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中編

 家に帰り、姉さんの部屋のドアをノックした。

「入りなさい」

 くぐもった声が聞こえる。

 ノブを開いた瞬間、お酒のむっとした香りが漂ってきた。

 姉さんはソファに寝そべってワイングラスを傾けている。

「姉さん」

「こんな時間までどこ行ってたの?」

 姉さんの目は腫れぼったかった。

「……姉さんはよく蛍君から相談を持ちかけられてたよね?」

 姉さんの目が細まる。

「……それが何か?」

「どんなこと相談されていたの?」

 その瞬間、姉さんは唇を噛んで、ワイングラスをテーブルに叩きつけた。

「そんなこと言えるわけがないでしょう!」

「言ってよ」

 私が無表情でそう言うと、姉さんはばつが悪そうに視線を逸らす。

「それだけは言えない。早く部屋から出て行きなさい」

 私は「わかった」とつぶやくと、部屋のドアを閉めた。

 わかってる。悲しんでいるのは私だけじゃない。

 でも、私は生きている人を傷つけてでも、真実を掘り起こさないといけない。

 その先に、蛍君がきっと待ってるから。

 私は自室に入り、ベッドに仰向けに横になりながら、死ぬ前の彼の様子を思い返す。

 映画を見に行った時、確かに彼の様子はおかしかった。

 あの時点で、もしかしたら彼は死ぬことを決意していたのかもしれない。

 色んな可能性を考えて、それでも真実にたどりつけそうになかった。

 明日、蛍君の家に行ってみよう。


 翌日、家を訪ねてきた私に、おばさんは目を潤ませて快く家に迎え入れてくれた。

「桜ちゃんに会いに行こうかと思ってたの」

 おばさんはショートケーキを皿に盛りつけながら、言う。

「このままじゃ、蛍の存在に押しつぶされそうだったから」

 本当は今も頭が真っ白で、勝手に口が動いているだけなんだろう。

 私に会いに行きたかったのは、きっと何かにすがっていないと耐えられないから。

「桜ちゃんはなんでうちに来たの?」

「蛍君のことを聞きにきたんです」

 私が冷徹で寒々しい声を出すと、おばさんは突然耳を塞いで「やめて!」と叫んだ。

「もう聞かないでよ!」

「それでも聞きます。蛍君に死ぬ前、変わったところはありませんでしたか?」

「ない! あったら私が止めた! 必ず止めたんだから!」

 彼女は涙を流しながら、私の胸を拳で叩く。

 おばさんの拳は、本当に力が入っていなくて、微塵も痛くなかった。

 私は「そうですか」とうなずくと、席をたった。

「お邪魔しました」

 私が彼を追っている限り、蛍君はそこに存在する。

 それが今、私を崖際で繋ぎとめている信条だった。


 私はデートの最後に彼と来たあの喫茶店に足を運んでいた。

 相変わらず美味しくないコーヒーを飲みながら、私は頬杖をついて、何とはなしに窓の外を見る。

 その時、「桜?」と聞き慣れたあの声が間近から囁かれた。

 私は驚いて振り向く。

 姉さんが驚愕の表情で私を見下ろしていた。

 彼女の手には、二人分のブレンドコーヒーを載せたトレイ。

 彼女の背後を見て、さらに驚く。

 あのお通夜で会った男性だ。

 彼も驚いた顔で私を見つめている。

「どうして桜がここにいるのよ」

「姉さんこそ……」

 私達はお互いに掠れた声を上げて、その後でどちらともなく苦笑を浮べた。

「そちらの方は姉さんの彼氏?」

「あなたには初めて紹介するのだけれど……夏野裕明さんといって、脚本家をしてるの」

 私は持ち上げかけていたカップを振り落としてしまう。

 ――夏野裕明。

 藍の灯火の脚本を書いた人。

 ……嘘。本人なの?

