オレ様系離婚届
12月中盤です。
目が覚めると、目の前には神妙な顔つきの女性がいた。
僕はどうしたんだろうと思い、手を差し出そうとするが何も動かない。
あれ?どうしたんだろうと思い視線を動かすと・・・
そこに見えるのは白い紙だけ。
いつものように僕の手や体が見えない。
どうしたんだろうと思い体を動かそうとするが、何も動かない。
そう、動けないのだ。
ただ眼球?、視線を動かす事しかできない。
なんで、なんで、なんで僕が動けないの?
そう認識をした瞬間、心が泡立ち、どうでもいい場所が気になり始める。
紙のはしっこが気になる、隅が気になる。
でも、そこに触れることは出来ない。
心に沸き起こった衝動を満たすことが出来ず、溜まっていくエネルギーが心をじわじわとつついてくる。そのささやかな刺激が次第に大きくなり、心を狂わせる。
なんで、なんで、こんな事になってるんだ?
僕、僕はどうなってるんだ?
なんで紙き切れになってるんだ?
僕は昨日まで人だったはず、朝起きて会社にいき、帰ってご飯を食べて寝る。
そんな普通の生活をしていたはずだ。
そんな僕が、なんでこんな事になってるんだよ・・・・
自分の体が自分の思い通りに動かない不快感に心が痒くなるが、その疼きを癒すことが出来ず、ただそれが肥大化していくだけ。
夏の夜の寝苦しい夜の痒さとは比較にならないこの心の動き。
その思いに触れることは出来ないし、解消することも出来ない。
ただ、その気持ちが目まぐるしく膨らんでいくのを感じるだけ。
どうすれば、どうすれば?
一体どうすれば?
この衝動、心の中で暴れまわる気持ちを断ち切ることが出来るのか?
「・・・」
「・・・」
「・・・」
そうだ、そうだ、この思いを気にしなければいいんだ。
何も感じないようにする。
気にしない、気にしない、そう念じて耳と心を閉ざす。
僕は悪くない、何も悪くないんだ。
そう、僕は何も悪くない、悪くない。
良く分からないけど、世界が悪いんだ。
そう、世界が悪くて、僕は正しいんだ。
そうして夜が過ぎて行った。
□
次の日の夜。
今日は大変だった。
いつのまにか寝ていたのか、目覚めると心の泡立ちは消え、俺は清々しい気分だった。
昨日までの弱弱しい僕は消えて、今日から俺だ。
昨日は俺自身の事で精いっぱいだったが、今日も机の上に載っている。
そんな俺を見ている目の前の女は、離婚しようとしているらしい。
なんで分かるかって?それは、俺が離婚届だからだ。
目を頑張って動して自分の身体(紙)を見ると、そう書いてあるんだから多分そうだ。
実際には見たことがないので確信はできないが、多分あたっていると思う。
そうでなければ、こんな紙切れ一枚に目の前の女性は注目しないだろう。
彼女は、机の上の俺をずっと見たまま、ペンも持たず、とうとう何もせずに寝てしまった。机の上に頭を乗せて、寝落ちと言うやつだ。深夜に一度起きてそれに気づき、ベッドに入り直し、朝になると出ていった。
彼女が夜帰ってきて俺を見る。
何時間をボーっと見て寝落ちし、そして朝になると部屋を出ていく。
そんな生活が一週間続いた。
初めはすぐに飽きて三日ぐらいで俺を見なくなるだろうと思っていたけど、それは変わらない。神妙な顔つきでただ俺を見るだけ。
見つめられることに初めはドキドキしたが、一日すれば慣れた。
それより、彼女のうじうじとした態度に腹が立ってきた。
さすがに一週間も俺を見つづけて何もしないのはおかしいと思う。
あの女、俺がびしっといってやらないとな。
僕から俺に進化した俺だ、女の一人ぐらい、厳しくいって根性叩き直したるわ。
ああいう、うじうじしているのが一番イライラする。
っと思えば、ちょうど彼女が帰宅したようだ。
チラリと見えた社員証で知ったが、名前はアミというらしい。
