31
「動かしてごらん」
静かな声で言われて、石段に腰掛けたアサコは左足に力を入れた。
足はアサコの考え通り、ぴんと上を向き、膝を折った。
「動きます」
つい数時間前まで普通のことだったのに、足が動いたことに驚いた様にアサコは目の前にしゃがむ小さな少年に言った。
先ほどまで、感触もなかったのだ。まるで自分のものではない様に動かなくなってしまったということをアサコ本人が理解するのに、少しばかり時間がかかった。その間にもイーヴェが彼女を抱き上げ、ディルディーエを呼ぶと数秒後には暗闇の中から彼が現れたのだ。
アサコは最初から名前を呼べばよかったのだと気づき、脱力した。同時に言うことを聞かなくなってしまった左足に不安が募った。
左足は、切っ掛けだ。夢の中で、無意識にも自らの記憶を探ってしまったせいで、左足が動かなくなってしまった。
此処にいたかったら、あなたの記憶は私のもの。
そうラカは言ったのだ。
「もう大丈夫だよ。普通に歩けるだろう」
目を伏せてアサコは頷いた。
足に感覚が戻ったことに安心する気持ちと、そのことで理解した事に不安が混ざる。夢の中でラカが言ったことの逆を言えば、ラカに預けた記憶を取り戻した時には左足だけではすまないだろう。
元の場所へ戻る方法をディルディーエは『忘れている』と言ったが、元の場所にいた時の最後の記憶こそあの場所へ戻る鍵だ。けれど思い出したくないという気持ちと、その時に何があったのだろうという好奇心じみた感情や、その記憶がないせいで湧く不安がごちゃまぜになっている。
「ディルディーエ」
名前を呼んでアサコが右手を伸ばすと、立ち上がった魔法使いはその手に自らの手を重ねて小首を傾げた。アサコはその小さな手に縋る気持ちでぎゅっと握った。
「兎を見ました。大きな兎です。その兎が、私を見て笑ったんです」
それともあれはアサコの勘違いだったのだろうか。薄暗闇の中、妙にその兎の顔ははっきりと見えた気がしたのだ。兎は笑わない。それは知っていたから、あの顔を見た時あれがただの兎ではなかったのだと分かった。
あれが今度の鬼かもしれない。けれどアサコが追いかけていたのだから、アサコの方が今回は鬼ということだろうか。
「震えている。とりあえず中に入ろう。ここは冷える」
ディルディーエは繋がれたアサコの手を引いて促した。
その時、二人の様子を横でじっと眺めていたイーヴェが口を開いた。緑の天蓋の言葉だ。ディルディーエもそれに対して同じ言語で返した。
アサコは二人が緑の天蓋の言葉で会話しているのを不思議な気分で眺めた。最近二人とも、アサコの前ではその言葉をあまり交わさない。気を使っているのか、アサコに関係のない話しの時にでも彼女の前ではアサコの言語で会話を交わすのだ。二人が何を話しているのか理解できなかったが、会話の邪魔をするわけにもいかない。アサコは二人の声を聞きながら、ぼんやりと周囲を見渡した。
先ほどまであった不安は少しずつ薄まってきている。ディルディーエと手を繋いでいるからか、ラカが、彼女がそのことに気を回さないようにそんな風に魔法を掛けたのかもしれない。此処へきてからのアサコの感情は、例え何か強い感情に捕らわれたとしても、それが静まるのもあっという間だった。解決もしていない内に、すぐに薄れてしまうのだ。それともそれは此処へ来る以前からだったのかもしれない。アサコはそれも思い出せない。
先ほどよりも僅かだが明るくなってきている気がして、アサコは空を見上げた。まだ太陽の気配はないが、明け方が迫ってきているのだろうか。
緩やかな風が吹いた。朝もやの冷たい空気を吸い込み、アサコは身震いした。先ほどまで毛布に包まれたまま抱きかかえられていたので意識しなかったが、確かに冷える。空いている方の左手で、身体に巻きつけた毛布を胸元に手繰り寄せ、肩を竦める。血が通っていないかもしれないこの身体で寒さを感じるのも不思議だと一人苦笑していると、右手が引かれた。
