17
城に帰る道すがら、アサコは街に来て見たものやイーヴェに聞いた話しのことをぐるぐると一人考えていた。一歩先を歩くイーヴェはアサコが眠さでふらふらと頼りないと思っているのか、アサコの手を引きながら歩いていたが、話しかけてくることはなかった。
街路は二人が街にやって来た時よりも人が増え、混雑していた。道は祭りがあるのかというくらい狭く、見通しが悪くなっている。最初は握られた手を離そうともがいていたアサコだったが、離してしまうと今にも逸れそうになってしまうことに気付き、大人しく手を引かれていた。離れてしまえば、言葉も通じないのだから大変だ。町は広く、そこに建っている家々や店舗の屋根は高い。城は時々見えたが、この町はどうも迷路の様なのだ。うねうねと曲がりくねった道に、路地裏の小道、急な階段があちらこちらにある。
それにしても、とアサコは前を歩くイーヴェの後ろ姿を見た。
今更ながらだが、不幸中の幸いだ、とアサコは思う。こんな夢の中の様な不思議な場所に気付いたらいて、気付いた時には上手い具合に王子に拾われていたのだから。今は部屋を貸して貰えて、食べる物にも着る物にも困っていない。困っていることといえば、色々多すぎる訳の分からないことや、毎度やってくるこの王子の嫌がらせくらいだ。この国の身分制度がどうなっているのかアサコはまだ知らないが、下手したらあのままあの城で野垂れ死んでいたのかもしれないのだから、それくらい我慢すべきなのだろう。
ふと少女の笑い声が街のざわめきに混ざって聞こえた様な気がしたアサコは、はっと顔を上げて立ち止まった。手を引いていたイーヴェは、急に立ち止まったアサコに引かれるように立ち止まると、身を屈めてその顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
訝しげに訊き、こんなところで急に立ち止まったら危ないよと続けて言ったが、繋いだ手を無理に引っ張ることもなくアサコの返事を待った。
「なんでもないです……」
上の空で答えたアサコに、イーヴェは一瞬疑わしい眼差しを向けたがアサコがそれに気付くことはなかった。歩みがまた再開されて、アサコはただ黙ってイーヴェの後に続く。
今の笑い声は、間違いなくラカの声だった。この喧騒の中でもアサコの耳に届いた声は、あの凛として愛らしい声だ。ラカは、今もアサコの傍にいる。そのことに、イーヴェは気付いているのだろうか。
アサコが今知っていることは、ほんの少しのラカの情報だ。あのこの国に嫁いで、あの小さな城に閉じ篭るまでの経緯。たったそれだけだった。どうして自分がラカのことを知っているのかも、どうしてあの城にいたのかも、アサコはまだ思い出せていなかった。もしかすると、なんらかの理由があって、本当に知らないのかもしれないとも思い出している始末だ。ラカが愛し、憎んだあの少年の末裔であるイーヴェは、ラカについて一体どこまで知っているのだろうか。
ラカの、心を壊した人。
そんな言葉が頭を霞め、次の瞬間にはとぷんと憎しみに似た感情が胸に宿る。それは夢の中で見た、ラカの足に絡みつき沈めた黒い水のようだ。
「イーヴェ、どうしてラカがお城に閉じ篭ったか理由を知ってますか?」
アサコがそう言うとほぼ同時に、二人の間を先ほどの店で見た大きな兎が跳ねていった。
驚いたアサコは、その拍子に思わず手を離して後ずさった。その間にも人が二人の間を縫って通り過ぎていき、アサコは周囲の道行く人たちの流れに流されてしまう。焦ったアサコは手を伸ばしたが、その時にはイーヴェの姿はもう見えなかった。多少綺麗な身なりはしていたものの今のイーヴェは、この人ごみの中そんなに目立たない様な格好をしていたのだ。一度離れてしまったら、アサコにイーヴェを見つけることは困難なことだろう。
その間にもアサコは流されていき、自分の意思では立ち止まることもできない状況にあたふたとして周囲を見渡した。そして、周囲の人たちの異変に気付きぎょっとする。アサコを流していく周囲の人たちは、その誰もが顔に同じ様な笑みを貼り付けていたのだ。
