表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
六章 天蓋のそと
30/54

30

 夢の中で、ラカはアサコに目隠しをする。

 柔らかな手のひらが目蓋を覆い隠す瞬間、アサコはその闇に体も包まれた様な錯覚に襲われた。

「馬鹿ね、アサコ。私の可哀想なお人形さん。王子様は駄目だって、何度も教えてあげたじゃない。信じちゃ駄目。裏切られるわ」

「けど、イーヴェはティエルデじゃない」

 ぴくりと、目蓋を覆う手が震えた。けれど次の瞬間には、楽しげな笑い声が響いた。

 何が楽しいのだろうか。

 アサコが手を外そうとしても柔らかな手は驚く程の強い力で、ぴくりとも動かない。

「そうよ、けれどあの王子は今までで一番彼に似ているわ。一見優しそうに見えるけれど、その頭の中は打算的。計算で動く狡賢い男よ」

「王子様は、そうだったの?」

 少なくとも、イーヴェはラカの言う通りだろう。甘い笑みを浮かべ、いかにも優しそうに見えるけれど時々強い視線でもってアサコを射抜く。狡賢いのかどうかは知らないが、性格は決して宜しいとは言えない。

「ええ、けれど同時に馬鹿だった。誰のことも疑いはしない、馬鹿だった。だから父王を信じて、私を魔女と呼んだ」

 それは本当のことだろうか。あの優しそうで理知的な少年王子が周囲の言葉を鵜呑みにし、ラカを蔑んだ姿など、アサコには信じられないことだった。その感情の変化が、彼女にとっては理解し難いことだった。愛を囁いていた相手に、それほどまでに冷たい感情を向けることなど人はできるのだろうか。

 それにしても、彼女の言葉は矛盾だらけだ。

「強い感情は、それでも簡単に変わってしまうものなのよ」

 小さな子供に言い聞かせる母親の様に、彼女は穏やかな声で言った。

 耳元で囁かれた声はひどく優しいものだったのに、なぜかそれに恐ろしさを感じた。再び彼女の手を離そうともがいたが、柔らかな手は不思議なほどに強固でやはり微動だにしない。だから、後ろにいるはずだと思っていたラカの声が前方から聞こえてきた時には、アサコは悪寒を覚えた。

「私の弟の首を刎ねたのは、王子だったわ」

 その言葉に驚き、手の下でアサコは目を見開いた。少年王子が弟を殺したというのは初耳だった。それも、首を刎ねてなど、アサコは今まで想像もしていなかった残酷さに肩を震わせた。

「彼は、私の弟のことを親友だと言っていたのよ。その親友を彼は殺した」

 そうだ。歪みの城で見た三人は、仲の良い兄妹弟のようだった。父親を殺されたからといって、親友だった少年を殺すことがあの少年王子にはできたのだろうか。

 つらつらと語られる王子への憎しみの篭った言葉に、アサコはこの時初めて強い違和感を覚えた。

「ラカは、それを見ていたの? それとも、誰かに聞いたの?」

「見てはいないわ。けど、真実よ」

 ふと目を覆っていた手が離された。

 指の間から見えたのは、変わらずに暗く淀んだ城の地下室だ。黒く艶やかな水は、鏡の様に壁やアサコの座る寝台を映し出している。

 ポチャンと水音がした。床を薄い水の膜が覆っていても、水が降ってきたことはアサコが知る限りではない。天井を見上げると、それは次から次へと降りだした。天井は、床と同じ様に水の膜が張っていた。これではどちらが天井でどちらが床なのか分からない。天井を離れた水の雫は金色に光り、床の水の膜に金色の波紋を作っては消えていく。金色の雨はぽつぽつと部屋のそこかしこで降っている。

「私達は、まるで真逆」

 全てを受け止めて歪んでしまったラカと、真実を受け止めることを拒否して嘘に逃げ込んだアサコ。

 ラカは滑らかな手をアサコの頬へと当てた。顔にはいつもと違う種類の笑みが浮かんでいた。アサコはその表情から目を離すこともできずにじっと見つめた。どこかで見たことがある様な表情だと思うが、思い出せない。