 彼は何故か嬉しそうな顔で私の顔をじっと見つめて、「また会ったね」と笑う。

 姉さんは「あなたたち、知り合いなの?」と訝しげな顔を浮べた。

「これは返しておくよ」

 夏野さんはふと懐からあのハンカチを取り出して、差し出してくる。

 おずおずと受け取ると、ハンカチには染み一つない。

「ありがとうございます」

「桜と会っていたの、あなた?」

 姉さんは何故か不機嫌そうな顔で夏野さんに言った。

「あの夜に、会った」

 その瞬間、姉さんの顔が曇る。

「そう……」


 姉さんと夏野さんと一緒にコーヒーを飲みながら、映画の話をした。

 私が『藍の灯火』を絶賛すると、彼は何故か顔を強張らせて黙ってしまう。

 姉さんは映画の仕事をしていた関係で、夏野さんに出会ったのだと言う。

 どうしてこんな素敵な彼氏がいることを、黙っていたのだろう。

「蛍君とは……どういう関係なんですか?」

 そんな中、私はどうしてもそのことを聞いてしまった。

 その瞬間に、二人の顔が翳る。

 それでも私は言葉を続けた。

「蛍君のお父さんが有名な脚本家であったことと関係してますか?」

 夏野さんはうなずく。

「私は正太郎先生が生きていた頃、先生の家によく通っていたんだ。その時に蛍とも仲良くなった。少なくとも私は弟だと思っていたよ」

 夏野さんは青ざめた顔でそう話した。

 その時、突然姉さんが席を立ってしまう。

 彼女は唇を噛んで、真っ青な顔で化粧室に入ってしまった。

「姉さんとは……いつから付き合ってるんです?」

 夏野さんはそこでようやく笑顔を浮べる。

「二年ぐらい前かな。楓さんにはとてもじゃないけど私なんかじゃ釣り合わない」

「そんなことないですよ!」

 私は自分でも驚くほど大きい声で怒鳴っていた。

 周囲の人が一斉に振り返る。

「あんな素敵な脚本を書ける人が彼氏なんですよ? 姉さんが嬉しくないわけありません!」

 夏野さんは目を見開いて驚いていたけれど、やがて微笑んだ。

「……ありがとう」

「何の話をしているの?」

 振り向くと、姉さんが不機嫌そうな顔で私達を見つめて立っている。

「あ、えと」

 私は聞かれていたのかと慌てた。

「あなたもなんでそんな嬉しそうに、にやにやしてるのっ?」

 姉さんは夏野さんの腰を小突く。

 夏野さんは冷や汗を浮べた。


 私達は喫茶店の前で別れた。

 夏野さんが最後に言った言葉が耳に残っている。

『蛍の想いに、押しつぶされないようにね』

 どういう意味なんだろう。私への忠告?

 それでも私は止まれない。必ず真実を――。


 翌日。再び家を訪れた私に、おばさんは苦笑いして出迎えてくれる。

「昨日はすみませんでした」

 私は勢い良く頭を下げる。

「自分のことしか考えていなくて……私、ひどいことを……」

 すると、そっとおばさんは私を抱きしめてくる。

「いいのよ。こうしてまた私のところへ来てくれたじゃない」

 私はリビングに通され、紅茶とケーキをごちそうされる。

「また聞きにきたの?」

 おばさんは私の顔をのぞきこんで、笑う。

 私はうなずいた。

「本当におかしなところはありませんでしたか?」

「おかしなところはなかった。でもね、」

 おばさんは突然席を立って、一つの透明の袋を持ってくる。

「蛍が死んでいた部屋で、テーブルの上の灰皿に燃やされた跡が残っていたの」

 おばさんはその袋をテーブルに置く。

 私は思わず飛びつくようにして中を覗き込む。

 紙屑だ。端々に燃えた跡がある。

「これって、手帳でしょ? 桜ちゃん、これに心あたりない?」

 私は袋から一枚を抜き出す。

 これってもしかして……蛍君があの時持っていた手帳?

 その紙切れを見つめて、私は目を見開いた。

 そこには、あのフレーズが書かれている。

 ――たとえ死んだとしても、この想いは消えないから。ずっとこの二つの目で、君を見守っているから。

 どうしてこのセリフが?