おじいさんにおばあさん、若い女性に大柄の男性。子供の手を引く母親に、その子供。
その者たちは、口ずさむ様に歌を唄う。
――きれいな きれいな みどりのほうせき
それをくりぬき、わたしにちょうだい
うさぎおいかければ、てにはいる
みどりのほうせき
異様なその様にアサコは身を凍らせた。街中なのに、自分だけ奇妙な場所に放り出された様な気がして、助けを求めてまた視線を彷徨わす。家々の露台で、洗濯物を干す女や紐で遊ぶ子供の姿を見ることができた。そのことに少しほっとしたアサコはその中の一人である、洗濯物を干している娘に視線を送った。この異様な状況に誰かが気付いてくれれば、と思って。しかし、アサコが目を向けたその娘は、アサコと目が合うと、アサコを取り囲む人間たちと同じ風に、洗濯物を干す手を休めることなく微笑んだ。
一体、どこに連れていかれるのだろうか。
アサコは絶望感にも似た気持ちで、ただ流されるしかなかった。何度か抜け出そうと試みたが、なかなか上手くいかない。周囲の人間たちの足並みは普通に見えて、アサコを逃がすまいとする意思を感じさせた。
イーヴェは何かに気付いてくれるだろうか。それとも、ただ逸れただけと思っているのだろうか。
そんなことを考えている間にも、アサコはおかしな行列に流されてぐんぐんと進んでいく。そしてその人たちが唄う歌も、止むことはなかった。
――きれいな きれいな みどりのほうせき
きんいろにそまる きんいろにそまる
ほそいゆびに、はなからませて
きんいろにそまる
ようやく辿り着いたところは、家々の間の細い路地裏だった。
そこに一人で取り残されたアサコは、どうすればいいのか分からずに後ろを振り返った。すぐ後ろは先ほどまで目にしていた人ごみだ。アサコを此処まで流してきた人たちは、自然とその人ごみの中に消えていき、アサコだけがこの路地裏に放り出されるようにして残されたのだった。
一瞬はその人ごみの中に戻ろうと考えたアサコだったが、そうしてもまたこの路地裏に戻されるような気がしてやめておいた。
両手側を高い家壁に包まれたその細長い場所は、薄暗かった。その先をアサコが目を凝らして見つめていると、先ほど見たばかりの大きな兎が、アサコを待ち構えているようにぽつんと座っていた。
その様を見て、アサコは眉を顰める。また人ごみの中に戻りたい様な気分になったが、ぐっと堪えて兎を見据えた。
きっと、誘われているのだ。
「ラカなの……?」
自信なさ気にアサコが聞くと兎はぴんっと耳を立て、大きな体にしては軽やかな動きでぴょんぴょん跳ねる。突き当たりを左に曲がった兎を見失わないようにと、アサコも慌てて走り出した。
兎を追いかけるなんて、まるで小さい頃に読んだ童話の様だ。
アサコはそんなことを思い、走りながらも苦笑いした。穴に落ちてしまわないように気をつけないと、と思う。あの女の子は、そんな悪ふざけが大好きだったから。
そこで、アサコははっとして立ち止まった。あの女の子とは、ラカのことだ。ラカは、アサコの嫌がるような悪ふざけが大好きだった。いつもあの城の中で、アサコは兎や小さな動物たちを追いかけないといけなかった。捕まえられれば、アサコの勝ちだ。アサコはあの恐ろしい記憶を見させられずにすんだ。捕まえることができなければ、あのおぞましいラカの記憶をアサコの中にも焼き付けられる。
そうだ、とアサコは目を見開く。見開かれたその目は、丸石で敷き詰められた地面を捉えていた。
アサコはあの城にいたころ、自分と同じ年頃であるはずのラカが恐ろしくて仕方なかった。ラカはアサコの嫌がる様を見ては無邪気に喜んでいた。あの薄暗い城の中、アサコを自分の玩具の様にして弄んだのだ。それは、絶対的な力で結ばれた関係だった。ラカはあの城の王様で、アサコはその王様の一番のお気に入りであるお人形だった。
――あなたが、ラカの代わりですか?
