01
痲蔓の森の夜は冷たい。
そう言ったのは、確か旅芸人の男だった。
森は一面、朽ちかけた木々と茨で覆われている。葉や枝が空を覆うわけでもないのに、薄っすらと暗い森の中に生き物の気配はなく、確かに冷たい印象を漂わせていた。
森の中央には、高くそびえる古びた塔が、火を消されたあとの蝋燭のようにぽつんと建っている。その塔を目指して、一人の少女が絡まる蔦を掻き分け、顔や足に傷を作りながら突き進んでいた。まだ幼さの残る愛らしい少女の姿は、痲蔓の森の陰鬱さとは不釣合いだ。長くどこまでも伸びる蔦と戦いながら進んでいるからか、肩で息を切らしながら瞳には怒りの炎を燃やしている。
「まるで敵討ちにいくような顔だな」
少女が必死でいる一方で、少女の顔の隣を飛んでいた青い小鳥は平然と言った。
「これ、逆じゃないですか」
疲れているからか、怒っているからか、少女は愛らしい見た目には似合わない低めの声で言った。
「気にするな」
「そういう状況でもないんです。すごく疲れてるんです。いつになったら着くんですか」
訊かれて、小鳥は少し高く飛ぶとすぐに少女の顔の辺りを飛び回る。
「あと、四分の一というところだ」
青い鳥はパタパタと可愛らしく羽ばたきながら、半分くらい鯖を読んでそう言った。
目覚めて一番最初に目に入ったのが、蜂蜜色の髪をした、顔にも甘ったるい笑みを浮かべた男だった。男と言っても、まだ少年っぽさの残る顔立ちをしている。
アサコはぼんやりと男の顔を眺めて、緩慢な動きで瞬きをした。頭に靄がかかったように、何も考えられない。
男は近すぎるくらいアサコの顔に自らの顔を寄せて、じっとその様子を眺めていた。アサコも何も考えずに、虚ろな表情で男を見つめ返す。
きれいな緑色のひとみ。
そんな言葉をようやくぽつりとアサコが頭の中に浮かべると、男は背を向けて彼女の腕をひっぱり、そのままおぶった。
アサコの方は、されるがままだ。何を思うのではなく、男の背に体重を預け、凭れ掛かった。
「-----------」
アサコを背負ったまま、男は振り向くと何かを言ったが、それが何を言っているのか目覚めたばかりの彼女には到底理解できなかった。彼女が慣れ親しんだ言葉とは違う、聞いたことのないような言葉で青年はなにか問いかけたようだった。
暫くしてもなにも反応しないアサコに返事を求めることを諦めたのか、青年は前を向いて歩き出す。流れていく景色をアサコはぼんやりとした目で眺めた。
古びた灰色の石畳に、同じ石の壁、石畳を覆うのは、薄い水の膜だ。青年は足首まで水に浸かっていることも気にした様子もなく、水音も余り立てずに進んでいく。
壁には燭台が規則正しく並び、溶けた蝋燭が立てられていたが、そのどれもが埃を被り、長く使われていないようだった。薄暗い部屋の中は広く、部屋に見合った大きな扉まではまだたどり着かない。アサコは徐々に覚醒しながらも、ぼんやりとしか物事を考えられなかった。
自分をおぶっている青年は誰だろうとか、ここはどこだろうとか、ぽつぽつと疑問が浮かんでは沈んでいく。
ゆっくりと振り向くと、部屋の真ん中に大きな寝台が水に浮かぶようにしてあった。おそらく自分はたった今まであそこで眠っていたのだろう、とアサコは思う。
けれど、どうしてそこで眠っていたのかも考えられなくて、首を元に戻すと、暗い部屋の中でも明るい光りを放つ青年の髪を見つめたあと、また温かい背中に顔を預けた。
次に目が覚めた時には、明るさで目を細めた。
冷たい風が通り過ぎていき、身を縮こめる。体の上には大きな毛布が掛けられていたけれど、それでも足りない。目覚めには辛い冷たさだ。それに、目の前には生い茂る雑草と甘い香りのする花が咲いている。空は一面薄い雲で覆われている。どう見ても、今アサコがいる場所は外だった。
「------------------------」
声がして、アサコが重い体を起こすと、蜂蜜色の髪の青年に顔を覗き込まれた。
「……だれ?」
寒さで体を震わせながらアサコが聞くと、青年は困ったように微笑んで首を傾げる。
言葉が通じていないらしい。それは仕方のないことだった。青年はどう見てもアサコとは違う国の人で、アサコ自身青年の言葉を理解できないのだから。
それにしても、青年の格好はおかしかった。どう見ても普通の服装ではない。もしかしたら畏まった式かなにかがあったのかもしれない。男は肩に金色の房のついた、黒い軍服のような服を着ていた。白いずぼんの上からは革の長靴を履いている。男の容姿も手伝って王子様のように見える。昔どこかの国の、なんとか皇太子が、何かの式かパレードかでそんな格好をしていたのをテレビで見たことがあったアサコは、王子様かとぼんやり思った。男が羽織っている外衣は映画で見たことがある様なものだった。
