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後編 ~桜が舞い散る頃~

 私は綾ちゃんと別れた後、もう一度あの映画館を訪れる。

 蛍君が抱きしめていた手帳……あれに脚本が書かれていたんだ。

 蛍君はそれをぎゅっと抱きしめて、その存在だけを頼りに、映画館を訪れた。

 私はスクリーンを見つめて、涙を流す。

 彼は映画を観て、本当に悔しくて、悔しくて涙を流したんだ。

 それなのに、私が夏野さんを絶賛して、彼は怒りを抑えることができなかった。

 そして、映画を観終わった後、喫茶店を訪れた際、あのパンフレットを悔しさのあまり握りつぶしてしまう。

 蛍君の唇が切れていた意味。きっと彼は、悔しくて悔しくて、今の私のように唇を噛み、血を滴らせたんだ。

 自分の努力が、他人の賞賛に変わるという屈辱感。

 それに彼は耐えながら、それでも私を気遣ってくれたんだ。

 私は、結局何もできなかった。

 なら、今、私は何ができるのだろう。

 蛍君がやり遂げられなかったこと。それを私がやるべきなんじゃないか?


 私はその夜、夏野さんの部屋の前で、彼が帰ってくるのをずっと待っていた。

 冬の寒空を仰ぎながら、自分の腕を抱く。

 私は夏野裕明さんが好きで、復讐なんて絶対にできない。でも、蛍君の作品を取り戻すことはできる。

「何やってるの?」

 振り向くと、夏野さんが笑いながら、ドアの前で縮こまる私を見つめている。

 彼が来たら、どんな言葉で罵倒してやろうと思っていた。なのに、恨みの言葉は出てこなかった。代わりに、それだけを言う。

「蛍君の作品を盗作した事実を、公表してください」

 すると、夏野さんは噴き出す。

「無理に決まってるじゃないか。だってあれは元々私の作品なんだから」

「あなたが綾ちゃんに脚本を渡したのも、罪悪感があったからなんじゃないですか?」

 すると、夏野さんは唇を引き結ぶ。

「もし私が盗作していたとしても、それでもきっと私は公表しようとは思わないよ。せっかく手に入れた芸術家としての道をみすみす手放したりするもんか」

 彼はそう言って、ドアの錠を下ろす。


 私はその日から、あきらめずに何度も彼のアパートを訪れた。

 そのたびに夏野さんは笑うだけだ。

 どうして、もう来るなって言わないんだろう。

 夏野さんは私を邪険にするばかりか、喜んで迎え入れている節がある。

 本当にどうしてなんだろう。どうして、蛍君の作品を奪ったの?


