとアサコは内心驚いた。兎や羊の姿に変えられてしまった人間もいるのだから有り得ない話ではないのかもしれない。
目を凝らしてもその黒い鳥の姿は、闇に紛れて見つけることができない。
「王から逃げて王子の近くにいる為に自らその姿を変えただとか、王が彼女を逃がさない様にと魔法使いを従えて呪いを掛けさせただとか色んな説があるんだけど、本当のことは今となっては誰にも分からない」
「王子はどうしたんですか」
そう言って躓いたアサコをイーヴェは支え、そのまま彼女の手をとった。
ありがとうございます、と言ってアサコが頭を下げても、手は離れることもなくぎゅっと繋がれた。仄かな笑みを浮かべて、イーヴェはアサコを見つめる。
既視感でアサコは目眩を覚えた。それは恐らくラカの記憶のせいだったのだろう。手を離そうとしてもぴくりともしない。そのことに言いようのない恐ろしさを感じる。
「王子は姫が死んだと思い込んだらしい。悲しみに暮れながらも王城に戻り、その内に隣国の姫君を妃として迎えた。生まれた子供は六人。彼らは大人になり、子を産み、それが繰り返されてきたお陰で俺たちもいるという訳だよ」
「あの、離して下さい。一人で歩けます」
「転びかけたのに?」
「躓いただけです」
思わずむっとしてアサコが答えると、イーヴェの笑みは深くなった。
またぽちゃんと水が鳴ったが、アサコも今度は湖の方へと目を向けることはなかった。この音は、歪みの城で毎日の様に聞いていた音だ。薄く水に覆われた床に、塗れたラカの長い髪から垂れた水玉が落ちる音。
アサコはまた目の前の青年から目を逸らすと、城に灯る灯りを見た。広い空に星が一つも見えないのは、今までそんなに意識したこともなかったが少し不気味だ。昼の間だったなら、彼に恐れも感じなかったのかもしれない。不明瞭な視界では、イーヴェの姿はますます夢で見たラカの記憶の中のティエルデやその父親と被る。違う人だとは分かっていても、ふとした時にどうしても近いものとして見てしまうのだ。ティエルデとは実際に会ったことがないことも原因の一つだろう。
「君、時々酷く怯えた顔をする時があるけど、何がそんなに怖いのかな」
ばれているとは思わなかったアサコは、思わずぴくりと繋がれていた手を奮わせた。違うと言っても、その反応では否定の言葉は信じては貰えないだろう。だからと言って馬鹿正直にティエルデに似ているからと言ってしまっては、今ある彼の中の疑いを益々深めてしまうことになるのは、アサコにも簡単に想像できた。けれど同時に、それを言ってイーヴェがどの様な反応を返してくるのか気になった。以前の様に冷たい眼差しを向けてくるのだろうか。
「……ティエルデに似ているからです」
イーヴェは秀麗な眉を顰めた。
まったく、魔が差したとしか言い様がない。口にした後でアサコは自分の口を縫い付けたくなった。
ただ怖いだけではない。様々な感情が綯い交ぜになって胸の奥で渦巻くのだ。自分のものではないと分かっていても、自分のものの様にあるその感情を消す術をアサコは知らない。出来る限り気を向けない様にするしかない。
好奇心に負けて口にしておきながら、アサコはイーヴェに向けられるであろう視線が怖くて顔を上げられないでいた。
「どうして先王のことを君が怖がるの」
その声に冷たさや非難は篭められておらず、アサコは顔を上げた。彼女の予想に反してイーヴェの顔には冷たさの欠片も浮かんではいなかった。そこには不思議そうな表情があるだけだ。
「先王?」
「そうだよ。彼は長い歴史の中でも特に国民に愛され望まれた賢王だ。君がどうして彼を怖がるのか分からない……ラカが君に何か言ったのかい」
「だって、信じなかったじゃないですか」
