表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
五章 二人の少女
26/54

26

 お茶会以来、王子は少女のもとを時たま訪ねてくるようになった。

 少女の部屋でお茶をしたり盤上遊戯をしたりと、彼は暇を潰しにきているようだった。少女が素っ気無い態度でも、無視をしても気にした様子もなく楽しそうに話しかけてくる。無理に少女に答えを求めない。沈黙も気にしていない様だった。

 少女は一度尋ねたことがあった。どうしてそんなに楽しそうなの、と。すると王子は「どうして君はそんなにつまらなさそうなの」と質問を返した。それはつまらないからだ。此処には少女が求めるものはなにもない。楽しいなどと思えるはずもなかった。ということは、王子がいつも楽しそうにしているのは此処には彼が楽しめるものがたくさんあるからだと思い至った。

 少年がやってくる度に渡される贈り物は部屋の中少しずつ増えていった。硝子の円蓋に入れられた小動物の剥製に綺麗な石、甘いお菓子に美しい絵画。それらは召使い達によって綺麗に飾られ、卓上に並べられた。

「あの人はそんなに悪い人に見えないけど……」

 王子が去ったあとの部屋で、弟が自信無さ気に言った。

 「悪い人」ではなくとも自分達にとっては悪い人がこの国にはたくさんいる。まだ幼い姉弟に蔑みの目を向ける大人達にはけして悪気があるのではない。彼らにとっては彼女達森の国の者こそが悪者なのだ。

 少女は少年王子が苦手だった。他の人々が自分達に向ける感情は手に取る様に分かるのに、彼に関しては何を考えているのか分からない。負の感情の一片でも見せられれば彼に心の底から憎しみの感情を向けることができるのに、それができなくてもやもやとする。

「そんなにあの人を嫌いたいの?」

 長椅子の上、少女は顔を埋めていた膝の上のクッションから視線だけを上げて弟を睨んだ。少年は慌てたように視線をさ迷わせる。それでも少女が手を伸ばすと、拒むことなく手のひらを重ねてきた。

 弟が言った通りだった。あの王子を嫌って今の自分を保ちたい。少女の目にもあの少年王子は悪い人には見えないから、それが問題だ。心の底では信じそうになっているのに、傷つくのがこわいから信じない様にしている。

「信じてみてもいいと思うよ。誰も信じられる人がいないのは辛い」

 それは少年が、自分にも言い聞かせている言葉でもある様だった。お互いの存在が支えになっているとはいえ、見知らぬ国で知らない人達に囲まれ続けるのは心細い。心を許せる人が欲しい。

 ある日、王子は少女とその従者である少年を森へ誘った。この国にきてから殆どの時間を部屋で過ごす少女を気遣ったのかもしれない。王子と共に行くのは気乗りしなかったが、少女も人気のない森に出向くのは少し楽しみだった。

 森は城のすぐ近くにあった。少女はその森の中に母が言っていた古城があるのを知っていた。

 王子の気遣いか、森の中まで三人に同行したのは王子の従者である青年一人だった。他に数人の騎士達が森の前までは着いてきたが、そこで待機し王子達の帰りを待つことになった。

「この先にね、とっておきの場所があるんだよ」

 森は城の上から眺めていたよりも深いようだった。木々が密集していて視界が悪いからかもしれない。木々の間から零れる日の光りは、始めて王子と出会った時のことを少女に思い起こさせた。

 繋がれた手は今は弟のものではなく王子のものだ。馬は森の入り口において来た。後ろから付いて来る弟と従者の足音は規則正しい。

 少女はどうにも落ち着かない気分で手を引かれながら歩いた。手のひらの熱が気になって仕方が無い。蜂蜜色の頭を眺めていると、時々後ろを振り返る王子と目が合いそうだったので、少女は自分の足元を見る様に努めた。

