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痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
六章 天蓋のそと
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 手のひらに温かな感触がある。アサコはそれが心地よくてぎゅっと握った。

 甘やかな花の香りに、小鳥の囀りに、時たま吹く風が揺らす窓の音。目蓋を通してきた明かりがもう朝なのだということを知らせる。そういえば、もう随分と目覚めてすぐに朝を感じたことがなかった。ディルディーエの部屋は夜の間も明るく、朝になってもその明かりは単調なまでに変わりがなかったから。

 ゆっくりと重たい目蓋を上げると、にっこりとイーヴェが笑った。

「おはよう、アサコ」

「え」

 目の前のことがすぐに理解できずに、アサコは声を漏らしたあと固まったように動けなくなった。まどろみながら感じた朝は間違いではなかったらしい。外は相変わらずの曇り空で清清しいとまではいえないが、目の前の青年は清清しすぎるほど清清しい笑顔をアサコに向けていた。

「昨日のこと、覚えてない? 君が中々手を離してくれなかったから困ったよ」

 言いながら、今も繋がれたままの手を軽く持ち上げてみせた。確かに、その手はアサコの手に強く握られていた。

 アサコは寝起きの頭で昨日の出来事を振り返ってみたが、なかなか上手くいかない。侍女達に部屋に閉じ込められたところを助けてくれたのは彼だ。湯に浸かった直後に寒い場所に閉じ込められた為に冷え切った体を震わせていると、大きな毛布を巻かれて暖炉の前に座らされたのは覚えている。そのあとの記憶はない。おそらくそのまま寝入ってしまったのだろう。

 繋いでいた手を離そうとアサコが力を緩めると、今度は逆にぎゅっと力を込められた。おそるおそる目の前の顔を見ると、そこには楽しそうな笑みが浮かんだままだった。

「熱があるみたいだけど、大丈夫?」

「熱?」

 額に手を当てられて、アサコは目を細めた。

 言われてみれば、体が火照っているのに寒気がするし、決して寝起きのせいだけではない体のだるさがあった。意識しだすと、それはますますはっきりとしたものになっていき、アサコは寒気で身体を震わせた。確かに熱っぽい。

 イーヴェは体を起こすと、枕元にあった小卓の上の水差しと水晶の杯を手に取った。それをなみなみ注ぎ、アサコに手渡す。

「全部飲まなくてもいいから」

 頷いてアサコが水を一口飲むと、今度は小さな赤い実を口元に差し出された。まん丸なその赤い実は半透明の皮で赤い石の様にも見える。果物特有の甘い香りがした。

「熱に効くんだよ」

 アサコはぐっと口角を下げる。これでは本当に小さな子供扱いだ。摘まれた実をそのまま口に入れるのは流石に恥ずかしいし、躊躇ってしまう。するとそんなアサコの思考を読んだかのように、イーヴェはますますそれをアサコの口に近づけた。

「食べなさい」

「わた」

 わたし、子供じゃないんですよ。そう言おうと思って口を開いた途端に、口の中に赤い実を放り込まれた。反射的に噛むと、甘酸っぱい味が口の中で弾ける。

 睨むようにイーヴェを見上げると、それを全く気にした様子もない笑顔を向けられた。

「……イーヴェ、わたし多分イーヴェが思っているより大人に近い歳なんですけど」

「へえ、そうは見えないけど?」

 むっとしたものの、アサコはその挑発には乗らなかった。杯の水を溢さないようにぐったりとそのまま寝台に体を倒す。まともに相手をしていたら、体に毒だ。これ以上熱が上がっても困る。

 アサコが両手で握っていた杯をイーヴェは抜き取ると、残っていた水を飲み干してしまった。アサコは目を円くしてその様子を見つめた。

「風邪、うつりますよ」

 一緒に寝ておいて今更な言葉だったが、よく考えてみれば、イーヴェも怪我人だ。それによって体力が落ちていれば、もしかすると平常時よりも風邪がうつりやすいかもしれない。

「心配しなくても大丈夫だよ。体力はある方だから」

「はあ」

 力なく相槌を打つと、アサコは再び今の状況を頭の中で整理した。今まで目の前のイーヴェにばかり気をとられていたが、よく見なくともそこはイーヴェの部屋だった。

 先ほど彼が言っていたロティルアンネとは、あの金髪の娘のことだろう。彼女はどうしてあんな場所に自分を閉じ込めたのだろうかと考えて、アサコははっと自分の腕を見た。血の出た痕跡のない、異常な傷跡。アサコ本人でさえも不気味に感じるそれは、彼女たちの目にますます気味の悪いものに映ったに違いない。

