18
もう日が暮れかかっている。
アサコはそわそわと落ち着きなく外に目をやった。部屋の中は外の橙と黒い闇に沈みつつある。先ほど召使いが部屋の暖炉と蝋燭に火を灯しにやってきたが、アサコはその召使いを必死で引き止めてなんとか部屋に留まってもらっていた。若い召使いは最初戸惑ってはいたが、今はお茶を淹れる準備をしてくれている。その娘は、イーヴェの服を着替えさせていた娘だった。
イーヴェが言ったとおり、ディルディーエはまだ帰ってきていない。おそらく本当に帰ってこないのだろう。最近では日毎ディルディーエの部屋で夜を過ごしていたから、この時間帯でもまだ自分の部屋にいることは、アサコを落ち着かない気分にさせた。いつあの影がやってくるのか分からないのだ。
お茶を淹れ終えた召使いは、アサコが体育座りする長椅子の前の小卓にそれを置いた。アサコが顔を上げると安心させる様に優しく微笑む。それでアサコはほっと息を吐いてお茶を手にとった。ありがとう、と告げても言葉が通じない娘は微笑んだままただ首を傾げるだけだ。その仕草はイーヴェの胸に口付けていた娘とは程遠く、アサコは別人なのではと疑ったほどだ。あの光景を見た時は思いつきもしなかったが、アサコはこの娘のことが好きになれそうだった。繊細で美しい顔をした娘だが、笑顔は優しくほっとするものがある。その仕草も柔らかい。
「あ」
アサコは思わず声を漏らして召使いの顔を見つめた。この娘に一緒にこの部屋で寝てもらえばいいのではないだろうか。我侭かもしれないが、寝台はアサコ一人で寝るには大きすぎるほどだ。幸いアサコは寝相も悪くない。そんなアサコの突飛な考えを知らない娘は、じっと凝視されて戸惑いを見せた。
「一緒に寝てください!」
「そんな趣味があったんだ?」
まるでプロポーズをするように娘の手を掴んで言った矢先に、笑いを含んだ声が扉の方からした。アサコは娘の手を掴んだままの体勢で、扉に凭れて笑いを堪えている男を見た。一瞬何を言われているか分からなかったのだが、はっと気付いて手を離す。
「ちがいます! ディルディーエがいないから……」
自分が情けなくなりながら言ったら、尻すぼみの声になった。夜一人でいることを恐れるなんて、まるで小さな子供の様だ。いくらあの影がやってくるかもしれないという理由があっても、イーヴェはその影を見たこともないのだ。召使いの娘に限ってはあの夜のことさえも知らないだろう。急によくも知らない娘に一緒に寝てくださいと頼まれたら、イーヴェが言うように変な趣味があると勘違いされてしまうかもしれない。恐る恐るアサコが娘を見ると、娘はイーヴェを見て目をぱちくりさせていた。イーヴェが微笑みで返せば、その頬は見る見る間に赤く染まっていく。
「うわあ」
アサコは思わずそう漏らしていた。目の前で甘ったるい空間を創り出すのはやめてほしいと思う。けれど、そんなことを暢気に考えているうちに、娘はアサコがとめる間もなくそそくさと部屋を出ていってしまった。
「あの、イーヴェ。今の人に頼んでもらってもいいですか?」
「なにを?」
からかわれるのは承知の上でアサコが渋々と言うと、イーヴェはにっこりと笑いながら首を傾げた。知っててのことだろう。明らかに面白がっている。
「私と、一緒に寝て下さいって……」
小さな声でぼそぼそと言った途端、アサコは泣きそうになった。ディルディーエがいれば、言葉が通じればこんな目には合わなくてすんだのに、と思ってしまう。そもそも、この王子は甘ったるく優しそうな顔をしているのに、どうしてこんなに性悪なのか。これはいくらなんでも詐欺だろう。いじけた気分で、また長椅子の上で体育座りするとぽんっと頭の上に手を置かれた。