「着いたよ」

 その声を合図に立ち止まった少年にぶつかりそうになり、少女は慌てて足を止め顔を上げた。

 わあ、と後ろから弟の声が聞こえてくる。森の中、ぽつんと明けた野原があった。一面青い花が咲き乱れるそこは薄暗い木々の下から見ると、少し眩しい。少女は目を細めた。野原の真ん中に小さな古城が建っているのが見える。あれが母が言っていた閉じ篭りの城だろう。

 ふいに風が吹き花びらが舞った。気のせいだろうか。花びらは野原を舞い、まとまりを成して少女のもとまでやってきた。瞬間、甘い香りに包まれたかと思うと花びらは一瞬のうちにばらけ、力を失ったようひらひらと地面に落ちた。不思議な感覚だった。誰もいないのに、初めて来た場所なのになぜか故郷に帰った様な、同族に出会った様な気分にだった。

 手を引かれて、止まっていた足をまた無意識に動かしだす。陽の光の下に出ると、今度は森の中が暗く見えた。

「ここは小さい頃から大好きな場所なんだ」

 王子は腰を折ると、足元に咲く花の一輪を手に取った。少女が何も返さなくとも、やはり少年は何も言わない。けれどこの時は、いつもとは違い少し寂しそうに微笑んだ。

 少女の小さな手を自分の手のひらの上に載せ、白い指に花の茎を絡める。

「どうしたら、心を開いてくれる?」

 静かな声に少女は顔を上げた。伏せられた蜂蜜色の睫の下、僅かに緑が覗いている。優しそうな笑みはどこか寂しげでもある。

 初めて少年の心が垣間見えた気がした。何を考えているかはまだ分からないけれど、少女の目には王子がやっと自分と同じ歳頃の子供に見えた。

 少年の手が離れる。少女の左手の小指には、先ほど少年が摘んだ花が結ばれていた。

「いきなり会った人が結婚相手なんて馬鹿げてるけど、とりあえず今はそんなこと気にしないでもっと話そうよ。それとも君が僕を嫌っているなら、僕はもう君にあまり係わらないようにするよ」

 急にその様なことを言われて、少女は自分自身意外なほど戸惑った。多分、少年のことは嫌いではない。嫌いになろうとはしたけれど、なれなかった。だからと言って好きという訳ではない。少女はまだ少年のことを殆ど知らない。知ろうともしなかった。

 本当はここで喜ぶべきなのだろう。少年が係わってこなければ、少女の平安は保たれる。

「……姫様?」

 背後から弟の声がして、少女は下唇を噛んだ。

 小指につけられた花の指輪を引きちぎり、地面に捨てると王子や弟と従者を残してその場を走り去った。後ろから自分を呼ぶ声が聞こえたが立ち止まることはしない。地面に突き出た木の根を身軽な仕草で飛び越えて行く。森の中は少女達の領域だ。いくら少年や大人の男でも追いつけないだろう。

 後ろからの気配がなくなり立ち止まった時には息が切れ、心臓が痛かった。汗を拭うために顔に手を近づけると甘い花の香りがした。

 胸が痛い。自分が何をしたいのか、何を信じてどう行動すればいいのかも分からない。きっと、傷つけた。

「姉さん、一体どうしたの?」

 弟の声だった。少女は振り返らずに首を横に振った。なんでもない、とそう言いたかったが今は息が切れてしまっている。声を聞かれたくない。きっと弱弱しい声が出るに違いない。

 ふと、指先に熱が触れた。見ると遠慮がちに少年が少女の指先を握っていた。

「戻ろう?」

 いくら逃げても、今幼い姉弟の帰る場所はあの恐い人々がいる城しかない。戻りたくないと少女が言うと、少年は困った様に眉尻を下げた。

「……騙されるのが嫌なら、こっちから騙せばいいなじゃないかな」

 どういうこと、と少女は目を円くさせながら訊いた。

「心を許したふりをすればいいんだよ。信じきらなくても、仲良くなってしまえばいい。仲良くなったふりをすればいい。そうすれば、あの人が悪かった場合傷つかないし、あの人が本当にいい人だったらそのままそれを続ければいいんだから」