 夜遅く帰ってきた私は、自分の部屋にまっすぐ向かった――でも、突然姉さんの部屋が開いて、彼女が激情を映した顔で迫ってくる。

 気づいた時には、私は肩をつかまれて、壁に叩きつけられていた。

「どういうつもりなの?」

 姉さんは眉を逆立てて、私を睨み付ける。

「私は自分のしなければならないことをしているだけ」

「いい加減になさい。これ以上彼をどうにかしようとするのなら、許さないわよ?」

 彼女の指が私の肩に食い込み、骨が軋みだす。

 それでも私は姉さんの瞳から目を離さない。

「姉さん、言ってたじゃない。好きな人のためなら、なんでもできるって。私もその言葉に従ってるだけ」

 その瞬間、手が離れる。

「さらにあなたが彼に迫ろうとするなら、私も何をするかわからないわよ?」

 姉さんは部屋のドアに手をかけながら、そう言う。

 それでも、私は彼女をじっと見据えるだけだ。

 姉さんは唇を噛むと、ドアを勢い良く閉めた。

 私はジンジンと痛む肩をさすりながら、床を見下ろす。

 すべてを失ったとしても、やらなければならないことがあるんだ。


 私は翌日、久しぶりに綾ちゃんに会う。

 彼女は前に会った時よりさらにやつれていて、具合が悪そうだった。

「綾ちゃんの書いた本、読ませてもらったよ。すごくよかった!」

「それはどうも……」

 彼女はホットコーヒーを啜りながら、窓の外をじっと見つめている。

「綾ちゃん、脚本書いてみたらいいんじゃない?」

「私がですか?」

 綾ちゃんは自嘲げに笑う。

「それは無理です。私には自分ではどんな作品も生み出すことはできません」

「そんなこと……」

「私が新人賞を取れたのは、どうしてか知ってます?」

 綾ちゃんはぎり、と歯を食い縛り、自分の手の平を見つめる。

「蛍先輩の脚本を盗作したんですよ」

 私は目を見開く。そんな――。

「最初、彼の作品を見た時、驚きました。十七歳の人間がここまで傑作と呼べる作品を書けるのかって」

 綾ちゃんは自分の手の平に爪を立てて、赤く染め上げていく。

「本当に羨ましくて、羨ましくて……夏野さんがしたことを私もしたんです。でも、蛍先輩は、私のしたことを知っても、何も言わなかった! いつもの通り、あの穏やかな瞳で私を見てくれるばかりで……」

 綾ちゃんは目から大粒の涙を落として、深く深く自分の肌を抉る。

「私は蛍先輩を裏切った卑劣な人間なんです」

 気付けば、私はそっと綾ちゃんを抱きしめていた。綾ちゃんが目を見開く。

「どうして……私は夏野さんと同じなんですよ?」

「同じじゃない」

 私はつぶやく。

「だって、蛍君は綾ちゃんを許したんでしょ? きっとその作品を綾ちゃんに託したんだよ」

「そんなこと……」

「綾ちゃんはれっきとした芸術家だよ」

 私は綾ちゃんの手をそっと探り当て、握る。

「こんなに指の関節が悪くなるまで、キーボードをタイプし続けて……これは芸術家の指だよ」

 綾ちゃんは何か掠れた声を上げて、腕に力を込めてくる。

 私にできること。それを今、見つけた気がする。きっとこれですべてが終わる。


 その案を綾ちゃんに話すと彼女はしばらく声を失って、私の顔を食い入るように見つめていた。

 やがて、彼女はうなずく。

「わかりました。やります。私はもう一度輝けるかもしれません。あの人の光で」


 一ヵ月後、私は再び夏野さんのアパートを訪れる。

「君か。随分間があったじゃないか」

 夏野さんは笑っている。笑っているのだけれど、その笑顔は引きつっていた。

「中に入る?」

 私はその申し出を断った。

「公表する決心はつきましたか?」

 すると、夏野さんは唇を噛んで、ドアを拳で叩く。

「あれをやったのは、君か?」

「そうです」

「どうしてあんな――どうしてそこまで!」

「蛍君のためです」

「あいつは死んだんだぞ! 何の為に!」

 私は夏野さんを見据えて、低い声で言う。

「蛍君のできなかったことをする為です」

 すると、夏野さんは悲しい顔をして、私を見つめてくる。

「君は本当に……」

「公表する意思はないんですか?」

「ない」

 そう言って、夏野さんは扉を勢い良く閉める。

 私は歯を食い縛る。これですべてが終わると思ったのに。

 全部無駄だったの?


 二週間前、ネット上である小説が話題になった。

 同じ作品がいくつかの小説投稿サイトで同時公開されて、すでにどの投稿サイトでもランキングの一位を占めている。

 その小説の名前は、『夏の蟲』。

 斬新な設定と独特の世界観で描かれるSF小説で、書籍化の話も出ているらしい。

 その著者の名前は、AYA。

 綾ちゃんに、蛍君の脚本を復元させたのだ。

 夏野さんがどれだけ蛍君の作品のストックを持っているのかはわからないけれど、彼が作品を発表させる前に、ネット上で有名にさせてしまえば、彼は発表を断念せざるをえない。