「イーヴェ、わたし」

「今はゆっくりおやすみ」

 柔らかい、けれど有無を言わさない口調で言うと、イーヴェはアサコの頬を撫でた。その言葉と手のひらの温もりに、無意識にほっと息を吐く。イーヴェ自身にうんざりすることはよくあるが、この手は嫌ではないと思う。

 安心した様子からその気持ちが伝わってしまったのか、イーヴェはふと笑った。

 思い出さなくてもいい、とイーヴェは言った。そこに彼の求めているものがあるかもしれないにも関わらず。それともそれは本心からの言葉ではなかったのかもしれない。それでも、その言葉はアサコの心深くに沈んだ。遠い昔に、ラカにも言われた言葉。

 思い出さなくていいのよ、アサコ。私が全部もらってあげる。だから、交換しましょう。

 可哀相な、私のお人形さん。

 それは、ラカの口癖だった。

 ああ、そうかとアサコは納得した。アサコの中でようやく辻褄が合う。あのお城に居た理由、傷口の理由、ラカの記憶。ラカはいつだってあの小さなお城の女王で、アサコの飼い主だった。

 頬に触れる手に手を重ねると、イーヴェは驚いたように目を大きくした。

「……どうして泣いてるの」

 顔を歪ませてアサコは首を横に振る。するとイーヴェはまた微笑んだ。

「君は本当によく泣くね」

 目覚めたら、たくさん泣けばいいわ。あなたは私とちがって、涙を流せるもの。

 これは、ラカの涙だ。ラカが魔法と引き換えに手放したもの。それをアサコがもらった。だからアサコはラカの代わりに泣く。


「随分と手懐けたものだね」

 抑揚のない声にイーヴェは顔を上げた。扉を開ける音もさせずに唐突に現れた少年は、扉の前にぽつんと佇んでいた。イーヴェと目が合うと微かに首を傾げる仕草を見せる。

「見ていたんですか。不粋だなあ」

「その子の監視をするようにと言ったのはお前だろう」

「融通というものがあるでしょう」

 言いながらも、楽しそうに微笑んでみせる。小さな魔法使いは、表情こそ変えないものの忌ま忌ましげにため息を吐いた。

 手懐けた、という言葉には異論はないようだ。アサコは意外と強情だ。驚かせて下手に警戒されるよりもずっといい方法だとイーヴェは思ったのだろう。 そもそも彼女がイーヴェに警戒心を持つようになったのは、イーヴェが嫌がらせのように彼女に構ったのが原因だ。元々警戒心の薄い彼女は、何かきっかけさえあれば簡単に心を解くだろう。

 ディルディーエは子供の姿には似つかわしくないため息をまた吐くと、瞬く間にその姿を小鳥へと変えた。慣らすように数度羽ばたきする。小さな瞳は理知的な光りを讃えて、イーヴェを見据えた。

「お前は本当に似ているね」

「誰にですか」

 皮肉げな笑顔を浮かべて、イーヴェは小さな鳥を見た。小鳥は惚けるように可愛らしく首を傾げてみせる。その仕草をする様が本当に普通の小鳥の様だったので、イーヴェは苦笑した。

「……ディルディーエ?」

「おや、目が覚めたのかい」

 小さな小鳥の姿のままのディルディーエは羽ばたき、アサコの被る布団の上に降り立った。

 アサコはぼんやりとした目で青い鳥を見下ろす。その頬は熱の為かほんのりと赤い。もぞもぞと布団から手を出すと、その小さな体に触れた。

「熱があるね」

「昨日冷えてしまった様です」

「だろうね」

 呟く様に言って、ディルディーエはアサコの腕の上をとんとんと跳ねて上がった。ちょうど傷のあるところまでくると、見ていたイーヴェが突くのかと思うほど小さなくちばしを近付けた。寝起きの頭と熱でぼんやりとしているアサコは、それに気付いているのかいないのかじっとその様子に目を向けていた。