俺はさっと、力を抜きスタンバイする。
これまで秘かに実験して分かったのだが、力を入れると僅かに紙をプルプルさせることが出来る。よく見ないと分からない程度だが、そのプルプル振動を利用すると、ほんの少し移動することが出来たりもする。その反面、ものすごく疲れが溜まるが。
彼女が机の前の椅子に座ると、その動作に合わせて漆の様に艶やかな黒髪が揺れる。綺麗な髪だと思ったが、そのことは今はおいておこう。
今日もまた、彼女は机に座って離婚届を、つまり俺を見つめるだけ。
机の上にあるペンに触れず、ただぼーっと見ているだけ。
そんな彼女を見ていると、無性にいいようのない衝動が心の中に生まれる。
試にプルッと震えてみる。
だが、彼女は気づかない。
しょうがない、もっと激しく動くか。
体中に力をいれ、精一杯プルプル震えた。
「え、・・・何、何?」
彼女が目をパチパチとさせ、俺を見つめる。
どうやら成功だ。
振動しているのは俺の幻覚、もしくは眼球?かもしれないと思ったが、そうではなかったようだ。良かった、良かった。
「やっと気づいたか、アミ」
「?」
彼女は部屋の中に誰かが隠れているとでも思ったのか、頭を振って周りを確認している。
俺の方を見ず、必死にいるはずのない誰かを探している。
まさか、離婚届けが話しかけてきているとは思わないだろう。
「どこ見てるんだよ。こっちだ、こっちを見ろ。本当にとろくさいな」
彼女は恐る恐る首を回すと、俺に目を止める。
目を見開き、唇を僅かに開きながらこちらを見ている。
「どうだ、俺だ、離婚届様である俺が話しかけてるんだよ」
「え?何、何?」
「それしかいえね~のか。ったく、世話が焼けるぜ。俺だよ、俺」
彼女が徐に手を伸ばし、俺に触れる。
「お、おい、触るんじゃね!手、放せよ」
ビクッと彼女の手が震え、直ぐに手を引っ込める。
彼女は胸の前で手をもてあそび、やや引き気味だ。
「・・・ごめんなさい」
「いきなり男の体に触れるとか、お前、本当いい性格してるぜ」
「・・・」
「別に怒ってねーよ。それより、何で俺を見たまま何もしないんだよ。離婚したいならささっとすればいいじゃねーか。したくないなら、毎日見る必要もないだろ」
「なんで、紙が話してるの?」
それは俺も知らないが、アミに知らないという事がばれるのが嫌だった。
何故だか、目の前の彼女に侮られるのだけは避けたかった。
「んな事どうでもいいだろ。よくあるだろ、物に魂がやどる事が。それの一種だ。アミが熱心に紙切れ見てから俺が呼ばれたんだよ。多分」
「・・・そうなんだ」
彼女は頭をかしげて俺を見るが、その表情に恐怖の様なものはなく、たいして驚きがないのが逆に怖くなる。
いや、離婚届になって話している俺の存在の方が怖いけどね。
「それより、なんで毎晩俺を見てるんだ。離婚したければすればいいだろ」
「簡単に言わないでよ!」
今までの声とは違い、力強い声が部屋に響く。
その声質の違いに驚く。
今まで怯えていた女が急に強く出たのだ。
「わ、悪かったよ。そんなに怒鳴ることないだろ」
「えっと・・・ごめんなさい」
「謝るなよ。そういう嫌いだ」
「・・・」
しゅんとした表情の彼女。
その悲しげな表情が庇護欲なようなものを抱かせる。
「それで、どうして俺を毎晩見てるんだよ。何か理由があるなら俺に言えよ。どうせ俺は紙ペラだ。他の奴にも話す事もないから安心しろ」
彼女は俺を値踏みするように見る。
数秒後、何か決心をしたのか、肩をひょこっと動かす。
「やっと話す気になったか。ほら、早く話せよ。紙でも忙しいんだ」
「急かさないでよ。今、話すから」
「それで、何だ?」