 これから綾ちゃんに頼んで、どんどん作品を発表させていくつもりだ。

 だけど、それでも夏野さんは自分の罪を認めようとしない。


 その夜、私が部屋でインターネットの投稿サイトを回っていると、部屋がノックされる。

 扉を開くと、姉さんが泣き腫らした目で私を見つめてくる。

「どうしたの、姉さん?」

 私は掠れた声を上げる。

 姉さんは一歩、もう一歩とふらつく足取りで近寄ってくると、私にすがりついてきた。

「桜……」

 姉さんは私の名前を呼びながら、その場で崩れ落ちる。

 私は彼女を抱き支えて、「どうしたの?」と聞く。

「罪悪感に押しつぶされそうなの」

 姉さんは嗚咽を漏らしながら、言う。

「私は愛する人の為ならなんでもすると言った。でも、その罪に耐えられるかどうかは別なの……」

「姉さんは、何をしたの?」

 私が彼女の顔を正面からまっすぐ見て言うと、姉さんは首を振る。

「私の口からは言えないの。絶対言えない……」

 どうして、姉さんがこんなに苦しんでいるんだろう。こんな姉さんの顔、見たくないのに――。


 私は深夜、夏野さんのアパートに押しかけた。

 こんな真夜中だけれど、そんなことどうでもいい。

 姉さんのあんな顔を見て、何もしないでいることなんかできないよ。

「なんだ君か。寒いから、中に入った方がいい」

「姉さんに何をしたんですか? このままだと壊れちゃう!」

 私は夏野さんの襟首をつかんで揺する。

「何もしてないよ。そんな話をしにきたのなら、帰ってくれ」

 夏野さんはドアを閉めようとする。

「どうしてっ! 愛してるんでしょう?」

 すると、夏野さんはふと手を止めて、私をまっすぐ見つめてくる。

「君は何かを志したことがあるか?」

 私はその張り詰めた声に息を呑む。

「どんなに努力しても認められない。才能という壁がいつもたちばかる。私が努力をしているその側で、

何の努力もしないでその壁を意図も容易く打ち破ってしまう人間がいる。私はそんな彼らが羨ましくて、そして憎い」

 何を言って……。

「君のような人間に芸術家の苦しみはわからない。帰ってくれ」

 そして、扉が閉ざされる。

 私は扉に額を押し付けて、唇を噛む。

 どうして、こんなにすれ違ってばかりなんだろう。どうして真っ直ぐな心だけ持って生きていけないの?


 その夜、夢の中で蛍君と会った。

 それは以前、学校の帰り道で一緒に歩いていた時のこと。

「僕はとてもじゃないけど、桜とは釣り合わないよ」

 私は驚いて、「何言ってるの?」と振り向いてしまう。

「僕は自分のことしか考えられない最低な人間なんだ」

「なんでそんなこと言うの?」

 すると、蛍君は俯いてしまう。

「僕には、桜といる資格なんてないんだ」

 今思うと、どうしてあんなことを言ったのか、わかる気がする。蛍君はずっと昔から悩んでいたんだ。どうして私は彼と向き合うことができなかったんだろう。

 今となってはすべてが遅い。でも、私にはまだできることがある。だから――。


 次に夏野さんに会った後、彼は困惑顔でその事実を告げる。

「君が、ああしろと言ったのか?」

「……どういうことですか?」

 私が声を固くして聞くと、夏野さんは柱に手をつきながら、溜息を吐く。

「蛍の脚本を返してくれって、綾さんがかなり執拗に頼み込みにくるんだよ。もううんざりしてね」

 夏野さんは弱弱しく笑う。

「君なら、まだいいんだ。顔見てるだけで、ほっとするし。……いや、なんでもない。とにかく、彼女にもう来ないように言ってほしい。説得役は一人だけで十分だとね」

 夏野さんの顔はやつれていて、無精ひげが生えている。

 私は心配になる。ご飯でも作ってあげようかな……。

「私も疲れてるんだ。来るなら、一日に一回にしてくれ」

 そう言って、夏野さんは扉を閉める。


 私は綾ちゃんへメールを送る。

『綾ちゃんがそこまでしてくれてるなんて思わなかった。ありがとう』

 すると、すぐに返信が返ってくる。

『私はただ自分の為に動いているだけです。感謝されるいわれはありません』

『そんなこと言って。感謝してるんだよ?』

 返信は返ってこなかった。


 翌日、夏野さんから電話がかかってきた。

『盗作をやった事実を認める』

 私は思わず携帯を振り落としそうになる。

『もうやらない。だから、取り消してくれ』

「本当に……わかってくれたんですね」

 私の目から涙が溢れ出てきて、私は地面に手をつく。

『だから、あの言葉を取り消してくれ』

「あの言葉って……?」

『君がやったんだろ? ネット上でAYAが夏野裕明の盗作した事実を訴えている』

 私は目を見開く。どうして……そんな。

『私を芸術界から抹消しようとしているんだろ? 君がそこまでするとは思わなかった』

 違う。私はやっていない。

『蛍の脚本はすべて返す。すぐに取りにきてくれ』

 通話が一方的に切れる。

 私は唖然として、携帯電話の画面を食い入るように見つめる。

 その瞬間、すぐに綾ちゃんからメールの着信があった。

『全部うまくいきます。夏野さんから連絡はありましたか?』

 綾ちゃん……綾ちゃんが全部やったの?