「待たせたね。行こうか」
「はい」
頷いて顔を上げると同時に、アサコはイーヴェがまじまじと自分を見ていることに気づき、眉を顰めた。
「……なんですか」
「別に」
先ほどまでとは違い素っ気無く言うと、イーヴェは一人すたすたと歩き出した。
「喧嘩でもしたんですか」
「いや。けれど気分は良くないだろうな」
小声で訊いたアサコに合わせたのか、ディルディーエもいつもより少し小さめの声で返した。相変わらずその声には抑揚がなく、何を考えているのか掴みにくい。けれどアサコには、そこに彼のほんの少しの感情が混ざっていることに気づける様になっていた。彼は今、少しばかり呆れている。それはイーヴェに対してだろう。アサコは先ほどの二人の会話の内容が気になった。もしかすると、自分に聞かれたくない内容だったのかもしれないと勘繰ってしまう。
「ディルディーエ、どこに行ってたんですか」
繋いた手をぎゅっと握り、アサコは呟く様に訊いた。
ディルディーエは顔を上げて大きな目でアサコを見上げる。静かな声で訊いた彼女は、途方を失った様な表情をしていた。ディルディーエと目線を交わそうとはせずに、目を伏せて足元を見つめながら歩いている。
「それを訊いてどうする」
アサコは視線を上げた。驚いた様にディルディーエを見て、瞳を揺らす。
「ちょっと気になっただけです。目が覚めたらいなかったから」
「お前が気にする様なことではないよ」
いつもと変わらぬ淡々とした声で言われて、アサコは再び目を伏せた。どこに行っていたかなど、アサコには関係のないことだ。そもそも夜、ディルディーエの部屋に押しかけているのは彼女で、目覚めた時にいなかったからといって彼を捜そうとするなど、どうかしている。結局はあまりの心細さに、確実にいるイーヴェの部屋へ足は向いた訳だが、この小さな魔法使いに対する依存は一体どういった感情なのだろうか。目覚めて最初に言葉を交わした相手だからだろうか。彼を信頼しているし、一緒にいるととても安心する。けれど、よくよく考えてみればアサコはディルディーエのことなど殆ど何も知らないのだ。
どうして青年の姿で森の中の古城の地下室にいたのか、ラカと直接会っていたはずなのに何故それを言わなかったのか。ラカと交わした契約は、今も続いているのだろうか。最初、彼はアサコが歪み城にいたのが何故か分からないと言ったのだ。けれど、きっとそれは嘘だった。先日の口ぶりからすると、彼はアサコが何であるのかを知っていたのだろう。だとすれば、不思議ではない筈なのだ。アサコは最初から、あの古城にいたのだから。
「涙を」
アサコは立ち止まった。手を繋いでいるディルディーエもそれに合わせて足を止めた。
夜の静けさの中で、掠れたアサコの声はよく響いた。離れたところから、リリの子守唄が僅かな木々のざわめきに混ざり響いてきている。
二人の前方を行くイーヴェも、その様子に気づいたのか振り返った。アサコはその視線を感じながら言葉を続ける。
「涙を流す器官をラカは私に預けました。けど、それはディルディーエに渡されたものだったはずです。魔法の代わりに渡されたものは、それだけじゃなかったんですか」
「彼女が代償にしたものは、涙を流す器官と王子に対する感情だった……知りたいかい? アサコ。けれどそれを知ってどうする」
「ディルディーエは、知られたくないんですか」
「此処にいたいのなら、穿鑿はしない方がいい。おいで、部屋に戻ろう」
頷きかけたアサコは、ぎゅっと眉ねを寄せて繋いでいた手を離した。握っていたのはアサコだけだったから、二つの手はするりと簡単に離れた。
「自分の部屋に戻ります」
頭を冷やした方がいい。そうアサコは思った。今あの暖かな部屋に戻ってしまうと、たちまち意識は緩慢となり何も考えられなくなってしまう。頭の中で秩序なく在る感情や記憶に目を向けて、自分で一度整理した方がいい様な気がした。さもないと、色んなことを取り落としてしまいそうだ。自分の記憶に対して好奇心に似た感情を向けるのは間違っているかもしれないが、取り戻さないといけないと心の隅っこで焦っているのも事実だ。その焦りの原因もよく分からないが、そこに何か大切なものがある気がする。