 そんなに上手くいくのだろうか。少年の言う様に物事は簡単には運ばないだろう。それに先ほどの言葉通り、王子はもう係わってこないに違いない。

 ひとつ溜息を吐いて、少女は少年の手を握り返した。


 その夜、不思議な夢を見た。

 少女は昼間行った森の真ん中にある野原に一人佇んでいた。風が少女の長い黒髪を揺らすが、周囲は奇妙なほど静かだった。空は薄い雲に覆われている。鮮やかな青い花びらが空に舞い上がり、まるで逆さまに青い雪が降っているようだ。

 目の前にはあの古城がある。ああ、閉じ篭りに来たのかと少女はぽつりと思った。けれど、弟の姿がない。あの子を残して自分一人が城に閉じ篭る訳にはいかないと、周囲を見渡す。すると、足元に人形が落ちていることに気付いた。長い黒髪の少女のその人形は、母からの贈り物だ。長い髪は少女本人のものが使われている。少女はそっとそれを拾い上げた。この国に連れて来られた時にも持ってきた大切な物だ。召使いの娘に気味悪がられたが、少女にとっては宝物だった。

 夢の中だからだろうか。その人形はいつもの冷たさではなく、人の様に温かかった。少女は驚くではなく、そのことに心から安心する。一人ではないのだ、と。

 周囲を囲む森から、蔦が生き物の様に伸びてくる。それらはみるみる小さな城を覆っていった。

 少女はそれを無感動な眼差しで眺めていた。きっと、そう遠くない先の自分がこの石の城の中にはいるのだろうと思う。だとすれば、今ここに弟がいないことは当然のことだった。これはこれから起こることを表しているのだ。ならば、きっと弟もこの城の中に自分と共にいるのだろう。

 蔦を這わすことなど少女にはできない。たとえもし本当に少女に魔女の血が流れていたとしても、少女自身にその様な力はなかった。それは家族たちも同じだ。けれど、皆不思議な夢を見る。それはとてもよく当たる夢だ。それこそが彼女たちが魔女の血を交えてきたといわれる由縁だった。

 あの時は悲しみで疑問を口にする余裕もなかったが、なぜ母は蔦を這わせろなどと言ったのだろう。彼女も何か不思議な夢を見たのだろうか。

 蔦が城を覆い尽くす。その棘の先に幻覚作用のある毒が含まれていることを少女は知っている。

 雲があっと言う間に流れていくが、そこに切れ間など見当たらない。気付けば夜が来て朝が来て、見えない太陽の光りが野原を緩やかに照らす。驚くほどの速さでそれらは繰り返される。迎えは来ない。母はどうしたのだろうか。

 ぽつりと透明の雫が落ちた。少女は知らぬ間に自分が涙を流していたことに気付き自らの頬に触れた。

 これは、一体誰の涙だろうか。


 目覚めると少女は窓の外を見て青空が広がっていることに安心した。けれど夢の余韻は少女に少しばかりの憂鬱を与えた。今すぐ母に会いたいと思い、けれどそれは叶わないことだと思ったがいても立ってもいられず少女は部屋を飛び出した。

「おっと」

 扉を開けた途端、人とぶつかった。その声でそれが誰か知り、少女は顔を上げることはできなかった。

 どうして王子がここにいるのだろうか。もう係わらないのではなかったのか。

「君の口から直接聞いたわけではないから」

 少女が顔を上げると、少年はにっこりと微笑んだ。いかにも品の良い、傷つくこともなく生きてきた様な子に見えたが、彼は存外強かだったらしい。

 少女が呆気にとられた顔で王子を見つめていると、彼は少女の手をとり身を屈めた。

「どうしたの? そんな格好で。怖い夢でも見たの?」

 王子にぶつかった衝撃で少しの間忘れていた感覚を思い出し、少女は眉ねを顰めた。夢を見た後はいつもそうだ。心の中がざわざわと嫌に落ち着かない。今回の夢は特に嫌な感じのものだったからだろう。

 それは心細さからくる無意識の行動だった。もしかすると少し寝ぼけていたのかもしれない。少女はいつも寂しい夢を見た後、兄弟たちにしていた様に気付けば王子に抱きついていた。

