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痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
六章 天蓋のそと
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 長く伸びた真っ黒な髪。

 私はあの子の夢を見る。

 あの坂を越えれば会うことができると呟いた、あの子の夢。





 真夜中に珍しく目が覚めた。

 身体を起こし橙色の灯りに包まれる部屋の中を見渡しても、小さな魔法使いの姿は見当たらなかった。

 アサコはいるはずの存在がいないことに気付くと、急に不安に駆られた。寝台から抜け出し部屋の隅から隅まで歩き回り、やはりディルディーエがいないことを確認すると寝台に戻るか部屋の扉を開けるか迷った。

 影は最近現れない。息を潜めて隠れているのか、ラカが遊びに飽きてしまったのか。どちらにしても誰もいない部屋の中は不安になる。

「ディルディーエ?」

 運悪くすっきりと目覚めてしまったのだ。寝台に入っても眠れず不安は募るばかりだろうと、アサコは覚悟を決め扉を押した。ほんの少しの隙間からでも夜の冷たい空気が流れこみ、足元を通り過ぎる。廊下にはぽつぽつと壁に並べられた蝋燭の灯りがあるが、人の気配もなく静まり返っている。ディルディーエの部屋の周囲はいつも静かだったので、アサコは今更それに驚くことも怯えることもなかったが、ただ端々に散らばる闇から影が現れないかどうかが気になった。

 部屋を出てどうしようというのだろう。ディルディーエがどこにいるのかも分からないのに、闇雲に暗い城の中を探し回る方が怖ろしい。けれどどうしても、いても立ってもいられない気分だった。誰もいない部屋の中で、帰ってくるのを待つのは苦手だ。この不安に浸って寝台の中で待ち続けるくらいならば、影と出くわす方がましかもしれないと今は思えた。それは勿論、冷静に物事を考えられていない証拠だったが、アサコ自身しかいない今それに気付く人はいなかった。

 ふとイーヴェの顔が思い浮かび、その考えを打ち消す様に一人首を振ったがそんなことをしていても仕方がない。アサコは暖かな部屋から夜の空気に沈む廊下へと踏み出した。

 恐ろしさを感じる暇がないほどに全力疾走したアサコが自分の部屋の前に着く頃には、息も絶え絶えだった。薄暗いこの廊下で誰かがその姿を見たのなら、肩で息をするアサコの姿はきっと不気味に映っただろう。

 あの明るい部屋を出たのは間違いだった。冷静に考えれば部屋でディルディーエを待つのが一番よい方法だったのだが、どうしてあんなにも不安になったのだろう。イーヴェの部屋の扉を叩こうと手を上げた途端、頭が冷えて寸でのところで手を止めた。

 自分が無意識に此処へ向かったことにも、こんな真夜中に部屋の扉を叩こうとしていたことにも今さら恥ずかしい気持ちになった。この城に頼れる人はディルディーエだけだと思っていたが、知り合いのいない此処でアサコは無意識のうちにイーヴェにも頼っていたのだ。

 そもそも真夜中に扉を叩かれるなど、いい迷惑だろう。そう思い、うっかり長い廊下に目をやってしまった。

 廊下の突き当たりで、小さな塊が蠢いている。

 アサコは恐怖心よりも先にそれが何かが気になり目を凝らした。生き物の様に見える。もぞもぞと動くそれは暗さで何かよく見えない。アサコがじっと見つめているとそれは動きを止め、顔を上げた。中型犬くらいの大きな兎だ。それは以前、街で見た兎と同じ兎の様に見えた。どうして城の中に兎がいるのだろう。その上、一階の回廊ならまだしも、此処は五階の廊下だ。森から迷い込んできたにしても不思議だった。

 けれどアサコはそれが兎と分かると溜息を吐き、緊張を解いた。同時に部屋にいた時とは別の不安が湧いていた。部屋にいた時の不安の正体は分からないけれど、今感じている不安は影や暗闇への恐怖混じりの感情だ。

 アサコが動いても、兎は逃げ出す気配がなかった。闇に染まった瞳でじっとアサコの動向を眺めている。

 遊んでいる最中の様な、楽しげな少女の声が小さく聞こえた。

「ラカ?」

 歪みの城に行って以来聞かなかった声だ。本当に微かなものだったので、アサコは聞き間違いだろうかと小首を傾げた。

 以前ほど、小さな少女に対しての恐怖心はない。全くなくなったという訳ではないが、よく分からないものに対する恐怖心の様なものは減っていた。城の中でのことを大体思い出したのだ。彼女と交わした会話の数々、怖ろしい鬼ごっこ、涙を流すことのできないラカの笑顔。

