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「こちらでございます」
兎の従者の言葉で顔を上げたアサコは、あんぐりと口を開けた。
ディルディーエもイーヴェも用事で居なく、アサコが部屋で暇を持て余していると、ティンデルモンバが温室があるからと案内してくれたのだ。まだ兎の容姿に恐怖感を持つアサコはよっぽど断ろうかとも思ったが、断る勇気もなく、好奇心もあったので付いてきた。
そして今見上げてるのがドーム型の温室だ。それはアサコが想像していたよりも何倍も大きく、小さな頃に行ったことのある大型の植物園くらいの大きさだった。
「王妃様や王子様方は、時々この場で茶会を開かれておいでなんですよ」
「……はあ」
お茶会なんて普段耳にすることのなかった言葉に、アサコは呆けたまま間抜けな返事をしてしまう。王子であるイーヴェを知っているのに、王妃様や王子様という言葉には未だに違和感を感じる。それに、イーヴェに兄弟がいるのも想像ができなかった。
「さあ、参りましょうか」
そう言って、ティンデルモンバが再び歩き出したので、アサコは慌ててそのあとに続いた。
硝子扉はギィッと古びた音を立てて開かれた。中には様々な種類の木々が植えられ、奥の方には古びた噴水があり、そこから透明な水が人工的に作られた溝に流れていた。下の花壇には美しい花々も植えられている。
「うわあ。この中だけでも迷子になりそうですね」
圧倒されて、アサコは自然と兎の従者に話しかけていた。隣りから笑う気配がしてきて見てみると、ティンデルモンバがやはり兎の顔で笑っていたので、分かってはいたがアサコは驚いてしまう。声と顔の歪み具合で笑っていることは分かるのだけれど、それでもその笑う姿はアサコの目には不気味に映ってしまい、アサコは心の中で謝った。悪い人ではない筈なのだ。
「かくれんぼにはもってこいの場所ですよ」
ティンデルモンバはおどけて言った。
「そういえば、王子様方も幼少の頃はここでよく遊ばれていました」
「へえ」
二人は話しをしながら奥へと歩みを進めた。その間にも、アサコの見たことのない様な木や花があり、その度にティンデルモンバは丁寧にその植物の説明をしてくれた。中にはアサコがよく見知った植物とそっくりなものもあり、アサコがそのことを告げると、全く違う名前が返ってきたりもした。
歩き続けているうちに、いつの間にか周囲は植物で囲まれていて、入り口が何処なのかもアサコにはよく分からなくなってしまっていたが、上を見上げると球形の天井の真ん中の辺りにもまだ立っていないことが分かった。高い硝子天井の向こう側は薄っすらとした曇り空だ。
「そういえば、わたし、此処へ来てから太陽を見てない気がします」
アサコが上を見上げながら呟くように言うと、ティンデルモンバはぴくりと髭を動かした。真っ赤な目はアサコを観察するようにじっと見る。アサコが顔を下げると、そのことに気づかれないように今度は空を見上げた。
「……それは、今が冬初めだからですよ」
「え? そうなんですか?」
「ええ。緑の天蓋では、冬の間は殆どが曇り空なのですよ」
「そうなんですか」
アサコは少し残念に思った。今は、一人でいると少し不安になりそうな気さえするけれど、太陽の光りが降り注げば、この場所ももっと綺麗に違いない。それに、アサコの部屋の窓から見える景色もだ。遠くに見えるあの森の中にある、小さな城の建つあの原っぱも。
「あなたは、花嫁なのです。これからずっと此処におられるのですから、晴れの日を見られる日もそのうちにやってきますよ」
なんと答えていいか分からずに、アサコは視線を落とす。一体いつまで自分はこの場所にいることになるのだろうか。イーヴェの花嫁になんてなるつもりもないけれど、今のところはこの場所にいることが一番いいのだろう。けれどもし帰ることができないのだとしたら、いつまでもこの城に厄介になることはできない。だとしたら、城へやってくる道すがら通ったあの町で生活することになるのだろうか。あの場所で生活し、結婚して子供を産み、年老いてやがては死んでいく。
そこまで考えてアサコは馬鹿らしくなって苦笑した。可能性がないとは言い切れないから考えてしまうけれど、それでもこれだと、最初から帰ることを諦めているようだ。
「ああ、アサコ様。あちらの木をご覧になって下さい」
