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痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
五章 二人の少女
24/54

24

 城を出るまでアサコは夢うつつの状態で、イーヴェに手を引かれるままふらふらと歩いた。

 すたすたと前を歩くイーヴェの腹に、まさか短剣が刺さっているなどと想像もしなかった彼女は、外に出て黒い馬の前に立った時にようやくそれに気付き、目を見開いた。そんなアサコをイーヴェは何を言うでもなく観察する様に見つめた。

「……玩具(おもちゃ)、ですか?」

 現実逃避するように、惚けた声で訊いたアサコの手をイーヴェは掴むと、短剣の刺さっている箇所へ導いた。

 冷たい柄に触れ、手がぴくりと震える。その後に触らされたのは血に塗れた腹部の服だった。生ぬるく濡れた感触が指先に伝わる。

「あ……」

 それが本物だと知ったアサコの顔から血の気が引いた。さっと手を引いて濡れた指先を呆然と見つめる姿に、嘘は見当たらない様にイーヴェには思えた。

「君が刺したんだよ」

 感情の篭らない声に、アサコはゆっくりと顔を上げた。何を言っているのだろう、とイーヴェの顔を見つめる。いつものふざけた様子を見たかったのに、そこに分かりやすい感情を見つけることができずに困惑した。覚えもないことを言われてどうしたらいいのか分からない。けれど現に、イーヴェのわき腹には短剣が突き刺さったままなのだ。城の中にいたのはアサコとイーヴェの二人だけ。

「覚えてない?」

 訊かれて、アサコはそれを助け舟の様に感じながら小さく頷いた。覚えはないが、それが本当なら大変なことだ。イーヴェは平然としている様に見えるが、アサコの目にはそれが信じられないほど痛々しく映った。

 イーヴェはアサコを抱き上げると、馬の背に座らせた。けれどやはり痛いらしく、顔を顰め、自分もその後ろに乗る。アサコはひやひやとしながらその一挙一動を見守った。自分で乗ると言ったけれど、どうしても乗れなくて申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 眉尻の下がった情けない顔で振り向いて見上げるアサコに、イーヴェは微笑みで返す。アサコは近くで見上げたその顔に、薄っすらと汗が浮かんでいることに気付き顔を歪めた。

 城へ着くと、二人の帰りを待っていた召使い達が彼らを出迎えた。イーヴェの様子にいち早く気付いた兎の従者が、知らない言葉で他の従者たちに指示をする様子をアサコはただぼんやりと眺めていることしかできなかった。馬から降りたイーヴェに肩を貸したのもティンデルモンバで、ひそひそと召使達の囁き声を聞きながらアサコはその後に続いた。

 疑いの目を向けられている。当たり前だ。アサコを迎えに誰もいない歪みの城に、イーヴェは一人で迎えに行ったのだから。それに元々召使いたちから不信の目を向けられていたことは彼女自身気付いていた。なにより、本人が言ったのだ。君が刺したんだよ、と。

 流石に手当てをする部屋までは入れてもらえず、アサコはイーヴェの部屋の前でじっと待った。途中、血に塗れた布を持って出てきた召使いと目が合い、アサコは、あ、と声を漏らした。いつもイーヴェの身の回りの世話をしている金髪の美しい娘だ。その娘はアサコを一瞥すると、何も言わずに去ってしまった。その後にも数人の召使いたちが忙しなく部屋を出入りした。

 アサコが思っていたよりも傷は深かったらしい。アサコは罪悪感を抱えながら城の中での出来事を何度も思い出そうとしたが、やはり思い出せずにただじっと自分の足元を見つめた。

 服も靴も濡れてまだ渇いていない。冷たい水に浸かったところまでは覚えている。そのあとに幼いラカの幻影を追いかけたことも、そこで少年王子や幼い従者を見たことも。そして、あの大部屋で見た不可解な光景も。

「風邪を引きますよ」

 ふと頭上から降った声に、アサコは顔を上げた。柔らかく細められた紫の目と目が合い、身を固くする。一方相手はそれを気にした様子もなく、身を屈めて彼女の肩に上着を掛けた。

