15
「町を案内しよう」
断りもなくアサコの部屋に入ったイーヴェは、上機嫌でそう言った。
それに対するアサコの答えは決まっている。驚いて、数秒固まった様子でイーヴェを見つめていたアサコは、そのあとに必死で首を横に振った。
露台でのイーヴェは、アサコにとって恐い人以外のなにものでもなかった。ディルディーエの性別がアサコの思っていたものと違ったことで、それもつかの間薄れはしたが、今更満面の笑顔でそんな風に誘われても、付いて行く気になどなれない。
イーヴェは、鳥籠の前の椅子に座り、驚いた表情で凝視してくるアサコを面白そうに眺めた。鳥籠の中の色鮮やかな小鳥は、余り動かないから置物の様にも見えるが綺麗で澄んだ声で鳴く。それはイーヴェがアサコに与えたものだ。優雅な姿で止まり木に止まる小鳥に対してアサコは、少しでも近づけば、毛を逆立ててすぐ逃げてしまいそうな気配を漂わせている。
「どうして? 外に出たかったんだろう?」
「出たいです。けど、あんなこわい話しを聞かされたあとだし……」
アサコは言葉を濁らせた。本人に向かって堂々と、「あなたと行くのは嫌です」などとは流石に言えない。
静かに伸ばされた手に頭を撫でられて、アサコは思わず飛びのきそうになった。けれど優しい手つきに、心も少し絆される。頭のてっぺんを撫でていたては、ゆるゆると下がり首筋を撫でる。驚いたアサコは、目を円くして手の持ち主を見上げた。
「君が僕といる限りは守るって言っただろう」
甘ったるい笑顔で言いながら、指の腹でもう一度細い首筋を撫でた。ずっと暗い城の中でいた為か、その首筋もそこから続く肌も透き通るように白い。
「君は随分と幼く見えるけど、本当はいくつなのかな」
雲行きが怪しい。アサコは始めてそう感じていた。扉の隙間から見た光景や、寝台を挟んで見たイーヴェと召使いの女性の姿が頭を過ぎる。けれど、体は固まったように動かない。
アサコがすぐ前にある顔から目を離せずにいると、部屋の扉が数度叩かれた。そのあとに扉を通してくぐもった声が聞こえた。ディルディーエだ。アサコを呼ぶ声に、アサコはここぞとばかりにイーヴェの前から飛びのき、扉まで一目散に走った。
勢いよく扉を開けると、ディルディーエは少し驚いたように目を大きくする。けれどアサコの向こう側に王子が居るのを見て、呆れたような顔をした。アサコの赤い顔を見れば、どういう状況だったかも、ディルディーエには手に取るように分かってしまう。たった今扉を叩いたディルディーエは、アサコにとって天の助けだったのだろう。
「王子、冗談も程々に」
そう一言だけ言って、少年は部屋の中へ入ってきた。
一緒に部屋を出て行こうと思っていたアサコは残念そうな顔をしたが、ディルディーエがやってきてくれたことに安堵する。それと同時に、少し落ち着いてきた頭の中で、先ほどの空気に疑問を感じていた。今まで犬扱いだったのに、急にどうしてあんな雰囲気になったのだろうか。そんなことを考えて、出会ったばかりの日に城の前で口付けをされたことを思い出した。その時は挨拶だと思い込もうとしたが、この城へ来てからもそんな挨拶をしている人など見たことがない。この城へ来てからは目まぐるしく時間が過ぎてしまったから、その後はそんなことがあったことなどすっかり忘れてしまっていた。
部屋の中へ進み行くディルディーエの影に隠れるように、アサコは自分より背の低い少年の後ろで身を縮めながら歩いた。
鳥籠の置かれた台の前の、アサコが座っていた椅子にイーヴェは座ると、肩を竦める。
「町へ一緒に行かないか誘っただけですよ。彼女は此処へ来てから、城から出たことがないでしょう?」
悪びれもなく言うイーヴェに、ディルディーエはまた小さくため息を吐く。