私の可哀想なお人形さん。
ラカがそう言ったのは皮肉でもなんでもない。事実だ。
アサコはラカと共にあの城へ逃げこんだ。痲蔓があの城を覆う前には、あの城の中にいた。人形はいつも彼女と一緒だった。この国へやってくる時も、彼女が幸せに暮らしていた時も、悲惨な出来事に彼女が枕を濡らした時も、いつも一緒だった。彼女の分身でありながら傍観者である人形は、言葉を交わすことはできなかったが彼女にとって大切な宝物だった。
「アサコ?」
「分からないんです、ディルディーエ。わたし、此処で何をしたらいいんですか」
「ディルディーエ、彼女は混乱している様です。彼女を部屋まで送るので、侍女を呼んでくれませんか。そうだな……サリュケを」
そう言ってイーヴェはアサコの手を掴むと、ディルディーエの返事も待たずに歩き出した。
アサコは強引に手を引かれたことに驚いたが、それを拒むこともせず足を動かす。振り返ると、小さな少年の姿をした魔法使いは二人を止めることもなく、いつもと同じ表情のない顔でアサコを見ていた。ゆっくりと小さな口が開く。
「――え?」
「どうかした?」
振り返りイーヴェは訊いたが、その足が止まることはない。アサコはなんでもないと首を横に振った。
部屋に戻ると、イーヴェはアサコを寝台の端に座らせ羽織っていた外套をその頭の上から被せた。そして自分は彼女の前に膝を着き、両手でアサコの手を包み込む。
アサコはそれを静かな目で眺めていた。両手を包む手は骨ばっていて大きい。違うと分かってはいるけれど、少年王子と違うところを見つけて心の端で安堵した。アサコが知っているのはラカが知っているところまで。王子の子孫がいるということは彼はラカが城に閉じ篭ったあと、成長し他の妃を迎え入れたのだろうが、ラカはその姿を知らない。
「イーヴェ、わたしの手は冷たいですか」
「うん、冷たい。震えてる」
「どうして、何も訊かないんですか」
「君が落ち着いたらまた訊くかもしれないね。今にも倒れそうな顔してるの、自分で気付いていないみたいだけど」
アサコは何かを言いかけて止めた様に、口を開いてすぐに閉ざした。
手に伝わる温もりがじわじわと沁みてくる。間近で見る緑の瞳は遠いラカの記憶を揺さぶるものだ。アサコはその視線から目を逸らした。
暖炉の点いていない部屋は冷たい闇に包まれていた。部屋のそこかしこにある置物や玩具が、余所余所しく見える。
「一匹の蝶の羽ばたきが、遠く離れた地に嵐を起こす」
アサコの呟きに、イーヴェは首を傾げた。
「わたしが住んでいたところの言葉です。小さな要素でも、未来を大きく変えてしまうことがあるっていう様な意味だったと思います」
「へえ、おもしろいね。確かにその通りだ」
イーヴェは感心した様に目を円くして肩を竦めた。
その時、二人の手の上にぽたりと雫が落ちた。虚ろな表情をしたアサコは、自分の頬に流れる涙に気づいていないかの様に、じっと手元に目線を向けたまま目を拭おうともしない。ぽたぽたと落ちていく涙がイーヴェの手の項を流れ落ちた。
「あの時、止めてたら……」
「なにを?」
「……え」
つい先ほどまでの虚ろな表情は失せ、きょとんとした表情でアサコはイーヴェの顔を見つめた。
「わたし今、なにか言いました?」
イーヴェは何も答えずに手を伸ばし、アサコの頬を優しく拭った。その時ようやく彼女は自分の涙に気づいたのか、僅かに目を大きくした。けれど、涙は止め処なく大きな目から溢れ出してくる。
どうして自分が泣いているのかも分からないアサコは、これはラカの涙なのかもしれない、と思った。ラカの過去の悲しみに、気づかない内に触れていたのかもしれない。その過去の記憶が何なのかも思い出せないが、きっとそうだと思う。ラカは、「私の代わりに泣いて」と言ったのだから。