「実は、好きな人が出来たの。会社の先輩なんだけど、一緒に仕事している内に彼の事を知って、始めはただ、良い人だと思ってただけなんだけど、気づくと目がいくようになって・・・」
「ったく、いきなり口を開いたかと思えばのろけかよ、根暗女」
彼女は一瞬頬をピクっとさせ、俺を持ち上げる。
宙に浮かされたことにより体が無重力に支配され、ひゅんとした冷たい空気が心に流れ込む。
「お、おい、何するだよ。下ろせよ、ばか、ばか、宙にあげるなって」
「それなら、根暗女って言わないで。そういうの嫌いなの」
「分かった。分かったから、早く降ろせよ」
彼女はさっと俺を机の上におろす。
ふぅ~、一安心。机の温かさが紙に染み入る。
ったく、最近の若い女はすぐ手を出しやがる、困ったものだ。
「それで、好きな人ができてどうしんだ?離婚届って事は、アミには結婚して夫もいるんだろ。そいつと別れて、会社の先輩と結婚したいのか?」
「分からない・・・だから、悩んでるの」
深刻な表情のアミ、今週何度もみたその表情。
何度見てもその表情には慣れることがなく、俺の心を揺らす。
でも、ここで一つ疑問に思った。
そういえば、アミの夫も子供もこの部屋では見たことがないし、声すら聞こえない。その気配すらない。
別居でもしているのだろうか?
「アミ、今、夫とは別れて暮らしてるのか?」
彼女は目をそらすが、
「・・・うん」
っと小さく答える。
消え入るような弱弱しい声から、彼女の葛藤が伝わってくる。
夫の事を思い出すのも嫌なのかもしれない。
「仲、上手くいってないのか?」
「別に、そんなことないよ。夫の事は好きだよ」
「それなら、何で離婚なんて考えてるんだよ。おかしいだろ」
「だから悩んでるの」
意味わからん。
しょせん、男の俺には女の気持ちなど分からないのだろう。
んん?
あれ?
そもそも俺は男なのか?
いや、紙には性別などないだろうから、俺は以前男だったのか?
記憶を探ると、子供のころの記憶がよみがえってくる。
大丈夫、俺は男だ。
でも、断片的にしか記憶を思い出せない。
どうしてだろう?紙になったから脳みそに保存されているだろう記憶がどこかにいってしまったのかもしれない。
まぁいいか、どうせ思い出しても、今の俺にはつらいだけだ。
下手に思い出して、人に戻りたいと思って苦しむのは嫌だ。
今の俺にできるのは、一日中、机の上にのってる事ぐらいだ。
慣れてくると、ただ時間が過ぎていくのを眺めているだけでも悪くない気がしてきた。時計の秒針を眺めることも、窓の外に見える景色を眺めることも嫌いな訳じゃない。
それに、自分の紙の体を少しづつ使えるようにするという目標もある。その成長を実感するのも悪くない。
それともう一つできる事があった。そう、アミと話す事だ。
この女はいいよな、自分の体が合って、自分で動けて、自分で外に出れて。
「アミ、おら、悩みがあるなら話せよ。俺が退屈だろ。どうせ、夫とその先輩の事、両方好きで、どっちにしようとかだろ?」
「違うよ、夫の事の方が好きだから。全然、違うから」
「それなら、いちいち悩む事ないだろ。離婚なんか考えるなよ。お前の夫が可哀そうだろ」
俺はドヤって彼女に言ってやった。言いたい事を言えて大変満足だ。
あれ?でも待てよ、
それに彼女が納得してしまったら、離婚届は必要なくなり、俺はゴミ箱に直行じゃ・・・
「待て待て!アミ、離婚しない方がいいと思うが、俺は捨てないでくれ。鼻をかんだティッシュとか、ゴキブリを潰して丸めた紙クズと一緒にゴミ箱は嫌だからな!これはマジだ」
「・・・もうちょっと考えてみる」
「良かった。ありがとな、アミ」
俺の意見を聞いてか分からないが、表情を和らげる彼女。
よかった、これでボッシュ―トは免れた。
そんな彼女が俺をペンでつつくと、地味にくすぐったい。
「ねぇ、名前、なんていうの?」
名前?