「兄さんは無事ですよ。大した事じゃあない」

 本当にどうでもないことの様に、軽い調子でジュリアスは言った。アサコは何も言えずに、また目線を下げる。自分が履いている紺色の靴の先っぽと、向かい合うジュリアスの長靴が見えた。目の端に移ったスカートの裾をぎゅっと握る。

 もしかすると自分がイーヴェをあんな目にあわせてしまったのかもしれない、とは言えなかった。

「数日安静にしていれば、傷も塞がるとのことです」

 明確な答えで安心させようと思ったのか、ジュリアスは次いで言った。アサコはそれに対しても何か言うのではなく、小さく頷く。

 暫く間があり、気まずい沈黙が落ちた。くすりと笑う様な吐息の音が聞こえてアサコが再び顔を上げると、ジュリアスが笑いを隠す様に口元に手を当てたが、細められた目が笑みのかたちを表していた。

「……なんですか?」

 むっと眉根を寄せて訊く。すると今度は顔に浮かべた笑みを隠すこともなく、ジュリアスはアサコの顔を覗き込んだあと、耳元に口を寄せた。

「貴女が魔女の代役とは、到底信じられない」

 その囁きに、アサコは目を見開く。後ずさろうとして、背中を壁にぶつけた。間近にある顔を睨む様にして見上げると、また笑い声が漏れた。

「……イーヴェが言ってたんですか?」

「いいえ」

 にっこりと微笑んで、ジュリアスはアサコの髪を指で梳かすように撫でた。

 アサコは眉を顰める。ラカの代役などと、どうしてこの青年が知っているのだろうかと不信に思うが、今はそんなことよりも近すぎる距離を離したくて、身を捩った。

「ジュリアス王子」

 掠れた、けれど幼い声が廊下に響いた。

 アサコは声の主が誰かを知ると、振り返ったジュリアスの脇を潜り抜けた。一目散に小さな少年のもとまで駆け寄りその後ろに隠れるように立つと、ジュリアスは呆気に取られたように目を円くした。けれどまたゆっくりと優雅な笑みを浮かべ、紫の瞳に好奇心を多いに滲ませてアサコを見る。

 アサコはその好奇心混じりの視線が苦手なのだ。観察されている様な気分になって落ち着かない。それに初対面の時の印象が悪く、それが彼女の警戒心をますます強めていた。

「嫌われましたかね」

 肩を竦めながら言われた言葉に、アサコは顔を顰めたままむっと口角を下げた。下から小さなため息が聞こえてきたけれど、気にしないようにする。

「……別に、嫌ってはいません」

 苦手ですけど、と心の中で続けるがわざわざ口には出さない。

「それはよかった」

「終わったぞ」

 ジュリアスが言い終えるとほぼ同時に、ディルディーエが低く抑えたような声で言う。

「あの、ディルディーエ……」

 静かに見上げてくる大きな瞳をアサコは心許ない様子で見つめた。ディルディーエに事の次第を話そうと思ったが、ジュリアスの手前言いにくい。それに、城で見た青年の姿のディルディーエを思い出し、口を噤んだ。

 ふいに柔らかな感触を手に感じて見ると、小さな手がアサコの手を柔らかく握っていた。

「話したいことがあるのなら、後で聞こう」

 最初ディルディーエの珍しい行動に驚いたが、手の平から安心感が拡がって、アサコはほっと息を吐いた。無意識に小さく微笑み頷く。ディルディーエといると、本当に心の底から安心できる。彼女にとってディルディーエは、今や暖かな毛布の様な存在だった。

「貴方に随分と懐いているようですね」

 以前イーヴェが言っていたことと同じ様な言葉が聞こえたが、アサコは無視してディルディーエと共に先ほどより人の少なくなった部屋に入った。それでも、人がいなくなったわけではない。数人の召し使いに囲まれて、医師らしき老人が椅子に腰掛けている。それに向かい合うようなかたちで寝台に座るイーヴェは、医師と言葉を交わしていたが、アサコとディルディーエの存在に気付くと口角を上げた。

