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痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
六章 天蓋のそと
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28

 寝台の上で籠を抱きかかえたまま、アサコは視線を彷徨わせた。逃げ出したいという強い思いがあったがそういう訳にもいかない。ただ只管に胸の奥でディルディーエが早く帰ってくることを願った。

「ご気分が優れませんか? 顔色が悪い」

 その原因が自分だと分かっているのだろうか。呑気な様子で訊いてくるジュリアスをアサコは睨む様に見た。抱きかかえた籠から甘い香りがして、顔を顰める。いつもならとても好きな香りだったが、今は余裕のなさからか胸焼けがしそうだった。

 枕元の小さな棚にそれを置くと、小さく溜息を漏らす。せっかくなので彼の言葉に乗らせてもらうことにしよう。

「そうなんです、気分が優れないんです。寝ていいですか?」

「添い寝致しましょうか?」

 お見舞いに来てくれた人に対して失礼かもしれないが、できれば部屋を出て行ってくれることを期待して言った答えがこれだ。まともに相手をしていたら疲れる。

 アサコは「結構です」と叫ぶ様に言うと同時に、布団の中に潜り込んだ。

「では、眠りが訪れるまで面白いお話をお聞かせしましょう」

 その方がありがたいと、アサコは相手に見えていないことも忘れて布団の中で頷いた。

 そういえばこの場所に来てからは、物語のようなものを聞いたことがない。それには少し興味があったし、眠る前に話しを聞かせるなどやはり子供扱いされているが、彼との会話を回避できるだけましだった。

「とある国の王子の話しです。その王子にはたくさんの兄弟がいましたが、彼はその中でも一番心が優しかった。王子には、物心がつく頃から毎夜の様に見続けている夢がありました。一人の少女の夢です」

 アサコはゆっくりと布団の間から顔を覗かせた。

 それに気づいたジュリアスは小さく微笑む。惚けるでもふざけるでもないその表情に、目を離せなくなった。似てる、と思う。彼もまた、ラカの記憶に宿るあの少年王子に似ているのだ。

「その夢は誰かの記憶を辿っている様でした。その夢の中で、美しい少女が泣いたり笑ったり、彼に話しかけたりしました。次第に彼は、夢の中だけではなく本物の彼女に会ってみたいと思うようになったのです」

「……それは、あなたのことですか?」

 アサコは訊ねた。イーヴェも言っていたのだ。ラカの夢を見てきた、と。それとも、それはイーヴェたちよりももっと以前の、昔の王子達なのかもしれない。ラカが城に閉じこもってから彼女の夢を見てきた王子は一体どれだけいるのだろうか。ラカの夢の記憶は、あの少年王子のものなのかもしれない。そういえば、アサコはラカのことばかり考えて、王子のことをあまり考えたことがなかったことに今更ながらに気付く。あれだけラカを愛おしそうに見ていた少年王子は、一度でもラカに会いに行こうと思わなかったのだろうか。

 ジュリアスはアサコの予想を裏切って、小さく首を横に振った。

「当たらずも遠からず、です。彼は、この国の王子でした」

 そうなると夢の中の少女とはやはりラカなのだろう。あろうことか呪われた身の王子は呪った本人である魔女に、憎しみ以外の感情で会いたいと思ったのだ。

「その王子様は、夢の中の女の子に会えたんですか?」

 会いたいなど、それは叶うことのない想いだ。固く閉ざされた痲蔓の城にラカは自分自身を他の誰からも遠ざけたのだから。

 けれどその話しの先を知りたくてアサコはそう訊いた。

「ええ。彼はその想いを果たしました。強い願いを持った彼は、人知れず閉ざされた城へと向かったのです。その城は、少女が望み続けた少年に似た王子を招き入れました」

 意外なジュリアスの言葉に、アサコは唖然とした。あの蔓は一度もその道を開かなかったのではなかったのか。思わず体を起こしてジュリアスを見る。ジュリアスは笑みを絶やさない。それは自嘲の様にも見えたし、寂しげにも見えた。

「彼は、城の中で少女と出会えたのです」

「嘘です」

「嘘ではありませんよ……なぜそう思うのですか」

 アサコは口を閉ざす。

 ラカは城の中で一人だったはずなのだ。寂しさや憎しみから心を狂わせていった。誰かが彼女に会いたいと願い、会いに行っていたならばそれは今頃変わっていたのかもしれない。けれど彼女の狂気は今も変わりなく続いているのだ。