そういえば不思議と意識した事がなかったな。
でも、思い出そうとして思い出せない。記憶を探っても、不思議と名前を呼ばれる場面で音声が聞こえない。
なんでだろう?
「何でもいいだろ。お前が決めろよ」
「そうなんだ・・それじゃ、リコ君ね」
「おい、やめろ!そんなかわいい名前にするんじゃね!」
「それなら何がいいの?」
名前か・・・
ダメだ何も思いつかない。
おかしいな、考えようとすると霧の様なものに包まれて思考が霧散していく。
他の事なら考えられるのに。
「なんでもいいよ。そうだな・・リコでいいや。でも、君づけはやめろ。リコ様なら許す」
「それじゃ、よろしくね、リコ」
俺の言葉をするっと無視したアミ。
本当、いい性格してるよ。
でも、不思議と彼女に嫌悪感を抱くことはなかったし、逆に親しみの様なものを覚えた。
久しぶりに誰かと話したからかもしれない。
「あぁ、後、夜はちゃんとベッドで寝ろよな。俺に涎垂らされると困る」
俺の言葉を受けてか、今日は机の上で寝落ちすることなく、彼女はベッドに入って就寝した。
俺はその姿をしばらく眺めた後、いつも通り寝た。
そう、紙になった俺にも何故か睡眠が必要らしい。生物学的には必要ないだろうから、癖みたいなものかもしれない。
今日は、良い夢がみれるといいな。
■
それから数日は、アミとたわいない話をして過ごした。
アミしか話し相手がいないためか、俺は彼女と話すのを楽しみにしていた。
「早く帰ってこないかな~」っと、彼女の帰宅を心待ちにしながら、自分でも動けるように筋トレもどきをし、プルプル震える時間を徐々に伸ばしていった。
ガチャっとドアが開く音がし、アミが部屋に入ってくる。
だが俺は気づかないふりをする。
ここで挨拶などしようものなら、まるでアミが帰ってくるのを心待ちにしていたみたいだ。そんなドアを開けた瞬間全力でダッシュし、飼い主の足に纏わりつく忠犬のようなマネだけはしたくなかった。
「リコ、ただいま」
「・・・」
「リコ?」
「・・・」
彼女が上着を脱ぎハンガーにかけると、俺を見ながら頭をかしげる。
「リコ?」
「んん・・・あっ、帰ってきたんだ。おかえり」
時計を見ながら今か今かと心待ちにしていたが、そっけない声で、今起きたような風を装う。いつもより彼女の帰りが遅いせいか、ちょっと心配していた。
「おい、アミ。今日、どこかに寄ってきたのか?」
「スーパーに寄っただけ」
「本当か?」
「なんでそんなこと聞くの?」
「いいだろ。聞いちゃいけないのかよ」
「別にいいけど・・・」
「そうか、それなら、あれやってくれよ、あれ、早く」
「後でね」
っち。最近気づいたけど、だんだんとアミの態度が適当になってきた気がする。
初日は丁寧に俺に対応していた気がするが、段々と俺を紙だと思って侮っている節がある。しかしそんなイラだちを覚えても、今の俺はプルプル震える事しかできない。
「おい、早く」「早く」「早くしろよ、のろま」っと連呼していると・・・
その嘆願が届いたのか、アミが小型の扇風機もどきを机の上に置きスイッチをいれる。すると、机の上に置かれた重しで固定された俺がヒラヒラと揺れる。
心地よい風が紙を揺らし、全身がふにゃけるような感触が気持ちいい。
数秒後、
「はい、おしまい」
その声と同時に風が止まり、身体を包んでいた感触が消える。
「おっ、おい、何すんだよ。もうちょっといいだろ」
「だめ、風邪ひくでしょ」
「待てよ、俺がどうやって風邪ひくんだよ。風呂の中にでも沈めない限り大丈夫だろ。ま、まさか、そうするんじゃねーだろうな。そんな事したら、許さないからな」