すっと透き通った声がして、アサコは顔を上げた。
細い路地の真ん中で大きな兎を撫でていた少年は、にこりと微笑む。その微笑はやはり妖艶で、アサコは背筋が冷たくなるのを感じた。
食堂に入る前に見た少年だ。
「……ラカの代わりって、なに」
アサコは言ったあとで、下唇を噛んだ。震えそうになるのを必死で抑える。
先ほどのおかしな人々は、この少年の仕業だろうということが、なんとなくアサコにも分かった。少年は、何かの目的があってアサコに近づいてきたに違いない。
すると、その少年はなにかを思案するような表情で、目をきょろきょろと動かした。大きな目で辺りを見渡す様は、先ほどの笑い顔に比べれば随分と子供らしい様に見える。大きな兎は、耳を寝かせて大人しく少年の足元で丸まってじっと何かを持っているようだ。
――あなたは、ラカの代わりです
少年は、先ほどと同じことを今度は断定して言い切った。アサコが眉を顰めていると、少し間を置いて言葉を付け足す。
――ラカの代わりに、復讐をする。ラカの代わりに、憎い王子を殺す。
あなたは、ラカの代わり。だから、ラカの命を引き継いだ
言って、言い終えたことにまた満足したように微笑むと、服から紐に風車のようなものが付いた玩具を取り出してくるくると遊びだした。
その様が、今度こそ子供らしいものに見えて、アサコは思わず目を逸らした。
「……あなたは、殺されたの?」
――王を、殺しました
お菓子を食べました、とでも言う風な、何事でもないような口ぶりで少年は言った。困惑しながらもアサコはそれを追及する気にはなれなかった。
「ラカの従者なの?」
そう聞くと、少年は不思議そうに首を傾げる。ラカのことは知っているようなのに、彼はラカの従者ではなかったのだろうか。アサコも無意識に、少年と同じ風に小首を傾げた。
――従者は、ティンデルモンバです。
「え……ティンデルモンバ? ラカの従者が?」
こくりと頷かれて、アサコは目を円くした。まだ背筋を上る悪寒はうっすらと残っていたが、この時には訳の分からないものに対する恐怖感は薄れていた。けれど少年が言うことの意味が分からずにアサコは顔をしかめる。
質問しようと口を開くと、少年は眉をぴくりと動かした。アサコを捉えていた目は、アサコの後ろの方に向く。
――ティンデルモンバは呪いを受けた。兎の従者は裏切り者の証。
言い終わると同時に、少年はアサコの前から走り去った。角に服の裾が呑み込まれていくのを見て、アサコは慌ててその後を追おうとする。けれど、それは叶わなかった。
後ろから急に羽交い絞めにされたアサコは、ぎょっとして身を固くする。
「何処にいくつもり?」
耳元で囁かれた声を聞いて、アサコは目を円くした。
「イーヴェ」
すぐ横にある顔を見て、ほっとした様に言う。一気に現実に引き戻されたような気分だ。
イーヴェはアサコを羽交い絞めにしまたまま、呆れたようにため息を吐いた。
「他の王子たちに、命を狙われてるって忘れた? 自分の手を下さないといけないから、その場で殺されることはないだろうけど、攫われたらおしまいだよ」
その言葉にむっとしたアサコは、眉を顰めて睨む様にイーヴェを見た。まるでアサコが自分の不注意で逸れてしまったかのような口ぶりだ。確かに、手を離してしまったのはアサコだったが、けれどその後のことはどうしようもなかったのだ。こんな路地裏に入ってきてしまったのは、不注意だとしか言えないけれど。
アサコは少年が走り去ってしまった先を見つめてから、きょろきょろと辺りを見渡した。兎の姿もいつの間にかなくなっている。
また呆れたようにため息を吐いたイーヴェは、ようやく腕を解いたかと思えば、すぐにアサコの首根っこを掴んだ。
「え、なにしてるんですか」
「逸れないように」
「猫の子じゃないんですよ!」
喚くアサコを無視して、イーヴェは歩き出した。それに引き摺られるようにしてアサコも歩き出す。服を引っ張られて、首がもう少しで絞まりそうだ。
「次からは首輪と紐を付けてこようね」
ふざけたことを言ったその声は思いのほか低く、アサコはぞっとして口を噤んだ。
*
城の前に着いてもイーヴェはアサコの服から手を離そうとはしなかった。その頃にはアサコも諦めがついて、大人しく引っ張られるに任せて歩いていた。城で二人を出迎えた従者や召使いたちは、二人のその様に少し目を円くしたが、そのことについては何も聞かなかった。自分が叱られた子供の様な表情になっているとも知らずに、アサコは苦笑した。
アサコが従者の姿のまま、イーヴェに引き摺られて城の長い廊下を歩いていると、後ろから声が聞こえてきてきて、アサコは後ろを振り返ろうとして失敗した。イーヴェが首後ろの襟を引っ張っているから見えないのだ。イーヴェを見上げると、その顔にはあの甘ったるい笑顔が浮かんでいた。