むっと顔を顰めていたアサコだったが、ふと頭上に気配を感じて顔を上げた。天井近くに張った紐に付いている風車が、風もないのにしゃらしゃらと音を鳴らしながら回っている。
「アサコ」と呼ばれてはっとして下を見てみれば、ディルディーエはいつのまにか小卓の前にある椅子に腰を落ち着けていた。二人分の視線を感じた彼女は、居心地が悪くなり少年のすぐ隣りの席に着く。
「どうかしたのか?」
訊かれて、アサコはちらりと上に視線をやったが、すぐに首を横に振った。
二人は少女の様子に、お互い目を合わせた。ぼんやりと上を見つめていたアサコの視線を辿っても、何もなかった。アサコは風車を見つめていたが、それも窓を閉め切った部屋の中でしんっと静まりかえっている。
「わたし、やっぱり町に行きたいです。連れてって下さい、イーヴェ」
急に言われたアサコの言葉に、二人はもう一度目を合わせた。
*
道は、葉脈の様に細かく分かれていた。
大通りから細かく分かれたその道々には露店が立ち並び、その前を通る人の数は多くて賑やかで、少し埃っぽい。窓から見ていたよりも街の中はとても賑やかだった。アサコはその熱気に少し押されながらも興味心身できょろきょろと辺りを見渡していた。街はこれで二度目だったが、以前は寝ぼけた状態で状況も分からずに呆然としていたから、こんな風に町中を見渡す頭もなかった。それに、あの時は少し特殊な状況だったのだ。
アサコは隣りを歩く青年を見上げた。柔らかな茶色の髪と、変わらないのは緑の瞳。イーヴェはお忍びでアサコを街へ連れてきてくれたのだった。ディルディーエに髪の色が違う色に見えるようにしてもらったイーヴェは服装もいつもの王子然とした服と少し違うものを着込んでいた。それでも優美な仕草や表情は変わらず、身分の良いことが伺える。対してアサコは髪を後ろで一つに結ばれてズボンを履き、少年の姿でいた。イーヴェ曰く保険だということだったが、明らかに面白がっていることが分かった。アサコにとってはズボンを履くことは大したことではないけれど、此処の女性にしてみれば信じられないことらしい。アサコの住んでいたところでは女性がズボンを履くことは普通のことだと伝えると、イーヴェは少しつまらなそうな顔をした。
「そうしていると、まるで立派な小姓だね」
甘ったるい笑顔で吐き出されたその言葉が、嫌味だとアサコも流石に気づいたけれど知らんふりをした。いちいちこの男に構っていたら身が持たないのだ。
イーヴェはよくお忍びで街にやってきているのか、慣れた様子で路地裏や大通りを歩いた。
「あれは、なんですか」
もう何度目になるか分からない質問を、アサコは正面にある硝子窓を指差して口にした。その窓の内側には、大小さまざまな硝子瓶が乱雑に並べられていた。中には小さな何かが入っているが少し離れたところから見てもよく分からない。通り過ぎてしまいそうになったところを引き止めるようにイーヴェの袖を引いた。
最初はこの男に訊くことも躊躇われたが、溢れる好奇心を止めることはできなかった。言葉が通じないから店員が大きな声で何かを言っていても、さっぱりなのだ。それにたまに不可思議な物が売られていれば、聞かずにはいられない。ディルディーエがいれば間違いなくディルディーエに質問するのだが、彼は生憎仕事らしい。アサコが町へ連れて行ってほしいと言ったあとすぐに呼びにやってきたティンデルモンバと共にどこかへ行ってしまった。
「蒐集瓶だよ。大切なものをずっと保存できる。ほら、あの瓶には鳥が蒐集されてる」