 部屋に入ると同時に視線が突き刺さるのを感じたアサコは、目線を僅かに落とす。繋がれた手を見て、湧き上がってくる不安を抑えた。

 老医師がなにかを言うと、イーヴェは頷いた。

「こちらはアルデージャ先生だよ、アサコ。城付きの医師の一人だ」

 一人と言うことは他にも何人かいるのだろう。アサコは朗らかに微笑む老医師を見た。白い髭で口元を囲い、優しそうな笑みを浮かべるその姿は、アサコに赤服の聖者を思い出させた。瞳は透き通った海の様な薄い水色だ。

 手を差し延べられて、それが握手を求められているのだということに気付くのに少し時間がかかってしまった。体も大きいが手もとても大きく、ごつごつとしていた。もう片方の手をディルディーエの手と繋いでいるの見られた上に目を円くされてばつの悪い気分になったが、離してしまうのも不安で繋いだままでいた。

「……傷は、大丈夫ですか?」

「大したことじゃないよ。それよりもアサコ、着替えないと風邪を引く」

 イーヴェはアサコの恰好を上から下まで見て、微かに眉をひそめた。その言葉にアサコは自分の姿を見下ろす。ジュリアスにも言われたけれど、さっと見ただけだとまだ濡れていることなどあまり分からない。なんて目敏い兄弟だろうか。

「もう乾きますよ」

 先ほど肩に掛けられたジュリアスの上着を広げてみせながら言う。アサコにとっては大きな上着はずっしりと重い。こんなものを毎日着ていたら肩が凝ってしまいそうだ。

 イーヴェは傍らに佇む召し使いにアサコの解らない言葉で一言告げると、ディルディーエに視線を移した。

 するりと手が離されるのを感じて、アサコは下を見た。ディルディーエはいつも通り表情の無い顔でいて、じっと大きな目をイーヴェに向けている。アサコが名前を読んでもぴくりとも動かない。

「それか」

 ようやく動いた小さな口は、呟く様に言った。アサコもそれに釣られるように顔を上げてディルディーエの視線の行方を追う。

 イーヴェの腰掛けている寝台の隣りに、小さな卓が置かれていて、その上には短剣が大層な物の様に布張りの台座の上に載せられていた。柄から剣先まで銀製のそれは、あまり飾り気はなく、全体的に繊細な模様が刻まれている。綺麗に拭き取られているが、つい先ほどまでイーヴェの腹に突き刺さっていたものだ。アサコはそれを見て僅かに体を震わせた。

「覚えは?」

 その問いの意味を一瞬理解しかねて、眉根を上げる。見覚えならばあるに決まっている。先ほど見たばかりなのだから。

「……あります。さっき、イーヴェのお腹に刺さってたのですよね?」

 言いながらその様子を思い出したのか、アサコは痛そうに顔を顰め、無意識に腹に手をやった。鋭い切先が腹の中に入っているのを想像して、ぞっとした。よくイーヴェは平気な顔をして耐えたものだ。今も相当痛いに違いない。

 アサコがあまりに痛そうな顔をした為、医師が少し痛ましそうな目つきになっていた。

 イーヴェとディルディーエは視線を交わすと、またアサコを見た。その真剣な様子に、アサコは居心地の悪さを感じる。本当に先ほどから居心地が悪くて落ち着かない。疑いの視線も、何を思っているのかも分からないイーヴェも、自分の曖昧な記憶も、どうしようもなくアサコを不安にさせていた。先ほどまで繋がれていた手のひらもなく、手をぎゅっと握り締める。

「アサコ、おいで」

 静かな声に呼ばれて、アサコはゆっくりと寝台に近づいた。その間にもイーヴェは台の上に置かれていた短剣をその冷たさを確かめる様に指先で精緻な模様を撫でた。アサコが傍までやってくると、それを持ち上げ柄の部分をアサコに見せる。

「ここに、鳥の紋章が描かれているだろう? これは、この王家の紋章だよ」

 その言葉の意味が何なのかが分からずに、アサコは無意識に小首を傾げた。

「この国では、花嫁に銀の短剣を贈る習わしがある」

 後ろから聞こえてきたディルディーエの言葉に、アサコはますます訳が分からなくなった。それは、此処では指輪を贈る様な意味があるのだろう。一歩間違えれば恐ろしい凶器にもなる様な物を贈る習わしの意味など解らないが、しかしその美しい造りの短剣を見れば、納得できないこともない。けれど、今それを言われる意味がやはり解らない。

