20
扉が後ろ手に閉まると、貯蔵庫の中は本当に角灯の灯りしかなくなってしまった。庫内は、きちんと管理されているのか倉庫特有のかび臭さや薬品臭さなどはなかった。
冷たい空気と恐ろしさで、アサコは身震いする。先ほど扉が閉まった時恐くて振り向けなかったが、風で閉まった訳ではないことだけは分かっていた。重たそうな扉は、風で簡単に閉まるようにはとても見えなかったのだ。
こうなれば、ティンデルモンバと繋いだ手だけが頼りだ。そう思うと、思わずぎゅっと手に力を入れてしまった。ティンデルモンバの手はぴくりと動いたが、すぐに握り返してくれる。アサコはそのことに酷く既視感を覚えた。暗闇で、右手を大きな手に繋がれて歩いている。まるで、誰かの記憶を辿っているかのような、妙な感覚。
ティンデルモンバは、貯蔵庫の中に入ってからは一言も喋らなかった。静かな庫内に二人分の足音が響く。本当に貯蔵庫なのかと思う程に、そこに物はなかった。もしかすると、ティンデルモンバが上手い具合に進んでいるだけかもしれないが、橙のあかりに照らされた石畳の床の上には何も見当たらなかった。密室に閉じ込められた暗闇は、歪みの城にいる様な錯覚をアサコに抱かせた。
それにしても、ティンデルモンバはこの暗闇の中迷いなく歩いているが、道には迷わないのだろうか。この建物は外から見るととても大きかったのだ。
暫く歩いていると、ふとアサコは奇妙なことに気付いて耳を疑った。先ほどまで二人分だったはずの足音が、三人分に増えている気がするのだ。それに気付いた途端身震いするほど寒いにも関わらず、全身から嫌な汗がどっと噴き出した。
「……ティ、ティンデルモンバ」
震える声で前を歩く兎の従者の名前を呼ぶ。けれど、小さな声は彼には聞こえなかったのか、アサコの声に反応することもなく、ゆっくりとした歩調で歩き続けた。アサコはごくりと唾を飲み込んだ。先ほどから一定の速さで進み、一言も口を開かず、振り向くこともしない従者を不気味に感じ始める。繋いだ手から伝わる温もりさえも恐ろしいものに感じてしまい、アサコは自分を落ち着かせるために小さく深呼吸をした。此処へ来てからというもの、不思議な出来事ばかりに見舞われていたからきっと神経質になっているだけだ。響く足音さえも、不気味に感じるくらいだ。なにもかも気のせいに違いない。
けれど、その願うような思いも、小さな声に打ち崩される。最初はか細い声だったから、アサコは気付かなかったのだ。貯蔵庫の奥に進むほど、声が大きくなっていることに。
ティンデルモンバは、歩みを止めることもなく歩き続けた。一体、ティンデルモンバが会わせたいと言った人は、どんな人物なのだろうか。アサコは、ティンデルモンバにばかり気が行き、本題のことを余り考えてはいなかった。
−−の、音がする
「え?」
足音に混じり、ふいに聞こえたその微かな声にアサコは思わず視線をさ迷わせた。それまで暗闇の方には意図して目を向けない様にして、ぼんやりとした角灯の灯りの届く範囲だけを見ていたのだ。暗闇の方に目を向けても、灯りばかりを見ていた目は何も映してはくれない。
ティンデルモンバは気付いた様子もなく歩き続けている。それにしても、なんて広い空間なのだろうか。先ほどから物一つさえ、灯りの届く範囲に見当たらないのだ。
――心臓、の、音がする
今度ははっきりと聞こえた声にアサコは恐くなり、とうとう立ち止まった。が、それも一瞬のことだった。思いのほか力強く手を引かれて足を縺れさせそうになりながら、転げない様に歩く。目を大きく見開いてティンデルモンバの後ろ姿を見たが、やはりティンデルモンバは振り向くことさえしない。そこでようやくアサコは、自分が今置かれている状況が異常であることに気付いた。まるで、街へ行った時に人々に囲まれて流されたのと同じだ。普通の状態からぽんっと弾き出されたかのような、不気味で懐かしい違和感。
