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痲蔓の森の少女  作者: はんどろん
五章 二人の少女
23/54

23

 口の中に甘ったるい味が拡がる。なんだったけ、とアサコは過去の記憶を探った。すごく懐かしい味だ。一つのことに思い当たり、口の中にある丸い玉を転がす。

「おかえり、お母さん」

 ぼんやりとした意識のなか、目も開けずに言う。

 口の中に飴玉を入れるのは、母がアサコを起こす時のいつもの方法だ。柔らかく甘い味で、先日仕事で北海道に行ってきた母のお土産の一つに、バター飴があったことを思い出した。アサコの母親はそれが売られているのを見つけると、必ずと言っていいほどたんまりと買いこんでくるのだ。なんでも、アサコが小さい頃大好きだったらしいが、アサコ自身はそのことを覚えていない。

 ふと、頭を撫でられてアサコは頬を綻ばせた。まだ意識もはっきりとしないなか、ちゃんと体を動かすこともできない。けれど、それでよかった。何度も頭を撫でられて、まったりとした眠気のなか幸福感に身を沈める。

 ――おかえり、アサコ。わたしのお人形さん

 予想していたものとは違う、凛とした愛らしい声が響いた。

 お人形さん、お城は楽しかった? と訊かれて、アサコはようやくそこが家ではないことを知った。けれど、瞼は重くてなかなか開いてくれない。額に添えられた手のひらは冷たく、それによって徐々に意識が覚醒させられる。

 ひんやりとした空気のなか、寒さでアサコはようやく動くようになった身体を丸めた。

 ――さむい?

 声がまた訊いてくる。そういえば、先ほどの質問にも答えていない。アサコは小さく頷いた。うん、さむい。此処はさむいよ。と思って、けれど口には出さない。けれど、声の主は心得たようで、上から何かを降らせて布団のようにアサコの身体を包み込んだ。花の香りがふわりと漂う。

「……まだ、晴れた空は見てないよ。けど、人のいっぱいいる市場は行った。あと、お城はちょっと楽しい」

 額から、手のひらが離れた。それと同時に、置き去りにされたような気分になる。心の端で生まれた寂しさと共に、緩慢としていた意識と身体がはっきりとしてくる。

 アサコはそっと目を開けた。周囲は薄暗く、ぼんやりとした灯りがあるが遠くの方はよく見えない。空気は冷たいもので、アサコが身体を起こすと同時に、上に被さるように乗っていた花びらの束がひらひらと舞い落ちた。それらは、体を横たえていた大きな寝台の上に、その下の黒い水の上にまた積もる。

「ラカ……?」

 寝台の上で座り込んだアサコは、呟くような小さな声で、先ほどまで聞こえていた声の主の名前を呼んだ。先ほどまで近くにあった気配はすでにもうない。けれど、その姿を求めて部屋の中を見渡した。そして、自分が今いる場所がどこかに気付き、目を見開く。

「なんで」

 呟いて、暫く呆然とした。記憶を辿るがディルディーエの部屋で寝ていたはずだ。部屋を出た覚えはないし、出たくても、もう暗い時間帯に一人であの明るい部屋を出る勇気も今はない。ふと見下ろすと、やはり寝着姿のままだった。それに気付くと寒さとは別の悪寒が走り、ぶるりと身を震わせた。

 ともかく、この城を出た方がいい。そう思い、寝台から下りようとして止まる。しんっと波打つこともない闇色の水が、床一面に張られていた。なんとなく覚えはあるが、底なしのように見えて足を下ろすことを躊躇ってしまう。ラカが作り出した異形の者たちとの鬼ごっこの時、自分はこの水の中に足を沈めていたのだろうか、と眉を顰めた。

 えい、と思い切って片足を沈めると、予想以上の冷たさに驚いたが、透けて見える足にほっとした。波紋がアサコを中心に大きく拡がっていく。得体のしれない黒い水ではなく、普通の水だったようだ。我慢しながらもう片方の足も沈めると、ぱっと立ち上がった。もたもたしていたら凍えてしまいそうだ。