「その必要はないよ。俺が一緒に寝てあげるから」
「えっ。なんですかそれ。いいです。遠慮しますから」
アサコはこれ以上ないほど身を縮こませて長椅子の上でできるだけイーヴェから離れると、ぶんぶんと頭を振った。冗談ではない、と思う。まだ言葉が通じていなかった時に一緒に寝てはいたが、それとこれとは別だ。今と以前とでは色々と状況も違うし、アサコ自身の心境も違う。あの少年の夢を見るようになってからというもの、イーヴェとあの少年の姿がたまに重なって見えることがある。その度に色んなわけの分からない感情が湧いてくるのだ。できれば、あまり傍にもいたくない。
頭を撫でていた手をそのまま滑らせ、風呂に入れられて半乾き状態になった長い髪をイーヴェは一房掴み、弄んだ。真っ黒な髪を弄ぶその姿に、アサコは既視感を覚えて数度瞬きをした。やはり、この青年はアサコが夢で見た少年と似ているのだ。夢の中の少年はまだまだ幼かったが、イーヴェはまだ少年っぽさを残しているとはいえ、もう立派な青年だ。同じ年頃であったなら、ますます似ていたことだろう。血筋だからだろうか。だとしても、こんなにも似るものなのだろうか。見た目だけではない。醸し出す雰囲気そのものがそっくりなのだ。
「遠慮することないよ。影が来るのが恐いんだろう?」
イーヴェがそれを覚えていたことがなんとなく意外で、アサコは目を円くさせた。影が来てイーヴェの部屋に駆け込んだのは一回きりだ。その時にちらりと話しをしただけで、以来一度も口にしていない。それに、あの時はまだ言葉が通じていなかったのではないだろうか。
「……あの、イーヴェっていつから私の言葉が解るようになったんですか?」
以前から気になっていたことを聞くと、イーヴェは優雅な微笑みを返しただけだった。それについては言うつもりがないのだろう。わざわざそれを隠そうとすることをアサコは不思議に感じたが、それ以上聞いても無駄な気がして聞くのはやめておいた。それよりも、現状だ。暗闇で一人になれば、あの影はそれを待ち構えていたようにアサコのもとへとやってくるだろう。ラカは、それをじっと見ている。せめて言葉が通じれば、侍女を捕まえて同じ部屋で寝てもらうことができるのだが、それも叶わない。
「ディルディーエがいれば……」
アサコは思わず呟いていた。いつまでも頼るわけにはいかないが、今は頼りたい一番の存在だ。いくら小さな子供の姿をしていても、誰よりも頼りがいのある存在に思える。
「君は随分魔法使いに懐いているようだね」
「はあ、そうですね。懐いてますよ」
少し馬鹿にするような口ぶりに、アサコは諦め混じりに正直に頷いた。懐く、という表現は少し情けないような気もしたのだが、その言葉以外にちょうどいい言葉が思いつかなかったのだ。それに、何よりもこの会話を済ましてイーヴェに部屋を出て行ってほしいというのが一番の本音だった。この青年とこんな風にだらだらと過ごす時間は、アサコを落ち着かない気分にさせた。異性としてそこまで意識しているから、という可愛らしい理由ではない。ただ単純に、苦手なのだ。甘ったるい笑顔も、優しい声も、アサコにとってはどこか空疎なものに思えた。
すると、イーヴェはアサコの頭を優しく撫でた。
「可哀想に」
アサコにとっては思いもよらない言葉だった。一体自分の何が可哀想なのかと考えてみたが、思い当たるふしもなく、ただ呆然とイーヴェを見上げた。笑いを含んだ声には、明らかな哀れみも混じっていた。そして、少しの侮蔑も。
頭を撫でていた手はゆっくりと下り、頬に当てられた。頭を撫でていた時と同じ風に、柔らかな仕草で頬を撫でられたアサコはぎょっとして体を強張らせた。
――君が、貶めたんだろう?