「私達がどう受け止めようとも、事実は変わらない」

「だったら、どうしてまだ待っているの?」

 ラカは微笑みを浮かべたまま、アサコの手に手を絡めた。

 自分の手には体温がないと思っていたアサコは、ラカの手の冷たさで自分の体温を知った。

「言ったでしょ、どう受け止めようともって」

 床に降っていた金色の雨が、逆流し始めた。床から小さな雫がいくつも落ち、天井に金色の波紋を作る。それとも、あれが床だっただろうか。

 その時、アサコは一つの風景を思い出していた。薬品の匂いに白い布。それを捲ってはいけない。けれど酷く冷えた手が勝手に捲ろうとする。

「私から取り戻しちゃ駄目よ。此処にいたいのなら、あなたの記憶は私のもの。その代わり、あなたは私の代わりに泣いてくれればいいの」




 名前を呼ばれながら揺り起こされて、アサコは目を開けた。目の前に見えた緑の瞳に驚く間もなく両頬を包まれて、目を円くして呆然としているとそのまま今度は頬を抓られた。

「大丈夫? 魘されてたよ」

 これが、大丈夫かと訊く態度だろうか。頬の痛みでようやくアサコは我に返り、イーヴェを睨みつけた。両頬を抓られたままだったので、さぞかし滑稽だろうとは思いつつも、手で振り払おうとしたがなかなか外してくれない。ふつふつと怒りが湧き起こってきたが、相手はふざけたことをしながらも顔にはいかにも心配していますという風な表情を浮かべたまま小首を傾げた。

「いたいれす。はらして」

 涙が滲んだ目でなんとか言うと、ようやく手が離された。その後、頬を擦っていると上から吐息の様な笑い声が聞こえた。もう一度睨むと、その時にはイーヴェは再び心配そうな顔をしていた。

 王子などやめて役者になってしまった方がこの国の為なのではとアサコは内心毒づくが、口にすれば更に腹立たしい態度をとられることが目に見えていたので心の内に留めておいた。その時点で負けを認めている様なものだったが、そもそも勝つ必要もない。

 一つ深呼吸すると、じわじわと先ほどの夢の余韻がやってきた。同時に長椅子の上でイーヴェに抱えられている状態だということにも気付いたか、上手く体に力が入らなかったのでそのままでいることにした。

 怖ろしい夢を見た後の虚脱感が体全体を包んでいる。途方もない心細さを感じたが、人の温もりに触れているだけでそれはましになる様な気がした。

 部屋の中はまだ暗い。いつ眠ってしまったのかも分からないが、この部屋に来てからそんなに時間は経っていないのだろう。暖炉はまた木を焼べたのか、橙色の炎が煌々と輝いている。

「こわい夢でも見た?」

 今度は本当に優しげな声だった。その声に釣られて再び顔を上げると、声と同じくイーヴェの顔には優しげな笑みが浮かべられていた。細められた目には労ろうとする気持ちが見て取れた。

 アサコはその顔を呆然と眺めた。思い遣る様な言葉を掛けられても、微笑まれても、今まで彼の情が見えることはなかったのだ。一体どんな変化だろうか。それとも、これも演技なのだろうか。

「何かの冗談ですか?」

「冗談?」

「いえ、なんでもないです」

 いくらなんでも失礼だろうと、流石に「あなたの思い遣りを疑っているんです」とは言えなかった。イーヴェは小首を傾げたきり、何かを言う素振りもなかった。いつもならこんな沈黙が落ちた時、彼が何かを言い出すのだが、一向にその気配はなく、アサコは居心地の悪さを感じて身じろぎした。先ほど頬を抓られたせいか、目ははっきりと覚めてしまっている。長椅子に座るイーヴェが毛布に包んだアサコを横抱きに抱えている姿は彼女にとって傍目から見たときの姿を想像するほど滑稽なものだったが、未だ抜け出す気力も湧いてこない。

「君、苦行を強いられている僧の様だよ」

 そこにいつものからかいは含まれていないのだろう。けれど、その言葉はからかっているとしか思えないものだった。アサコはげんなりとしてその言葉に返す気も起こらずただ項垂れた。

「目が完璧に覚めたのなら、散歩にでも出ようか」

 その方が有難いと、アサコは二度頷いた。この部屋でこのまま二人でいるのも気まずい。

 ほっと息を吐いた途端、突然の揺れと浮遊感でアサコはイーヴェの服にしがみ付いた。彼女を横抱きにしたまま立ち上がったイーヴェは、面白そうに笑って彼女を見下ろした。

「あの、降ろしてくれると嬉しいんですけど」

「どうして?」

「自分の足で歩きたいからです」

 途端、イーヴェはつまらなそうな顔をした。

「どうしても?」

「……一体どうしたんですか?」

 いつも変な人だとは思うが、今の彼はいつも以上におかしい。

 アサコが眉を顰めると、イーヴェはにっこりと微笑んだ。

「いや、なんだかおもしろいなと思って」

 そう言いながらも彼はゆっくりと歩き始めていた。アサコを抱えたまま、簡単に重い扉を引いた。当たり前だが、アサコと比べるとイーヴェの身体は大きい。けれどアサコは痩せているとはいえ、その年頃の娘の中でも平均的な身長だ。細身の彼がどうやってそんな軽々と抱えて歩けているのかアサコは不思議で仕方がなかった。もしかするとやせ我慢でもしているのだろうか。