 以前自分自身がいた場所なのに、この城の中で過ごした日々は断片的なもので、どこへ行けば外に出れるかも分からない。けれど浸水しているということは、おそらく今いる場所は地下なのだろう。上へ上がればなんとかなるはずだ。それに、この城は小さく、イーヴェたちの城と比べるときっと豆粒のようなものだ。そう思ってアサコは自分を奮い立たせた。寝台に潜り込んでいたいのをぐっと我慢する。

 部屋は広く、アサコはまず扉を探す為に再びぐるりと部屋の中を見渡した。けれど薄ぼんやりとした視界のなか目が慣れていないのか、壁と扉の区別もつかない。仕方なく真っ直ぐ歩きだして、前に長方形の石の台があることに直前で気付いた。あまりにも薄ぼんやりとした景色に馴染んでいてよく見えていなかったのだ。

 部屋の中心にある大きな寝台と、台。

 アサコが眠っていたという台は、きっとこれのことだろう。だとすると、たった今まで眠っていた寝台は、ラカが死んでいたものということになる。ディルディーエが以前言っていたことを思い出して、アサコはおそるおそる振り返った。姫君は、干からびていたという。寒気が足の指先から立ち上ったが、そこにラカの姿はなかった。あるのは、さき程どっさりと被せられた花びらの山だけだ。イーヴェやディルディーエたちが埋葬したのだろうか。ほっとはしたが、やはりいい気分ではない。干からびた死体が横たえられていた寝台の上に眠っていたのだから。

 アサコはその気分を振り払うようにまた前を向いた。長方形の箱型の、石の台の上にそっと手をそえる。ひんやりとしたその台の上には、リボンのような、布で出来た色とりどりの紐がばらばらと散らばっている。アサコがこの城を出た時からそのままの状態らしい。

 なにかを思い出せるかと思ったが、やはり何も思い出せない。指先から伝わる感触はただ冷たくざらざらとしている。側面にはよく見ると不思議な模様が彫られていた。けれどそれも余程古いのか、模様の角が削れて丸みを帯びている上に、ところどころ欠けていて、元がどんなものだったかも判らない。

 諦めてふと目線を上げると、白いものが一瞬、部屋の隅でしゅっと動いた。けれどそれは本当に一瞬のことだったので、アサコが目を見開いて固まっているうちに消えてしまう。いつの間に開いたのか、それとも元々開いていたのに見えなかったのか、大きく開かれた扉口の向こうに行ってしまったのだということはすぐに分かった。そして、微かに聞こえた少女の笑い声。

「ラカ? ……待って!」

 こんな場所にいるのはラカか、ラカが作り出した異形の者達しかいない。どの道、この城は彼女の場所なのだ。そして今聞こえた笑い声はよく知った声だった。

 アサコは言い終わらないうちに走り出した。足首まである水に動きが邪魔されたけれど、気にせずにバシャバシャ音を立てて走った。足の指先はもうすでに体温を奪われて感覚が薄い。

 思っていたよりもその扉口は遠かった。アサコがそこから顔を出すと、今度は長い廊下が続いていた。その突き当たりをまた白っぽいものがすっと通り過ぎたのが見えた。

「……今度は、わたしが鬼?」

 その言葉に返事はない。こうなったら何が何でも捕まえてやろう、という気分になって、大きく深呼吸をすると再び足を動かした。

 長い廊下を走りきって先ほどの角を見ると、そこには今度は長い階段があった。廊下を走りきる時にもうすでに息をあげていたアサコは、思わず肩を落とす。今の体力では階段は走りきれないだろう。仕方なくのろのろと上る。階段の奥行きは短く、一段一段が高いために上りにくい。けれど一段上っただけで、冷たい水から開放された。一歩階段を上る度に、じわじわとした感覚で足が悴んでいることを知る。