けれど、ラカの記憶で泣いていたいつもとは違う。いつもは、どうしようもない程の悲しみや切なさ、憎しみで胸がいっぱいになってそれが溢れ出した様に涙が流れるのに、今はどうだろう。心の中はどこまでも静かで空虚だ。凪いだ心の中に泣く理由など見当たらないのに、涙は止まらない。
「悲しいの?」
俯き首を横に振るアサコをイーヴェは目を細めて見た。
長く艶やかな黒髪が、塗れた手にかかる。なんの感情も浮かんではいないのに、涙は静かに頬を濡らしていく。その静謐な姿の裏にどの様な感情や思惑があるのか測り知れない。もしかすると空っぽなのかもしれないとイーヴェは思ってしまう。けれど、彼女には過去があるのだ。それももしかすると魔女が作り出した紛いものなのかもしれないけれど。
こんこんと、遠慮がちに扉を叩く音がした。イーヴェの返事を合図に扉がゆっくりと開けられる。扉の間から姿を現したのは、侍女の格好をした美しい娘だった。金色の髪を細やかに編込み結い上げ、すらりとした肢体は綺麗な佇まいだ。アサコはその姿を見てロティルアンネを思い出した。顔立ちも似ているが、その佇まいや優しげな雰囲気も似ている。
「湯の用意ができたらしい。入って身体を温めた方がいい」
イーヴェがそう言っている間にも、最初に現れた娘を筆頭に三人の娘たちが大きな布や湯の入った桶を持って入ってきた。娘達が大きな布を部屋の中で広げ終えると、二人の青年が浴槽をその真ん中に置いて出て行った。ここ最近ではアサコにとっても見慣れた光景だ。入れ代わり立ち代り、娘達は脚の付いた浴槽の中へと大きな桶でお湯を注ぎ込んでいく。
「はあ、ありがとうございます。あの金髪の人は?」
そう言って、ここにいる殆どの侍女が色味が少しずつ違えど金髪であることに気付いたが、イーヴェはアサコが誰のことを言っているか察したらしい。彼が視線を彼女に向けると、その侍女はそれに気付いた様で二人に蕩ける様な笑顔を向けてきた。
それには同姓であるアサコの頬をも染める威力があり、イーヴェは苦笑した。寝台に腰掛けるアサコは、呆然とその侍女に視線を奪われている。いつの間にか涙は引っ込んだ様だ。
「彼女は、ロティルアンネの姉だよ。魔法使いと契約を結んでいる」
「え? ……ディルディーエとですか?」
ラカ以外にこの国に魔女がいるとは考えもしなかったアサコは、目を見張った。
「いや、他にも魔法使いはいるからね。表立っている魔法使いは彼くらいだけど。魔女は自分が魔女だということを周囲に秘密にしていることが殆どだから、その存在を信じない者もいるくらいだ。彼女が魔女だということも、他の者は殆ど知らない」
兎や羊の姿をした従者や召使いもいるというのに、魔法使いや魔女の存在が信じられないとは気持ちは痛いほど分かるが、アサコには少し不思議に感じられた。この国自体が不思議なもので溢れ返っているのに、此処で暮らす人々にも信じられない不可思議なものがあるのだ。城に閉じ篭る姫君であるラカの存在も信じられていなかったのだろうか。だとしたら、アサコがあの城下町を通った時に浴びせられた花びらや視線、囃し立てられるような声はなんだったのだろうか。
魔女だという侍女は微笑みを浮かべたまま洗練された歩みで、二人のもとまでやって来た。十歩ほど離れた位置で立ち止まり、お辞儀をする。
「アサコ様、初めてお目に掛かります。サリュケと申します。以後お見知りおき下さい」
「言葉が……」
「ディルディーエに分けてもらっている。彼女には、君付きの侍女になってもらおうと思う。いいかな?」
「いいも何も、そんな偉い身分でもないんで必要ないです」
アサコが慌てて言うと、イーヴェとサリュケと名乗った娘は目を見合わせた。サリュケは一瞬目を円くしたもののすぐに口元を手で隠し、くすくすと笑い出した。その仕草でさえも美しく、アサコはまた目を奪われる。容姿も立ち姿も似ているがロティルアンネよりも彼女の方が目を惹き付ける何かがある。魔女だからだろうか。