「……だれ?」
恐る恐る訊くと、闇が煙の様に微かに蠢いた。
喜んでいる、とアサコは何故かそう感じて少し緊張を解く。此処では、アサコを傷つけるものはいないのだと、妙な安心感もあった。それに、その声には聞き覚えがあった。まだ声変わりもしていないような、少年の声だ。それはあの少年従者のものだった。
先ほどの足音は、アサコの気のせいではなかったらしい。一歩先の暗闇から、あの子供はアサコを見ているのだ。
アサコが暗闇に声を投げかけても、ティンデルモンバは相変わらず振り向こうともしない。同じ所にいるのに、世界が繋がっていない感覚。アサコはぞっとしたが、その手を離せずにいた。
――ひとつめは うらぎり
ふたつめは さげすみ
みっつめは かなしみ
小さな子供の声が、いくつにも重なって聞こえた。唄うような声は、その部屋の中で反響する。
――やってきた まじょが やってきた
「……わたしは、ラカじゃない」
「だとしたら、あなたは誰ですか? 王子の花嫁、遠い昔の姫君なのでは?」
すぐ横で聞こえた声に、アサコは体をびくりと震わせた。今までとはちがう、やけにはっきりとした青年の声だ。一歩先の暗闇の中にいるその人物は、なんとなく背格好が判る程度で顔もよく見えない。
「……ちがいます」
まだ歩みを止めないティンデルモンバの手をぎゅっと握り、アサコは呟くように言った。
「なら、あなたは誰ですか」
「わたしは……ツヅラ、アサコと云います」
顔も見えない怪しい人物に本名を名乗って大丈夫なのだろうかと、小さな不安が過ぎったがそれを無視する。もとより、此処はアサコの住んでいた場所とはちがうのだ。誰も、アサコのことなど知らないし、特に問題もないだろう。
「ツヅラ、アサコ。あなたは、ラカが造りだした痲蔓の森からやってきたのですね」
アサコは頷いた。正確には違うのだが、そこまで言う必要はないと判断する。アサコが元いた場所のことを話したとしても、此処の住人には理解できないだろう。それに、青年の言葉もあながち間違いではないのだ。
くすりと笑う気配がした。それと同時に、ティンデルモンバの持っている角灯の火も笑うようにゆらりと揺れた。
「親しい者も誰も心を開けることができなかったのに、ふと現れたあなたがラカを手懐けるとは」
アサコは青年の言葉に眉をひそめた。
手懐けてなどいない。ラカはいつもアサコを自らの狂気のなかに入れ込もうとしていただけだった。アサコはいつだってそれに振り回される方だったのだ。
「けれど、ラカも愚かしい。自らの刺客にあなたの様なか弱い少女を選ぶとはね」
「……ラカの思い通りに動いてあげる気はありません」
むっとした声で言うと、青年は笑い声を上げた。予想外のそれに、アサコはぽかんとした間抜けな顔で青年の影を見つめる。丁寧な言葉遣いとは別に、その笑い声は軽快なものだ。
青年は唖然とするアサコを置いてひとしきり笑うと、自らを落ち着けるかのようにため息を吐いた。失礼、と言うが、その声には今だ笑いが含まれていた。
「いや、意外と気の強いお嬢さんで驚きました」
驚いたのではなく面白かったんだろう、とアサコは心の中でつっこむ。それにしても、本当に失礼だ。本人にそのつもりはないのかもしれないが、馬鹿にされた気分になる。
アサコは青年を無視することに決めた。無害そうに思えたし、人を喰ったような青年の態度にかなり気分を害されたのだ。ばちは当たらないだろう。青年の正体が気にはなったが、元よりこの場所にはアサコの知り合いは殆どいないから、どの道分からないだろし、もしかするとアサコの幻かもしれないのだ。そうでなくとも、ラカと関係のある人物であれば無視していても彼らは自分勝手にアサコに干渉してくる。