 ふと上を見上げると、一番上の段で小さな少女が立っていた。

 両手を体の後ろに隠して、じっとアサコの方を向いている。薄暗くて表情はよく見えないけれど、くすくすと笑い声が聞こえて少女が笑っているのだと分かる。

 アサコはそうすれば少女が逃げないように、じっとその姿を見上げながらゆっくりと階段を上る。けれど小さな違和感を感じていた。いつもと何かが違う気がする。

 階段を半分以上上っても、どういう訳か少女の姿は薄ぼんやりとしたものではっきりとしない。その身に纏った白いドレスの裾がひらりと舞う。

 あと少しで手が届くといったところで、少女はまたその身を翻して走り去ってしまった。

「待って!」

 鬼に待ってと言われて待つ訳がない。くすくすと笑う声だけが小さく届いてくる。アサコは慌ててその声の後を追い階段を駆け上った。少女が走り去った階段の上、そこをすぐ横に曲がる。

 少女は細長い廊下の真ん中にいた。今度はアサコに背を向けている。

 アサコはその様子を呆然と眺めた。

「ねえ。今度は、あっちに行ってみましょう?」

「ええっ。ラカ、もう帰ろうよ……」

「いいね。行こう」

 くすくすと、今度は二人分の笑い声と今にも泣き出しそうな声が響いた。

 そこにいたのは、少女だけではなかった。少女を含めた三人の子供たちが、楽しそうに会話している。

 少女は先ほどは分からなかったけれど、女の子の人形を抱き抱えていた。少女に似せて作られたのだろうか。長い黒髪の愛らしい人形だ。泣きそうな声を出した少年は、その表情のあまりの違いにアサコは最初気付けなかったが、街や夢の中で会ったラカの従者だった。そして、もう一人。少女と一緒に楽しそうに笑う少年は。

 どくんっと胸が波打つのを感じて、アサコを眩暈でふらりと体を揺らした。

 少年は蜂蜜色の髪を揺らして、鮮やかな緑色の瞳を細めている。最近では見慣れたその色彩は、本当にイーヴェのものとそっくりだ。悪夢のなかで何度も見た少年王子は、アサコが思っていたよりもずっと子供だった。線の細い身体は、まだアサコの身長にも満たない。

「この子も、行きたいって言ってるわ」

 そう言って、幼い少女は胸に抱いた人形の身体を揺らす。ええそうよ、とでも言う風に、かくんと人形が頷く。

「魔法使いを見つけて、家来にするの」

「願い事を叶えてもらうんだったけ? 彼らは誰の家来にもならないよ。対価を払えば、その分の働きはするらしいけど」

 苦笑しながら少年は言葉を返す。それに対して、少女は頬を膨らませた。

「どうしてそんな意地悪言うの、ティエルデ」

 アサコはそれ以上彼らに近づけないまま、じっとその様子を見守った。罰として与えられる、いつもの悪夢とは違うと思う。いつも夢の中で、アサコはラカの目線でいた。抗いようもなく、過去の出来事の記憶に巻き込まれていたのだ。けれど、今はアサコを無視して彼らは過去の出来事を繰り返している。

 子供たちは笑い合いながら、歩き出す。アサコはぎょっとした。向かうのは彼女のいるところだ。何故か見つかってはいけないという気分になって、あたふたとした。けれどそれも杞憂だった。彼らはアサコに気付くはずもなく、横を通り過ぎていく。それも当たり前だ。彼らは、過去の残像でしかないのだから。