「だめなものはだめ。それに、そうやってプルプル震えても無駄だから」
俺の抗議のプルプル運動まで否定された。
すっごい疲れたのに。
やっぱりこの女、いつのまにか図に乗り出した。
初日のあの可愛らしい、びくついていた女の影は跡形もない。本当に同一人物かよ。
わざわざ、「俺が精神を叩き直したる!」っと思わなくても良かった気がしてきた。
「なぁ、頼むよ、アミ。お願いだよ。アミにしかできないんだ。アミならやってくれるだろ。なぁ」
「ちょっと、気持ち悪い声出さないでよ」
くっ、俺一押しの懇願が聞かないとは・・・
まぁ、今日は諦めるかな。十分な微風を受けることが出来た。
「分かったよ。それで、今日はどうだったんだ。又、課長に嫌味でもいわれたのか」
「うん、そうなの・・・ets」
アミの愚痴を聞きながら、適当に相槌をうった。
退屈なせいもあってか、どんな話でも面白く感じてしまうが、毎日同じ話を聞かされるとさすがに飽きてくる。よく同じ職場で働けると感心する。
そういえば、アミとはあれから離婚を考えていた夫の話も、好きだという先輩の話もしていない。彼女が意識的に避けているようなので、こちらからその話を聞くのはやめていた。
でも、それはやはり逃げてはいけない問題だろう。
いつかは決着をつけなければいけない問題だ。
彼女がとめどなく話しているが、それを遮る。
「なぁ、アミ。言いにくいかもしれないけど、やっぱり、離婚はやめるのか?」
ピタッと彼女の口が止まる。
しゅんとした表情になり俺から目をそらす彼女。
「前にいってたろ、夫の方が好きって。それならしないほうがいいだろ。他にも金とか親族とか色々な要素があるんだろうけど、やっぱり、気持ちを優先した方がいいんじゃないか。まぁ、紙の俺がいっても説得力ゼロだけどな」
「・・・うん。やっぱり・・・やめようと思う」
そう告げる彼女の顔は、決して明るいものではなく悲しげで、その決断に対して満足していないようだった。
そんな表情に気づきながらも、その事を掘り下げるのはやめておいた。彼女のその部分には触れないでおこうと思った。
「そうか、それならそんな顔するなよ。後、間違っても俺をゴミ箱に捨てないでくれよ。でも、夫には見せたくないだろうから隠すぐらいはした方がいいと思うけどな。こんな風に机の上に置くんじゃなくて。あっ、でも、俺は暗くて狭い所は苦手だから、場所はちゃんとした所を選んでくれ。日辺りは大事だ」
「大丈夫だよ。この部屋に夫はこないから」
「そうか・・・」
何故だかその言葉がすぅーと心の中に入ってきた。
■
そんな彼女との生活が1カ月続いた。
すると、なんと、俺はとうとう動けるようになった。
プルプルと震えて自由自在に移動できるようになったのだ。
四方に動く事も出来るし、空だって飛べ、イメージとしてはドローンみたいな感じだ。
アミには秘密にしながら、毎日やっていた筋トレもどきの成果だ。
俺はその喜びを爆発させるかのごとく、部屋の中を縦横無尽に飛び回った。
風を切りフワフワと宙を舞い、自分の意思で動ける自由を噛みしめた。
人であったときには体験できないだろう感覚を楽しんだ。
すると、コツンっと本棚の本にぶつかり、何冊かの本が床にチラばった。
「やっちまった。アミに怒られる」っと思ったが、本の中から出てきた一枚の写真に目が留まった。
そうして、すべて理解した。
■
その夜。
アミがいつものように帰ってきた。
「リコ、ただいま」
「おかえり」
上着を脱ぎハンガーにかけ、椅子に座る彼女。
彼女は椅子に座りながらも、視線を床に向ける。