その声には、憎しみが篭っていた。
賢王であったという彼がラカのことを信じてさえいれば、悲劇はまだ小さく収まっていたかもしれない。少なくとも、ラカの気持ちは狂気から救われただろう。彼の裏切りこそが最後の、一番大きなきっかけだったに違いないのだから。
ずっと一緒にいよう、と途方もない願いを口にできるほど彼らはかつて幸せで、お互いの存在がとても大切だった。
一度は突き放されたものの、ラカはあの仄暗い城の中で王子がやってきてくれることを信じて待ち続けていた。けれど、結局迎えはこなかったのだ。
アサコは再び手を振り払おうとした。けれど大きな手は今度は逆に彼女を引き寄せた。
「確かに彼は彼女を信じきることができなかった。父王のことも信じたかったから。けれど、自分が信じなかった時の彼女の顔が頭から離れなかった。彼はずっと後悔していたんだよ。何度もあの歪みの城に足を運んでは、痲蔓を掻き分け進もうとした」
「え」
迎えはこなかったはずだ。
城を覆い尽くす蔦に王子が手を触れたのならば、その時すでに人としては生きていなかったラカは彼の存在を感じ取れるはずだった。結局、その後蔦に触れたのはイーヴェの弟である遠い未来の幼い王子だったのだ。
何かが違う。どこかが噛み合っていない。
胸の鼓動をやけに大きく感じながら、アサコは小さく口を開いた。
「嘘です。ラカはずっと王子様が城にやってくるのを待ってたんですから」
「……彼は、殆ど毎日の様にあの城へ行ったんだ。年老いて動けなくなるまで、ずっとだよ。結局城へは辿り着くことはできなかったけれど、いつも痲蔓が開くのを願っていた。彼女がほんの少しでも心を開いてくれるのを願っていた」
肌が粟立つのを感じて、アサコは身震いした。やはり、噛み合っていない。ラカは迎えは来なかったのだと信じている。それを聞いたアサコもそうなのだと思っていた。イーヴェが嘘を吐いている様には見えない。その言葉が本当ならば、とんでもない話だ。もう遅すぎる。彼らは二度と出会うことはないのだから。
「どうして……」
自分のことではないのに胸の奥が強く軋む感じがして、アサコは顔を歪めた。緩やかな夜風が吹いて、偽ものの亜麻色の髪がその白い頬を撫でる。繋がれた手のことも忘れてしまうほど、アサコは酷く動揺していた。
ティエルデがあの小さな城に訪れていたのなら、どうしてラカはそれに気づけなかったのだろうか。魔法は、ラカにそれを伝えるのではなかったのか。
「城に入ろうか」
俯いてしまったアサコの背を柔らかく押しながら、イーヴェは囁く様に言った。その声や仕草には気遣う様な優しさがあったが、同時に彼女の様子を伺っている様でもあった。
アサコはそれに気づきながら気づかないふりをした。というよりは、反応できなかった。彼女の頭の中では、先ほど聞かされたこととラカの言葉や記憶が渦巻いていた。
手を引かれるままに歩き出したが、その足取りは覚束無いものだった。
城に入るとイーヴェは彼女を部屋に戻し、侍女達に晩餐会に出る準備をする様に命じた。幸か不幸か、アサコは食事の間も殆ど上の空で、先ほどまであった緊張を取り戻すことはなかった。いつの間にか晩餐会は終わり、宛がわれた客室で名前を呼ばれてようやく気を取り戻した様に目をぱちくりさせた。
ぽちゃんと前髪から落ちた水滴が水面に落ちる。アサコはその時やっと体を包む温かさを意識した。部屋に戻ってきてから暫くしてイーヴェが出て行き、元居た城と同じ風に召使いや侍女が用意した風呂に入れられたのだ。いつもは服を脱がそうとしてくる手を拒むのだが、今回は拒むこともなかった。それほどぼんやりとしていたのだ。