 アサコはほっとするのと同時に、少し寂しい気持ちになりながら彼らの後に続いた。その時には、城を出なければということも忘れてしまっていた。

 彼らは先ほどアサコが上ったばかりの階段を下って行く。そんな様子を階段の上から見下ろしたアサコは、もう少し下でいたら階段を駆け上る必要もなかったのに、と少し後悔した。荒くなった呼吸はまだ整う気配がなく、体は辛い。はあ、と溜め息をひとつ吐き、階段を下りる。恐らく彼らは、探検でもしているのだろう。好奇心に満ちて楽しげなラカの笑顔は、印象的だった。アサコは、そんなラカの姿をあまり見たことがない。深緑色の瞳は、絶望など知らないようにきょろきょろと無邪気によく動く。そんな表情を見ると、アサコの心は軋んだ。

「見て、扉があるわ。リュカ、開けて」

 当然のように命令するラカに、リュカと呼ばれた従者の少年は目を大きくして首を振った。

「嫌だよ! 開けたいのなら、ラカが開けなよ!」

「嫌よ。何か出てきそうだもの」

 二人の姉弟が言い争っているうちに、ティルディエがあっさりと扉を開けた。あ、とそれに気付いたラカとリュカが声を漏らす。

 閉めた覚えがない扉が閉まっていたことに少し驚いていたアサコは、彼が開けた扉の中を子供たちと共に覗き込んだ。そして、大きく目を見開く。

 部屋の中央に寝台はなかった。あるのは、あの長方形の冷たい石の台だけだ。そしてその上には、青年が腰掛けていた。えり足の少し長い黄土色の髪に、表情のない顔。そこにある目が、ラカ達を捕らえた。

「ディルディーエ……?」

 アサコは、呆然と呟いた。

「本当にいるんだ」

 小さな呟きが聞こえてきて隣りを見ると、先ほどまで落ち着き払っていた少年の顔に小さな驚きが浮かんでいた。今では城にいるけれど、もしかすると、魔法使いは言い伝えのような曖昧な想像だったのかもしれない。

「あなた、魔法使い?」

 好奇心を滲ました様子で、ラカが一歩踏み出した。ぱしゃんっと足が水に浸かり、一瞬眉を顰めたけれど、気にせずにそのまま進む。服の裾が水を吸い込みじわじわと暗く染まっていった。その後ろでリュカが危ないよ、と叫ぶ。

 石の台に座った青年は微動だにせずに、冷徹とも見える目でラカの様子をじっと眺めていた。

「ああ」

 短く返した青年の前に辿り着いたラカは、台の上に手をついてずいっと小さな顔を青年に近づけた。青年は先ほどと変わりない表情でそれを見返す。

「なら、わたしの願い事を叶えて!」

 その瞬間、すっと薄闇にとけるように彼らの姿は消えて、代わりに先ほどまでの景色が戻ってきた。石台の上に青年の姿はなく、部屋の真ん中には大きな寝台が置かれている。

 その寝台で、もぞりと何かが動いた。

 ぎょっとしてアサコは一歩後ずさる。

「……きて、」

 ゆっくりと上半身を起こし、呟いたのは、先ほどよりも成長したラカだった。その姿は、アサコが今も夢で見る彼女の姿と変わらない。灰青のドレスに身を包み、艶やかな長い黒髪を寝台の上に垂らして、泣き出しそうな声で呟く。

「迎えに、きて」

 アサコは大きく目を見開き、凍りついたように動けずにいた。全身を冷たい血が巡る。

 本当に、今にも泣き出しそうな声と表情でいるのに、ラカは涙を流さなかった。そうだ、彼女はいつだって涙を流せなかったのだ。泣いてしまえたら、少しは楽になれたかもしれないのに。

「お願い……迎えにきて……ティエルデ」

 消え入りそうに小さい悲痛な声に、アサコの心がまた大きく軋んだ。その頬を涙が伝り落ちて、足元の水に小さな波紋を作った。

 あの蔓を越えて、迎えにきて。ずっと待ってるから。

 ぽつぽつと流れ落ちる涙が胸元を濡らし、黒い水に波紋を作ってはそれは拡がり薄くなっていく。足の力が抜けて、かくんと水の中に膝を沈めた。

 ふと、寝台の上の少女が顔を上げてアサコの方を見た。その顔には、驚きが浮かんでいる。けれどすぐに幸せそうな笑みになった。

「……来てくれたのね、ティエルデ」

「うん。ラカ」

 声に釣られるようにアサコが横を見ると、アサコよりも小さな少年が立っていた。仕立ての良い服装に、幼いけれどどこか上品さを感じさせる笑みを浮かべている。蜂蜜色の髪に、緑の瞳。