 何にしても落ち着かないから本当に降ろして欲しいのだ。おんぶならばまだしも、横抱きというのは辛い。

 カツカツと靴底が石畳を打つ音が、廊下に響いた。ぽつぽつと灯る蝋燭の灯りは変わらずぼんやりと長い道を照らし出している。灯りを反射する窓硝子は水面の様に波打っていて分厚い。つい数時間前であろう時に見た兎は、今はどこにいるのだろうか。

 廊下の空気は冷たかったが、毛布に包まれたままのアサコは寒さを感じることはなかった。

「降ろして下さい」

「本当に降りたかったら暴れたらいいよ。落とすかもしれないけど」

 唖然としてアサコはすぐ斜め上に見える顔を見た。その顔はいつもにも増してどこか楽しげだ。

「どうしてそんな意地悪言うんですか」

「君が困ってる姿が可愛いから」

 その言葉を理解するのに少し時間がかかった。理解した途端に、ぞっと背中を悪寒が駆け上がりアサコは思わずぶるっと身震いした。

 此処へ来てから何度も怖い目にあってきたが、これも彼女の中では相当怖いものに入った。自分を抱きかかえる青年が人を虐めて楽しむ部類の人間かと思うと逃げ出したくなったが、冗談だと思いたい。けれど、そういう面がある気はしていたのだ。アサコはそれっきり触らぬ神に祟りなしとでもいう風に顔を伏せ口を閉ざした。

 彼女が体を硬くしたのに気づいたのか、それともあまりの驚きぶりが可笑しかったのか、イーヴェはくすくすと一人笑いを漏らした。

 そういえば、言葉が通じないと思っていた時から彼はとんでもない人だったのだ。扉を開けた先に見えた召使いとの情事を思い出し、顔を顰める。こんな時、傍にディルディーエがいればとどうしても思ってしまう。本当に時たま落ち着く時もあるけれど、イーヴェといると大体落ち着かない時間が続く。きっと相性が悪いに違いない。

「そういえば、君には兄弟がいるのかな?」

 何気ない口調に、アサコは恐る恐る顔を上げた。

「いませんけど……」

 何かあるのだろうか。今まで彼はアサコの家族のことどころか、アサコのことなど何一つ訊いてはこなかったのだ。

「そう。両親は?」

「お母さんと私だけでした。それでも不自由はなかったですし、毎日楽しかったです」

 イーヴェがそのことで同情心を向けてくるとは思わなかったが、癖の様に付け足した。

 毎日、は大げさかもしれないが嘘ではない。たまに喧嘩することもあったが、本当に仲は良かったのだ。誰にでも自慢できる母親だと思っていたし、彼女もアサコのことを自慢の娘だとよく言っていた。祖母もたまに混じり、女だけの生活は気軽なものでよく笑いあっていた。仕事で疲れて帰ってきた母が風呂に入って出てくるとソファに倒れこむ光景は殆ど毎日のもので、アサコは彼女の髪をよく乾かしてあげていた。

「お母さん、今頃どうしてるだろ」

 小さな声で呟いたあと、後悔した。その後悔する気持ちがどこから湧いてくるのかも分からなかったが、口にすべきではなかったと思う。

 ディルディーエが、アサコが長い年月歪みの城で眠っていたのなら肉親達はもう存在しないだろうなどと言ったからだろうか。それを考えてしまうと恐くて仕方がないので、考えないようにしていたのだ。

 そもそも、自分こそ生きているのだろうかとアサコは疑問に感じる。血が流れることのない身体は、温かさはあるが白い手を眺めているとそれが自分のものだとは信じられなくなってくる。驚いた時に心臓の鼓動を感じることはあるが、それは偽物なのではないだろうか。

 木々が揺れる音に顔を上げると、そこはもう城の広い庭だった。ぼんやりとした曇り空は薄っすらと月明かりを透かしている。緩やかな丘や黒く染まった木々、闇が殆どを占める光景にアサコは不思議と恐怖を感じなかった。身体を支える温もりがあるせいかもしれないが、そう思うのは癪なので考えないことにしてその光景を眺めた。