「桜ちゃん?」

 おばさんが心配そうに顔を覗きこんでくる。

「これ、借りていいですか?」

 私は切実な目をおばさんに向ける。

 おばさんは「別にいいけど……」とどこかおびえるような視線で私を見る。

 私は今、どんな顔をしているのだろう。


 私は家に帰ると、ネットで『藍の灯火』の映画公開日を調べる。

 その手帳の切れ端に書かれた日付は、映画公開日の二年前だ。

 二つの可能性が出てくる。

 蛍君が映画が制作される前からすでにこのフレーズを知っていたという可能性。

 あの映画館でそのフレーズを新たに書き込んだという可能性。

 もし前者なら、何故蛍君は映画が公開される前から知っていたんだろう。

 やっぱり夏野さんと関係があるのかな。

 私は長いことPCの前で物思いに耽っていた。けれど、明確な答えなんて浮かぶはずもなく、私はその袋をただ頭上にかざして見つめるだけだ。


 私はその夜、映画研究会の女の子に連絡を取った。

 私が蛍君の部内での様子を聞きたいと言ったら、彼女はこう返してくる。

『なら、映画鑑賞会を開きましょう! 清水先輩が関わった作品も一つだけあるんです。それを見ながら、話すっていうのはどうです?』

 断る理由もないので、私はその申し出を受けることにした。


 その次の日は久しぶりに学校に顔を出した。

 友人達の気遣いの言葉は耳をすり抜けていくばかりで、私はずっと蛍君のことばかり考えていた。

 もう蛍君はいないんだ。涙は出ない。でも、どうしようもなく無力感が心に沈殿してきてるのを感じる。


 映画研究会の部長であるその女の子の家は高級マンションの一室だった。

 中に迎え入れられると、彼女の部屋に通される。

 すでに部員の男の子三人が集まっていた。

「桜先輩、ちわっす!」

「おい、お前なんで下の名前で呼んでるんだよ」

「いいじゃねえか、男のロマンだボケ」

 彼女の部屋には大きなスクリーンがかかっていて、映画鑑賞の為の設備が整えられていた。

 私は何故か一番前の席に座らせられる。

「それではっ、これから第四十三回映画鑑賞会を開催いたします」

「おー!」

 彼女達はどこからか缶チューハイを取り出して、ぐびぐびと飲みだす。

「先輩も一杯どうですか?」

 女の子がほろ酔いの態で、缶を差し出してくる。いや、いいです。

「制作の際に清水先輩が何度かアドバイスをくれた作品がこれなんです」

 彼女は一枚のDVDを取り出す。そこには、『裏切りの恋』と書かれている。

 私は思わず手に取って、食い入るように見つめてしまう。ここに蛍君の想いが……。

「まあ、とりあえず観てみましょう! セットスタンバイ!」

 部長が掛け声を上げると、部下三名はてきぱきと動いて設備をセットし始める。

 部屋が暗くなった。

 スクリーンに、一人の男子生徒の姿が映し出される。

 無人の教室で、一人佇むその男子生徒。

 そこへ一人の女子生徒が教室に入ってくる。

 二人の目が合う。

 その後で、ぽつりぽつりと言葉が交わされる。

 ストーリーは、一人の男の子が、恋人ではない別の人を好きになってしまうという話。

 映画が終わって、部屋が明るくなると、周囲の四人は私の顔を見てぎょっとしたようだった。

 私は泣いていた。ここに、蛍君がいるのだと思うと、どうしても涙があふれ出てくるのだ。

「えと、あの……これ使ってください!」

 部長が、ハンカチを差し出してくる。私は「ありがとう」と笑って、ハンカチを頬に押し当てる。

 すると、彼女の顔が真っ赤になる。

「部長が顔赤くなってる」

「部長はレズだ」

「こないだ電話で話したのを散々自慢してたからな」

「黙れ、お前らー!」

 部長は一人ずつ頭をはたいた後、息を切らせながら「とりあえずティータイムにしましょう!」と言う。

 私達はテーブルを囲んで、ぽつりぽつりと会話を交わす。

「清水先輩はどうしてか、映画研究会に所属していることを誰にも言うなって俺達に口止めしてたんスよ」

「あれはたぶん、オタクだと思われたくなかったからだろ?」

「いや、俺にはもっと何か深い訳があると見た!」

「あんたら、ちょっとうるさすぎ。……清水先輩は幽霊部員だったし、特に何もしなかったけど、アドバイスだけは的確で……」

「蛍君、そんなに映画に興味があったの?」

「それがよくわからないんですよねー」

 部長は紙コップを揺らしながら、首を振る。

「映画のことについても、そんなによく知ってるわけでもなかったし」

「そう……なんだ」

 どうして蛍君は私に何も言ってくれなかったんだろう。

「あ、脚本見ます?」

 部長は脚本の冊子を差し出してくる。

「部長が桜先輩に媚を売ってるぞ」

「あんなにいやらしい目で体をじろじろ見て……」

「俺らがいなくなったら、何かするつもりだろ」

「お前らは黙ってろ!」

 脚本はとにかくすごかった。これって、もうプロとしてもやっていけるほどなんじゃないの?

