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痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
六章 天蓋のそと
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 空も明るみ始めたばかりの早朝、アサコは白い息を吐きながら馬と睨めっこをしていた。

 まだ暗いうちから起こされて男物の服を着せられ、鬘を被せられたまではよかった。準備が整うと部屋の前で待っていたイーヴェに付いて侍女と共に大広間まで行くと、日の出前にも関わらずそこにはたくさんの人がいた。召使い達に近衛兵、親衛隊。その中心には目覚めたばかりで眠い目を擦りたい衝動に駆られているアサコとは違い、すっきりとした表情のジュリアスと相変わらず眠そうなロヴィアの姿があった。

 そしてもう一人、アサコには見覚えのない人物がいた。襟足の少し長い赤混じりの金髪に、すっと伸びた背筋の青年。その姿格好から見て、アサコにも彼がイーヴェの弟であることが分かった。酷薄そうな表情の青年は、イーヴェに気付くと生真面目な動作で朝の挨拶をした。イーヴェが顔に微笑みを浮かべるのに対し、その青年は表情を動かさない。よくも悪くも、彼はアサコのよく知る兄弟とは性格がかけ離れている様だ。けれどその王子もアサコに気付くと眉をぴくりと動かし、イーヴェに声を掛けた後でアサコに一礼した。アサコは昨晩教え込まれた作法で慌てて礼を返す。言葉が通じなくてよかったと思う。周囲の言葉が聞き取れていたら、今頃おどおどとしてしまっていた筈だ。彼らが緑の天蓋の言葉で話すのであれば、なんとか耳が聞こえないふりはできそうだ。

 それにしても、もう一人いる筈の王子の姿が見当たらない。アサコは不思議に思ったが、他の王子達がいる以上イーヴェに訊く訳にもいかなかった。きょろきょろと周囲を見渡していると、部屋の隅で佇むディルディーエの姿が目に入った。アサコと目が合うと、彼は静かに身を翻し廊下へ出た。アサコは思わずその後を追いかける。

「ニコ?」

 後ろからそう呼びかけられたが、アサコはそれを無視した。もうすぐ出かけるというのに、今彼と話しておかなければ、次に会えるのは十二日も後になってしまうのだ。ニコとは昨晩イーヴェに付けられた名前だ。旅の間はアサコはそう呼ばれることになる。それを忘れていた訳ではないが離れていく小さな後姿を見て焦る。声を出して呼び止めることができないのが厄介だ。

 廊下の角を曲がると、他に人の気配はなくディルディーエが待ち構えていたように佇んでいた。

「どうして逃げたんですか」

「こうでもしないとお前は言葉を発することもできないだろう」

 それはそうだ。ディルディーエはそのことを気遣ってアサコをここまで誘き寄せたのだろう。

 アサコは付いてきたにも関わらず、何を言っていいのかも分からずに視線を彷徨わせた。ラカのことには触れず、ただ行ってきますと言えばいいのだろうか。そう考えあぐねていると、ディルディーエの方が口を開いた。

「私に訊きたいことがたくさんあるのだろう。自身の記憶のこと、ラカのこと、その契約のこと。お前が不安になるのは仕方のないことだよ」

「ディルディーエ、わたし、どうしたらいいですか。分からないことだらけで自分のことなのに、どうすればいいのか分からないんです」

 自分がどうしたらいいかなど、彼に訊くのは間違っているとアサコは分かっていたが、他に方法も知らずに思うままに口にしていた。

 ディルディーエは相変わらず静かな表情でアサコを見つめる。アサコよりも小さな手を伸ばし、白い頬に触れる。何かを感じ取った様に、薄紫の瞳が揺らめいた。

「少し近くにいすぎた様だね。視界が狭くなっている様だ。この旅はいい機会になるよ」

 平坦な声なのに、アサコはそこに潜む優しさを感じた。それともそれも思い込みだろうか。刷り込まれた感情は、彼が言う様に視界を狭くしてしまうのかもしれない。少しの間でも離れれば、何か違うことに気づけるのだろうか。