 ラカはその全てを求めるように両手を伸ばした。少年はそれに答えるように、足首まで水に浸かっているいるのにも気づいていないように歩き出す。

 手の届くところまで少年がやってくると、ラカはその細腕で少年を引き寄せ、その頭を胸元に抱いた。少年は寝台の前で立ったまま、ラカの背中に手を回す。

「僕も、ずっと君に会いたかったんだ」

 少年の呟きは、アサコの耳にも届いた。

 彼の体はまだ小さく、先ほど見た過去の幻影と幾分変わらないままの幼さだ。それに比べて、美しく成長したラカは、貧弱だけれど少年よりも長い手足で少年を閉じこめている。彼は、ラカよりも年上ではなかったのだろうか。それ以前に、成長していないのは何故だろうか。

 アサコは台に目線を移した。色とりどりの紐の下で、体を横たえている者がいる。

 ラカとは違って真っ直ぐの黒髪を下敷きに、人形のように動かず眠っているのは、アサコ自身だった。








 イーヴェが召使いに聞いた話しは、こうだった。

 花嫁が一人でふらふらと庭を歩いていたけれど、どこか普通ではない様子だったので止めるのを躊躇っているうちに見失ってしまった、と。

 表面には出さないけれど彼女が本物の姫君ではないということを知らない召使いたちは、まだ心のどこかで彼女を怯えているのだ。イーヴェはそれを責める気持ちにはなれなかった。百年前の姫君で魔女でもある花嫁に、畏怖を抱くのは当たり前だ。それに、アサコを止めなかった代わりに彼女たちは真っ先にイーヴェにそのことを知らせに来た。そのすぐ直後に、鳥の姿で飛んできたディルディーエが言った。

「アサコは、おそらく歪みの城にいるだろう」

「……どうして、分かるんです?」

「彼女はラカの気配を纏っているから分かりやすい」

 イーヴェは小さく肩を竦めてみせた。

「では、お迎えに参りましょうか。我が花嫁を」

「なにがあっても彼女を殺してはいけないよ」

「なにかがある、と?」

「なにかがあってもおかしくない状況だ」

 わかりました、とイーヴェは言った。確かに、アサコがこの時間帯に一人で外に出ようとすること事態がおかしい。彼女は暗闇を極端に怯えるのだから。それとも、それも上手な演技だったのだろうか。今はまだ分からない。まだ、イーヴェは彼女を疑いの目で見ている。彼女が、か弱い少女のふりをしているだけの本物の魔女なのではないかと。ラカの死体だろうと思われるものは、先日持ち帰らせて城に保存してあるけれど、それさえも偽者なのではないだろうかと思う。もしかすると、替え玉かもしれないのだ。

 馬の準備をしていると、護衛の者が二人付いてこようとしていたが、それを断ってイーヴェは一人で城を経った。と言っても、歪みの城は目と鼻の先だ。馬を走らせればあっという間に辿り着く。

 イーヴェは馬の背から降りると、苦い思いで小さな古城を見上げた。子供の頃から見慣れた、城を囲う蔦がないことにまだ少しの違和感を感じる。当たり前の感情かもしれないが、この城を見ていい気分にはなれなかった。

 窓のない城の中は相変わらず仄暗く、けれど蝋燭の灯りがなくともぼんやりと周囲の状態を見渡せるほどには明るい。途中いくつもの扉があったけれど、迷うことなくイーヴェはその中を進んだ。しんっと静まり返った城の中、彼の足音だけが響く。向かう先は、地下の大部屋だ。細長い、窮屈とさえ思える階段を下っていくとその部屋がある。