「王子は間違いなく少女に出会ったのです。あなたもそれは知っているでしょう? あなたはその頃には城にいたはずなのですから」

 その言葉でアサコはあることを思い出し、ジュリアスの顔を見た。

「……どうしてそんなこと知ってるんですか?」

 ジュリアスは微笑む。それは優しげにも見えたが、アサコは薄ら寒いものを感じ肩を竦めた。

 ほんの少し前に幻を見たばかりだ。歪みの城のあの地下室で、成長したラカが少年と会ったところを。アサコはその横で台の上、磔にされて眠っていた。あの少年はジュリアスのいう王子なのだろうか。

「少女と会った王子本人に訊いたのですよ」

「あなたの兄弟なんですか?」

「ええ、イーヴェの双子の弟です」

「え」

 僕も、ずっと君に会いたかったんだ。

 そう言った少年は、イーヴェの弟だったのか。それも双子だったと聞いてアサコは言葉も出せなかった。あれがジュリアスの言うイーヴェの双子の弟であるならば、ラカはつい最近まで生きていたということだろうか。

 疑問は次々と浮かんでくる。不透明な過去の出来事は、アサコに強い違和感を与えた。そもそも、目の前の青年はどうしてそんな話しをしようと思ったのだろうか。

「そして同時に私の兄でもありました。けれど今ではもう私の方が年上になってしまった」

「年上?」

「ええ。彼は歪みの城に行ったきり帰っては来なかった。兄が魔女を強く憎むのは、魔女が兄弟を殺したからです」

 嘘だ。

 今度は口には出さず心の中で強く思った。ラカはそんなことをしない。

 目の前の青年の表情から嘘を読み取ろうとしたが、そこからはなんの感情も読み取ることが出来なかった。薄っすらと浮かべられた笑みは、どこか冷たい。

 過去の話しに踊らされている。本当か嘘かを見極める判断材料をアサコは持たない。けれど、ラカは王子を殺してはいないと強く思うことができた。狂気に溺れ、恐ろしかった少女。けれどその実彼女はどこまでも正気だったのだ。王子の迎えが来ないことを心の奥では理解していたし、過去の傷はあのままでは癒えることもないことを知っていた。あの暗闇の中で孤独を感じ、だからこそアサコを必要とした。疲れきった彼女はアサコに自分の命を与え、願いを託した。

「どうして、ですか。どうしてラカは弟さんを殺したんですか」

 薄い唇がまた弧を描く。すっと伸ばされた手がアサコの長い髪を梳いた。

「可愛いお人形さん、あなたは本当に何も知らないのですね」

 アサコは大きく目を見開く。お人形さん。それは、ラカがアサコをふざけて呼ぶ時の名だ。

 髪を梳いていた手が頬に触れ、そのまま流れるようなゆったりとした動作で首筋を撫でた。アサコが身体を震わすと、ジュリアスはその反応を面白がる様に目を細める。

 アサコは彼のことを苦手な理由がなんとなく分かり、眉を顰めた。きっと彼はアサコのことを人としてみていないのだ。面白いおもちゃの様にしか思っていないのかもしれない。

「兄の花嫁に手を出すとはいい度胸だね」

 それは決して怒りを含むものではなく、どこか面白がっているような声色だった。

 アサコは振り返り、開かれた扉に凭れていたイーヴェを見た。いつの間に来ていたのだろうか。

 ジュリアスの方は彼の存在に気付いていたのか、驚いた様子も悪びれた様子もなくにっこりと笑顔で返した。

「兄さん、彼女を本気で花嫁として迎え入れる気なのでしたら、僕など近づけさせぬことです」

「そうしていたつもりだったんだけどね」

 魔法使いの弟子を遮るのは難しい、とイーヴェは言った。

 その言葉も冗談なのだろう。最初はジュリアスからアサコを隠そうとしていたイーヴェだったが、今はそんな考えを微塵も感じさせない。その証拠に、イーヴェは扉口のところから二人の様子を観察するように眺めるだけだった。

「ジュリアス、お前は彼女に嫌われているようだね。仮にも義理の弟になるのだから、姉君と仲良くしておいた方がいいんじゃないか」

「そのつもりだったのですが兄さんのお言葉通り、私は嫌われている様です。面白い物語りを用意したつもりだったのですが、彼女のお気に召さなかった様だ」

 まるで三文芝居の様な二人の会話にアサコはぐったりとした。先ほどまで感じていた張り詰めた様な空気感はすっかりとなくなり、今は少し間の抜けた空気がこの部屋を満たしていた。