 アサコはじっとディルディーエを見つめた。肩で切り揃えられた薄い黄土色の髪に、愛らしい少女の様な顔立ち。鮮やかな宝石の様な紫色の瞳。もう今では見慣れたその容姿は、やはりどこか人とは違う雰囲気を持っている。

 どうしても魔法のせいだとは思えない感情がある。疑う気持ちは確かにあるのに、その情に呑まれてしまう。旅は彼の言う通りいい機会になるかもしれない。


 移動手段を訊いていなかったアサコは、城の前に連れて来られていた馬達を見て固まった。

 以前歪みの城から連れ帰られた時に乗ったことがあるが、その時は他のことで頭がいっぱいだったし目覚めたばかりで少し寝惚けていたのだが、改めて見ると馬はアサコが覚えていたよりも大きかった。それでも乗り心地はとても良いといえるものではなかったことだけははっきりと覚えている。前後上下に大きく揺れる馬の背中は森から城までの短い距離だけでも疲れるものだったのだ。

「安心して。君は侍女達と共に馬車に乗ってもらうことになっているから」

 アサコのすぐ隣りにいたイーヴェが周囲に聞こえないくらいの小さな声で言った。

 見ると確かに馬達の後ろに馬車が用意されている。アサコはそれを見てほっと息を吐いた。その間はサリュケとも話しができるだろうし、なにより鬱陶しい鬘をとっていても大丈夫かもしれない。後ろで一つ結びにした髪は亜麻色で、本来のアサコの黒髪を覆い隠している。思っていたよりも蒸れるのだ。それに服も以前に着た小姓の服よりも窮屈なものだった。詰襟の上着は固いし、下は胸の膨らみが分からない様にと固い下着を着けられている。命を守る為と言うと大袈裟かもしれないが、身を守る為と思えばまだいいのだが、二人の兄弟の余興の為でもあると思うと大きな溜息を吐きたくなってしまう。

 馬車に乗り込む時、アサコから見れば中学生位の少年であるロヴィア王子が軽やかな動作で馬に乗る姿が目の端に映った。アサコはそれを意外に思いながら、馬車の席に着くと窓から外にいる人々の姿を見渡した。緩やかな凹凸のある硝子を隔てたところから改めて見ると、やはりその光景はアサコにとって夢の様な現実感の無い光景だった。武装した騎士に親衛隊、黒い衣装を着た召使い達、その中に当然の様にいる兎の従者に羊の召使い。そして馬に跨る四人の王子達。

「アサコ様、旅は初めてですか」

 アサコの向かいの席に腰掛けたサリュケが静かな声で訊く。

 馬車に乗ったのはアサコとサリュケ、そしてもう一人の若い侍女だった。その侍女は間違えようもなく以前城の空き部屋の一室でイーヴェと艶事に没頭していた娘だったのだが、アサコはそれに気づかないふりをした。先ほど彼女と顔を合わせた時、やはり言葉が通じなくてよかったと思ったばかりだ。

「旅行は初めてではないんですけど、この国に来てからは初めてです」

「そうですか。ではきっと楽しい旅になりますよ。此処はとても美しい国ですから」

 アサコは小さく頷くと、再び外に目をやった。確かに緑が多く建築物も芸術的だが、やはり空はどんよりと曇っていて晴れ間が見えることはない。晴れていればもっと素晴らしいのだろう。此処にいる人々が皆晴れた空を見たことがないのかもしれないと思うと、不思議な気持ちになった。同時に晴れた青い空が恋しいと思う。

「晴れたらもっと綺麗でしょうね」

 思ったままに口にすると、サリュケは少し寂しそうに微笑んだ。そしてアサコはそれが失言だったことに気づき口を閉ざした。

 ふと視線を上げると、露台で佇むディルディーエの姿が見えた。じっといつもと変わらない表情でアサコの方を見つめている。アサコは思わず窓硝子に手をつく。ほんの一時離れるだけなのに、心細くなる。やはり一緒に来て欲しいと思うが、このままではやはり彼のことを冷静な目では見れないだろう。

 喇叭(ラッパ)の音が鳴り響き、馬車が揺れた。予想だにしなかった揺れにアサコはびたんと両手と額を硝子窓についた。くすくすと二人分の小さな笑い声が狭い馬車の中で響く。