別れの寸前、少年が口にした言葉が頭を掠める。ラカの頬に、以前となんら変わりなく優しく当てられた手。けれど、その言葉と瞳には、侮蔑と怒りの感情が入り混じっていた。宝石の様な緑の瞳は、その時暗く淀んでいた。
アサコはイーヴェの手を振り払うと、抱いていた膝に顔を埋めた。振り払った瞬間にイーヴェが驚いた顔をしていたが、構っていられないほど動揺していた。
一体、なにをしたいの。ラカ。
アサコは、自分に嫌な記憶を植えつけた少女の姿を思い出す。自分の代わりに復讐をしてほしい、とラカは言った。そして、町で会ったあの黒髪の少年はアサコが王子を殺す、と言ったのだ。けれど、それはラカの素願なのだろうか。
「アサコ?」
「……なんでもないです」
膝に顔を埋めたまま、アサコは小さな声で返し首を振った。ラカの記憶を思い出したあとは、いつも酷く疲れる。色んな感情が一気に溢れ出すからだ。そしてそれは自分のものでもないのに、アサコは自分が体験したことのように思い出して泣く。そして、ラカをそんな風にしてしまった人たちに憎悪を募らせる。ラカに嘲笑を浴びせた人たちに、王に、そしてなによりもラカを信じることができなかった王子に。
「---------------」
静かな声が頭上でして、また優しく頭を撫でられた。その仕草には、アサコを思いやる気遣いが感じられた。次いで、髪に付けられた花嫁の証である花飾りが取られる。イーヴェが発した言葉は、緑の天蓋の言葉だった。アサコにはやはり理解できなかったが、優しい声色と手つきに体の力を抜く。急激に沸き起こった憎しみも、少しずつ薄れていく。けれど、顔を上げようとはしなかった。あの緑色の瞳を覗くのが怖かったのだ。
ラカ、ラカ、と心の中で助けを呼ぶように少女の名前を唱える。けれどそれに答える声はない。それを知っていながらも、アサコは自らの内に荒立つ波に呑み込まれないようにと必死になった。均衡を保たなければいけない。それは繊細で壊れやすいものだけれど、守らないといけないものだ。さもなければ、堰をきって溢れ出す感情を止めることはできないだろう。
「……イーヴェ、守ってください」
小さく呟くように言われた言葉に、イーヴェは頭を撫でていた手を止める。アサコは、小さなため息を吐くように息をした。
「そうすれば、ラカの秘密を教えてあげます。本当に起こったことを教えてあげます」
それで、呪いが解けるわけではない。けれどイーヴェはそれを求めるだろうと、アサコは根拠もなく確信していた。この男とは一緒にいたくない。けれど、一緒にいないといけない。そんな強迫観念のようなものにとらわれる。
「……へえ」
好奇心を含んだ声色に、アサコは顔を少しだけ上げてちらりとイーヴェを盗み見た。イーヴェは目を細めてアサコを見ていた。けれどその表情には先ほどまであった穏やかさは消えうせ、冷徹さが含まれている。
掴みとられた一房の髪をつんっと引かれて、今度こそ本当に顔を上げた。
「やっぱり、ラカのことを知ってるんだね」
「思い出したんです」
先ほどの弱弱しい態度とは違い、挑むように見上げてアサコは言った。睨み見上げてくるアサコを意外に思ったのか、微かに驚きの表情を見せたイーヴェは探るような目で見つめ返す。
「思い出した?」
「そう。この国の人たちが、真実を違えて伝えてきたのと同じ風に、イーヴェも本当のことを知らないんです」
アサコが喉の奥に何かがつっかえているように低く掠れた声で言うと、イーヴェは目を細めた。蜂蜜色の髪が揺れて、ゆっくりと近づいてくる。アサコは狭い長椅子の上で身を引いた。覗き込んできた緑の瞳は、冷たい光りを宿している。
「そんな駆け引きをする必要はないよ。俺は君が花嫁である限り守る。それに、もしそうじゃないとしても、君みたいな小さな娘に真実を吐かせる術はいくらでもあるんだよ」