 それにしても、改めて二人を近くで見比べると彼らはアサコが思っていたよりも顔立ちが似ていた。兄弟だからなんの不思議もないのだが、似ていると思うとアサコは不思議な感覚に捕らわれた。

「何日も部屋に閉じ込められて飽き飽きしているんだろう。それにお前の話しは疲れる。アサコ、おいで。今日は少し外に連れて行ってあげよう」

 横でジュリアスが肩を竦めた。

 アサコは願ってもいないその申し出に目を輝かせた。本当に何日も部屋の中で過ごしたので、うんざりしていたのだ。熱も下がったのに部屋を出させてもらえなかったのには驚いた。微熱くらいなら、いつも学校にも行っていたというのに。

「いいんですか?」

 そう訊くアサコに、イーヴェは苦笑した。まるで小さな子供の様だ。

 部屋を出ようとする度に召使いに止められていたのだから仕方がない。それに始終彼女の傍には誰かがいたのだ。息が詰まるのも無理はないだろう。

「いいよ。おいで」

 慌てた様子でアサコは寝台から降りた。貴族の子女ならば男性の目の前で寝衣姿を晒すなど考えられないことだが、アサコは気にもしていない様だった。衣装棚を開けると、中から適当に羽織れるものを探し出し、それを着て靴も部屋着から適当に履き替える。

 その様子に流石のジュリアスも驚いたのか、目を円くしたあとで笑い声を漏らした。アサコは訝しげにそれを一瞥したが、外に出れるのだと思うと逸る気持ちが抑えられず、イーヴェの傍まで駆けた。ジュリアスと比べると、イーヴェを苦手と思っていた気持ちなど皆無に等しい。彼は時折アサコを恐がらせるが、普段はまだ優しいのだ。

 アサコが駆けてくるのをイーヴェは少し驚いた様に見たが、すぐに満足気な笑みを浮かべた。

「では我が花嫁、行きましょうか」

 芝居じみた仕草でイーヴェは手を差し出した。アサコはその手をとることを躊躇したが、今更だ。手を重ねるとまた笑顔を向けられる。

 ふと後ろを向くと、ジュリアスの姿はもうなかった。驚いてきょろきょろと部屋中に視線を向けたが、どこにも隠れている様子はない。後ろから溜息が聞こえて振り向くと、イーヴェが呆れた様な顔をしていた。

「普通に出ていけばいいのに、これだから魔法使いの弟子は」

「どこに行ったんですか」

「さあ。もしかすると庭で待ち構えているかもしれないし、自分の部屋に戻ったのかもしれない。小さな頃からの付き合いだけど、彼のことは未だによく理解できないよ」

 さあ行こうと手を引かれてアサコはゆっくりと歩き出した。外の空気に触れるのが待ち遠しい。部屋の暖かく篭った空気ではなく、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込みたい気分だった。先ほどから胸の中がもやもやとしているのだ。

 彼らの兄弟を殺したラカ。弟を殺されて彼女を怨むイーヴェ。彼らの祖先である少年王子やこの国の人々を怨むラカ。城に閉じ篭り、寂しさのあまり仮初めの命を与えた魔女。

 どれが真実でどれが嘘なのかも分からない。

 アサコは前を行くイーヴェの姿を見上げた。廊下の窓から射し込む光りが、彼の蜂蜜色の髪を透かしている。緩やかに揺れる後ろ髪を見ていると懐かしい気分になる。これはラカの記憶の残滓だ。ラカがティルディエと過ごした日々の記憶はそこかしこに散らばっている。アサコはラカの命でそれを感じ取る。この冷たい城も、窓から見える森も、あの歪みの城さえもラカは憎み、そして捨てることができなかった。三人でいた温かな記憶はラカを狂わせる種となった。幸せな記憶があったからこそラカは強く憎んだ。幸せな記憶があったからこそ、アサコはあの歪みの城に逃げ込んだ。

「どうかした?」

 彼には後ろに目でもついているのだろうか。

 訊ねて後ろを振り返ったイーヴェと目が合い、アサコは気まずくなって目を逸らした。本当に今更なことに繋いだ手を意識し出し、小さく眉を動かす。

「なんでもないです。ただ、思い出していただけ」

「なにを?」

「……イーヴェは、お父さんみたいです」

 イーヴェは驚いた様に目を大きくし「お父さん?」と呟いた。

「せめて兄と言ってくれないかな。結婚相手にそれは酷い」

「結婚はしていませんよ」

 そういえば、花嫁とは呼ばれても結婚のけの字も出ていないことに気付く。そもそも憎んでいる相手の手下かもしれない娘と結婚する気は彼にもないだろう。花嫁というのは冗談としか思えなかった。だからこそそう呼ばれても冷静でいられたのだ。本気で結婚させられると分かれば、ディルディーエに泣きつくか逃走するしかない。