 間も無く馬車は動き出した。

「アサコ様、親元を離されるお子の様なお顔をされていますよ」

 その言葉でアサコはようやく視線を外から離した。サリュケの言葉は嫌味でもなんでもなく、本当のことだろう。アサコは自らの情けない表情を正す様にきゅっと口元を引き締めた。

 城の前をあっと言う間に横切り、馬車と王子や騎士たちを乗せた馬たちは城下町とは反対の方向へと進んだ。暫くは舗装された道なりに進んでいたが、やがてその道も絶え轍に出た時、馬車の揺れは大きくなった。上下に揺れる馬車に、アサコはあっという間に酔ってしまう。馬車と言えばもっと優雅な乗り物だと思っていた彼女は、自分のその甘い考えをすぐさま打ち消すこととなった。思った以上に過酷な旅になりそうだ。吐き気と目眩を抑える為に、必死で外の景色に集中する。

 目の端に映る侍女二人は平然とした様子で座っていた。気分が悪くなり始めたアサコに気づいたのか、垂れ目の愛らしい顔をした侍女が外套の中に潜ませていた小さな巾着を広げアサコに差し出す。

「酔い醒ましのテリタの種です。数粒お口に含んで噛んで下さい」

 のろのろとアサコは巾着の中に指を入れ、米粒ほどの榛色の実を三粒ほど摘まみ口の中へと放り込んだ。噛むとじんわり口の中に薄荷の様なすっとする味が拡がる。それで気持ちの悪い胸が完全に治るわけではなかったが、気休めにはなった。その日の目的地であるという町に着くまで、アサコはその粒を何十粒と口に含むこととなってしまった。

 国の境界近くにあるという町は、アサコが思っていたよりも大きく彼女には結局まだあまり行くことのできていない城下町との違いはよく分からなかった。煉瓦と木骨造りの家々に、豊かな緑。日は暮れ、家々からは橙色の灯りが漏れ始めている。

 途中で一度休憩を挟んだものの、馬車の中で放心状態で過ごしたアサコには元いた城からその町がどれ程離れているのか分からなかったが、それ程遠くはないだろう。休憩の間にサリュケが親衛隊の者に何かを話していたのだが、休憩後の進行は最初より少しゆっくりとしたものとなった。

 その日泊まるという城は、町からは少し離れた場所にあった。大きな庭園囲まれ湖に浮かぶ様にしてある白い石造りのその城は、アサコの知る城よりは質素だったが幻想的な佇まいだった。

 城の前で馬車が泊まり、アサコは開けられた扉から侍女二人に続きふらふらと降りた。侍女には手を貸していた騎士も、男装をしたアサコには手を貸さない。アサコとしてはその方がいいのだが、この時ばかりは手を貸して欲しいと思った。

 やっとあの揺れる狭い箱から開放されると思うと気分はましになったが、ぐらぐらと地面が揺れている様に感じる。よく吐かずに済んだものだ。これも一重に酔い醒ましの種と後半のゆっくりとした進行のお陰だろう。その二つがなければ今頃馬車の中は惨状になっていたかもしれない。

 そんなことを思い一人苦笑している間にも、酷い目眩で耳鳴りがし、目の前が霞んでくる。とうとう立ってはいられずにその場に座り込むと、誰かに担ぎ上げられた。

 うっとアサコは心の中だけでなく口の中で呻いた。今この状態で揺らされれば、間違いなく吐いてしまう。けれどどういう訳か頭の中は冷静で、言葉を発してはいけないということだけはしっかりと覚えていたので声も出せない。そもそも今声を出してしまえば一緒に胃の中の物が出てきてしまいそうだ。

 そんなアサコの心配を察してか、先ほどの呻き声で勘付いたのか、アサコを抱き上げた人物はゆっくりと柔らかな草の上にアサコの身体を横たえた。

 それが一番ありがたいとアサコは頭の中だけでお礼を言う。これで波が治まるのを待てば、なんとか復活できるだろう。周囲で色んな人の声と馬の蹄が地面を叩く音がした。それさえもアサコの耳にはぼんやりとしか届いていなかったが、周りを囲む人々の気配は感じていた。これで吐いてしまえばとんだ恥晒しだ。