「ずっと受け継がれてきた物だったんだけどね、一度ティエルデの時代に失われてからは、新しい物が作られたんだ。つまり、これは昔、当時の花嫁だったラカに贈られてから次に継がれることのなかったもの」

「ラカの短剣、ですか?」

「そういうことだよ」

「それをわたしが……?」

 黙然と頷くイーヴェの姿をアサコは呆然と眺めた。謝ろうとも一瞬思ったけれど、本当に全く身に覚えがないのだ。

 たくさんの目に見つめられ、アサコは途方に暮れた。しんっと静まり返った部屋の中、息苦しくなる。一体どうすればいいのか分からない。

「わたし……本当になにも覚えていなくて。気付いたら、イーヴェが目の前に立ってたんです」

 これではまるで言い訳だ。

 返答はなく、そこにいる誰も表情は変わらなかった。イーヴェとディルディーエ以外に言葉は通じていないのだということも忘れて、アサコは気まずい気分で視線を落とす。後ろめたいことなどした記憶はないのに、自分自身を信じきれない。

「わたしが、イーヴェをそれで刺したんですか?」

 確認するようにもう一度訊く。

 イーヴェが何か思案するような表情で手を挙げれば、部屋に残っていた召し使いたちと老医師は部屋をぞろぞろと出て行った。残ったのはアサコとイーヴェ、ディルディーエの三人だけだ。その時になってようやくアサコはジュリアスの姿がないことに気付いたが、わざわざそれを口にすることもなかった。

「あの城の中で何か見た?」

 質問を質問で返される。アサコは微かに眉を顰めてイーヴェを見た。

「子供の頃のラカたちを……」

 こんなことを信じてもらえるのだろうか。

 言ってから、ディルディーエをちらりと見た。冷静に考えてみれば、あれはディルディーエ自身だった訳ではなく、その肉親だったのかもしれない。まだ少年と言っていいほどの幼さを残した顔立ちはやはりディルディーエにそっくりだったけれど、あの青年ほどの硬質ななにかを小さな魔法使いは持っていないような気がした。表情の変化はあまりないけれど、それでも彼には人間みがあって、城の中で見た青年は、例えるなら美しい絵の様だった。見るものを惹き付ける何かがあるのに、それ自体は空虚で意思など持たない。見る者の一人よがり。

「彼らは、何かしてた?」

 イーヴェが表情を変えずに聞いてきたので、アサコは目を大きくした。彼はアサコ自身も不可解に思うようなことを簡単に信じたのだろうか。

「……遊んでました。魔法使いを見つけるって」

「他には?」

「ほか……」

 鸚鵡返しに呟き、視線をさ迷わせる。悲痛な声を思い出して心がまた軋んだ。あの薄暗闇のなか、ラカはたった一人で長い時間、王子を待ち続けていたのだ。

 そして、最後に見た不思議な光景の意味が解らない。成長したラカと、幼い王子に、石台の上にいた自身の姿を思い出し、一度強く目を閉じる。

「少し大きくなったラカと、小さいままの王子が会ってるところを見ました。二人は抱きしめ合ってて……」

 そこでアサコは口を噤んだ。乗り物酔いをしたような気持ち悪さに襲われ、顔を顰める。あの後、二人はどうなったのだろうか。二人は無事再会したのに呪いは解けなかったのだ。その意味は。

「わかった、ありがとう。湯の用意ができたみたいだから、入って休んでおいで」

 気分が優れないアサコは、小さく頷き部屋を出た。すぐに扉の前で待ち構えていた侍女たちに囲まれて部屋に戻ると、イーヴェが言ったとおり湯の張られた浴槽が部屋の真ん中に置かれていた。

 浴槽の横には、あの金髪の美しい娘が大きな布を持って立っている。それに気付いたアサコは扉の前で立ち止まったが、すぐに他の侍女たちの手によって部屋の中へ入れられてしまった。

 部屋の中では、奇妙なほどの沈黙が続いた。よくアサコの世話をしてくれる数人の侍女の誰も、口を開こうとはしなかった。いつもなら、言葉が通じないと解っていても何かしら話し掛けてくるにも関わらず、だ。

