13
「わたし、お城を出て行きます」
アサコが真剣な顔で言っても、ディルディーエは気にした様子もなく、いきり立つアサコに椅子を勧めた。
日が沈む頃に、いつものようにディルディーエの部屋にやってきたアサコは、顔を顰めて開口一番にそう言ったのだ。なんとなく予想できていたディルディーエは、心の中でそっとため息を吐く。粗方、王子に何かを言われたのだろう。
「よく考えれば、イーヴェがわたしの知ってる言葉を喋れるなら、わたしはもうディルディーエに言葉を分けてもらってもいいと思うんです。分けてもらえたら、わたしこの城を出て、町か、もっとどこか遠くで暮らします。今までとてもお世話になったし、落ち着いたらいつか恩返しを……」
「落ち着きなさい、アサコ。王子になにかを言われたのか?」
「言われたと言うか、なんというか……このまま此処にいて命を狙われるのも嫌だし、わたしとにかくあの人とは関わらない方がいいと思うんです」
言いながら顔を曇らせていくアサコを見て、ディルディーエは勘所を心得ていると内心思ったが、そこは黙っておいた。
この少女が今この城を出て行くことは、イーヴェにとってもこの少女にとっても得策ではないだろう。イーヴェはともかく、この少女が大変な目に合うことは目に見えている。この城にいてもそれは同じことだが、今一人きりにしてしまうよりは余程マシだろう。
「一人になった途端、王子たちは好機とばかりにお前の命を奪うだろう」
「う……」
アサコはがっくりと肩を落とす。それを見たディルディーエは苦笑した。
「どうして、呪いって、なんなんですか? 話しを聞いてると、晴れない空以外にもなにかあるみたい」
ディルディーエは手に持っていた大きな本を閉じて立ち上がると、収納箱の上に置かれた大きな鳥かごの中でじっと二人の様子を見守っていた大きな鳥の背を撫でた。鳥はピピピッと細い、金糸雀のような声で鳴く。羽の色は白く、尾の方がほんのりと青い。
「王子たちは、この国から出ることができないんだよ。血の濃さにもよるが、魔女の呪いは今も色濃く残っている。この国に閉じこめられて、出ることは許されない」
鳥の尾は見る見るうちに赤く変わっていき、あっという間に全身が淡い桃色の鳥になっていた。どういう仕組みだろうとそちらに気をとられていたアサコは、ディルディーエが言葉を切るのと同時に目線を上げた。相変わらず幼い子供の顔には表情らしい表情はない。
呪いなんてアサコには到底信じられない話しだったが、ディルディーエのような、小鳥に姿を変えてしまえる魔法使いもいるのだ。けれど、呪いも本当のことだろうと、頭で理解しようとしてもすんなりと受け入れられない。
そのまま次の言葉を待っていると、ディルディーエの顔がふいに曇った。悲しい事を思い出した時の様な表情だ。
「姫を殺した者こそが呪いから逃れられると、王子たちの間では信じられている」
「お姫様は、どうして呪いなんかかけたんですか? なにかあったんですか?」
アサコが単純に疑問に思ったことを訊くと、無表情に戻っていたディルディーエの顔に再び影が宿る。その様子を見ていたアサコは小首を傾げた。訊いてはいけない事だったのだろうか。
「随分昔のはなしだからね。誰も真実を知らないよ」
嘘だ。
咄嗟にアサコはそう思った。ディルディーエの暗い表情を見たからかもしれない。唐突にその強い思いが浮かんできたのだ。いくつもの嘘や隠し事がある。そのことにアサコはここ数日の間にようやく気づき始めていた。
はらりと、花飾りの花びらが一枚落ちた。アサコはぎゅっと服の裾を掴む。
「わたし、どうしても思い出せないんです。あの森のお城で目が覚める前のこと。あの女の子の名前は思い出せたのに……」
猫を思わせる少女の姿を思い出して、アサコは眉を顰めた。
夢の中で何度も何度も、絶望を植えつけては楽しそうに笑ったあの少女。けれど夢から覚めてみれば、いつも残るのは絶望感だけで、その絶望の正体は思い出せない。悪夢を見た感覚だけが強く残るのだ。
「お城にいたのはなんとなく分かるんですけど」
付け足すと、ディルディーエは小首を傾げた。
「それがよく分からない。あの城は、お前が連れ出される日まで痲蔓に覆われて誰も立ち入ることはできなかった。姫が閉じ篭ってから、その時まで一度も城への道が開かれたことはないんだよ。それに姫の状態からして、お前が姫と会っていたなんてことは有り得ない」
ディルディーエの言うことは最もだった。言い伝えられるほど昔の姫君と、アサコが会ったことがあるなんて有り得ないことだ。
そう思いながら、アサコはあることを咄嗟に思い出して、あ、と声を上げた。イーヴェたちが言う魔女が姫君のことならば、とっくに死んでいたその姫君をイーヴェが殺したいと言うことはおかしい。
ディルディーエは飽きたのか、鳥の背中から指を離した。その頃には鳥の羽は鴉のような真っ黒な色に変化していた。
「あの……お姫様って、魔女じゃなかったんですか?」
鳥の色の変化に目を見張らせながらアサコは自信なさ気に訊いたが、それに対しての答えは曖昧なものだった。ディルディーエは微妙な表情で小さく首を振ったが、それ以上は何も返すことはなかった。
暫くしてから、アサコは気まずい気分で寝台に潜り込んだ。ディルディーエはいつもと変わらず、小さな体には不似合いなほどの大きな本を机に載せて読んでいる。その横姿をぼんやりと見ながら、アサコはおばあちゃんの家にあった百科辞典を思い出していた。その百科辞典はおじいちゃんの遺品の一つだと、おばあちゃんは言っていた。
「アサコ、お前に家族は?」