「この脚本を担当した子が、伏見綾って子で、無口な子なんですけど、とてもいい子で……。お通夜にも来なかったし、今日も来ていないんですけどね」

「そういえば、清水先輩って綾だけ過剰に愛でてたな」

「ああ、愛でてた」

「綾もまんざらではなかった感じだし」

 私が首を傾げていると、部長が補足してくれる。

「清水先輩は映画研究会の中でも特に綾にだけは優しかったんですよ。一番多く話していたのも、綾だったし。こんなこと、彼女に言ったらまずいかもしれないのだけれど……清水先輩のあの目。あれはマジでしたよ?」

 部長はそう言いながら、賞状を見せてくれる。

「綾と清水先輩がいなかったら、たぶんこの作品でコンクールで優勝することもなかったと思います。綾の脚本が絶賛されて、プロからの依頼もきたんですけど、彼女はそれを全部断っちゃって」

「綾ちゃんは、脚本家を目指さないの?」

 私がじっと部長を見つめると、彼女は何故か顔を真っ赤にして視線を逸らして、

「綾は文芸部も掛け持ちしているし、たぶんその気はないと思います」

 私はその瞬間、彼女の手を握っていた。

 彼女はひゃあっ! と驚いた声を上げて、顔を真っ赤にさせて私を見つめる。

「その子に会いたいんだけど、駄目かな?」

 すると、部長は目をくるくると回して、「駄目じゃないです!」と叫ぶ。

「必ずアポを取ってみせます! お任せ下さいっ!」


 部長は驚くほど早くアポを取ってくれた。明日の十時に駅前のあの時計台で彼女と落ち合うことになる。


 私は二十分前に時計台を訪れる。すると、その少女は目を閉じて時計台に背中を寄りかからせて立っていた。

 私は本当に驚く。顔の作りとか、雰囲気とかが私の姉さんにそっくりなのだ。本人が目の前にいるのかと錯覚してしまう。

 やがて彼女は目を開き、突っ立ったままの私に気付き、訝しげな目を向けてくる。

「伏見……綾ちゃん?」

 彼女はこくりと顎をうなずかせる。

 白い肌や細い顎のラインや、長い黒髪など、本当に体のパーツが姉さんにそっくりだ。

 綾ちゃんは食い入るように私の顔を見つめてきて、「あなたが、桜さんですか」と無感情な声でつぶやく。

 私がうなずくと、綾ちゃんは唇を噛んで、「行きましょう」と歩き出す。

 歩き出してからも、彼女の顔はずっと無表情で、冷たい雰囲気がにじみ出ていた。たぶん、それが元々の性格なんだろう。

 だけど、それよりも、私は彼女の顔が青ざめて、目元に隈ができているのが気になった。具合でも悪いのか……。

 私達は喫茶店に入る。

 窓側の席につこうとした時、彼女の体がふらついた。私は慌てて支える。

「だ、大丈夫?」

 私が彼女の顔をのぞきこむと、彼女は顔を背けて、「大丈夫です」とつぶやく。

 席についてからも、彼女はしきりに指をさすっていた。

 本当に、大丈夫なのかな、この子……。

 私はとりあえず黙っていても仕方ないので、言葉を選んで話しだす。

「綾ちゃんの脚本見たよ。すごいね、脚本家になれるんじゃないの?」

 私がそう言った瞬間、綾ちゃんは目を見開いて私を見て、顔が青ざめる。

 彼女は目を伏せて、首を振った。

「私に才能なんてありません。所詮人の手を借りなければ何も書けないような無能な人間なんです」

「ど、どういう意味?」

「それに私は、自分の夢を叶えるためには大好きな人を裏切ることも厭わない卑劣な人間なんです」

「綾ちゃん……?」

 彼女は唇を噛んで、拳を握って俯いてしまう。そして、やがて言った。

「あの脚本を書いたのは私じゃありません。蛍先輩です」

 私は目を見開く。

 蛍君が……?