「魔女の魔法が残っているようだね」

 アサコは目を細めるだけで何も言わなかった。残っているという魔法がどんなものかも分からないだろうに、それに対して疑問を投げかけることもない。

 その様子にイーヴェは微かな違和感を感じたが、熱のせいで頭が働かないのだろうと片付けた。

「どうして鳥のままなんですか」

 小さな小鳥は首を傾げた。

「すぐに出るからね。お前の様子を見にきたんだよ」

 小さなくちばしから紡がれた言葉に、アサコは嬉しそうに微笑んだ。その、なんの疑いも知らないような笑顔を見たイーヴェは、わざとらしくため息を吐き肩を竦める。

「手懐けたのはどっちだか」

 それに対する返答は、チチッという愛らしい鳴き声だけだった。


 それから数日経った日のことだった。

 ロティルアンネがアサコの見舞いに訪れてきたのは。その時アサコは数日続いた熱は引いたものの、まだ完治したわけではなく安静をとって寝台に横になっていた。扉を叩く音がしたあと、彼女が返事を返す間もなくロティルアンネが静かに開けられた扉の間から顔を覗かせたのだ。二人は目が合うと暫く何も言えずにいたが、ロティルアンネの隣りから現れた少年がいつもの静かな瞳でアサコを見て呆れたように言った。

「大体察しはつくだろうが、彼女はお前に謝りたいそうだよ」

「はあ」

 彼の言う通り、察しはついたがその謝罪が何に対してなのか分からずにアサコは訝し気に返した。彼女の誤解は恐らく解けたわけではないだろう。その上で彼女は謝ろうというのだ。まだアサコのことを魔女だと思っているのなら、彼女のとった行動に彼女のなかで間違いはないはずなのに。

「ロティルアンネは彼女自身の勝手な判断で、王子の花嫁に対して酷い行いをした」

 ディルディーエが何かを読み上げるようにつらつらと言い述べる。

「本来なら不敬罪になるが、今回は事情が事情だからね。特に罪はとわれないことになった」

 その言葉を聞きながらアサコがロティルアンネを見ると、彼女は居心地が悪そうに目を逸らした。

 ディルディーエはそんな二人を横目に、昨日のことを思い出していた。彼女はアサコをあの部屋に閉じ込めたその日に、勝手なことをしたと王子に謝罪していたのだ。王子がそれはアサコに言うべき言葉だと言ったからこそ、彼女は今ここにいる。彼女のアサコに対する疑心はまだ晴れてはいないのだ。

 けれどアサコは少しほっとしたように表情を緩めた。

「ディルディーエ、これ見て下さい」

 アサコは服を捲り上げて腕を差し出した。白い腕に細かな傷痕がいくつかある。

「血が、出ないんです。それを見てみんな驚いて……わたしもびっくりしたんですけど」

 もう何日も経っているからかもしれないが、その内容のわりにアサコは呑気な調子で言う。その様子はまるで卓上のコップが落ちたという程度だ。熱でぼんやりとしていたからか、先日ディルディーエが鳥の姿でアサコの腕を見ていたことは覚えていないらしい。

 ディルディーエは差し出された腕に手を添えた。ふむ、と小さく呟くと傷口をなぞった。

「姫もそこまで気が回らなかったのか、それともわざとか」

「なんなんですか」

「そんなに深い傷ではないから、血が出なくても不思議なことではないよ」

 そうなのだろうか。紙で擦っただけでも血は出てくるのに。けれど、ディルディーエに言われるとそうなのだと思いそうになってしまう。今は塞がりかけている傷が最初からそうであったようにさえ感じる。

 けれど、今のアサコはその言葉が嘘なのだということを知っていた。傷は深かった。普通ならば血が出るはずなのだ。

「−−−−−」

 ロティルアンネが呟くように何かを言った。本当に小さな声だったけれど、それでもディルディーエは聞き漏らさなかったらしい。彼もまたアサコの解らない言葉でロティルアンネに言葉を掛ける。

 イーヴェ、子供、城、弟。

 知っている単語が幾つか出てきて、なんとかアサコはそれらを聞き取ることができた。それでもやはり話している内容までは解らない。

 ロティルアンネがディルディーエの言葉に対してか首を横に振ると、彼はふいにアサコを見た。

「彼女は母親の代からの城使えでね。主従ではあるが、ちょうど歳の近かったイーヴェ王子とは幼馴染みのような関係なんだよ」

「そうなんですか」

 アサコが相槌を打ちながら少年の近くに控える娘に目を向けると、彼女はその感情を露わにはしないものの僅かに瞳を揺らし目を逸らした。

 微かな間の後また何かを呟く様に言い、深くお辞儀をしてきた。訳が分からずアサコが目を円くさせていると、ディルディーエが少しあきれたような声色で言った。

「彼女は無礼な行いをしたことに謝っているんだよ」

「えっそんな謝ってもらわなくてもいいです! 悪いことなんか一つもないんですから」

 その言葉を彼は伝えたのだろう。彼女は頭を下げたまま首を横に振った。

「そんなあ……」

「彼女はこれでも強情でね。こうなったら何か罰を与えないと動かないよ」

「ばつ?」

 少年はこくりと頷く。アサコは逆に罰を与えられているような気がして、戸惑いを表わに視線をさ迷わせた。湯冷めで風邪を引いてしまったくらいで、彼女に罰を与えることなどできない。そもそもアサコには罰を与えるという発想自体が突飛すぎた。