 不意に、兎が跳ねた。曲がり角を行く兎の姿が見えなくなる寸前、アサコは殆ど無意識に足を踏み出していた。以前も街で兎を追いかけたことも忘れて。

「どこに行くつもり?」

 声と同時に腕を引かれて、アサコは危うく倒れそうになったが大きな何かに受け止められた。

 兎に気をとられている隙に開いたのか、廊下と部屋の境でイーヴェがアサコに囁きかけた。部屋の前に立っていたからといって、予想だにしなかった彼の登場にぎょっとアサコは目を大きくする。驚きで心臓がばくばくと波打った。一方彼女を抱きすくめたイーヴェは静かな目で彼女を見下ろし、不思議そうに小首を傾げた。

「夜這いに来たわけじゃないのかな?」

「ちがいます」

 即座に否定したが、夜這いとはいかなくともイーヴェの部屋に来たことに間違いはない。それも部屋で一人でいるのが不安だったからなどと、それではまるで夜這いの様だ。

 アサコは顔に朱がさすのを悟られないように、廊下の先に目をやった。兎の姿はもうないが、今いけばまだ角を曲がったところにいるかもしれない。けれど、それを追いかける意味もない。先ほどは本当に反射的に追いかけようとしただけのことだ。

「わたしが此処にいるの、分かったんですか?」

「眠りが浅い方なんだ。廊下で足音がして、自分の部屋の前で立ち止まれば気になるよ」

 それにしても忍者の様だとアサコは思った。今履いている靴は底まで革製で足音もあまりしないのだ。分厚い扉は音をあまり漏らすこともない。

 アサコはなんとなくもう一度、廊下の突き当たりの方へと目を向けた。

「廊下の先に兎がいたんですけど、森から迷い込んできたんですかね」

「兎? 兎が自分で扉を開けて入ってきたってこと? いくらなんでも扉を自分であける兎なんて聞いたことがないよ」

 それもそうだ。回廊に連なる廊下にはちゃんと扉があるのだ。兎が勝手に入ってこれるなど考えられない。だとするとラカが少年従者かがなんらかの理由であの兎を寄越したのだろうか。

「ディルディーエはどうしたんだい? 今日も彼の部屋で寝たのではなかったのかな」

「……さっき目が覚めた時には部屋にいなかったんです」

「それで心細くて部屋を飛び出したわけだね」

 ぐっとアサコは言葉に詰まった。反論したかったが、まるまる言い当てられてしまったら何も言うことができない。それに、先ほどから抱きしめられたままだ。何度か抜け出そうと胸を押したがますますぎゅっと抱きしめられるだけだったのでそのままにしておくことにしたが、頭を撫でられたり抱きしめられたりと慣れつつある自身に少し嫌気がさした。

 つくづくこの不思議な関係に首を傾げたくなる。友人でもなければ恋人でもない赤の他人なのに、関わりは十分にある。彼はやはりアサコを疑いはしても、犬くらいにしか思っていないのではないだろうか。

 アサコが小さな溜息を漏らすと、イーヴェは彼女の体を抱いたまま引き摺る様に部屋の中へと招き入れた。

「体が冷えてる」

 そう一言言うと、長椅子に掛けてあった毛布を手に取り自分の体ごとアサコを包み込んだ。そのまま椅子に座られて、アサコはやはり犬の様に思われているなと思った。

 イーヴェの動きに男女間の甘い雰囲気は含まれていない。時折アサコをからかう為に作られる甘い空気を知っているからこそそれが分かる。彼の動きは、大きな犬を世話する様な感じだ。

 先ほどとは違い、今度は安堵の溜息を漏らす。暖炉の中で木が爆ぜる部屋の中は温かい。安心したせいか、ついうとうととしてしまう。

 寝て、目が覚めて、もう何度この場所で夜明けを迎えただろうか。此処へきてから青い空を見ていない。曇った空は、時折雨粒を降らす程度でやはり雲間を覗かせようとはしないのだ。

「さっき言ってた兎だけど、どんな兎だった?」

 頭の上から降ってきた声に、アサコは閉じかけていた目を開けて見上げた。思っていたよりも顔が近かったので、またすぐ下を向く。

「前に街で見たみたいな、大きな兎でした」

「そうか。もしかすると、さっき君が見た兎は誰かが飼っているのかもしれないよ」

 それは、この城の住人がということだろうか。街で見た兎も、もしかすると弦楽器を弾いていた青年が飼い主だったのかもしれない。

「大型の兎は珍しいからね」

 そういえば以前も彼はそんなことを言っていたかもしれない。

「わたしが住んでいたところでは、二本足で歩く兎を追いかけて不思議な世界に落ちてしまう女の子の話がありました」

 またうとうととしながら言うと、イーヴェは興味を示した様だった。下を向く気配を感じながら、アサコは話しを続けた。

「晴れた日に、お姉さんと一緒に庭で本を読んでいたら、二本足の兎が女の子の前を通り過ぎるんです。女の子は退屈していたから兎を追いかけました。兎は急いでいたみたいで、女の子は中々追いつくことができなかった」

