勉強を見てください
「どうして人間は全てを知りたがるんだろう……」
「…………」
目の前で茶髪の美少女が頬づえをついて遠くを見ながら呟く。
「全てを知った人間がそんなに偉いのかな……。人間の欲はそうしてどんどん深くなる……」
「莉子ちゃん……」
「xの値が分かってるならそれで充分じゃない! どうしてそれで満足出来ずにyの値も知ろうとするの!?」
ダンとテーブルが叩かれる。言っていることはかっこよく聞こえてしまうが今彼女のしていることはただの現実逃避だ。
テーブルの上には開かれた教科書とノート、そして解きかけの方程式。
奈緒美と莉子は数週間後に控えた定期テストの勉強会の最中だった。
ちなみに奈緒美の前には英語の教科書が開かれている、
「そんな難しいこと考えるより目の前の問題の方が大事だと思うけどな、私は。分かんないとこは教えてあげるからさ」
「うぅ、奈緒美ちゃんが言うなら……」
兄である武夫と結婚し義姉になってくれと衝撃の告白をされた日から数日が経った。あの日から莉子との距離はぐんと近づいた。
顔を合わせば笑顔で手を振ってくれるし、何でもないようなことを報告するメッセージが届くこともある。
見た目はギャルになったものの不良にはなっていないようでホッとしたことは記憶に新しい。そして何度か会ううちに中身は奈緒美の知っている莉子のままだと分かった。
「ねぇ奈緒美ちゃん、少し休憩しない?」
奈緒美の言葉でやる気になったのかと思えばすぐに飽きてしまったらしくペンを置いてテーブルの隅に置いてあるお菓子に手を伸ばしている。
「さっき始めたばっかだよ。それに莉子ちゃんから誘ったんでしょ」
「だってこんなの解けないよぉ」
「じゃあ一旦他の教科やったら?」
この勉強会も莉子の提案だ。『次のテスト数学ヤバいよ~。勉強教えて~』というようなメッセージが莉子から届いたのは今朝の話だ。数学は得意ではなかったが苦手と言う訳でもなく中学生の内容なら自分でも教えられるだろうと快諾した。
するとすぐに『ありがと。放課後家に来て!』と返信がきて急きょこの勉強会が決まった。
「うーん、歴史と理科は暗記するだけだし……。国語も全部ノートから出るって言ってたから前日でいいかなぁ。あたしも英語やろっかな」
他の科目の教科書を代わる代わる手にして最終的に英語の教科書を広げる。奈緒美にとって信じられない発言をしながら。
「え、暗記前日で間に合うの……?」
「? 普通じゃない?」
「そんなことないよっ」
サラリと答える莉子に驚愕する。まるで自分の方が変な事を言っているようだ。莉子はきょとんとした顔でこちらを見ている。
奈緒美は暗記が大の苦手だった。そのため公式を覚えさえすれば数字を当てはめるだけの数学の方が得意だったが莉子は逆らしい。
「秘密道具的なパンとか使ってるわけじゃないよね……」
「奈緒美ちゃん何言ってるの?」
パラパラと英語の教科書を持て余しながら莉子は怪訝そうに見つめてくる。暗記が出来るパンがあるなら漫画を買うのを我慢してなけなしのお小遣いで買うのに……それが本音だ。
彼女は自分のことを好きだと言ったがこんな自分のどこを好きになったのだろうと不思議だ。
「でも暗記が平気なら数学もいけると思うんだけどなぁ」
「だって数学は教科書とか問題集と同じ問題って出ないじゃん」
「そりゃそうだけど、てか同じ問題が出たとしても私は気付かないかな……」
「奈緒美ちゃんってホント暗記とか、人の顔覚えるのとか苦手だよね」
「えへへ……」
気のせいかもしれないがそういった莉子の顔は少し寂しそうに見えた。
笑って誤魔化すが莉子の言う通りだ。興味のないことには一切興味がなく漫画のキャラならすぐ覚えられるのだが人の顔を覚えるのは大の苦手だった。