ティンデルモンバは、相変わらず黙ったまま歩き続けている。貯蔵庫に入ってから一体どのくらいの時間が経っているのだろうか。随分と長い時間歩き続けている気がするが、もしかするとほんの少ししか経っていないのかもしれない。目覚めてからの自分の体力のなさに嫌気がさして、アサコは顔を歪めた。もうすでに足が疲れてきて怠い。
「お嬢さんは、緑の天蓋がそう呼ばれる由縁をご存知ですか?」
その話しには興味があったが、アサコはやはり返事をせずにいた。なによりその時にはもう疲れて、喋るのも億劫になっていた。
青年が現れてからは、不思議と怖さを感じることがなくなっていたが、だからといって安心している訳でもない。青年に対してもまだ警戒心を解くことができない。青年がラカの味方であっても敵であっても、アサコにとっては敵のようなものだ。
「この国はある一定の周期で、緑が掛かるのです。この国を包むように木々が異様に伸びる」
相変わらず青年は、アサコから一歩先の薄暗闇のなか、一定の距離を保ちつつ付いてきている。青年の場所からは、アサコがよく見えるのだろう。アサコがちらりと見ると、ふっと息を吐く気配がした。それにアサコは益々苛立ちを感じる。青年自身は薄倉闇の中にいて顔も出さずに、明るい場所にいるアサコの様子を観察しているのだ。
「外から見れば、まるで緑の天蓋を被せたかの様。だそうです」
青年の言葉に耳を傾けつつも、アサコはもう青年の方に目を向けようとは思わなかった。少し子供っぽいかもしれないけれど、先程から青年の態度に苛立つ気持ちが止められない。
「……ティンデルモンバ!」
ものは試しだとばかりに、大きな声で従者の名前を呼びその手を引っ張った。このまま手を引かれるままに歩き続けると、疲れた足が縺れてしまいそうだった。
手袋越しに感じる体温は人間そのものなのに、まるで人形を相手にしているかの様な感覚。やはり反応がなくて、アサコは思わず大きな溜め息を漏らした。
「なにか気がかりなことでも?」
どこかのほほんとした声で尋ねられて、アサコは眉を顰めた。今の様子を見ていなかったわけではなかろうに、どうしてそんなことが訊けるのだろうか。
「見て分かりませんか? さっきからずっと、前の人の様子がおかしいんです。なんど呼んでも反応してくれないし、手を引っ張っても動かない」
その癖、握った手は離されない。アサコはティンデルモンバに対して、まだ完全に以前からの不気味さを拭い去ることができずにいる。そもそも、どうして素直にこんな場所に付いて来てしまったのだろうか。彼が、アサコに害を成さないとは限らないのだ。いくら元は人間で、ラカに呪いをかけられてしまいその原因になってしまった自分の行動を後悔していたとしても、彼がラカを憎んでいないとも限らない。家族にも会えず、長い時間を望まない姿で行き続けてきたのだ。怨みを抱いていた方が、辻褄があう。
「それはそうでしょうね。彼は呼びかけに答えていないのではないのですよ、お嬢さん。あなたが呼びかけていないだけだ」
「……え?」
「彼と僕たちは、今別の世界で歩いている。だからと言って全く別のところにいる訳ではなく、あなたには彼が見えているし、あなたたちは手を繋いだままだ」
「訳がわかんないです。まほう、ですか?」
訝しげにアサコが訊ねると、まあそんなものです、と曖昧な言葉が返ってきた。
アサコは上がってきた呼吸をなんとか青年に気取られないように抑える。こんなことで疲れているのを知られるのは少し癪な気がした。
「どうやったら元に戻るんですか?」
「戻りたいですか?」
「戻せるんなら戻してください」
疲れも手伝って、苛々しながら強い口調で言うと青年はまた笑い声を漏らした。いいでしょう、と静かな声が聞こえたと同時に室内に一斉に灯が点った。