「どうなされたのですか、アサコ様。ずっと心此処に在らずという感じでしたよ」
彼女になら、言ってもいいだろうか。
アサコは自分では抱えきれないと思いつつも、優しげな目で見てくる侍女を見て口に出すことを躊躇った。彼女は悪ふざけが好きな人間ではあるが、助言をくれそうな気がした。けれど、必死で心の内に留めておかないと、今の状態で口に出してしまうと余計に混乱してしまう様な気もしたのだ。
アサコが小さく首を横に振れば、彼女はもう何も訊いてはこなかった。
剥き出しの薄い肩に湯が掛けられる。湯にはいつも数種類の薬草が入っていて、それは毎日違う香りのものだった。その日のアサコの状態によって配合されるものが違っているらしい。
自分を落ち着かせる様に、アサコは小さく深呼吸をした。柔らかな香りが肺いっぱいに満たされる。じわじわと温かさが体に染みていく。髪を梳かれる感触が心地よく、ゆっくりと目を閉じた。
心の中で、未だあの薄暗闇の中にいる少女を思い浮かべる。もし、今彼女が少年王子のことを知ればどうなるのだろうか。
知らない方がいいのかもしれない。知らないままの方が、今以上に何も壊れずにすむ。良い方にも悪い方にも転びそうな内容だが、アサコは自分が困惑した分、それに賭けるつもりはなかった。それともラカは、アサコの傍でイーヴェの言葉をもう既に聞いていたかもしれない。
「アサコ様?」
「なんでもないです。ちょっと疲れちゃって」
嘘ではない。長時間馬車に乗ってその上ずっと酔っていたのだから、体は本当に疲れていた。
「まあ。では、今日は早くお眠りになって下さいね」
湯船から出たアサコの身体に広幅の布が掛けられる。濡れた髪からぽたぽたと水滴が落ちていくのをアサコは眺めた。
後悔は過去の残像でしかない。今更どうしようもないと分かっていても、その感覚の為に過去の事実から逃れられない。本当に悪いことがあった時、そのことを全て忘れてしまえれば幸せなのかもしれないが、そうもいかない。他人の過去に抱くこのどうしようもない感情の波は、何と呼ぶのだろうかとアサコは目を細めた。
ラカは、その後悔や憎しみをアサコに共に抱いて欲しいと思ったのだろう。一人では抱えきれないそれらを誰かと分かち合えたのなら、と思ったに違いない。けれど、アサコはその理由が他のところにもある気がした。勿論、大半の理由はそれに違いないだろう。復讐をして、とも言われた気がする。けれど、この記憶の伝染は一方的なものだっただろうか。アサコの記憶の一部をラカが持っている。ラカはどうしてアサコにした様に同じものを伝えるのではなく、全て奪ってしまったのだろうか。
「本当にお疲れの様ですね。大丈夫ですか?」
黄緑色の瞳がアサコの顔を覗き込んだ。灯りでその瞳は金色に煌めく。
その瞳に何もかも見透かされている様な気がして、アサコは目を逸らした。着せられた滑らかな肌触りの寝衣が肌を擦るのを感じながら、小さく口を開く。
「サリュケは、私が人ではないことを知っていますか」
「ええ」
「魔女のあなたには、私の記憶が見えますか」
サリュケは目を細める。アサコはそれを肯定の仕草だと受け取った。
いつの間にかもう一人の侍女の姿は部屋からなくなっていた。アサコがぼんやりとしている間に出て行ってしまったのだろう。二人しかいない部屋の中で、囁く様な小さな声もはっきりとお互いの耳に届く。
「もし知っていたとしても、それを私がお教えすることはできません。どうしてもそれが必要なのだとアサコ様がお思いになられるのでしたら、歪みの城の魔女からそれを返してもらうしかないのです。言葉は言葉でしかなく、本物の記憶にはならないのですから」
「……ラカのことも、知っていますか。昔の出来事の始めから終わりまで」