 アサコは少し悲しい気持ちで、じっと水音だけを聞いた。いつもなら拒む手にもされるがままで、人形の様にぐったりと湯に身体を沈める。

 そんな姿を召し使い達はまるで不気味なものを見るような眼差しで見た。彼女たちにとって、アサコは得体の知れない敵のような存在になってしまったのだ。当たり前だ。アサコ自身、自分の存在がどのようなものかももう分からなくなってきているのだから。ここにはアサコの存在の正体を知っている人も、証明してくれる人も誰もいない。綺麗に洗われて返ってきた制服も、ここではなんの意味も持たないのだ。

 小さな囁き声が聞こえて顔を上げると、持ち上げた腕を召使いたちはじっと見つめていた。それに釣られるようにして、アサコも自分の腕を見た。明るい所で改めて見ると、腕についた傷は彼女自身が思っていたよりも深いものだった。けれど血が出たあともなく、赤くもなっていない。細く凹凸の傷がついた肌は、それに連なる肌と同じ透き通るような肌色だ。

 アサコは大きく目を見開くと、掴まれていた手をさっと引いて隠すように胸に抱いた。胸の中をぐるぐると掻き回されているように気持ちが悪い。手で傷口に触れると、治りかけの傷のように少しざらついた感触がした。頭の天ぺんからさっと血の気が引く。これは、一体なんの冗談だろうか。これだけ深い傷を負っておいて、血が出ないことなど有り得ない。

 湧き上がってきた得体のしれない恐怖を押し殺すように、ぎゅっと目を閉じて湯船の中で身体を丸めた。しんっと静まり返った部屋のなか、息を押し殺す。けれど、ふいに強い力で腕を引かれて、アサコは閉じていた目を見開いた。

 浴槽のすぐ横からアサコの腕を掴み上げたのは、金髪の娘だった。つい先日向けられた柔らかな表情はそこには浮かんでおらず、憎しみともとれる激しさを含んだ眼差しでじっと挑むようにアサコを見つめていた。

 アサコはただただ驚いて、娘の美しい顔を見つめ返すことしかできなかった。娘は押し殺したような声で何かを言うと、他の召使いたちと共にアサコの身体を浴槽から引き上げた。そしてすぐに少し乱暴な仕草で濡れた身体を拭き、アサコが何かを言う間もなく用意されていた服を着せた。

 他人事のようにその一連のことを眺めていたアサコは、娘に腕を引かれてのろのろと歩き出す。先ほどまであった気分の悪さも、驚きで遠のいていた。

 一体なんだというのだろうか。よくないことが起こっていることは分かる。普通ではない傷口が、おそらく原因なのだろう。廊下の冷たい石畳に足の裏が触れて、その冷たさに体を震わせたが、彼女たちの様子に圧倒されて立ち止まることはできなかった。靴を履くとか履かないとか、とても言い出せる雰囲気ではない。

 腕を引かれながら、アサコは自分の腕を見つめた。恐らくまだ真夜中なのだろう。ディルディーエの部屋で眠りに着いてからそんなに経っていない気がした。頼りない蝋燭の灯りだけが頼りの廊下で、アサコの白い肌は亡霊のようにぼんやりと浮かび上がる。

 窓の外に目をやれば、木々は闇に染まり、広い空には星が散りばめられていた。少し離れたところでは、歪みの城がぽつんと建っている。

 窓から見える距離なのだと、アサコは改めて思った。こんなにも近いのに、迎えは来なかった。いや、来たのかもしれない。城で見た最後の幻が、本当にあった出来事だったのであれば。

 引かれるままに歩いていると躓き倒れそうになり、アサコは再び前を向いた。前を黙々と歩く娘の後ろ姿を見つめる。他数人の召し使いたちが慌てた様子で何かを言いながら付いてくるが、やはりそれが何なのかは解らなかった。

 連れて来られたのは、ディルディーエの部屋とは違う場所にある地下室だった。そこは他と同じ様に石畳に囲まれ、冷えた空気が篭っていた。湯から上がったばかりだったアサコは、その空気の冷たさに身を縮こませる。一見、なんの変哲もない部屋だ。壁ぞいに小さな寝台と円卓が置かれている程度で、他に特に物は置かれていない。最低限の家具は一応置かれているにも関わらず、そこにはもう何年、何十年も人がいなかった様な冷たさがあった。おそらく長い期間使われていない部屋なのだろう。