穏やかな口調で言いながら、人差し指で顔の輪郭を辿り顎をくいっと押し上げると、イーヴェはその台詞とは不似合いな優しい笑顔を浮かべた。アサコが何も言えずにじっとしていると、次いで言う。
「なにをそんなに焦っているの?」
別に、焦っていない。そう反論しようと口を開きかけて、アサコはぎゅっと眉ねを寄せた。自分でも気付かなかったそれを聞かれて動揺する。確かに、イーヴェの言う通りだ。何をそんなに焦ることがあるのだろう。そもそも、どうしてそんな駆け引きじみたことを自ら持ち出したのだろう。そう疑問には思うものの、正体の分からない焦燥感が溢れ出すのを止めることもできずに持て余す。
ふと視線を上げると、小卓の上に置かれた花飾りが目に入った。今日の花は白だ。色こそ違えど、その大ぶりの花の形はいつも同じだった。花嫁の証の大輪の花。少年がラカに贈った甘い香りのする花だ。じわり、とまた憎しみに似た感情が心の端に滲む。アサコは、ラカの代わり。その憎しみを引き受けて、ラカを苦しめた人たちに仕返しをする。そうでなければならない。哀れな少女だったラカの為に。
その感情がどこから来るものなのか考えることもできない程、アサコの頭の中はそれで埋め尽くされていた。どこか虚ろな眼差しで花飾りを見つめるアサコの異常さに気づいたイーヴェは、アサコの肩を軽く揺さぶった。遅鈍な動きで顔を上げたアサコを見て、イーヴェはため息を吐く。どこか夢現の状態でいる彼女の肩を押すと、抵抗もなくその華奢な体は寝台の上に倒れた。
「疲れてるみたいだね。もう寝た方がいい」
言われて、アサコが寝転んだまま窓の方に目を向けると、日はいつの間にか沈んでいた。下の方にまだ少し見える橙の明かりは弱弱しい。じきにそこも暗闇に覆い尽くされるだろう。イーヴェが部屋に来たときには、部屋の中にまだ微かに差し込んでいた明かりももうない。蝋燭の明かりは頼りなく、心もとないものだ。
アサコはぞっとして身を竦めた。ここ暫く間近に暗闇の存在を感じたことはなかった。ディルディーエの部屋はいつも明るく、どこか現実離れしている。けれどこの薄暗くなった部屋の中は、歪みの城の内部を連想させた。
何かに怯えるように部屋の方々に視線を走らせるアサコの額に、冷たい手が置かれた。よしよし、という風に数度頭を撫でたイーヴェは、アサコの上に布団を掛けると静かに立ち上がった。もとより無理矢理一緒に寝るつもりはなく、からかっただけだったのだろう。背を向け部屋を出て行こうとするイーヴェの裾を掴んで引き止めたのは、早く出て行ってほしいと願っていたアサコの方だった。
驚いたように目を円くしたイーヴェは、すぐにとろけるような笑みを浮かべた。
扉を叩く音がする。アサコは重たい瞼を無理矢理押し上げ寝転んだまま部屋の中を見渡した。いつの間にか眠ってしまったらしい。寝台が揺れて、微かな冷気が流れた。扉のある方向から、ぼそぼそと会話する人の声が聞こえてくるが、なにを喋っているのかまでは判らなかった。弛緩した意識は、けれど鋭くその気配を探ろうとする。暫くその静かな会話は続き、人の気配が近づいてきた。そっと頭を撫でられて薄く目を開いたが、部屋は暗闇に包まれていて人影がぼんやりと見えるだけだった。
「起きた?」
笑い混じりに聞かれて、アサコは微かに唇を震わせた。
お母さん。
言おうとしても、アサコの意思と体は断絶されたように動かない。これは夢だ。そう思い動くことを諦めた。母がいるはずないのだから。
「おばあちゃんの調子が悪いみたいなの。ちょっと病院に行ってくるから、いい子にしてるのよ」
いい子にしてるのよ。それは、母の口癖だった。小さい頃からアサコを祖母の家や隣り近所の家に預けたり、家に残して仕事に行く時には必ず申し訳なさそうにそう言った。アサコが高校生になった今でも、出かける時には必ず言ってくる。
うん。わかった。おばあちゃんの調子はそんなに悪いの?