「殿下の花嫁である御方は、相当の身分をお持ちですわ」
「彼女はいい話し相手になってくれると思うよ。仲良くね」
本当の花嫁ではないとアサコが思わず言いそうになったところで、イーヴェは言った。それにはアサコも異論はない。仲良くなれるものなら仲良くなりたいと思うので、つい頷いた。
アサコが風呂に入る間、部屋にはサリュケと二人の侍女だけが残ったが、何故かつい先ほど部屋を出て行ったイーヴェが戻ってきていた。アサコが部屋の真ん中で風呂に入っているのを気にした様子もなく、侍女が用意したお茶を優雅に飲んでいる。アサコはぽかんとその様子を浴槽の中から眺めた。
「あの、わたしお風呂に入ってるんですけど」
「うん。知ってるよ」
「まあ、殿下。彼女は恥ずかしがってらっしゃるのですよ」
サリュケは楽しそうに言いながらも、アサコの腕を磨く手を止めない。
アサコが恥ずかしがる隙も与えないほど、自然と彼は部屋に入ってきたのだ。それも、すぐ近くの円卓に着くと、当然の様にお茶を飲みながら浴槽の中で侍女たちに手入れされる彼女の姿を眺めている。湯は透けていないけれど、一体この状態はなんなのだろうかとアサコは首を傾げたくなった。
「もうちょっと慌てふためくかと思ったんだけど。とても恥ずかしそうには見えないね。普通の娘だったら、そんなに肌を晒したら嘘でも恥ずかしそうにするものだよ」
残念そうにイーヴェは言った。
自分がしていることをほんの少しも悪いとは思っていないらしい口ぶりに、アサコは思わず小さな溜息を漏らした。
「はあ、わたしのいた所では水着っていうものがあって、女の人でも胴体しか隠さないような服というか、そういうのがあったんですよ」
と言いつつも、イーヴェが立ち上がり近づいてくるのに気付くと流石に羞恥心が湧き、思わず下を向いた。見えてはいないとは言ってもやはり近くには寄らないでほしい。できれば部屋から出て行ってほしいと思う。
「それ以上近づいたら、お湯掛けますよ」
アサコが睨み言うと同時に、イーヴェは嬉しそうな笑みを浮かべた。その笑顔で今の言葉が藪蛇だったとアサコは気付いたが、もう遅い。思わずサリュケや他の侍女を見たが、サリュケ以外の侍女達には目を逸らされ、サリュケには満面の笑みを向けられた。
「殿下の花嫁が可愛らしい方で嬉しいですわ。夫婦の営みも大切な妻の勤めですよ」
「妻にはなってないです。それに、結婚までには一年くらい掛かるって聞いたんですけど」
口下まで湯に浸かりながら必死にアサコが言うと、サリュケとイーヴェは似た様な笑顔を浮かべて頷いた。
「けれどその期間に子を産む花嫁もいる」
そう言ってイーヴェは浴槽の横でしゃがみ、アサコの顔を覗き込んだ。薄く笑い、アサコの耳に吐息がかかるほどの近さまで口を寄せる。それにはアサコもぎょっとして狭い浴槽の中でできる限り彼から離れようとした。ばしゃっと音を立てて湯が揺らぐ。すぐ後ろからサリュケがくすくすと笑いを漏らすのが聞こえたが、冗談にしてもやりすぎではないだろうか。
「う」
うめき声を漏らすと同時に、アサコは溢れ出そうになった涙を必死に呑み込んだ。からかわれて泣いたなど、とんだお笑い種だ。
それにはまさか泣かれるとは思ってもみなかったのだろう、イーヴェもサリュケも目を円くした。
「からかいすぎたかな? ごめん」
珍しく困った顔で言われ、アサコは恥ずかしくなり俯いた。単なるからかいだとは分かっていたが涙が出そうになったのは、物事が思い通りに動かないからと泣く子供と一緒だ。そんなことで泣きそうになってしまう自分が恥ずかしくてならない。先ほど涙を流したばかりだからか、涙腺が弱くなってしまっているのではないだろうか。
けれど、言葉を返そうとしても口を開けば涙が落ちそうだったので、アサコは頷くだけにしておいた。