チラリと莉子の方を見ると綺麗にまとめられたノートが目に入る。苦手だと言っていた数学のノートも見やすく成績が悪い人のノートとは思えない。
「ねぇ、数学ヤバいって言ってたけど具体的に今まで何点くらい取ってたの?」
「他は八十点取れるけど数学だけは六十点代」
点数を言うのが嫌だったのか少しムッツリとした顔で教えてくれる。
だがその点数も奈緒美の考えていたものと違った。
「ふ、普通じゃん……」
この子、こんなに頭良かったっけ……。ヤバいと言っていたので赤点ギリギリの三十点代やもしかして一桁なのかもと思っていたがそんな心配は無駄だったらしい。
「そうかな?」
「他の教科と比べたら低い方だと思うけど、悪い方ではないと思うな」
「ありがと、でもやっぱいい点取りたいんだ」
「あ、そっか。受験もあるもんね。高校はもう決めてるの?」
莉子は中学三年生で今年は受験が控えている。少しでもいい点数を取っておきたいと思うのは当然だろう。
「うんっ。奈緒美ちゃんと同じとこ!」
「えっ……」
奈緒美の通っている高校は市内の公立高校の中でもレベルが高いわけでも低いわけでもない。奈緒美は特にやりたいことなどなく自分でも入れるかもという理由で今の高校を受験した。
しかし莉子ならもっとレベルの高い学校を選ぶことが出来るだろう。普段の授業態度は奈緒美には分からないが真面目な莉子のことだ。今から髪の毛を黒くしてスカート丈も直せば文句のない優等生だろう。
「なんでっ? 莉子ちゃんならもっといいとこ入れるんじゃないの」
「だって……奈緒美ちゃんと一緒に通学とか、してみたいもん……」
「でも勿体ないよ。同じ高校でも一年しか一緒にいられないんだよ」
莉子が高校一年生になるとき奈緒美は三年生。一緒に過ごすことの出来る期間は一年だし高校生になれば莉子も仲の良い友達を作って奈緒美より友人を優先するようになるだろう。
「そうだよね……。頑張っても、一年しか一緒にいられないんだよね……」
寂しそうに、頬杖をつきながら遠くを見て呟く。奈緒美に返事をしているというよりも自分に言い聞かせているようだ。
なんと声を掛けていいのか分からなくなる。もちろん莉子を一緒に通学したり校舎で顔を合わせたりしたら楽しい学校生活になるだろう。しかし彼女はもっと高い所を目指せるはずだ。その可能性を自分のせいで潰してしまうのはもうしわけない。
「あ、別に莉子ちゃんと同じ学校が嫌だって訳じゃなくてね……。えっと……」
「分かってるよ。奈緒美ちゃんはあたしのこと考えてくれてるもん」
「なら、いいんだけど。あ、あとさ……髪の毛とかもそろそろ戻した方がいいと思うよ……」
流石に偉そうだっただろうか。気分を害してないかとそっと莉子の顔色を伺う。
「うーん……そんなことよりさっ! 今は取り合えず数学頑張るからいい点取ったらデートしてよ!」
「で、デート?」
「うんっ。志望校とかまだもう少し時間あるしさ。今はとにかく目の前のテストじゃん。どこの高校も行けるように頑張るからさっ。デートしてくれるよね」
「う、うん……」
「やったぁ! 約束ね!」
デートと言っても普通に遊ぶだけだろう。思わず頷いてしまった。けれど目の前の莉子はたった一言の奈緒美の返事ではしゃいでいる。
その様子を見て自分のために頑張ってくれるのだと嬉しくなってくる。一緒に出掛けるだけでこんなに喜ばれるならデートくらい大歓迎だ。きっと莉子なら簡単にいい点数を取ってしまうのだろう。
――なんかすごく可愛い……
「うん、楽しみにしてるね」
思わずこぼれた笑みとその言葉は今の奈緒美の本心だった。