 呆然とその様子を眺めていたアサコは、娘が扉の外でその様子を眺めていることにも気付けなかった。

 静かな軋みの音と、廊下から差し込む灯りが細くなっていく。アサコが振り向いた時には、もう扉が閉まる寸前だった。その間から覗く娘の顔を唖然と眺めているうちに、重そうな扉は閉じられた。

 どういう事態なのかも解らず、動くこともできずに閉じられた入口を暫く凝視したが、扉が開かれる気配はなかった。

 立て続けによくないことが起こる。ようやく閉じ込められてしまったことに気付いたアサコは、小さなため息を漏らした。その拍子にぽとりと毛先の水滴が落ちた。

 部屋の中は真っ暗なわけではない。娘が残していった蝋燭には、頼りないが火が灯っている。ゆらゆらと揺れるそれは、部屋のそこかしこに濃い影を落としてはかたちを変える。

 影は、またやってくるのだろうか。アサコは恐ろしい悪夢を思い出し、身を震わせた。目を閉じてその場に蹲る。

 ――暗闇が恐ろしいですか

 静かな、けれどよく響く声が聞こえた。アサコは顔を上げない。

 さあっと、砂を引くような音が流れる。濡れた髪が衣服を湿らせていく冷たい感覚で服をぎゅうっと握った。

 ――顔を上げて、ラカ

 否定の言葉を言おうとようやくアサコは顔を上げた。そして、大きく目を見開く。

 先ほどまでの簡素な風景から一変、部屋の中はアサコが間借りしている部屋と同じくらい整えられたものになっていた。天井から吊された大きな照明には火が灯されている。寝台は小さなものではなく、天蓋付きの大きなもので、壁には天井近くまである鏡が設置されていた。

 アサコが呆然とその様子を眺めていると、少年が静かな仕草で彼女に手を伸ばした。

 ――泣かないで、ラカ。君はなにも悪くない

 夢の続きに引き込まれる。ひやりとした指先が額に触れた。彼らは幻のようなもので、今まで触れてくることもなかったのだ。

 アサコは反射的にその手を掴んだ。

 それには流石の少年も驚いたように目を円くした。その少し人間身の混じった表情は、アサコを幾分か安心させるものだった。

「どうして、わたしをラカって呼ぶんですか」

 大きく見開かれた目を見つめて言う。

 惹き込まれそうな大きな金色の瞳は、できれば長く見たくないものだ。できるだけ今まで目を合わさないようにと気をつけていたが、後悔はしなかった。

 少年は、ラカとよく似た目をしていた。よく見れば、その色の異様ささえなければ、幼く愛らしい目だ。ラカも、無邪気に微笑んだ時、いつもは妖艶とも言える瞳は愛らしい雰囲気を纏っていた。

 ――だって、あなたはラカの命をもらったから。なにも覚えていないんですか。僕はあなたを通してラカの最期を知ったのに

 指先が震えた。その理由が分からないまま、震えを抑えるように手を握る。それは指先から身体全体へ広がるようだった。

 ――思い出してください。そうすれば、あなたはラカの為に復讐を果たしてくれるでしょう

 そう言って、少年はアサコが掴んだままもう片方の腕を伸ばし、寝台を指差した。

「あ……」

 喉の奥でひゅっと冷たい空気を吸い込む音がした。少年の指先が指し示す方を凝視する。悪夢のなかで何度も見せられた、見たくもない光景だ。けれど目を逸らすことができない。冷たい手のひらが頬を撫でるのを感じたが、はっきりとそれを意識することもできなかった。

 ――僕の姉、ラカとあなたが出会ったのは偶然。あるいはラカの魔法だったのかもしれません。けれど、あなたはラカを受け入れた

「ちがう」

 いつも逃げてばかりだった。可哀想な彼女を憐れみもしたが、手を差し伸べたことも、心を傾けたこともない。いつもただ鏡を見る様な無感情さで彼女を見ていた。ほんの少しの恐れを混ぜて。