 暫くすると、イーヴェの声を合図に周囲の人々の気配は遠のき始めた。

「アサコ様、大丈夫ですか? 冷たいお水がございますが」

 静かに囁きかけてくるサリュケの声に、アサコは小さく首を横に振った。今は水を飲む余裕さえない。けれど彼女が話しかけてきてくれたことで、正体を知られてはいけない相手は残っていないのだと知り小さく息を吐いた。自分で思っていたよりも少し気が張っていたらしい。

 額に冷たい手が当てられた。それが心地よくてアサコは溜息を漏らす。冷えた手と頬を擽る冷たい風がゆっくりと酔いを醒ましてくれる。詰襟が緩められた時、頭上から声が聞こえてきた。

「彼女は俺が連れて行こう。君達は先に部屋へ行って着替えを用意してあげてくれないか」

「畏まりました」

 草を揺らす音が遠のいていくのをアサコは聞きながら、ゆっくりと目を開けた。真近くにあった緑色の瞳と目が合い、思わず反射的に眉を顰めてしまう。

「そんな嫌そうな顔をしないでくれないかな。気分は?」

「お陰様で、少し落ち着きました。ありがとうございます」

 そう言って身を起こす。まだ気分が悪いのだが、大分落ち着いたのは本当だ。眩暈はまだ少し残っているが吐き気は遠のいた。

 周囲を見渡すと、すぐ近くに馬車からも見た湖と大きな城があった。大きいと言っても元いた城と比べるとこじんまりとしたものだ。飾り気がなく無骨な感じもするが、その城を含めた周囲の風景が幻想的に見えるのはその前に広がる湖と美しい緑のお陰だろう。湖では優雅に水鳥が泳いでいるし、どこからか小鳥の囀りも聞こえてくる。

「此処は夕闇の城と呼ばれているんだ。今夜は此処で休むことになる」

「夕闇の城?」

「色んな物語があるんだよ。それは今夜聞かせてあげよう。それよりもひとまず城に入らないか」

 それもそうだ。アサコは小さく深呼吸してから立ち上がろうとしたが、その前に強い力で体が引き寄せられた。うわっと思わず声が漏れる。

「あの、運んでもらえるのはありがたいんですけど、できればおんぶとかのほうが」

「どうして?」

「恐いからです」

「じゃあ、このままで」

 横抱きにされたまま進まれそうになり、アサコはぎょっとした。城の前に立っていた衛兵と目が合い、途端恥ずかしくなる。そもそも今アサコは男装しているというのに、それをイーヴェが横抱きにするのは如何なものなのだろうか。気を失っているのならともかく、アサコはしっかりと目を見開いている。

 衛兵の横を通り過ぎようとした時、アサコはぽつりと言った。

「男好きだと思われても知りませんよ」

 意外そうにイーヴェはきょとんとした顔をして立ち止まった。ちょうど衛兵たちの横だ。せめて通り過ぎてから立ち止まってくれればいいのにと、アサコは眉を顰めた。彼らは礼のかたちをとったまま蝋人形の様に動かないが、アサコたちの様子を気にしている気配がある。

「俺が女の子を好きなことは皆知っている筈だよ」

 もう突っ込む気にもなれず、アサコは溜息を漏らし黙り込んだ。彼との応酬はとても疲れる。

 女好きだと知れ渡っているのも、王子としてどうなのだろうかと疑問に思ったが、今のところそれによって生じた問題も目の当たりにしていない。きっと上手く立ち回っているのだろう。柔らかで甘い笑顔からは、彼がそんな悪癖の持ち主だとは想像し難いが、それを知っているアサコはその笑顔の裏にあるもう一つの顔の方が際立って見える。彼が人をからかって楽しむ人種であること、女好きで、きっとどの娘のことも本当に心から可愛いと思っているのだろうということ。本当は、冷たい感情も持ち合わせているということ。そして、ラカをずっと憎んでいるということ。