壁に取り付けられていたらしい燭台の蝋燭の灯は、何事もなかったかのように静かに揺れている。緩やかな灯りだったが、暗闇に目が慣れ始めていたアサコは急な灯りに目を細めた。
「どうやら兄は、嘘を吐いていたらしい」
青年の顔を見たアサコは、ぎょっと目を見開いた。以前見たことのあるその瞳は好奇心を隠そうともせずに、ようやく立ち止まることのできたアサコを眺めている。
アサコはいつの間にか繋がれていた手が離されていることにも気付かずに、その姿を凝視した。危ないかもしれない、と冷や汗が浮かぶ。イーヴェは言っていたのだ。他の王子達はアサコの命を狙うだろう、と。
イーヴェとよく似た顔立ちをした青年は、にっこりと微笑むとアサコと目線を合わせるように身を屈めた。後ろで一つに結ばれた長い金色の髪が流れ、緩やかに灯りを反射する。
「兄は、貴女を本当の魔女だと言っていたが、どう見ても普通の娘だ。一致する点と言えば、この長い黒髪くらいですからね」
そう言って、髪を一房その手にすくった。そのまま口付けるような仕草にいち早く気付いたアサコがその髪を勢いよく引くと、青年はきょとんとした顔をしたあと、また笑い出した。兄弟とは言っても、やはりイーヴェとは性格は異なるらしい。アサコにとってはどちらも性悪に見えたが、イーヴェの目に時折垣間見える冷たい光は、青年の目にはないように見えた。
アサコが警戒して青年の様子を観察していると、青年は笑みを浮かべたまま胸元に手を当てて腰を折った。
「ああ、失礼致しました。自己紹介がまだでしたね。僕は第二王子のジュリアスと申します。以後、お見知りおきを。痲蔓の姫君」
最後の一言にアサコは思わず眉根を顰めたが、なんとかそれを無視した。自ら余計な話題を展開するつもりはなかったからだ。
「イーヴェの弟の……?」
一応確認をとる。そのすぐ直後にようやくアサコは先ほどまで繋がれていたティンデルモンバの手が離れていることに気付き、焦って周囲を見渡した。部屋の中はアサコが考えていたよりも少しばかり狭かったが、学校の体育館くらいの広さはあった。扉はいくつかあったが、歩いている途中に扉を開け閉めする気配もなかったのだ。もしかすると、この部屋の中をぐるぐると歩き回っていたのだろうか。
貯蔵庫と言われていたわりに物は殆どなく、無骨な石の壁や床はどこまでもどんよりとしていて冷たかった。部屋中見渡しても、ティモンバの手どころかその姿までまるまる消えてしまっている。
「ええ。なので、あなたとわたしは義姉弟ということになりますね」
「はあ……そういえば、そうですね」
言いながらアサコは青年を見上げたあと、再び室内に視線を巡らす。正直なところ、この年上かもしれない王子と姉弟になるつもりも、イーヴェの妻になるつもりも全くない。そもそも、それも偽りなのだが、訳あって他の人間にはそのことを隠しているのかもしれないと思い、アサコは口を噤んだ。それよりも、今は兎の従者の行方が気になって仕方がなかった。アサコが気付く間もなく、本当に忽然と姿を消してしまったのだ。
くすくすと笑い事が聞こえて振り返ると、愉快そうに笑みを浮かべたジュリアスが、それを隠すように口元を手で覆っていた。
「魔法には慣れていないようですね」
「できれば、馴れたくもないです。ティンデルモンバはどこに行ったんですか?」
「彼は最初からこの建物には入っていませんよ。彼があなたを案内したのは、入口まで。あなたはティンデルモンバの幻影と手を繋いでいたのです」
「そんなことできるんですか?」
アサコは訊きながら先ほどまで手を繋いでいた方の手のひらを見た。繋がれた手は確かな感覚があり、体温もあったのだ。
ジュリアスは頷くと、掌を差し出した。
「ディルディーエは、僕の師匠です」