上から降ってきた声に従うと、白い幹の木が他の木に混ざって立っていた。ティンデルモンバはその木に近づくと、爪でその幹を擦った。その仕草にアサコは首を傾げる。兎も爪とぎをしただろうか。
するとティンデルモンバは、手招きをしてアサコを呼び寄せた。
「擦ってみて下さい。良い香りがするんですよ」
言われて、人差し指の腹ですべすべとした幹を擦ると暫くして香りが出てきた。
「あ……」
その香りはアサコのよく知るものとそっくりで、アサコはまじまじと指先と幹を見た。肉桂だ。肉桂とよく似た香りがする。それはアサコにおばあちゃんのことを思い出させる香りだった。おばあちゃんは硝子瓶に入った、色とりどりの肉桂水が好きでよく飲んでいたのだ。
「わたしのいたところでは、この香りはよくお菓子とかに使われてました」
ティンデルモンバはそう言うアサコを見て、目を細める。その拍子に髭がぴんっと跳ねた。
「帰りたいのですか」
「……はい」
言いながら、アサコはなぜか後ろめたい気持ちになり視線を落とした。足元では、綺麗に敷かれた丸石の間から短い草が生えてきている。甘い香りは肉桂だ。
おばあちゃんは、どうしているのだろうか。最後に会ったのは、いつだっただろう。
アサコの肉親はアサコが物心ついた頃から、お母さんとおばあちゃんだけだった。一緒に暮らすことはなかったけれど、それでも大切な大切な家族だ。そんなことも今になってようやく思い出す。此処へ来て、気づけばもう六日以上経ってしまっていた。
「それは、とても簡単なことなのですよ」
「え?」
「帰る方法を思い出せば良いのです」
「そんなの、もとから知りません。ティンデルモンバはなにか知ってるんですか……?」
アサコが思わずティンデルモンバの顔を凝視しながら言うと、ティンデルモンバは微笑むように顔を歪めた。
「いいえ、いいえ。私はなにも知りません。けれどあなたは知っているはず」
その言葉でアサコは顔をしかめた。やはりティンデルモンバは何かを知っているような口調だ。
「あの、」
「あーのー…」
アサコの声に重なるようにして、か細い声がした。ぎょっとしたアサコは後ろを振り向いて、悲鳴を飲み込んだ。思わず近くにいたティンデルモンバに抱き付きそうになってしまう。
アサコの後ろには、アサコより少し背の低い少年がいつの間にか立っていた。少女の様にか細く、愛らしい顔をしていて、気が弱そうに眉をへの字に下げている。両腕で抱きかかえるようにして持っている鉢には一輪の青い花が植えられていた。それはアサコの髪に毎日付けられる花と同じものだった。
「王子様。どうなされたんですか」
「うん……そろそろ染まるころだと思って、見に来たんだ。それより……」
ちらりと視線を向けられて、アサコは目を円くする。気が弱そうに見えても、その目の持つ力は存外強かった。それになりより、どうしてこの少年はアサコの国の言葉を喋るのだろうか。ティンデルモンバの様に、ディルディーエに言葉を分けてもらったのかもしれないが、たった今初めて会った少年にそうした理由がアサコには分からなかった。
薄っすらと紫の混ざった灰色の瞳は、じっとアサコを観察するように見たあと、ティンデルモンバへと移った。
王子様と呼ばれるということは、この少年は恐らくイーヴェの弟なのだろう。けれど髪の色は薄く、羊色で瞳の色もイーヴェとは違う。
「歪みの城の、姫君ですよ。アサコ様、この方はイーヴェ王子の弟君のロヴィア王子です」
そんな大層なものではないと言い返そうと口を開きかけたアサコだったけれど、その前に小さな王子が「ふうん」と呟いた。
「あの、はじめまして……」
「ようこそ、緑の天蓋へ」
小さな声で王子は言うと、抱き抱えていた鉢を下ろした。牡丹に似た形をした青い花は、地面に置かれた拍子に一枚の花びらを散らした。
「アサコ」
呼ばれてアサコは、うんざりと顔を上げた。先ほど寝台に突っ伏したところだったから、髪は乱れてしまっていたが、気にする余裕もないほど疲れていた。
温室の中はアサコの想像以上に広かったが、ティンデルモンバが丁寧に説明してくれるからアサコもその度に真剣に聞いていたら、いつの間にか夕方になっていたのだ。それでも温室全体をまわれたわけではないらしい。ティンデルモンバはディルディーエの部屋まで送ってくれたが、部屋にディルディーエの姿はなく、自分の部屋に戻る元気もなかったアサコはふらふらと寝台に倒れこんだ。以前よりも体力が落ちている気がして、アサコが突っ伏したまま顔を顰めていたところに、あまり嬉しくないこの声だ。ディルディーエの部屋だというのに、どうしてイーヴェがいるのだろう。