 彼の目には、自分も憎しみの対象に入っているのだろうかと思うと、アサコは恐れよりも不思議な気持ちになった。出会ったばかりの頃こそ冷たい視線を向けられることはあったが、今までに冷たく当たられたこともなく、今も現に助けようとしてくれている。魔女であるという疑いは晴れたのだろうか。それでも、ラカと繋がりのあることは本当なのだ。それも彼は知っているのだが、最近では何を訊いてくることもない。

 逆に、アサコはイーヴェに訊ねたくなった。もし、自分がラカの為に何かをしようとした時、どうするのかと。

 城の中は荘厳な雰囲気だった。概観と同じで飾り気があまりなく、床も壁も柱も円い天井も全て白い石で出来ている。けれどよく見てみれば柱には繊細な彫刻が施されており、それは高い天井にまで及んでいた。行ったことはないが、アサコは昔写真で見た遠い国の聖堂の様だと思った。今更だが、そんな場所に御伽噺の国の様な緑の天蓋の王子と一緒にいることに改めて違和感を感じた。

 二人の姿を見た召使い達は一瞬目を円くしたものの、そこは流石と言うべきかすぐに生真面目な顔に戻りお辞儀をした。けれどその視線はちらちらとイーヴェの方へ向いている。それに気付いているのか気付いていないのか、彼はアサコを抱いたまま軽快な足取りで進んでいく。

 ようやく立ち止まったのは、壁と似た淡黄色に塗られた木扉の前でだった。彼らの気配を察したかの様に、扉が内側から静かに開けられる。アサコはそれに驚いたが、サリュケが開けたのだと知るとほっとした。

「着替えは?」

「ご用意できております」

 サリュケはくすくすと笑いながら言う。アサコはその笑いの原因が分かって赤くなった。ついされるが儘に来たが、馬車で酔って気分が悪かったとはいえ横抱きされて部屋まで運ばれたなどと、小さい子でもないのに恥ずかしい。けれどそれも今更のことなので、アサコは長椅子に下ろされるまで大人しくしていた。

「酔いが覚めたら、城を案内しよう」

 アサコが頷くと、イーヴェはどこか不思議そうな顔をして彼女の頭を撫でた。

 

 酔いも醒め始めた頃、鬘を取り此処へ来るまでの間着ていたかっちりとした服装から柔らかな布地の服に着替えさせられて、アサコはようやくすっきりとした気分になった。大いに酔ってしまったのは、服装のせいもあったのではないだろうか。

 先ほどよりは幾分くだけた服装だが、男装なのには変わりがない。柔らかな白い襯衣(しんい)の下には、胸の膨らみが分からない様に硬い布地が巻かれている。それでも先ほどまで付けられていた矯正下着と比べると随分とましだった。長靴(ちょうか)はわざわざこの時の為に誂われた物で、まだ汚れも見当たらない。

 長い髪を垂らして姿見の前で自分の姿をまじまじと見下ろすアサコの後ろで、サリュケが小さな溜息を漏らした。

「男性の気持ちが今少し解りましたわ」

 アサコはその声に釣られて顔を上げた。大きな姿見には、男装に髪を解いた不釣合いな姿のアサコと侍女二人の姿が映っている。鏡の中でサリュケと目が合ったアサコが首を傾げると、彼女は小さく微笑んだ。

「世の中には、女性に男装をさせて悦ぶ方がいらっしゃるのですよ」

 そう言って、先ほどアサコが自身で解いた髪に櫛を通す。見事な手つきで長い髪を結い上げていき、サリュケは理解できないという風な表情でいるアサコの顔を覗き込んだ。

「わたしがいた場所では、こんな格好をするのは別に変なことじゃなかったです。女の人は普通にズボンを履いてたし、こういう靴を履くのも冬場では普通のことでした」

 以前イーヴェにも言ったことだ。アサコは言いながら自分がいた場所のことを思い出した。そういえば、最初に着ていた制服はどこへいったのだろうか。あの制服はアサコの記憶を読んだラカが作り出した物かもしれない。制服のポケットから出てきた白い鹿も。

 アサコの言葉にサリュケはただ微笑むばかりで言葉を返すことはなかった。

 魔女である彼女は、ラカの様にアサコの過去を知っているのかもしれない。そんな考えが過ぎったが、アサコは訊くことはできなかった。








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