 そうメールを送ると、

『そうですよ。すべて自分の為にやりました』

 自分の為……そこまで蛍君を想っているの?


 私は綾ちゃんと時計台の前で待ち合わせした。

 現れた彼女の顔は青ざめていて、でも顔つきは強張ってさえいた。

「綾ちゃん……」

 私が声をかけようとすると、綾ちゃんはそのまま視線を向けずに「行きましょう」と言って歩き出してしまう。

「綾ちゃん、どうしてあんなことしたの?」

「なんとしても、取り返さなくちゃいけないんです」

 綾ちゃんはまっすぐ前を見据えて、言う。

「必ず蛍先輩の作品を返してもらわなきゃいけないんです」

 私は息を呑む。そこまで……そこまで綾ちゃんは。

「早く行きましょう。置いていきますよ」


 夏野さんの家の中に入ると、そこには姉さんもいた。

 二人とも顔が青ざめていた。

 夏野さんは頭を下げて、その数冊のノートを私達に手渡している。

「これが私が持っている蛍の脚本のすべてだ」

 私が受け取ろうとすると、綾ちゃんがすぐにそれを夏野さんの手から受け取ってしまう。

 綾ちゃんはそのノートを手にして、初めて笑顔を見せる。

「もう脚本は返した。盗作はしない。だから、あの言葉を撤回してくれ」

 すると、綾ちゃんは無表情で言う。

「しません」

「何っ!」

 夏野さんは椅子を蹴って立ち上がる。

「盗作はしないなんて言っていても、どうせコピーを持っているに決まっています」

 綾ちゃんはそう言って、溜息を吐く。

「あなたがこのまま芸術の世界にいるのが本当に邪魔なんです」

「綾……ちゃん?」

「トイレをお借りします」

 綾ちゃんはそう言って、ノートを持ったままリビングを出て行く。

 夏野さんは下を向いて唇を噛みしめていたけれど、両手を握り締めて言う。

「あの子はそんなに私を憎んでいるのか?」

「夏野さん……?」

 すると、彼は冷徹に言う。

「言っておくが、蛍が死んだのは私の盗作が原因じゃない」

 鼓動が止まりかける。何を……言ってるの?

「楓がよく蛍に相談を持ちかけられたことは君も知ってるな? 蛍は彼女だけに脚本を書いていたことを打ち明けていたんだ。楓は蛍から脚本を見せられて、蛍の才能がずば抜けていることを私に教えてくれた」

 私は姉さんを見つめる。姉さんは唇を震わせて、目を瞑っている。蛍君はつまり、姉さんだけに脚本を書いていた事実を教えていたということ?

 ――ある人とだけの秘密にしたいんだ。

 蛍君が綾ちゃんに言った言葉。蛍君は姉さんとだけの秘密にしておきたかった?

「私は楓に頼んで、蛍から脚本を借りさせた」

 それが……姉さんの罪悪感の理由?

 姉さんは額を押さえて、唇を引き結んでいる。

 ――桜も、きっとわかるようになるわ。誰かを好きになったら、どんなことをしてでも尽くそうという、この気持ちを。

 姉さんの言っていた言葉の意味。姉さんが蛍君を裏切ったの?

「……蛍は」

 姉さんが声を震わせながら言う。

「あの手帳を私に渡す時、それは好きな人を想って書いたものだと言っていた」

 姉さんはちらりと私を見る。

「あの脚本はすべて、桜を想って書かれたものなのよ」

 私を……想って?

「違う」

 そこで夏野さんは険しい顔で姉さんの言葉を否定する。

「確かに『藍の灯火』は桜さんを想って描かれたものだ」

 じゃあ、あの作品を観た時に感じた懐かしさは――。

「でも、他の作品はすべて他の人を想って書かれたものだ」

 夏野さんは突然棚から一冊のノートを取り出してくる。

「これだけは君達に返そうとは思わなかった。何故ならこれは、蛍の書いた『小説』だからだ」

 私は息を呑む。

「他の作品がすべて脚本であるのに対して、この作品だけが小説だ。それはどうしてか――それは蛍がこの作品を特別な作品として楓に見てもらいたかったからだ」

 姉さんを見ると、彼女は目を見開いている。

「楓はまだ蛍の脚本を見たことがなかったからわからないかもしれないが、この作品に注ぎ込んだ蛍の情熱は他の作品よりもずっと大きい」

 彼は、そのノートを私に渡してくる。

「その小説の主人公はある人を一途に思い続けている。彼はずっと想い人の妹と付き合っていた。けれど、密かに彼女を想い続けていたんだ。しかし、ある日彼は彼女に本当の想いを告げる。その想い人の名前は――」