「蛍先輩が私に頼んできたんです。脚本を書いたのは私にしてほしいって……私が何故そんなことをするのか尋ねたら、『ある人とだけの秘密にしたいんだ』って」

 彼女はそう言って鋭い視線を私に向ける。

「蛍先輩の秘密を握ってるのは、あなたなんじゃないですか?」

「わ、私は……」

 私は言葉を濁らせて、俯く。

 そんなはずない。私は蛍君に秘密を打ち明けられたことなんてない。

 すると、綾ちゃんは自嘲げに笑って言う。

「私馬鹿だから、蛍先輩のことが好きだから、彼と秘密を共有できることが嬉しくて……」

 彼女は目元に手の平を押し当てて、肩を震わせる。

「私なんか、蛍先輩を好きになる資格なんかなかったのに」

 私は言葉も出さずに、目を見開いて、正面の彼女を見つめる。

「私、今は小説家なんです。新人賞を受賞して、それから何度もヒット作を出しました。蛍先輩とは別の道を歩き出そうとしているんです」

 綾ちゃんが、小説家? そんなこと映研の子は誰も言ってなかった……。

 彼女はさらに机に両腕をついて、そこに顔を押し付けて嗚咽を漏らしだす。

 しかし、やがてその声も弱まっていった。

 私はそっと彼女の肩を叩く。

 動かない。

「綾ちゃん……?」

 肩を揺らしてみると、ごろんと頭が転がって、彼女の寝顔があらわになる。

 彼女は頬に涙を伝わせながら、眠っていた。

 私は眉を下げて笑うと、そっと彼女にコートをかけてあげる。


 彼女は一時間後にはたと目を覚ました。突然飛び上がったので、そっと彼女の髪を梳こうとしていた私はびっくりして飛びのく。

「い、今、何時ですかっ!」

 彼女は目を丸くして、私の肩を強くつかむ。

「じゅ、十二時だけど……」

「私、もう帰ります!」

 彼女は慌てて席から立ち上がり、駆けて行く。

「綾ちゃん!」

 彼女が戸口で振り返る。

「小説を書くのもほどほどにした方がいいよ。指、大切にして」

 私がそう言うと、彼女はふと頬を綻ばせて笑った。

 そのまま彼女は何も言わずに出て行く。

 私は彼女がいなくなってからも、ずっと戸口を見つめたまま、立ち尽くしていた。

 もしかしたら、蛍君は脚本家を目指していたのかもしれない。ふとそう思う。

 何故、あの手帳に映画のフレーズが書き込んであったのか。きっと夏野さんが関係している。


 私はその夜、綾ちゃんに電話をかけた。

『なんですか。私、今忙しいんです。切りますよ?』

「待って。今度の土曜日、一緒に映画を見に行かない?」

『土曜は無理です』

「じゃあ日曜日は?」

『全部無理ですよ。仕事なので。何の映画ですか?』

「藍の灯火。たぶん、綾ちゃんも気に入ると思うよ?」

『映画に時間を割いてる場合じゃないんです。切ります』

「本当にいい映画なんだって! 一度は観に行ったほうがいいよ!」

 すると、溜息を吐く声がする。

『わかりました。時間が空いた時に今度自分で観に行ってきます。それでいいですか?』

「う、うん……」

 ほんとは綾ちゃんと一緒に観に行きたかったんだけどな。

『あの……』

「ん?」

『私を気遣ってくれているのなら、その……ありがとうございます』

 私は思わず微笑む。

「うん。執筆頑張ってね」

 電話が切れた後で、ようやく彼が死んでから初めて心から笑えたことに気付く。

 蛍君の死を、忘れる時が来るのかな……。


 その週の水曜に、綾ちゃんは青白い顔で私のいる教室にやってきた。

「どうしたの、綾ちゃん」

 彼女は震える腕を胸に抱きしめて、悲しそうな瞳を私に向けてくる。

「藍の灯火、見ました」

「どうだった?」

 私は顔を綻ばせる。

「本当に取るに足らない作品です」

 彼女は私を睨み付けるようにして、激情を映した瞳を私に向ける。

「そ、そうなんだ……気に入ってくれると思ったのにな」

 私は肩を落とす。

「それより、夏野裕明さんと先輩は知り合いなんですよね?」

「うん、そうだけど……」

 すると、その瞬間腕を握られる。

 顔を上げると、彼女の真剣な表情とぶつかる。

「彼に、会わせてください」


 次の休日に、私は綾ちゃんと一緒にあの喫茶店を訪れる。

 夏野さんは、私の顔を見た瞬間、本当に嬉しそうな顔をして手を振ってくる。

 窓際の席につくと、彼は言う。

「いきなりどうしたのかと思ったよ。なんか美人の彼女まで連れてきたみたいだし」