「魔法使いなんですか?」
「魔法使いは種族であり、僕は王家の血筋です。なので、魔法使いの真似事ですよ。ディルディーエにその術を教えてもらった」
「……はあ。てことは、ラカは魔法使いだったんですか?」
そもそもその魔法使いの存在でさえも信じきれていないアサコが顰めっ面で訊く。魔法使いの定義も思っていたものと少し違うようで混乱した。アサコは自分の住む土地で魔法使いなどいないと思っているが、魔法使いは人間がなるものだとは思っていたのだ。よくよく考えてみれば、絵本に出てくる魔法使いはいつも最初から魔法使いであって、他のなにものでもなかったのだけれど。
アサコの言葉が意外だったのか、ジュリアスは目を円くした。
「まさか。本当にあなたはなにも知らないようだ。魔女は魔法使いと盟約を交わした娘のことを言う。彼女は元々その素質があったようですが、それだけでは人を呪うことはできません。それも、一国を巻き込むほどの魔法だ。魔法使いの協力なしには叶わないでしょう」
「はあ……」
思わず溜め息のような声で答えたアサコは、目をぐるりと回した。解らないことだらけで、どこから質問していいのかも分からなくなる。当たり前の様に言われても、アサコ自身は一からなにも分からないのだ。とりあえず今は、疲れきった足を休ませる為にどこかに座りたかった。
膝に手をついて本物の溜め息を吐く。疲れを意識し始めると、ますます体の疲れは明確なものとなり気持ちまで疲れてしまう。そのまま顔を上げるのも億劫で、膝下にあるワンピースの裾をそのままなんとなく引っ張っていると、床に膝をついたジュリアスに下から覗きこまれ、ぎょっとして思わず後ずさりしそうになった。疲れましたか? と訊かれて、首を必死で横に振る。間を置いて伸びてきた手に、頭の天辺を撫でられてアサコは唖然とした。兄弟ともの同じ行動に、腹が立つというよりも自分はそんなにこの人たちからは子供のように見えるのかと思うと気持ちが少なからず沈む。アサコから見れば同年代か少し年上なだけに見えるのに、この兄弟の目にはアサコが相当子供っぽく見えるらしい。
「可愛らしい姉さんだ」
「うわっ」
思わず声を上げて頭の上の手から逃れる。イーヴェよりもまだ幼さを残す顔を凝視すると、アサコの行動は予想もしなかったことなのだろう。きょとんとした表情をしていた。そんな顔をされてしまうと反射的に退いた自分の方が悪いような気分になり、アサコは気まずさを無視しながら頭を下げた。
「……ごめんなさい。ちょっとびっくりして」
大の大人が小さな子供に言ったりはあるだろうが、同年代から言われると只管恥ずかしい。馬鹿にされた様に感じなくもなかったが、それは卑屈な考えだろう。元々人種も言葉も違う国に今いるのだ。ここの人たちにとっては普通なのかもしれない。
そんなことをごちゃごちゃと考えていると、背後でこぽっと水の溢れるような音が聞こえた。殆ど反射的に振り返ると、その音が水音でないことが分かった。揺れる灯で出来た自分の影が、こぽこぽと泡立つのを目にしたアサコはぞっと背筋を冷やす。直感的に、それがあの恐ろしい影なのだと分かった。一体いつからそれはそこにいたのだろうか。いくつも浮かんでは割れる黒い大きな泡は、割れる時に煙のような黒い飛沫をばら撒きながら、それらは徐々に人のかたちを成していく。
「どうかしましたか?」
「影が……」
「影?」
どうやらこの青年には影が溢れ出てくる様が見えないらしい。そんな会話をしている間にも、それは人のかたちになろうとしていた。アサコが退いても、それはアサコ自身の影なのだからぴったりと付いて来て逃れられない。それは分かっていても、後退らずにはいられなかった。
とんっと背中がぶつかり、両肩に手を乗せられるのを感じたが、影からは目を逸らせない。