「これはこの国の王族のおかしな決まりごとでね。花嫁を迎え入れてから実際結婚するのはその一年後なんだ。その一年の間に花嫁が本当の花嫁になるかどうかが決まる」

 その一年は様子見ということだろうか。だとしたらアサコはすでに花嫁失格だろう。城の中ではおそらくアサコがイーヴェを刺したということになっているだろうし、魔女の手の者かもしれないと疑われいるに違いない。そうなればアサコがこの城を追い出される日は近いのかもしれない。急にこの先のことが心配になった。やはりなんとかディルディーエに言葉を分けて貰わないと大変だ。

 回廊に出ると、想像していた通りの冷たくて澄んだ空気が体を包み、アサコはそれを肺いっぱいに吸い込んだ。同時に肌寒さに体を小さく奮わせる。

 風邪を引いて熱を出したくらいで、あれやこれやと世話をされたのだ。ここ数日間は必ず部屋に誰かがいた。その殆どの時間部屋にいたのはディルディーエだったが、彼がいない時間はティンデルモンバや召使いの娘がいた。

 以前は高い熱が出ても自分で食事を用意し、後片付けをしていた。母が仕事を休める時は休んでくれたが、小学生のころ高熱が出た時には出張で海外に出ていた母を心配させるまいと電話もかけれずにいたのだ。まさか高齢の祖母を呼ぶわけにもいかない。

 そう思うとここでの暮らしはとても恵まれた環境だったが、本当に心を許せる人が少ないこの場所でのそれは息が詰まるものでもあった。

 手を引かれて、広い森の様な庭にある東屋に連れられた。

 相変わらず晴れ間の知らない空は緑を強く照らすことはない。木々の間から差し込む光りも少なく、まだ昼間だというのに少し薄暗かった。

 石の椅子にアサコを座らせると、イーヴェもその隣りに腰掛けた。その距離があまりに近かったので、アサコは身じろぎする。

「……弟のことは、本当だよ」

 一瞬何の話しか分からずにアサコはイーヴェの横顔を凝視したが、ジュリアスの話しのことだと思いあたり目を逸らした。

「聞いてたんですね」

「立ち聞きするつもりはなかったんだけどついね。弟がラカと会ったのも本当だ。魔法使い達は死者の記憶をその死体から読み取る。一度城に帰ろうとした弟をラカは殺した。心臓を小さな剣で一突きにして……それでも君は彼女に味方する? それともそんなことは始めから知っていた?」

 アサコは答えることができなかった。

 悲しみが浮かぶイーヴェの瞳から嘘を見つけだすことができない。

「城の外を囲う痲蔓に、弟はぶら下がっていたんだ。服を血塗れにして……彼女がどんな酷い目にあってきたのかは知らないけれど、許すことはできない」

 ありがとう、アサコ。ありがとう。

 そう言った少女の姿を思い出した。無邪気で、残酷。彼女はいつだってそうだった。怖ろしくて、それでも憎むことのできない存在。彼女に嘘は何もなかった。けれどアサコはラカを知り尽くしているわけではない。

 弟のことを話すイーヴェを目の前にしてアサコの胸は痛んだ。歪みの城を囲っていたという茨に血塗れの少年。僕も君に会いたかったんだと言ったあの子をラカが殺したのかと思うと恐ろしくなった。それでも心のどこかでラカを信じようとする自分がいる。ラカに命を与えられたからだろうか。彼女を嫌いになることはできない。疑いながらも彼女を信じようとしてしまう。

「君はラカに何かを命じられているのか」

 そう訊くイーヴェの目にいつもの冷たい光りは宿っていないように見えた。ただ疑問に思っていることを訊いただけの様だった。

 アサコは小さく頷く。

「一緒にいて、と」

 他に何かを言われただろうか。何故か思い出せない。他になにかあったとしても、ラカがアサコに一番望んでいたのはそれだ。

 一緒にいて。そして私の代わりに泣いて。

 イーヴェはただ呟く様に「そうか」と返した。





 






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