「やめて!」

 姉さんは夏野さんの腕をつかんで叫ぶ。

「桜がいる前で、そんなこと――」

 それでも夏野さんは言葉を続ける。

「その小説は楓への恋文だったんだよ。蛍が死んだのは――楓に裏切られたからだ」

 すると、姉さんは泣きながら地面にひれ伏してしまう。

 その真実を告げられても、私の心は変わらない。たとえ蛍君が姉さんを想っていたとしても、私の恋が一方通行で、哀れな恋だったとしても――私は蛍君を想い続ける。だから――。

 私はそっとノートを胸に抱きしめる。彼の想いのつまったノート。

 それを私は姉さんに手渡した。

「蛍君の想い……受け取ってください」

 姉さんは嗚咽を止めて、私の顔を食い入るように見ると、そのノートを受け取る。

 そして、胸に抱きしめた。

「楓……私も蛍と同じだ。君に迫ったのも、君が有名な監督と親密だったからだ。私はただ自分の芸術家としての人生を想い描いて君と付き合っていた」

 すると、姉さんは首を振って「知っていたわ」と笑う。

「あなたが私をこれぽっちも想っていないことなんてわかってた。でも、それでもいいの。ずっと側にいてくれるだけでいい」

 姉さんはそう言って、夏野さんの手を握る。

 夏野さんは私をじっと見つめて、弱弱しく笑った。

 私達はどうしようもなく弱くて、何かにすがっていないと生きていけない。でも、それでも求めてしまう願望があるんだ。

 私はずっと蛍君を好きでい続けるよ。もうその声を聞けないとしても、ずっと君を想い続けるよ。


 私は夏野さんのアパートを出た後、綾ちゃんが一人暮らしをしているアパートへと足を運んだ。

 結局綾ちゃんは夏野さんのアパートから姿を消していた。あの脚本を持ったまま。

 私は彼女の部屋のドアに向かって言う。

「綾ちゃん、私だよ」

 沈黙が返ってくる。

「その脚本、使っていいよ」

 かすかに身じろぐ気配がドア越しに伝わってくる。

「私は今まで蛍君の為だけに動いてきた。でも、結局それは独りよがりなことでしかなかったんだ」

 私は扉に額を押し付けて、微笑む。

「もうその脚本を返してもらう理由はなくなったの。使っていいよ、綾ちゃん」

 声は返って来ない。それでもこれだけは伝えたいと思った。

「蛍君は綾ちゃんがしたことを笑って許してくれたんでしょ? きっと自分の脚本を大事にしてくれたことが嬉しかったんだと思うよ」

 私は手の平を扉に置いて、最後にそう言う。

「頑張っていい作品を書いてね、綾ちゃん」

 そして、私は扉から離れる。


 数ヵ月後、綾ちゃんの書いた本はベストセラーになった。

 私はずっと綾ちゃんの成功を祈ってるよ。

 そして、姉さんと夏野さんは結婚することになった。式の前日、彼に会ってほしいと言われて、あの喫茶店で待ち合わせすることになった。


 扉を開くと、ジャズピアノの優しい旋律が流れてきて、私はその店を懐かしく感じる。

 彼はどこだろうと思って、店内を見渡すと、彼は窓際の席でコーヒーを飲んでいた。

 目が合うと、彼は淡く微笑む。

「久しぶりですね」

「やあ。君はなんだか雰囲気が大人びたね」

 彼はそう言って、私の顔をじっと見つめてくる。

 その視線の中に、何か深い感情がこめられているような気がした。

「なんですか?」

 私は首を傾げて、つぶやく。

「いや、今のうちに見ておこうと思って」

 彼はただ穏やかな表情で私の顔を見つめてくる。

 どうしてか、彼の目が悲しげな気がして、私は胸が疼くのを感じる。

「姉さんと明日結婚するのに、どうして私なんかと会う必要があるんですか?」

 すると、彼は沈黙する。

 どうしてだろう。彼が苦悩しているように感じるのは気のせい?