「無理です」

「だったら彼女が納得する方法を考えておやり」

「ずるくないですか。わたしは怒ってないけど、そのやり方はずるいです。もしわたしがその人に本当に罰を与えたとして、わたしばっかりが悶々としてその人がすっきりするなんて」

「ふむ。確かにね」

 ディルディーエが納得した様に頷きアサコの言葉を伝えると、娘は落ち込んだ様な表情でお辞儀したあと部屋を出て行ってしまった。これはこれで後味が悪いものがある。

 アサコが小さく溜息を漏らすと、ディルディーエは小首を傾げた。愛らしいその仕草は彼の癖なのかもしれないが、顔は相変わらずの無表情だ。感情の見えないその表情は、それでもアサコを安心させる。

 この安心感も、当たり前のことだったのかもしれない。

 ラカの魔法が元々ディルディーエのものであったのならば、アサコが彼に感じる感情というのは親に感じるものと似ているだろう。

 アサコが手招きすると、ディルディーエは寝台の端に腰掛け、アサコを見た。

「……イーヴェには、内緒にしていて下さい」

 小さな声で言う。小さな少年の姿をした大人は、ただ黙ってその言葉の続きを待っている様だった。

「わたし、まだ思い出せないし、何もできていない。まだ此処にいたいんです。わたしが何かをイーヴェには言わないで下さい」

「お前は自分が何か、分かったんだね」

 アサコは黙って頷いた。膝にかかる布団を握る。今イーヴェに正体が知れれば、もしかすると殺されてしまうかもしれない。そうなってしまえば、きっともう此処にはいられなくなるのだ。

 それになにより、あの緑の瞳に冷たい光りが宿るのを見たくはなかった。

 アサコが再び顔を上げた時、扉を叩く音がした。返事をする間もなくそこは開かれる。

「失礼、お取り込み中でしたか?」

 そう言いながらも入ってきたのはジュリアスだった。青年には似合わない愛らしい籠を抱えている。

「いや。だがそう一瞬でも思ったなら、せめて立ち止まったらどうだ」

「まあ、大目にみてください。これを」

 大きな籠を手渡されて、アサコはその中を覗きこんだ。わあ、と思わず声を漏らす。その中には、色とりどりの愛らしいお菓子が詰め込まれていた。

「病人食にも飽きてきたところでしょう? 熱が引いたと耳にしたので、作ってもらいました」

「ありがとうございます」

 この青年に心の底からお礼を言ったのはこれが初めてかもしれない。愛らしいお菓子にも心惹かれたが、何よりもその心遣いが嬉しかった。小さな魔法使いにはそれが餌付けしているように見えなくもなかったが。

「そういえばディルディーエ、兄があなたを呼んでいましたよ」

 ふむ、と相槌を打つとディルディーエは小さな小鳥の姿になった。アサコにとっても、もう見慣れつつある光景だがそれでもその瞬間は目を疑ってしまう。

 小鳥はアサコの頭の上にとまると、その上から彼女を見下ろし「いい子に、大人しく寝ているんだよ」と言った。アサコは小さい子供じゃないのにと思いつつも黙って頷いた。

 それも彼の魔法なのか、扉がひとりでに開き、ディルディーエが出て行くと同時に静かに閉まった。彼と一緒に部屋を出て行くと思っていたジュリアスが部屋に残っていることに、アサコは内心冷や汗を掻く。いくらお菓子をくれたからと言って、それだけで懐くはずもない。彼とはどういう訳か二人になることが多かったが、できればそれは遠慮したいのだ。

 最近この部屋の中には殆どの時間、誰かがいる。先日アサコがいなくなってしまったのが原因なのだと彼女自身気付いていたが、これは辛い。

 ちらりと寝台横の椅子に腰掛けたジュリアスに目を向けると、彼は何の思惑もない様な顔でにこりと微笑んだ。

「では、私たちは彼が帰ってくるまでお話しでもしましょうか。姉君?」











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