「聞いたことがない話だな。それで?」

「兎は小さな洞窟の中に入るんです。女の子も後を追ってその中に入りました。けど、そこには大きな穴があって、女の子はそこに落ちてしまうんです。落ちている途中で、女の子は不思議なものを見ます」

 歪みの城の中で、確かラカにも聞かせたことがある。ラカは、アサコの国の物語を好んで時折せがんできたのだ。長靴を履いた猫に、音楽隊を入ろうとして旅を始めたが結局目的を果たさなかった動物たち、鏡の国へ迷い込んだ少女、留守番を任された羊たち。

 結局アサコは穴に落ちた少女の話しを最後までさせられることとなった。まさか青年がこんな話しに興味を持つとは思わなかったアサコは、後悔した。

 話し終えるとイーヴェは不思議そうな顔をした。

「結局それは、その子の悪夢だったということかな?」

「わたしもよく分かんないです。小さい頃、お母さんに初めて聞いた時はすごくわくわくしたんですけど、今思ったらよく分からない物語でした」

 そこで会話は止んだ。相槌も返ってこないことを不思議に感じたアサコが顔を上げると、少し驚いた様な顔をしたイーヴェと目が合った。

「なんですか?」

「君にも、母親がいたんだね」

「当たり前ですよ……人の子なんですから」

 呆れた様にアサコが言うと、イーヴェは彼女の手を取った。

「そうだね。温かくてやわらかい、普通の女の子に見える」

 見えると言うだけで、それを確実な答えとして出さないイーヴェにアサコは眉を顰めた。アサコ自身は魔法の力も、この世界の知識も言葉も持たないただの娘なのだが、立場上ここでは普通とは認められない。イーヴェに至ってはまだアサコを魔女だと思っているのかもしれない。魔女だとしても元は普通の人間だったというのだから、母親がいても不思議ではない筈なのだが、アサコは先ほどの言葉を深く追求しないことにした。それよりも大きく鳴り始めた心臓の音が気になって仕方が無い。

 握られた手の指先は冷たいのに、反対に顔が熱くなる。

 イーヴェの戯れに振り回されてはいけないと、必死で以前見た冷たい目を思い出そうとした。けれど中々思い出せず、それを見たのは少し前だったことを思い出す。そういえば最近疑いの混ざった目を向けられていないと、アサコはようやく気付いた。いつからだろうか、彼がアサコに向ける目は以前よりも少し柔らかくなっていた。それとも、アサコが気づいていないだけかもしれない。

 あの地下室でイーヴェが迎えにきてくれてから、アサコは自分の心が緩んでいることには気づいていた。彼に対して抱いていた警戒心は随分と薄まってきている。どうして、あんな一言で心を許してしまうのか自分自身でも分からないが、それは確実にアサコの心の中に染みていったのだ。

「イーヴェは、今でも夢を見るんですか」

 返ってきたのは吐息の様な笑い声だった。





 すぐ近くで静かな寝息がする。

 腕の中で眠ってしまったアサコを見て、イーヴェは苦笑を浮かべた。抱きしめても抵抗は最初だけですぐ諦めてしまった彼女は、安心しきった様にイーヴェの胸におさまっている。

 その表情を見れば、何かを企てている様な娘には見えない。けれど、魔女とはそういうものなのだ。ラカも最初はそうだった。かつての王であり彼女の婚約者であった少年に笑顔を向け、安らいだ表情を見せていた。

 アサコからは、ラカの気配がする。

 ラカのことを思い出す度に夢の中で見た彼女の無邪気な笑顔と、あの古城で命を落とし襤褸切(ぼろき)れの様にぶら下がっていた弟の姿を思い出す。

 復讐を思い描き続けた彼が痲蔓に囲まれた城に踏み込めた時には、魔女は死んでいて代わりに彼女が眠っていた。彼女の正体は分からない。城が痲蔓に覆われてからは、その場所には誰も入れたことがないという。入れたのはたった一人、イーヴェの弟だけなのだ。

 古くからこの城に滞在する魔法使いのディルディーエは、ひょっとすると彼女が何者なのかを知っているのかもしれない。けれど、魔法使いは多くのことを知っていたとしても口にするのはそのほんの一欠けらだけだ。その真実を知っているかもしれない魔法使いは、彼女を可愛がっている様に見えた。

 心のどこかで、イーヴェはアサコのことを幻の様な存在なのかもしれないと思っていた。魔女が見せる紛い物の存在かもしれないと。そしてそこに罠が仕掛けられているかもしれないとも思った。魔女の遊びに付き合ってやろうと思い、アサコをこの城に花嫁として招き入れた。以前の少年王子が、魔女を花嫁として招き入れた様に。

 けれど、先ほどのアサコの言葉はイーヴェに驚きを齎した。

 彼女は、「お母さん」と言ったのだ。当然の様に自分のことを人の子だと言った。それが本当ならば、彼女は魔女の狂気に巻き込まれた者の一人なのかもしれない。

 地下室で涙を流したアサコの姿を思い出し、イーヴェは眉を顰めた。








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