薄く整った唇から、小さな溜息が漏れた。
「アサコ様、寝台にお入りになって下さい。風邪を召されてしまいますよ」
先ほどまで柔らかかった声色に、厳しさが混ざった。彼女の物言いにはやはり小さな子供に対する様なところがあるが、その言葉に間違いはない。アサコはむっと口を閉ざしながらもその言葉に素直に従った。これで本当に風邪を引いてしまっては、彼女に対して何も言えなくなってしまう。本物の人の身体ではないのだから風邪など引く筈もないのだが、現に以前熱を出してしまったことがあるのだ。用心に越したことはない。
ラカとはこの国の住人であるということとと、同じ魔女であるということ以外に彼女に接点はないのだ。恐らく彼女は何もかもを知っている訳ではない。全てを知っているのは、きっと城に残ったあの小さな魔法使いのみだろう。
ぞくっと悪寒が走り、アサコは寝台に潜り込んだ。サリュケの言う通り、少し冷えてしまったかもしれない。暖炉に火が灯されているとはいえ、それでも部屋の中は肌寒い。
寝台で横になったアサコの額に、ほっそりとした手が当てられる。サリュケは母親が子供にする様に、愛しげに目を細めそのまま額から頭を撫でた。
その動作は、やはりアサコに母親のことを思い出させる。彼女がこの国に来てから数ヶ月経ってた。その間に母親や祖母のことを思い出しては不安になったり心配になったり寂しくなったり、アサコの中では様々な感情が渦巻いた。それなのに、帰りたいとは思えない。アサコは自分が自分自身で思っていたよりも薄情な人間だったのかと思った。会いたいと強く思う気持ちは本当なのに、それも帰りたいとは思わないという矛盾があるのは、どうしてなのだろうか。この場所が好きなわけでもないのに、此処にいたいとさえ思ってしまうのだ。
ラカのこと、自身のこと、過去の様々なこと、帰り道のこと、それで解決策が見つかるわけでもないのに、アサコの頭の中はそれらのことで埋め尽くされていた。やはり、ディルディーエがいれば、と思ってしまう。彼がいれば、こんなにも思い悩むことはなかったのではないだろうか。少なくとも、心は今よりも軽かったに違いない。
「……嘘を見抜く方法はありますか」
「嘘、ですか」
ぴたりと額を撫でる手が止まった。
サリュケは小さく微笑み小首を傾げる。
「それは、見抜く必要のある嘘でしょうか。アサコ様、やはりお疲れの様ですね」
アサコは彼女の言葉に答えることができなかった。
見抜く必要のある嘘。それは嘘で囲まれて真実など見えないアサコからしてみれば分からないことだ。もしかすると、見抜く必要のない嘘なのかもしれない。それ以前に、どれが本当でどれが嘘かさえも分からないのだけれど。
再び額を撫で始めた柔らかな手のひらの感触に、アサコは目を閉じた。
誰かの声が聞こえる。アサコは目を閉じたままその声に無意識に耳を傾けた。何を言っているのかまではぼんやりとした頭では聞き取ることができない。
いつの間にか額を撫でていた温かさはなくなり、ひんやりとした空気が額や頬を撫でる。少し肌寒い程度なのに、その冷たさは全身に走り回る様だった。
扉が静かに閉められる音がして、暫くしてから寝台が揺れた。今までにも似たようなことが何度もあった。頬に掛かった髪を指が静かに払う。アサコは頬を綻ばせる。
「おかあさん、今かえってきたの? おかえりなさい」
頬に僅かに触れていた手がぴくりと動いたが、返事はない。常ならば此処で柔らかな声が返される筈なのだ。
アサコは訝しみ、閉じていた目蓋をゆっくりと上げた。
そこに母の姿はなく、寝台に腰掛けアサコを見下ろしていたのは静かな表情をしたイーヴェだった。