「あなたが見るのは、幻だ。見極めなさい」
言われて、アサコは絶望的な気分になり首を振った。確かに影は目の前にいるのだ。それが、この青年には見えていない。
「捕まったら、だめなんです。捕まったら……」
「捕まったら?」
問われて、アサコは自分の言葉を頭の中で反芻した。捕まったら、なんだというのだろうか。これは、あの小さな城の中で行われた悪趣味な遊びだ。影の中には、見たくもないおぞましい記憶や感情が詰まっている。それに捕らわれてはいけない。
そうだ、とアサコは思い出した。その影に捕まれば、その中に詰まったものを否応なしに見せ付けられる。だからいつもラカが放つその影から必死で逃げていた。
とうとう人のかたちを成した影が、その細長い腕をアサコに向かって愚鈍な動きで伸ばす。後退るも、すぐ後ろにあるジュリアスの体がそれを阻む。朝霧のような冷たく湿った手のひらがすうっと頬を撫でた。
「やっ」
目を閉じても耳を塞いでも、指先から流れ込んでくる記憶は止め処ない。一気に流れ込んでくるそれらの記憶は、アサコにとって恐ろしいものだった。最初は幸せに包まれているのに、それは一変おぞましいものになる。たった一人の起こした一つの行動が、色んなものを巻き込んで大きな災厄へとなった。
はじまりは、まだ幼いラカが不安を抱えながらこの国へ嫁いでくるところから始まる。迎え入れたのは、同じ年頃の少年王子だ。幼い二人は、周囲の大人たちの思惑通り夫婦らしくはならず仲の良い友達になった。最初からかいつからか、当たり前のように二人は惹かれあった。ここまでは良い。けれど幸せな記憶は不幸せな記憶を際立たせるのだ。
一体何度見せられたことだろうか。代わり映えのしないその記憶は、何度でもアサコの絶望感や恐怖や憎しみ、色んな感情を引き出しては消える。何度見せられても、アサコはその記憶の全てを覚えていられずに、ほんの一部の記憶の欠片と覚えていられないが故に正体不明の恐怖とだけが残るのだ。だから、その吹き溜まりである影を恐れる。
「ラカっやめて……!」
叫び声が庫内で反響した。取り乱したアサコに反して、青年は冷静にその様子を眺めていた。アサコの言う影は見えないが、黒い煙りのようなものは一瞬だったが確かにジュリアスの目にも映っていたのだ。
「ラカ、か……」
ジュリアスの呟きも、耳を塞いだアサコには聞こえていなかった。
アサコがしゃがみ込むと、それを待っていたかのように影はそこに覆い被さる。
鳴咽を漏らしだしたアサコを見て、ジュリアスは静かにため息を漏らした。どうやら、思っていたよりもこの少女とラカの繋がりは深いらしい。そして少女がラカに抱く感情は、恐怖だ。
ジュリアスは、うずくまるアサコを抱え上げた。そうしても泣き止まないアサコはひくひくと喉を鳴らしながら、ぎゅっとジュリアスの服を握った。
「影が……」
呟くアサコには、まだ影が付いているのだろう。その残滓ももう見ることのできないジュリアスは、構わずに歩きだす。
「それは、そんなに恐ろしいのですか?」
ジュリアスが歩きながら訊いても、アサコは答えなかった。カツカツと石畳を踏む一人分の靴音だけが反響する。
「此処は、昔魔女たちがかくれんぼをしてよく遊んだ場所でした」
返事のないことにも構わずに、ジュリアスは言葉を紡ぐ。それは、記憶を手繰りながら話しているような、どこか虚ろな声だったが、生々しい記憶に泣くばかりのアサコには彼の声は耳には入らなかった。冷たい影が、体を覆っている。それよりも恐ろしいのは、頭の中を占領する記憶の波だ。アサコの意識はその中にあった。
「僕達は、子供の頃からずっと、彼女の夢を見てきたのです」
ぽつりと呟かれた言葉にやはり返事はなく、それは零れ落ちて無骨な石畳に散らばるだけだった。