 王子はさぞ驚いた顔をしていたことだろう。少女から彼の表情は窺うことはできない。

 自分のしたことに気付いて離れようとすれば、今度はぐっと抱き寄せられた。少女がもがいても、少年の細い腕は驚くほど力強く彼女を離さなかった。

「……ごめんね」

 苦しげな囁き声が聞こえた。

 一体彼は何を謝っているのだろう。少女が家族と引き離されてこの国へやってきたことの責任が自分にあると思っているのだろうか。

 家に帰りたい、と少女は言う。その言葉は口にしてしまえば、涙になって溢れ出した。ぎゅっと抱きしめる力が強くなる。

 この国に来てから今までの嫌な思いを全部吐き出してしまいたかった。今ならそれを許される様な気がした。

「いつか、きっと家に帰してあげるから」

 それは口先だけの言葉だったのかもしれない。けれどその時の幼い少女の心を鎮めるには十分な威力があった。その一つの言葉を少女は信じた。彼が本当に一番に望むその願いを叶えてくれるのならば、叶えてくれようとするのならば、彼に恩返しをしよう。きっと一番の友達になれるだろう。

 それからの日々は緩やかな流れの様だった。我の強い少女は何度も王子を突き放し、酷い言葉を投げつけたが、それでも歩み寄ろうとしてくる王子に少しずつ心を許していった。少しずつ彼のことを信じていった。その変化に弟は驚くと同時に安心した様だった。気付けば三人の子供たちは共に笑い合い、遊ぶようになっていた。三人が打ち解けた頃には少女の心も穏やかになり、大人達はそんな三人の子供の様子を見て見方を改め始めた。彼女は国にやってきてから不思議な力を使ったことは一度もないし、心を開けばお転婆なただの少女だった。

 その内に、少女は緑の森の国へと帰りたいと強く願うことはなくなっていた。時々は帰りたい、家族に会いたいと思うこともあったが、このまま三人で楽しく過ごせればいいのにと願うことさえあるほどだった。

 時々会う王様も、王子の父親だと思うと嫌な気持ちも減った。

 この国に来た時には想像もしなかった、幸せな日々が続いた。だからこそ少女も、その弟も心が緩みきっていた。冷たい大人たちの視線や醜い感情、裏切りを忘れてしまっていた。

 二度目の裏切りは、眩暈がするほどの真っ青な空が広がる日に起きた。

 王子が勉学のために隣国へ数日間の滞在をすることになった時のこと。少女は召使いに連れられ、見知らぬ地下部屋に通された。天井が高く広い部屋は窓がない為か、少女の不安を誘った。

 部屋の中には大きな寝台と棚、そして壁には大きな絵が飾られていた。その絵に少女は釘付けになる。そこには青々とした木々に囲まれ、長い黒髪を結うこともせず垂らし儚げに微笑んでいる少女が描かれていた。

「お前に少し似ているだろう。本物はもっとよく似ていた」

 それは静かな声だっが、部屋の中に誰もいないと思っていた少女は驚き、身を震わせた。

 王様が部屋の端に置かれた椅子に腰掛け、小卓に頬杖をつき少女をあの冷たい目で眺めていた。

「妃を娶る前、近隣の森に住んでいた娘だ」

 王様が立ち上がるのを見て、少女は恐ろしくなり後退った。王子の父親だからといって、やはり体の奥から湧き上がってくる恐怖心を抑えることはできない。緑の瞳は少年のものとよく似ているけれど、そこに温かさを見つけることができない。

 卓上に置かれていた酒瓶が落ち、転がりながら床に染みを作っていく。

 いけないとは分かっていても、少女は慌てて振り返り部屋の扉を開けた。その扉の外へ逃げたあとのことなど考えられなかった。けれど、きっと逃げた方がいい。逃げないといけない。ここは危険だ。

 けれどその思いは叶わなかった。左手が強い力で引かれ、扉が遠のく。

 そして、重たげな音を響かせながらそこは閉じられた。




 



 




 



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