上げた顔がよほど酷い様だったのか、イーヴェはアサコの顔を覗き込むと小さく首を傾げた。
「……弟さんに会いましたよ。温室で」
イーヴェは言葉を理解できているものと思って、寝台に手をつき重そうに上半身を起こしながらアサコは言った。
温室で出会った小さな王子は、あのあとすぐにアサコたちの前から去ってしまったから会話らしい会話も結局できなかった。アサコはあの少年に良い印象を持たれていないように感じた。もしかすると、嫌われているのかもしれないとさえ思ってしまう。
「どうして、喋らないんですか?」
髪を撫で付けながら、むすっとして言うと、イーヴェはいかにも分からないという風に首を傾げる。その仕草をするイーヴェと夢の中の少年の姿が重なって、胸がちりりと傷んだアサコは眉を顰めた。体のどこかで、鐘が鳴っている。その正体を考えるのも煩わしくて、アサコはまた倒れるように、寝台に突っ伏す。
「どうして、あのお城に来たんですか」
ふと笑う気配がして、微かに顔を上げて見ると、イーヴェは哀しそうに微笑んでいた。
また、胸がちりちりとする。「馬鹿ね」と言った少女の笑いを思い出す。
アサコは枕に押し付けるように顔を埋めて、目を閉じた。
*
翌日は、目を覚ますとディルディーエがいつものように大きな机の前で分厚い本を読んでいた。部屋は地下にあるせいか、いつでも灯された灯りしかなく、目を覚ます度にアサコは小さな少女に朝か晩かを聞かなくてはならない。ディルディーエは、アサコに今が朝であることを告げるとグラスに入った水を差し出した。それを受け取ったアサコは、寝ぼけ眼のままゆっくりと飲み干すと部屋を見渡した。
おそらく昨日はあのまま眠りこんでしまったのだろう。イーヴェの姿はなかった。
「昨日は、どうだった?」
「え?」
「ティンデルモンバに、温室に連れて行ってもらっただろう?」
「ああ、はい。すっごく大きかったです。帰ってくる頃にはへとへとでした」
「それで、そのまま眠ってしまったんだね」
アサコは寝台の上で座りこんだまま、自分の姿を見下ろした。髪に付けられていた花は外されて枕元にある台に置かれているけれど、服は昨日のままだ。皺になってしまっている。
ため息を吐いて彼女は寝台から下りると、皺を伸ばすように服の裾を引っ張った。
一応借り物の服なのに。
「ごめんなさい」
謝ると、ディルディーエは本から顔を上げ、少し目を円くし小首を傾げた。
当たり前だけれど、皺は引っ張っても元には戻ってくれなくて、諦めて肩を落とす。毎日あてがわれる服は、しっかりとした布地の物でアサコにもなんとなく高級そうなことは分かっていた。
「だって、借り物なのに、皺くちゃにしちゃいました」
しょんぼりして言うと、ディルディーエは、なんだそんなことかと肩を竦めて小さくため息を吐く。
「それはお前の服だよ、アサコ。あの部屋にあるものは、全てお前の物だ」
「そんなの、おかしいです」
「……アサコ。お前がそうは思っていなくとも、アサコは花嫁なんだよ。何も持たないお前に、王子が色んな物を与えるのは当然のことだ」
その言葉にアサコはむっとしたが、何も言い返せずに口を噤んだ。
そのあとアサコは部屋に戻ると、召使いたちが用意した風呂に入り、新しい服を着せられ、髪にはいつものように大輪の花を飾られた。本当に至れり尽くせりだ。そういえば、部屋に戻る途中にすれ違った一人の召使いが、大きな本を十冊近く重そうに抱えているのを見て手伝おうとしたけれど、必死で拒まれた。偉い人でもないし、ましてや普通の学生だったというのに、この待遇は不相応だ。
「出ていかないと……」
一人、部屋の中で呟く。その言葉は強く思ったわけではなかったのに、ぽろりと口から零れ落ちたものだった。
昨日のちりちりとした胸の痛みを思うと、ぽつりと浮かんだその思いはどんどんと強くなる。この場所は少し居心地がいいけれど、ずっと居てはいけない気がする。
深みに嵌まってしまう前に、あの子の思い通りにならない内に。
自然と出てきたその考えに何の疑問も抱かずに、アサコは当たり前のように決心した。