橋場英男の場合 39
第三十八節
その後、橋場はショッピングに付き合わされた。
外見的には完全にデートそのものだった。
上機嫌のお姉さんは腕を絡ませて執拗にいちゃいちゃして来るので困った。感謝してくれてるってことなんだろうが。
もう夜の八時に迫っていたが、逃走用の衣類ってことで、幾らなんでもセーラー服では補導してくれと言っている様なものなので、もう少し普段着めいた服を何着か買った。
ミリお姉さんは膝下十センチ以上はありそうなロングスカートにゆったりとした上着を購入した。
長い髪が大きく広がるのに加えて下に行くほど広がるシルエットが実に女性的で尚更美しかった。
その後JRの駅まで引っ張って行かれた。
橋場は余り詳しくないので知らなかったが、今から夜行電車が出ているらしい。
どうやらひとまず生まれ故郷の田舎に帰る様だ。詳しいことは聞かなかった。お姉さんも話そうとしなかった。
慣れた手つきで大量の乗り換えがある切符を次々に購入する。
「じゃあ、これでお別れだね。本当にありがとう」
「こちらこそ」
「もう感謝の言葉をこれ以上伝えきれないわ」
「充分です。アドバイスももらったし」
「…よかったらお別れのキスしない?」
さらりと淀みなくそのセリフは出てきた。
「え…」
「こんな男女のキスじゃ嫌かしら」
橋場は少し考えて絞り出す様に言った。
第三十九節
「お姉さん…ボクからもアドバイスです」
「うん。教えて」
「この能力を得てから…ここだけの話、数えきれない男を女にして退治して来ました。でも、こんなに有効に使えたことは初めてです」
「ええ」
「予感ですけど、多分これからもこの能力は必要とあれば使うと思います」
「そうね」
「そんな人間が言うのもおこがましいんですけど…どうかお姉さん、もう男だったことを卑屈に思ったり、ギャグにしないでください」
「え…」
「男女とか、オカマだとか…もうお姉さんは頭のてっぺんからつま先まで、遺伝子から何から完全に女性なんだから、女の人として普通に幸せになってください。そういうこと言わず。…お願いします」
お姉さんはしばらく橋場を見つめていた。
その目から物凄い勢いで涙が溢れ出し、目に溜まって行く。
飛び込む様に抱きついてくるお姉さん。
声を押し殺しておいおい泣いている。橋場の胸が熱い涙で濡れていく。燃える様だった。
周囲の人間が「ひゅーひゅー!」などと囃している。軽く「きゃー」と言ってみる女子高生やら、眉をしかめる大人が通り過ぎていく。
橋場も抱きしめる手に力を入れた。
「ありがと」
洪水みたいに涙を流しながらお姉さんは目一杯の笑顔を見せると、そのまま踵を返して去って行った。キスはしなかった。
そして、これがミリお姉さんを橋場が見た最後の記憶となった。
(続く)