イーヴェは小さな子に説明するようにゆっくりと言いながらたくさんある瓶の一つを指差した。イーヴェの言ったとおり、その中には青と白の色鮮やかで尾の長い鳥が一羽、ちょこんと佇んでいる。それは生きているようにも見えるが、じっとしてぴくりとも動かない。剥製の様なものか、とアサコは納得して次の質問に移る。
「あれは?」
袖を引きながら訊くアサコの様子を見た周囲の人たちから、小さな笑いが漏れた。傍から見てみれば仲の良い主人と幼い小姓の少年の様に見えていることに、アサコ自身は気付かない。次から次に訊くアサコに、イーヴェは自分から街を案内すると言ってきたこともあるからか、面倒くさがることもなく一々丁寧に答えてくれた。
人ごみの中を歩く内にアサコはその人の多さにあてられてか、くらくらとしたがそれでも好奇心は止まなかった。それでも進もうとしたアサコを止めたのは、アサコの様子に気づいたイーヴェの方だった。
「顔色が悪いけど、大丈夫? 人ごみに酔った?」
心配そうな声で訊かれて、アサコは怪訝な表情を浮かべた顔を上げる。イーヴェに心配されるなんて思いもよらなかったのだ。この時アサコの中でのイーヴェの位置は、既に地にまで落ちていたのだから。顔を見ればそこには心配そうな表情が浮かんでいたが、それもアサコにとって信用のならないものだ。彼は、甘ったるい笑顔で残酷なことを口にするような人間だとすでに知っているのだから。
「大丈夫です。人ごみって、楽しいし」
気丈に言われた言葉に、イーヴェは小首を傾げた。
「楽しい?」
「はい。人が多いのが嬉しいです。楽しい」
そこには少しの嫌味も含まれていたのだが、イーヴェは満面の笑みを浮かべる。
「寂しがりなんだね」
日本男児が口にすれば間違いなくクサイ台詞になる言葉を違和感なく言ってのける。アサコはがくりと肩を落とした。どうしたって、相手の方が一枚上手だ。
「やっぱり顔色が悪いよ」
「はあ。ずっと屋内にいたからじゃないですか? それより、あれは?」
自分に感心を持たれるのが億劫で、アサコはまた違うものを指差した。
小さな子供が長い紐を両手で持ち、ぴんっと張っている。その中央では色鮮やかな花のようなものがくるくると風車のように回っていた。
「え、どれ?」
「ほら、あの黒髪の小さい男の子が持ってる玩具みたいなのです。くるくる回ってる」
「……そんな子供いないけど?」
その言葉にアサコは目を円くする。アサコが指差した方向には間違いなく他の子供たちに混ざって、まだ幼い少年が立っている。やけに目を惹く整った顔をした少年で、けれどその顔に他の子供たちとは違って表情はない。そして、イーヴェもその方向を見ている筈だ。
「だって、ほら」
あそこにいますよ。
そう言おうとして口を開いたままアサコはぴたりと止まった。少年と目が合ったのだ。指指していた手前バツが悪くなりすぐに手を下げたが、少年は笑った。子供らしくない、ぞっとするような笑顔で。
その瞬間にアサコは背筋が凍るのを感じた。何かがおかしい。やけに目を惹かれるのは少年の容姿が原因だと思っていたが、それだけではなかったのだ。少年は、明らかに周囲の子供たちからは浮いていた。楽しげに遊ぶ子供たちに混ざっているにも関わらず、誰も少年には話しかけないし、見もしない。まるで、いないかのように。
「どうかした?」
怪訝そうに訊いて来る声で、アサコは現実に引き戻されたような気になったが、少年はまだアサコの方を見て笑っていた。細められた瞳の色は、猫のような金緑だ。
「------」
大きな声がして、アサコはイーヴェに引き寄せられて後ずさった。目の前を馬車が通り過ぎていく。危ないよ、と少し怒ったような声が頭の上から聞こえたが、アサコは上の空だった。
先ほどまで確かにいたはずの少年は、視界が一瞬遮られた間に、その姿を忽然と消していたのだった。