 かくれんぼをしましょう。そう言ったのはまだ幼い少女だったラカだ。夢の中で見た光景は、彼女が城を囲ませた禍々しい毒蔓とは違って、幸せに満ち溢れていた。ラカと、かつての王子と、ラカの弟である従者の少年はよくこの城の中で遊んでいた。彼らにとって此処は秘密基地のような場所だったのだろう。

 少し警戒しながら細い階段を下って、音を立てない様に足を水に浸けた。細かい図柄が彫られた扉は閉じられている。物音は聞こえてこない。

 ゆっくりと扉を開くと、どんっと胸元に何かがぶつかってきた。

「……アサコ?」

 声をかけると、ぶつかってきた本人ははっとしたように顔を上げ、イーヴェの顔を見るなり濡れた目を見開いた。泣いていたのか、名残のように睫毛には雫が付いている。服はディルディーエの部屋に行く時に着ていた薄い寝着のままだ。この城まで歩いてきたからか、体中に細かな傷が付いていたが、そこから血は出ていない。

「やっと、来てくれた」

「待ってたの?」

「うん、待ってた。ずっと、ずっとよ」

 イーヴェは僅かに眉を顰めた。そこでようやくアサコの様子がおかしいことに気付く。どこか虚ろな目は、じわりと涙を滲ませて今にも涙を零しそうに細められた。

「ティエルデ」

 ずっ、と腹に嫌な痛みが走る。イーヴェは一瞬眉をひそめてアサコの体を突き放した。細い体は簡単に離れ、水の上に倒れ込む。

 間髪入れずに腰に備えていた剣の先を細い首に向ける。傷む脇腹を見ると、小さな短剣が柄のところまで突き刺さっていた。一瞬、演技がかった仕草で肩を竦めて笑う弟の姿が脳裏にちらつき、出かかった溜め息が漏れそうになった。花嫁を迎えにきて、その花嫁に刺されたなど、とんだお笑い草だ。ジュリアスに笑われても文句は言えないだろう。

 腰を水に沈めたアサコは、ゆっくりと顔を上げてイーヴェを見上げた。顔に長い髪が一房掛かっている。その間から見える瞳にはなんの感情も篭っていなく、イーヴェは顔をしかめる。

「ラカか?」

 アサコは数度ゆっくりとした瞬きを繰り返した。イーヴェの声が聞こえていないかの様にぼんやりとした様子だ。けれど瞬きをする度に、どこか遠くを見ている様だった目の焦点が合っていく。そして、最後には驚いた時の、いつもの間の抜けた表情に戻っていた。

「……イーヴェ?」

 小さな声でその存在を確かめる様に、名前を呼んだ。剣の先を向けられる異常な状態にも気付いていないのか、きょとんとした顔でイーヴェの顔を見つめている。

 目が覚めたばかりの眠けた様な雰囲気でいるが、イーヴェは警戒心を解くことはなかった。ただ驚かれないうちに静かに剣を下げる。その途端に腹部の痛みが響き、小さなため息が漏れた。致命傷には至らないだろうが、十分痛みはある。馬に乗るのが憂鬱だ。

「君がいなくなったって聞いてね」

「はあ……気付いたら、此処に居たんです。あそこで寝てたんですけど」

 そう言って、大部屋の中の寝台を指差した。

 イーヴェは召し使いの話しとは食い違うアサコの言葉に、また小さく眉を動かした。召し使いたちが嘘を吐いたとは思えない。嘘を吐くならアサコの方だろう。彼女には嘘を吐く必要があるのかもしれない。それとも本当に無自覚なのか。疑いだせばキリがない。

「……帰ろうか」

 言って手を伸ばすと、アサコは一瞬躊躇した後に小さく頷き、自分の手をそっと重ねた。







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