本に真剣になっている様に見えたディルディーエが唐突にそう質問したので、ぼんやりとしていたアサコは、一瞬何を訊かれているか分からなくて、数秒遅れてから言葉を返す。
ディルディーエは、訊いておきながらも本から目を離さなかった。読みながら聞いたのだとしたら、器用なものだ。
「おばあちゃんと、お母さんがいました」
静かな声で言うと、小さな少年はようやくアサコの方に顔を向け、神妙に頷いた。
「お母さんと二人暮らしで、おばあちゃんとはたまに会ってました。お父さんは、わたしが産まれた時には多分もういなかったです。……ちゃんと聞いたことはないんですけど」
アサコは訊かれてもいないのに、決まりきった台詞のように平坦な声で言う。二人とも今頃どうしているんだろう、という言葉がぽつりと浮かんだが、泡のように弾けてあっと言う間に消えてしまう。そのことにアサコ自身気づかずに、ただほんの少し感じた違和感に、寝台のなか居心地悪そうに身を捩った。
ディルディーエは自分から話題を出したにも関わらず、アサコの身の上話しには興味もないのか、ふうんと相槌を打っただけだった。それに気分が悪くなったわけではなかったけれど、アサコもそこで言葉を切ると、元いた場所のこと、そこにいた自分のことを思い出す。
アサコはずっと母親と二人で暮らしていた。母が建築関係の仕事をしていたことはアサコも知っているが、実際どういう仕事をしているかは詳しくは知らない。小さい頃、母の帰りが遅い時はいつも祖母の家か、隣に住んでいる同級生の家で晩御飯を食べさせてもらっていた。流石に最初は寂しかったが、意外と慣れるもので気づけばそれが普通になっていたし、母との関係が悪くなることはなく、寧ろ他の家庭よりも仲が良かったように、アサコは思う。母は趣味で家具や小さな小物も作っていた。動物を象った置物なども小さい頃はよく作ってくれたものだ。
そう記憶を辿っていく途中で、アサコは服に入れている小さな鹿の存在を思い出した。
「そうだ……」
小さな声でアサコが呟くと、本を読むことに再び専念し始めたディルディーエが顔を上げた。アサコはそれに気づくこともなく、服の隠しに入った鹿を取り出してじっとそれを見つめる。毛並みや爪先まで細かく彫られたその白い鹿は、空虚な目でアサコを見つめ返す。
それは、母が作った物だった。
どうして今まで忘れていたんだろうと、不思議に思いアサコは顔を顰めた。珍しく遅刻しそうになっているところ母に手渡されて、部屋に置きに戻る時間もなくそのまま制服のポケットに入れたのだ。だとしたら、アサコはその日のうちにこの場所に来てしまったことになる。
「ディルディーエ。この鹿、わたしのお母さんが作ったんです」
「それをお前の母親が? どうして姫も同じ物を持っていたんだ?」
「……わかりません」
言いながら、アサコは思い出せそうで思い出せない記憶の破片が、どこかに突き刺さっているような気がして顔を顰めた。けれど、それを打ち消すように考える。もし学校から帰らなかったら、母や祖母、友だちたちや近所の人たちだって心配しているに違いない。下手したら警察沙汰になってしまっている可能性だってある。アサコは普通の高校生らしく、たまに友だちと羽目を外すことはあったけれど、家出なんてしたこともないし、しようと思ったこともない。
此処へ来てから、アサコが覚えているだけでも何週間という日にちが経ってしまっている。その重大さにアサコはようやく気づくと同時に焦りだし、体を起こした。
「わたし、帰らないと」
今度は本当に、心底そう思った。
どうして諦めかけたりしていたのだろう、と過去の自分を呪う。そんなことをしている時間にでも、帰る方法を探せばよかったのだ。ぼんやりとした時間を過ごしすぎてしまった。
「唐突だな」
魔法使いの少年には、本気で帰りたいと願っていなかったアサコの心の中など、お見通しだったらしく呆れたように言った。
城へ来てから何日もの間、アサコはとくに切羽詰まった様子もなく、家へ帰る方法を探そうともしなかったのだから唐突とディルディーエが呆れるのも無理もない。
「だって、みんな心配してるかもしれない」
アサコの言葉に、ディルディーエは読みかけの本を机の上に置いた。大きな卓上には、大小様々な何冊もの本がいくつかの山を作っている。たった今置かれた黒い表紙の本は、その中でもとくに古く色褪せていた。表紙には文字が元々印字されていないのか、消えてしまったのか何も書かれていない。
「もしそうだったとしてもお前が本当に姫と会っていたのなら、お前を心配してくれる人たちはもういないだろう。お前が眠っている間に、きっとみな天寿を全うしている筈だ」
到底信じられないような言葉だったのに、アサコはぞっとして体を震わせた。
「どうして、そんなこと言うんですか……」
「本当のこと言っただけだよ、アサコ。お前の記憶は曖昧のようだ。全てを思い出してそれでも帰りたいと思うのなら、それからでも遅くはないだろう。どの道もう結構な日にちが過ぎてしまっているし、お前自身が帰る方法を思い出さないと帰れない」
白い鹿を見る度に、忘れてしまったなにかを思い出したいとアサコは思う。けれど、思い出したくないような気もする。
「どうやったら、思い出せると思いますか?」
訊くと、ディルディーエはちらりと机の上に置いた黒い本を見た。右手で本の表紙をそっと撫でる。
「明日、ティンデルモンバに温室の裏にある庭に連れていってもらいなさい」
そう一言だけ言うと、それ以上はアサコが尋ねても何も言わずに、また本を読み始めた。