11
掌にのった鍵束を見て、ディルディーエはそっとため息を吐いた。長い廊下には前を歩くイーヴェの足音が響く。
「何か、ご不満が?」
ため息に気づいたのか、暫くして静かな声でイーヴェは訊いた。
伸びた背筋に整った顔立ち。この血筋は代々濃い血を受け継いでいるのだと、改めて気づかされ、ディルディーエは目を伏せた。つい最近まで小さな子供だと思っていたのに、いつの間にこんなに大きくなったのだろう。気づけば自分の背をとうに越していて、二人の目線は子供と大人のものになっていた。
「不満なら、あるさ。お前はもう少し欲望に蓋をした方がいい」
正直に言ってやると、見目麗しい王子は苦笑したが、特に気にしていない様子で手を差し出した。重たい鍵束をその手に乗せてやると、今度は無邪気な子供のように微笑む。
「ありがとうございます。昼前には戻ります」
洗練された動きで礼をすると、イーヴェは身を翻して行ってしまった。向かう先はつい先日まで蔓に守られていた歪みの城だ。長い間城を守りぬき、誰にも立ち入らせなかった毒蔓は、どういう訳か一晩のうちにその禍々しい姿を消してしまった。そこに、緑の天蓋の王子であるイーヴェが真っ先に向かうのは、不自然なことではなかった。
人々は、姫君がこの城にやってくることを待ち望んでいる。それは長く言い伝わるはなしのせいだけではない。姫君があの城に篭ってしまってから、空は薄っすらと雲を纏い、日が差し込むことがなくなってしまったのだ。それにも関わらず、緑は気味が悪いほどに育ち、この国を覆い隠すほどだった。蔓が消えてしまってもそれは変わらない。
美しく、愛らしい娘だった。その瞳に魔性が宿りだしたのはいつ頃からだったか。その娘はこの城に戻ってくるつもりで、長い呪縛を放ったのだろうか。憎しみを募らせたこの城に戻るつもりで。
部屋の中は薄暗く、冷たかった。窓のない部屋なのに、空気はどういったわけか澄んでいた。天井から吊るされた雅やかな装飾を施された照明器具は、長い時間の間に積もった埃で白く濁っていた。
城の地下に、その大広間はあった。床に張った水は冷たく、ゆっくりと体温を奪ってゆく。まるでその先へ進むことを拒むようだ。城の主に害をなす者。そんな意思を足に絡みつく暗い水が持っているような気がして、イーヴェは苦笑した。「姫君は城の地下室で眠っている」と言ったのは城付きの魔法使いのディルディーエだった。彼は、長い時間を生きてきた聡明な魔法使いだ。その言葉に間違いがあったことなどないと、イーヴェは信用している。
大広間の真ん中には、ぽつんと大きな寝台があった。そこに、語り継がれてきた姫がいる。
けれど、寝台の上にあったのは、長い時をかけてつくられた姫の亡骸だった。すぐ傍にあった台の上には、様々な色の紐で磔にされた、見知らぬ幼い少女の姿があった。
そして、王子は姫君の代わりにその少女を連れ帰ることにした。死に絶えた姫君の代役を少女にしてもらう為に。
「どういうつもりだ。あれは、姫ではないぞ」
真っ先にそう言ったのはディルディーエだった。もともと魔法使いに隠し事をするつもりはなかったイーヴェは、肩を竦めてみせた。
「本物の姫君は、当てが外れました。あの娘には代わりになってもらいます」
平然と言ってのけるイーヴェに、ディルディーエは顔を顰める。
「当てが外れた? 元々お前には姫君を連れ帰るつもりはなかっただろう」
イーヴェは暗い笑みを浮かべると、自身よりも随分と背の低い子供の姿をした魔法使いを見下ろす。腰に下げるのは長剣だ。革の長靴は少しの間水に浸っていたせいで、黒く変色してしまっている。足は冷えて冷たくなっていた。
普段優しそうな笑みを浮かべるこの青年の瞳には、冷たい光りが時々宿る。ディルディーエは表情なくじっとその顔を見つめた。
「アサコと言ったな、あの娘。まやかしの魔法をかけられているようだ。もしそれが魔女の仕業なら、お前に害を為すかもしれないぞ」
「だとしても、あんな小さな娘になにができますか? それでは、失礼します」
王子が去るのを見守ってから、ディルディーエはその日何度目かになるため息を漏らしたのだった。
*
机の上に散らばった本の上に突っ伏しそうになったアサコは、なんとか踏みとどまって目を擦った。出そうになった欠伸をかみ殺して肩を竦める。
城を出て行こうと決意してから、ディルディーエにこの国の言葉を習うことにしたのだが、中々覚えられない。文字に至っては、さっぱりだった。うねうねと連なる文字は、何処が始まりで何処で一区切りなのかさえも分からない。どれだけ頼み込んでもディルディーエは王子の命令を守ってか、言葉を分けてくれないのだ。そのくせ、それなら勉強すると言ったら丁寧に教えてくれる。
簡単な単語はすぐに覚えられたけれど、それでも日常生活を滞りなく送るのには相当の時間を要しそうだった。
先ほどディルディーエは仕事があるからと部屋を出て行って、アサコは教えてもらったことを反芻しようとしたのだけれど、聞いている最中には分かっていたことも分からなくなってしまった。
「先は長いなあ……」