 彼は目を閉じる。

 そして、細く細く息を吐く。

 再び開いた目には、決意の光が滲んでいた。

「私が君を初めて知ったのは、蛍に話を聞いた時だ。私は蛍から話を聞くうちに、君に興味を覚えていった」

 彼は苦々しく笑う。

「君は、私が理想とする物語のヒロインに限りなく近いことに気付いた」

 私は正面から彼を見ていられなくて、視線を逸らす。

「蛍のお通夜の時、やっと君に会えて、私は心から喜んでいた。無意識にずっと君を視線で追っていた。蛍の死を悲しむよりもはるかに喜びが勝っていた。やっと君に会えた、と」

 彼はそっと私の手を握り締めてくる。

 この話はきっと、夏野さんの罪の話だ。

 彼は目を閉じて、「私は」とつぶやく。

「君が毎日のように家に押しかけてきた時、正直嬉しかったんだ。毎日顔が見ることができることが嬉しかった」

 夏野さんの瞳が上がり、私の濡れた目とぶつかる。

「私は君が好きだった」

 夏野さんの手に力がこもる。

 私の温もりを奪っていく冷たい手。

「ずっと、ずっと好きだった」

 私はどんな顔をすればいい? 彼の苦しみを理解できた今、私に言えることは――。

 夏野さんの手を握り返す。

「どうか、それでも姉さんの側にいてあげてください」

 すると、夏野さんはうなずいた。

「必ず幸せにする。それが私に課せられた罪だ」


 私は夏野さんと別れた後、予定通り、時計台の前を訪れる。

 すると、そこで蛍君が満面の笑顔で手を振ってくる。

「桜!」

 私は頬を綻ばせて、彼の腕を握った。歩き出す。

「今日は映画を観に行くんだよね?」

「そうだよ」

 私達はどちらからともなく笑い合う。

 ああ、なんて幸せなんだろう。彼がここにいる。

 今日は、ラブストーリーの人気作を観ることにした。

 蛍君は私にパンフレットを買ってくれる。

「ありがとう」

 蛍君は照れ臭そうに笑って私の手をそっと握ってくるのだ。

 映画を観終わって、あの喫茶店を訪れる。

 窓側の席に座ると、私達は黙りこくる。

 でも、私はこの沈黙が嫌いじゃない。だって、蛍君の心を間近で感じることができるから。

 蛍君はここにいる。私の心に。

「桜。ごめんね」

 蛍君はふと、悲しそうな顔をして、言ってくる。

 私は首を振る。

「私はたとえ蛍君が姉さんを好きでも、構わないの。一緒にいてくれるだけで」

 すると、蛍君は私の手を握り締めてくる。女の子のようにすらりと細い指。

「確かに僕は楓さんが好きだけど、桜と過ごすことも本当に楽しかったんだ。僕にとってかけがえのない時間だったから。僕は桜とずっと一緒にいたかった」

「大丈夫。もうすぐ永遠に一緒にいられることができるから」

「桜……本当にいいの?」

 蛍君の不安げな瞳。

 私はうなずく。

「私には蛍君と離れるなんてこと、考えられない。だから――」


 私は家に帰り、その仕度をする。

 ロープは用意した。後は、最後に蛍君にこれを言うだけ。

「蛍君、ずっと好きだよ――」

 踏み台を蹴った瞬間、視界が掻き消える。

 浮遊感。

 首を刈り取る鎌。

 喉の痛みはすぐに気管の苦しさでかき消される。

 なんて、私は楽しい恋をしたのだろう。

 蛍君といる時、すべてが輝いていた。

 そっと視界を白が染め上げていく。

 もうすぐ蛍君に会えるよ。きっと会えるよ。


 *


 そして、桜さんは死んだ。

 私がこの小説を書き上げられたのは、彼女の部屋に手記が残されていたからだ。

 彼女のすべてがそこに記されていた。

 そこに刻まれた蛍先輩への想い。

 私は結局すべてを失ってしまった。

 蛍先輩への恋心。

 蛍先輩が私を気にかけていたのは、それは私が楓さんに瓜二つだったから。

 結局私は馬鹿な勘違いをして、そして今も彼女を裏切ってこうして一人ぼっちになっている。

 でも、それでも私は小説を書いていかなくちゃいけない。

 私は芸術家だから。

 すべてをその目で見て、その血の滲んだ指で、物語を書き綴らなくちゃいけない。

 それがきっと、桜先輩と蛍先輩が望んでいることだから。

 最後に、私は桜先輩のこの物語にこの名前を刻もうと思う。

 ――なんて、哀れな恋。


 了


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