 ――あなたはラカに心を許した。彼女がかつては普通の少女だった時の様な表情をあなたに見せたから

 天蓋のなかで、人影が蠢く。

 彼は、平気なのだろうか。幼い姉が犯される過去の残像を目にしても。アサコは何度見ても平気ではいられない。

 王が手を伸ばす。蜂蜜色の髪に、緑の瞳。ティエルデに似た大人の容姿。その姿はさぞラカに苦痛を与えただろう。

「だめ、やめて。見たくない!」

 叫ぶ様に言うと、少年は悲しそうに微笑んだ。

 ――あなたにも、ラカの受けた苦しみを知ってほしいのです。ラカはあなたの苦しみを受け入れた。だからあなたも、受け入れて下さい

 アサコは目を大きく見開くと、少年の顔を見た。細められた目を見つめる。

 ラカが、自分の苦しみを受け入れた。元いた場所では、ただただ平凡に生きていた。特に大きな苦しみも、ラカの様に憎しみも感じたこともない。そう思おうとして、違うと心のどこかがその気持ちを弾いた。

 違う。それは勘違いだ。

 そもそも彼女がラカと出会ったのは、ラカの様に絶望を感じたから。ラカはそう言ってはいなかっただろうか。ラカはアサコの記憶を見て、流せない涙を出すように顔を歪めた。泣き顔の様に歪められたラカの顔を思い出す。わたしも一人なのよ、とラカは言った。

 鹿は、アサコがラカにあげた物だった。ラカはまるで飼い主の様にアサコにあらゆる物を与えたけれど、アサコがラカに何かをあげるのはそれが初めてで、最後だった。ラカはその時、驚いた様に目を大きくしたけれど、みるみる嬉しそうに顔を綻ばせたのだ。その笑顔は無邪気な少女のものでしかなかった。

 ありがとう、アサコ。ありがとう。

 そう言った少女の為に、アサコは初めてなにかをしてあげたいと思った。彼女を貶めた人々を憎く感じた。

 ――ほら、あなたはラカの代役に相応しい

 静かな声が響いた。

 その瞬間、目の前の光景は幻の様に消えうせた。灯りはなくなり、元通り部屋の中は再び冷たい暗闇に覆われる。少年の姿も瞬く間に消えていた。

 その替わりに軋む音と同時に後ろから灯りが差し込み、アサコはゆっくりと振り返った。

「アサコ、大丈夫?」

 自分の方が到底大丈夫とは思えないような傷を負っているのに、扉の前でその人は心配そうな声で言った。

 アサコがその様子を眺めていると、イーヴェは彼女の前に膝をついてその顔を覗きこんだ。

「ロティルアンネが君を此処に閉じ込めたと聞いてね。こわかっただろう」

 アサコは、金髪の娘の顔を思い出した。ラカはいつもあの様な目を向けられていたのだろうか。

 そっと腕に触れた手が傷口に触れていることに、痛みを感じないアサコは気付けないでいた。

 頬を撫でられて自分が泣いていたことを知る。意識した途端にそれは量を増し、溢れ出てきた。咽をしゃくりあげながらも涙を拭おうとはせず、アサコは泣く。

「わたし、思い出したく、ないです」

 言いながら咽をひくりと震わせる。

 唐突なその言葉に、イーヴェは怪訝そうな顔をした。

「自分のことも、ラカのことも、思い出したくない」

 けれど、それを心のどこかが許さない。それは卑怯なことだと否定する。どこまで逃げれば気がすむのだと、強い罵倒の言葉が浮かぶ。

 ここは、御伽の国などではなかった。悲しいことも、人を憎むこともある、普通の人々が存在するところ。けれど、同時にアサコが望んだ場所でもあった。アサコの記憶を隠し、呼び覚ます人がいないところ。そのはずだったのだ。

「だったら、思い出さなくてもいいよ」

 その言葉は、すとんとアサコの心に落ちた。

「思い出さなくていい。君がそれを強く望むのなら、誰も強制なんてしないし、記憶を否定する君を止めもしないよ」

 アサコは力なく頷く。だったら、この人の傍にいるのもいいと何故かそう思った。

 その時、くすくすと少女の笑い声が微かに聞こえたが、それも一瞬のことで、すぐに聞こえなくなってしまった。












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