アサコは思わず呟きため息を吐いた。
こんなことでは、城を出て行くのはいつになってしまうのだろうか。そうこうしている内に、あの子の思い通りになってしまったら。
あれ、とアサコは首を傾げる。あの子とは誰のことだろう。自分の考えを理解できなくて、気持ちが悪くなって立ち上がる。少しは息抜きをした方がいいのかもしれない。
露台の硝子扉を開けると、冷たい風が吹き込んできた。相変わらず空は薄曇りだけれど、それでも昼間は明るい。手すりに腕をついて、景色を眺める。
広大な敷地の周りには大きな町がある。敷地と町を区切るのは大きな門だ。少し離れたところにある大きな森の真ん中には、ぽつりと開いた場所があり、その真ん中には歪みの城が建っている。いつ見ても同じ景色だ。けれどその時は少し違った。歪みの城の上の方に、唯一ある窓からとろりと溢れ出すように黒い影が垂れたのだ。アサコは自分の目を疑って、もう一度じっと影が零れ落ちた場所を見た。そんなにはっきりと見える筈がない距離なのに、それはアサコの目にちゃんと映った。とろりと垂れ落ちた影は城の下の野原で水溜りのようになり、こぽこぽと蠢いていたが、やがてそれは人の形を成した。
それは以前、夜に見た影だとアサコは直感する。細い足で立ち上がり、上半身をだらりと下に垂らしていたそれは、妙に機敏な動きでぐにゃりと体を起こすと、きょろきょろと周囲を窺うように首を動かした。
見つかってしまう。
そう思ったアサコは咄嗟にその場にしゃがみこんだ。心臓がどくどくと嫌な音を立てる。背筋に寒気が走る。
今は昼間で、まだ明るいのに、あの影はどうしていられるのだろうか。明るい中でいる真っ黒な影は、夜見るよりもずっと不自然な存在だった。指先や頭のてっぺんから血の気が引いていく。
風が駆け抜けて、木々を揺らす音が聞こえた。それに混ざって、歌が聞こえてくる。
――おいで おいで まづるにねむるこ
てんがいのなかは みにくいもののふきだまり
風のさざめきに紛れて届いたその歌声は、子供か大人か、女か男かも分からないような不気味な声だった。両手で耳を塞ぎ、ぎゅっと目を閉じて、アサコは体を縮める。
――私を見捨てるつもり?
そう耳元で囁かれた少女の声に、はっと顔を上げても、その場に少女の姿はなかった。代わりにいたのは、つい先ほど見たばかりの影だ。部屋の中でアサコをじっと見るように静かに立っている。ひっとアサコは悲鳴を飲み込んだ。
閉じた筈の硝子扉は何故か開け放たれていて、風がそこに向かうように吹いている。伸びた髪が引かれるように風にはためく。髪につけられた花飾りが、乱暴な風に数枚の花びらを散らす。部屋の中に掛けられた紐に付けられた風車のような玩具が、カラカラと勢いよく回る。
影は、ゆっくりと向かってくる。
アサコは座り込んだまま後ずさったけれど、すぐ後ろにあった手すりに背中が当たってしまう。恐怖で体は震え、立ち上がることさえままならない。
「……来ないで」
ようやく搾り出した声も、掠れていた。影は体の部品部品が重そうに歩きながら近づいてくると、その細長い手を伸ばしてきた。
「いや」
ぎゅっと目を閉じて顔を背ける。
くすくすと少女の笑い声がどこか遠くで聞こえる。
こんな、狂気じみた遊びはもうたくさんだ。
「やめて……っラカ。こわい!」
「ラカ?」
やけにはっきりと聞こえてきた声に、アサコは目を見開くと恐る恐る顔を上げた。
「イーヴェ……? どうして、ここに? 影は?」
言うとアサコの前に膝をついたイーヴェは、難しそうな顔をした。そこには、影の姿など跡形も残っていなかった。白昼夢でも見ていたような気分になり、それでも不安を拭い去りきれなかったアサコはきょろきょろと視線を彷徨わせた。ふいに手を掴まれて、体が震えていたことにようやく気づいたアサコは、抱きしめられても抵抗はしなかった。しがみ付くようにその背に腕をまわして、やっと訪れた安堵感にため息を吐くと、今度は頭を優しく撫でられた。
くすくすと少女の笑い声だけは、影が消えた今でも止んでくれない。
――本当に、馬鹿な子
そう言いながらも、その声は楽しそうで仕方がないといった様子だ。
先ほど散ってしまった花びらは、ひらひらと群れを成す虫のように二人の周りを飛ぶと、風に乗ってあの深い森の方へと飛んでいった。
暫くして、ようやく少女の声が消えて顔を上げたアサコは、笑うイーヴェと目が合い固まった。自分が抱きついていたことにようやく気づいて顔を赤くして、ぱっと腕を外す。けれどイーヴェは、アサコの反応を面白がったのかますますぎゅっと抱きしめてきた。
「離してください……」
自分も抱きついてしまった手前、強く言えずに項垂れて言う。
「君は、ラカを知ってるの?」
「え?」
驚いてアサコは顔を上げようとしたけれど、押さえつけるようにされていて上げることができなかった。その為にイーヴェがどんな表情でそれを言ったのかは分からなかったが、低く囁かれたその言葉は、耳に暫く残った。
「だとしたら、君はラカを誘き寄せる餌になる。俺は、ラカを殺したいんだ」