「じっと黙ってるんだよ。いいね」
静かな声で言ったイーヴェは、アサコの方を見ずに声の主の方を見ている様だった。アサコはイーヴェに従って、口を噤んでじっと黙っていることにした。どうしてなのか聞きたかったが、従わないときっとろくな事にはならないと直感したのだ。
声は若い男の声だったが、その声が何を言っているのかはアサコには解らなかった。そのうち絶対、ディルディーエに言葉を分けてもらおうと心に誓う。単語は少しずつ覚えていっているのだが、まだそれしか解らない。召使いたちはアサコに伝わるようにと手振りや表情も混ぜてゆっくりと話してくれるから、なんとなく言いたいことは伝わる。けれど、普通に会話しているところを聞くとやはり理解できないのだ。
「-----------」
イーヴェもアサコの解らない言葉で話し始めた。そう話すと知らない人みたいだとアサコは思う。本当はそれが普通なのだが、イーヴェは最近はアサコの解る言葉で喋ってくれるから、アサコはそれにすっかり慣れてしまったのだ。
ぼんやりと二人の理解できない言葉に耳を傾けていると、その声が急にすぐ近くで聞こえてアサコは目を円くした。
アサコの顔を覗き込んできたのは、イーヴェと似た顔立ちの青年だった。髪色はイーヴェと同じ金色で、瞳の色だけが違う。薄紫色だ。
青年は間近でまじまじとアサコの顔を見たあと、イーヴェを見上げて何かを言った。きっと何かを聞いているのだろう、とアサコはじっとその様子を見た。頭の上でくっくっと笑う気配がして、掴まれたままの服の襟が震える。一体なんなのかアサコは聞きたくて仕方がなかったが、ぐっと堪えた。前を見ると、青年も不思議そうな顔をしてイーヴェとアサコの顔を見比べてから、首を傾げていた。
イーヴェと青年はそのあと二言三言言葉を交わしたが、廊下の端からの呼び声で青年はイーヴェに挨拶をしたあとに踵を返した。青年に声をかけたのは、ティンデルモンバだった。少年の言葉を思い出したアサコは、ぐっと身を硬くした。
ティンデルモンバはラカの従者。兎の従者は、裏切り者の証。
ふとアサコの方を見たティンデルモンバは、笑みの形に顔を歪ませた。けれどそれも一瞬のことで、すぐに青年と二人アサコの視界から去ってしまった。
「さっきのは、誰だったんですか?」
もうそろそろ離してくれてもいいのでは、とアサコは期待しながらイーヴェを見上げた。けれどイーヴェは、そんなアサコの視線に気づいていながらも手を離そうとはせず、肩を竦めただけだった。
「弟だよ。君の命を狙うかもしれない、ね」
そう言って歩みを再開する。
イーヴェの弟と言われて、アサコは納得した。なんとなくそうじゃないかと思っていたのだ。イーヴェと似た顔立ちをした青年はイーヴェの様に甘ったるい笑顔を浮かべずに、好奇心で円くした目でアサコを見た。性格は随分と違うらしいことは言葉が通じなくても分かった。とても人の命を奪う様なことはしない青年にアサコには見えたのだが。
首根っこを掴まれたまま長い廊下を歩き続けたアサコは、もう一生首根っこを掴まれたままなのではと錯覚しそうになったが、イーヴェはアサコの部屋の前まで来るとあっさりとその手を離した。代わりに、二人にいつの間にか付いて来ていた召使い四人のうち二人が、アサコの左右を取り囲む。部屋の中を見ると風呂の準備がされていて、アサコは口元を引き攣らせた。染め粉を落とさないといけないが、召使いに入れられた風呂に良い思い出はない。どれだけ叫んでも彼女たちはアサコを捕まえ、その細腕からは想像もつかない力強さでけして逃がそうとしないのだ。最近はディルディーエの口ぞえもあって、一人で入らせてもらっているが、今日は染め粉を落とす為にもアサコの入浴を手伝うつもりだろう。
助けを求めるようにイーヴェの方を見ると、イーヴェはにこやかに微笑んでひらひらと手を振った。
「綺麗に洗ってもらうんだよ」
そう言ったイーヴェの後ろにも、二人の召使いがタオルや瓶の乗った盆を持って控えている。アサコは自分の危機も忘れて、あんぐりとその光景を見つめた。
「……イーヴェも、その人たちにお風呂にいれてもらうんですか?」
「それがどうかした?」
イーヴェは不思議そうに首を傾げる。ずるずると引き摺られながら、アサコは間抜けな顔をした。そんなアサコの様子を気にした様子もなく、イーヴェは何かを思い出したように、ああ、と呟いた。
「そういえば、今日はディルディーエは帰ってこないらしいよ」
イーヴェがそう言い終わると同時に、部屋の扉は閉められた。