「あれ?本落ちてる」
「悪い、俺が動いて落とした」
俺の言葉を受け、口を僅かに開け、白い歯を見せながら顔を硬直させる彼女。
「リコ・・・動けるの?」
「あぁ、こんな感じにな」
アミの前で宙に浮き、ヒラヒラと左右に動くと、彼女は俺の動きに合わせて目線を動かしながら固まっていた。俺の動きに心底驚いているようだ。
「そんなに目を大きくするなよ。それより・・・話がある」
「何?そんな真面目な声出して。新しい扇風機の件ならまだ待ってよ」
茶化すようにスマホをいじる彼女。
アミが好きな、ツムツムしそうなゲームをやっている。
「違う、今すぐ離婚しろ」
「え?急に・・何」
彼女はスマホから顔を上げて、震える瞳で俺を見る。
その瞳の揺れは、信じられないようなものを見るような目つきだった。
まるで意識していなかった言葉だったからかもしれない。
「俺に書け。とにかくそうしろ」
「なんで・・・そんな事言うの。離婚しないっていったでしょ。それに、離婚しない方がいいって、気持ちを大事にしろって、リコも言ってくれたのに」
「あれは嘘だ。離婚して、前に言ってた会社の先輩でもいいし、他の人でもいいから新しい人見つけろ。それと、俺はお前が嫌いだから、捨ててもらって構わない」
「急にどうしたの?扇風機つけてほしいの?」
彼女が小型扇風機に手を伸ばそうとするが、俺が動いて彼女の手の動きを妨害する。
俺の体が彼女に手に触れると、その動揺が脈拍から伝わってくる。
「なぁ、アミ、夫をこの部屋に一度でもいいから連れてきてくれないか?」
「それは・・・できないよ」
「なら、今から電話して、声だけでも聞かせてくれ」
「それも・・・できない」
したくないではなく、嫌だからではなく、できないという答え。
その答えが全てだった。
彼女が下を向き、その顔が髪の毛で隠れる。
表情は見えないが、明るかった雰囲気が一気に暗くなったのを感じる。
「アミが夫の事を好きな事は分かるけど、いない奴の事は忘れた方がいい」
「・・・」
彼女は僅かに顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見る。
俺の言葉の意味を彼女も理解したのだろう。
彼女が、気づかないように、意識を向けないようにしていた事だろうが、やっぱり
言わなければいけないと思った。すべてを理解した今となっては。
「・・・いつ、気づいたの?」
ただ、その一言を呟く彼女、その声が静まり返った部屋に響く。
彼女のそのたった一言の中に、複数の意味を感じる。
でも俺は全てには答えない、一つだけに応える。
全てに応えるのは、彼女のためにならないと思ったから。
「今日だ。それに前々からおかしいと思ってた。アミが言う事はちぐはぐしてた。でも、それに気づかないふりをしてたけど、今日、本の間にあった写真を見て、全て分かった」
俺は机の上の本棚に隠していた写真を取り出して彼女に見せる。
それは昼間に落とした本に挟まっていた写真。
彼女はその写真を懐かしそうに見つめる。
その写真には男女の姿、アミともう一人の男の姿。
「その写真、そこに合ったんだ。ずっと探してんだけど見つからなかったの」
彼女が写真を手に取り、大事そうに指で触れる。
その手触りから彼女の気持ちがまだ残っていることを感じる。
「アミ、夫は死んだんだ。それならとっと新しい人見つけて幸せになればいいだろう。離婚届は書かなくても、死亡した瞬間に婚姻関係が解消される事ぐらい知ってるだろ。けじめのために書きたいなら、今すぐ書け」
「・・・」
「後、俺は明日出ていくから。動けるから、後は一人で暮らしていける」