 夏野さんがそう言うと、険しい顔でアイスコーヒーを啜りだしていた綾ちゃんはコーヒーを噴き出す。

 私は咽る綾ちゃんの背中をさすりながら、「冗談はやめてくださいよ」と半眼で彼を睨む。

「ごめんごめん。なんか、舞い上がっちゃってさ。本当に嬉しいんだよ」

「姉さんに言いますよ?」

 すると、夏野さんは本当に慌てた様子で「やめて!」と叫ぶ。

「君の姉さんは本当におっかないんだよ。お願いだから言わないでくれ」

 それから夏野さんは綾ちゃんに視線を向ける。

 すると、綾ちゃんは彼を睨みつけるようにして鋭い視線を返す。

「そっちの彼女が用事なんだって?」

「約束のものは持ってきてくれましたか?」

 綾ちゃんは低い声で言う。

 すると、夏野さんは苦笑して、「持ってきたよ」と一冊の冊子を渡してくる。

 綾ちゃんはそれを受け取った瞬間、顔を強張らせた。

「拝見させていただきます」

 綾ちゃんはそう言うと、その脚本を開いた。

 彼女は黙々とページをめくっていく。

 やがて、彼女の顔色が青くなっていった。

 彼女は冊子を閉じると、夏野さんにそれを返す。

「ありがとうございました」

 本当に低い、低い声だった。

 夏野さんがその声を聞いて、笑顔を凍りつかせる。

「用事って、これだけ?」

「これだけです」

 すると、夏野さんは救いを求めるように私を見る。

「あ、えと、せっかくだし、何か他にも話しましょうよ」

 私は極めて明るく声を取り繕って言う。

 すると、綾ちゃんは席を立ってしまう。

「私から話すことは何もありません」

 そう言って、店を出て行く。

「ちょっと、綾ちゃん!」

 私は彼女の後を追いかけようとして、夏野さんに振り向く。

 すると、彼は怖いほどの無表情で、「行っていいよ」と言う。

「すみません。今度、必ず埋め合わせしますから!」

「……いや」

 彼はホットコーヒーを一口飲み、言う。

「たぶん君は私と次に会う時、話なんかしたくなくなってるだろうから」

 私が不安げに彼を見ると、彼は微笑んで首を振り、「なんでもない」と言う。

「ほら、早く行って」

 私はうなずき、「すみません!」と店を駆け出た。

 往来の中を掻き分けながら、必死に綾ちゃんの姿を探す。

 ようやく彼女の長い髪が揺れるのを見つけて、彼女に近づいて、その肩をつかむ。

 彼女は無表情なその顔を振り向かせる。

「どういうことなの、綾ちゃん?」

 私は息を切らせながら言う。

「桜先輩はあの人のことが好きですか?」

 突然そんなことを聞かれて、私は顔を真っ赤にする。

「そりゃ、好きだけど……」

「こんなことを聞いたら、私のこと嫌いになりますか?」

「そんなことないよ! 私、綾ちゃんのこと大好きだもん!」

 すると、綾ちゃんは眉をぴくりと震わせて、視線を逸らす。

「とにかく人気のないところに行きましょう」

 そう言って綾ちゃんは私の腕を引いて歩き出す。

 結局あの時計台の前まで戻ってきた。

 ベンチに腰を下ろして、私はまっすぐに綾ちゃんを見つめる。

「たぶん、桜先輩が一番真実を知りたいと思ってるから……だから……」

 綾ちゃんは決意を滲ませた表情で私を見返す。

「……蛍先輩を殺したのは、夏野裕明さんです」

 私は冷水を浴びせられたように目を見開く。何を言っているの?

「私は蛍先輩が生きていた頃、彼に完成した脚本を見せてもらったことがあります。その中の一つに、藍の灯火と同じ作品がありました」

 彼女はそこで悲しそうに目を伏せて、自分の腕に爪を食い込ませる。

「夏野裕明さんは、蛍先輩の作品を盗作したんです」

「え……?」

 私の頭の中に、無数のノイズが溢れ出す。

 盗作……盗作って言った?

「蛍先輩が何に苦しみ、そして死んでしまったのか、これでわかったでしょう?」

 私の口からはどんな言葉も出てはこなかった。

 ただ、唇を強く噛むあまりに、口の中に鉄の味が広がるだけだ。

「桜先輩」

 何度も綾ちゃんが呼びかけてくる。けれど、私は足元を見据えたまま、動かなかった。

 すべてがつながった気がする。

 けれど、つながったからといって私はどうするのだろう。復讐に身を浸す? それともすべてを許すか。

 どれも違う。私が今しなければならないことは――。



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