「此処にいたい、と君は言ってたよ」

「……なんですか、それ」

「さっき寝言で言ってた」

 寝言。

 それならばいいとアサコはほっと息を吐く。寝言は寝言でしかない。

 こんな不可思議な場所、此処にいたいなど思うわけがない。此処ではいつも何かに怯えているのだ。けれど、どうしてか自分が元いた場所に帰りたいと強く願うこともない。此処へ来たばかりの記憶は酷くぼんやりとしていて、あの城から連れ出されてからそんなに年月が過ぎた訳でもない。此処へ来る以前の生活などははっきりと思い出せるのに、それを恋しいとは思うのに、なぜかどこかで諦めている。

「どうしてだろうね」

 それはアサコに向けられたものではあったけれど、質問されたわけではなかったので返事を返すこともなかった。

 ――此処にいたいのなら、あなたの記憶は私のもの。その代わり、あなたは私の代わりに泣いてくれればいいの。

 あれは、約束だった。魔法使いと魔女の間に約束事がある様に、アサコとラカの間にも約束事があった。約束は守らないといけない。

「リリの子守唄だ」

 頭上から聞こえてきた声で我に返ったアサコは、同時に歌声が聞こえてきていることにようやく気づいた。空気に溶ける様な美しい歌声だが、木々のざわめきに混ざり合いながらも確かに響いている。緑の天蓋の言葉で歌われた歌の内容はアサコには分からなかったが、どこか物悲しい音色だ。

「リリって?」

「君も見かけたことくらいはあるだろう。羊の姿をした召使いだよ」

 見かけたどころか、目覚めてすぐ彼女に温かな息を顔面に吹きかけられたことがある。

 そのことを思い出して、アサコは一瞬顔を顰めた。

 確かにあの時、夢現の状態で女性の歌声を聞いた気がしたが、あれはあの羊の召使いのものだったなど思いもしなかった。その歌声は本当に美しく心地の良いものだったが、あの羊の召使いが歌っている姿を想像すると、少し恐い。

 アサコの中で彼女はティンデルモンバよりも不気味な存在なのだ。それには言葉が通じないから余計、という理由もあったが、何よりあの無機質な瞳が恐ろしい。付け足すと、時折覗く白い前歯も何故か不気味だった。

 けれど、彼女もラカに呪いを受けた身で、元は普通の人間だったのだろう。

「リリは、どうしてこんな真夜中に子守唄なんか歌ってるんですか」

 そもそもどこで歌っているのだろうか。柔らかな歌声は木々のざわめきに混ざり合い、四方から響いてくる。前方から聴こえていると思っても、よく聞くと後ろの方から聴こえてきている様な気もする。

「彼女は眠らないからね。朝も夜中も関係ない」

「眠らない?」

「そう。ティンデルモンバもだけど」

 それも、ラカの呪いの影響なのだろうか。

 どうやってもきっと理解できそうにないから、深く考えない方がいいに違いないと結論付けて、アサコはイーヴェが進んでいる先に目をやった。

「あ」

 木々の間で、動物が動くのが見えた。

 兎だ。廊下の先にいて、追いかけようとした大きな兎。

 アサコは指でその兎を指して、小声で言った。

「兎が、います」

「兎? どこに? 見えないけど」

「降ろして下さい」

 先ほど恐ろしいことを言われたことも忘れて、アサコは必死に言った。

 先ほどとは違って、イーヴェもアサコを簡単に降ろした。

 けれど、アサコは地面に足をついた途端、力を失くした様にがくんと倒れかかった。地面に膝がつく直前、後ろから身体を支えられる。

「あれ?」

 アサコは眉ねを顰めてもう一度自分で立とうとしたが、またがくんと倒れそうになり再びイーヴェに支えられた。

「どうしたの、大丈夫?」

 訝しげに訊いてくるイーヴェの声を遠く感じながら、アサコは呆然と地面を眺めていた。

 左足に、感覚がない。どうして今まで気づかなかったのだろうか。

 ふとアサコが顔を上げると、兎がじっと彼女を見つめていた。どうしてか、薄暗闇の中でもその視線の向く先が自分だとアサコははっきりと分かった。

 兎の顔が、笑みの形に歪む。

 兎はあんなに口が大きかっただろうか。細められ下がった眦と弧を描いた口が浮かべるのは嘲笑だった。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