そう言おうとするものの、声は出ない。頭を撫でていた手が離れて、急激な寂しさと不安に襲われた。手を伸ばそうとしても、やはり体を動かすことはできない。
――わたしたちは、同じ悲しみを持っていたから
澄んだ少女の声が耳に響く。黒い服を着た男の人が脳内にちらつく。大幕が風に揺れて、たくさんの人が厳かな雰囲気を身に纏っていた。
聞きたくなければ耳を塞げばいいし、それに耐えることができそうなら、心が愚鈍になるまで突き詰めればいい。そう言ったのは、ラカだった。そしてラカは、後者だった。心が緩く、余り動かなくなるまで、悲しみと憎しみに暮れた。アサコにはそんなことはできなかった。耳を塞いで目を閉じ、できるだけ遮断しようとして心を閉ざした。だから今も気付かないようにしているし、辛いことがありそうなら、それから逃げるだけだ。忘れたいことがあれば忘れてしまえばいい。ラカは恐ろしい少女だったけれど、どこまでも甘く、アサコが痛みから逃げるのを邪魔しようとはしなかった。だからこそ、アサコはラカとあの薄暗闇の中で共に過ごすことができたのだ。
目まぐるしく場面は変わった。強い風が吹いてまた幕が大きくはためいたかと思えば、次の瞬間には足首まで刺すような冷たい水に浸かっていた。目の前で、ラカがにこりと微笑む。
わたしはラカ。あなたは? 聞かれて、アサコは口を開く。アサコ、ツヅラアサコ。産まれた時からの名前のはずなのに、妙にそれは素っ気無い響きを持っていた。
ラカは金緑の大きな瞳を細めた。ふわふわと波打つ真っ黒な髪が揺れる。アサコ、アサコ、と嬉しそうに何度もその名前を口にした。
アサコは無意識に、制服のポケットの中に二つ入っていた小さな鹿を撫でた。昨日出かける前に母に渡されて、とりあえずポケットに入れてそのままだったものだ。急いでいた為に、ありがとうとも言っていない。ぼんやりとどうしてこんな所にいるのか、目の前の少女が誰なのか考えたが、ぽつりぽつりと浮かんだそれらの疑問はすぐに消えていった。
ここはすごく退屈で、つまらないところなの。一緒に遊んで。そう言われて、アサコは辺りを見渡した。その場所は、よく見るとどうやら大きな部屋だったらしい。天蓋のついた大きな寝台がぽつんと真ん中にある。薄ぼんやりとしたあかりの正体がなんなのかは分からないが、窓もないその場所はぼんやりと見える程度の薄暗闇に包まれていた。天井はそれほど高くなく、丸石が詰まれた壁は冷たく、奇妙なほどに匂いも音もない。だから、少女の声はやけに大きく響いた。昼も夜さえも分からないような此処は、確かにつまらなそうな場所だ。
アサコは小さく頷いた。なによりなにも考えたくなかったから、深く考えることもなく少女の誘いに乗った。
そしてまた、場面が変わった。荒れた庭にアサコは一人で立っていた。空はどんよりと暗く、ふわふわと雪が舞い降っている。人や動物を模った石像たちは、どこまでも無機質で汚れていた。けれどふいに、その石像たちの目は動きだした。ぎょろりとした全ての目が一点を向く。そこには、全身を赤黒く濡らした黒髪の少年が立っていた。アサコを見て、その姿とは似つかわしくないほどの無邪気な笑みを浮かべる。
ラカ、あとは王子だ。あの嘘吐きをその剣で刺して終わり。そうしたら、森へ帰ろう。幼い少年は、大人びた口調で言った。少年に降った雪は、赤く溶ける。風に乗って生臭い匂いが漂ってくる。少年の瞳は狂気を伴い、金緑に染まっていく。
眩暈がして、自分の体が倒れていくのを感じながら、アサコは晴れ間の見えない空を見た。