彼女がはっと顔を上げて俺を掴もうとするが、すっと俺はかわす。
彼女の指が宙を切る。
「だめだよ、リコ、外は危ないよ」
彼女は伸ばした手の指を力なく動かしたまま、固まっている。
「なぁ、アミ。俺はリコじゃない。もう気づいてるんだろ。俺も記憶を思い出した。写真を見た瞬間に」
「・・・分かってる。リコは・・・隼人でしょ」
「そうだ。僕は隼人だ。アミの元夫だ」
「やっぱり、途中からなんとなく気づいてた。どこか似てるんだもん」
やはりアミも気づいていたようだ。
思い起こしてみると、そんな挙動が随所に合った。
普通、紙が話しても1カ月も相手にしないだろう。それに、すぐに僕とアミは打ち解けた。そのやりとりに親近感を感じていたが、その正体がなんなのか写真を見て分かった。
ずっと、繰り返してきたやりとりを再び再現したからだ。だからこそ、心地よい温もりなようなものを感じた。
でも、思い出したからにはここにはいられない。
この世界は、死人がいていい世界じゃない。
「明日の朝には出ていくから。それに多分、もうすぐこの世からも消える。そんな感じがする。でも、少しでも会えてよかったよ」
「もうすこし傍にいてよ、せっかく、せっかく戻ってきたんだし」
「それはよくないだろ。多分、アミを前に進めるために戻ってきたんだと思う。だから、最後のお願いを聞いてほしい」
「・・・」
「僕に書いてほしいんだ。離婚届にサインしてほしい。僕の分は書いたから」
すると、紙面に僕の情報が付与される。
記憶が戻った瞬間にできるようになった能力。
文字が浮かび上がり紙に印字される。
多分、ここに彼女がサインしたら、僕がどうなるかは想像がついた。
でも、そのためにこの世界に戻ってきたんだと思った。
彼女の思いを断ち切り、区切りをつけるために。
だが、彼女は僕を見たまま固まっているだけだ。
「なぁ、アミ、書けばもう少しこの世界にいれると思うだ。だからお願い」
推測とは反対の言葉を述べる。そういうべきだと思ったから。
それにアミも、この言葉の意味は分かっているだろう。
「アミは僕がいなくてもやっていけるさ。ここ一カ月生活してそう思った。机の上の紙相手に話すよりも、他の人と仲良くなりなよ」
「・・・うん」
彼女の瞳から涙か零れ落ち、僕の紙を濡らし、その滴が体に染み込んでくる。
彼女がサインし始めると、体が、魂がこの世界から薄れていくのを感じる。
存在感が希薄化していき、意識が薄くなっていく。
彼女が全て書き終えると、後はハンコだけになった。
たった一枚の紙を書くだけなのに、かなりの時間が経ったような気がする。
それとも、時間の流れがゆっくりだったのかもしれない。
彼女が印を持ち、僕を見つめる。
だが、中々その手が動かない。
しょうがいない奴だ。最後まで面倒かけやがって。
僕は紙のはしっこを動かし、彼女の手に触れる。
「早くしろよ。それができれば、きっと前に進めるさ。例え今まで通り話せなくなっても、ずっと大事に思っているのは変わらないから」
「・・・でも」
紙で彼女の手を撫でる。
意識がかなり怪しくなってきたためか、そこに感触は無い。
彼女の手が印を掴んだまま動かない。
「でも、でも・・・やっぱり」
「いつもいってたろ。そういうの嫌いだ」
その言葉で揺れる彼女の指。
これなら、大丈夫だろう。
「それじゃ、アミ、元気でな」
「うん・・・隼人もね」
そういってアミが離婚届に印を押すと、僕の意識が消えた。
そこに残ったのは、ただの紙切れだった。
【エンド】
1万字に収めるようとしましたが、超えて・・・