頭は、まだ完全には起きてくれていないらしい。
上半身を起こした状態で、目の前で跪いた自分を見つめながら今だぼんやりとしているアサコの腕を引っ張ると、男はぎゅっと抱きしめて外衣で包んだ。そのまま小さい子にするように、よしよしと頭を撫でられて、温かさでアサコは自分の体が冷えていることに気づいた。それと同時に、大きな安心感が生まれ力が抜けていく。それに大してアサコは疑問を持つこともしなかった。
ふと体を離して、顔を近づけてきた男の唇が、自分の唇に触れるまでは。
暫く呆然と男の伏せられた長い睫を眺めていたアサコは、下唇を啄まれると同時にぎょっとして男の胸を力いっぱい押した。
「-------」
男は不思議そうに首を傾げてきょとんとしている。そんな顔をされると、アサコの方がなにか間違ったことをしてしまったような気分になって、ぐるぐると回る頭を抱える。
「あ、あいさつあいさつあいさつ」
ぶつぶつと呟きながらも、今のがそんなものではないことは心の底では分かっている。ふと顔を上げると、青年は心配そうにアサコを見つめていた。その表情を見てる限りでは、そんなに悪い人には見えない。
「他に人いないのかな……」
呟いて、視線を彷徨わす。言葉が通じないのでは、今の自分の状況を知ろうにも何も分からない。今、アサコが着ている服が、学校の制服だった。黒色のブレザーに、チェックのスカート、黒いタイツに少しくたびれたローファー。なにもおかしいところなんてない。けれど、今いるところは見たこともないような、森に囲まれた草原で、すぐ傍には灰色のレンガ造りの小さなお城。そのお城は、枯れた茨で囲まれている。
アサコは青年の後ろにそびえ立つお城を呆然と見上げた。
日本っぽくない。アサコは王子っぽい青年と、日本っぽくない建物を凝視しながら、考える。そもそもどうしてこんな場所にいるのだろうか。思い出そうとしても、ここへ来る前の最後の記憶さえ思い出せず、日常の風景の断片がぽつぽつと浮かんでくるだけだ。頭の中は霧がかかったようで、細かいことは思い出せない。今の状態は朝目覚めたばかりで、寝ぼけている時の状態と似ている。その為か、それともあまりにもおかしな光景に現実を感じられないからか、危機感や焦りはまったくと言っていいほど湧いてこない。
「--------------」
呆けて動かなくなったアサコの腕を軽く叩いて、青年は何かを言った。
「すみません、なにを言われてるかまったく分からないんです……ええと、Who are you?」
なんとか知っている英語で聞いてみた。毎日授業で英語を習っているのに、こんな時に出てくる言葉がこれだけなんて情けない、とは思いつつも、ぼんやりした頭では他になにも思いつかなかった。
青年が英語を喋っているわけではないのは承知の上だ。けれどさすがにこれは通じるだろうと言ったのだけれど、青年はまた首を傾げる。
「----------」
「ああ、さっぱりわかんない」
これでは埒が明かない。青年も同じ風に考えたのだろう。立ち上がるとアサコに手を差し伸べた。
「ありがとうございます」
通じないと分かっていても、癖のようにそう言って手を重ねると、強い力で立ち上がらせられた。と、その瞬間足に力が入らなくてまた地面に座り込みそうになるところを青年に支えられる。どういう訳か、足に力が入らない。それどころか、立ち上がってようやく気づいたが全身がだるくて力が入らない。青年に支えられていなければ、またすぐにでも倒れてしまいそうだ。
「なにこれ……」
呟いて、自分の足元を見たあと、制服から出ている手がやけに白いことに気づく。もともと色は白い方だったけれど、血管が透けるほどではなかった。
「-----------」
心配そうに青年が、何かを言った。アサコの体に力が入らないことに気づいているのだろう、支えた手はそのままだ。
アサコはなんとなく申し訳なくなって、頭を下げた。
そんなアサコの様子にきょとんとした青年は、すぐにあの甘ったるい笑顔を浮かべ、小さい子にするようにまたアサコの頭を撫でた。
そのあと青年はアサコをまたおぶると、お城のそばでむしゃむしゃと草を食んでいた真っ黒な馬にアサコを乗せ、自分も慣れた様子で馬に跨り、アサコの後ろから手綱を引いた。馬はそんなに早くもない速度で歩き出したのに、予想以上の馬上の高さと揺れに驚いたアサコは、自分の体のすぐ横にある腕をぎゅっと掴んだ。