第六話
毎日生活の節々に耳に入ってくる解放を告げるチャイムによって午前最後の授業が終了し昼休みへと移行する。爽葵にとって得意な数学の授業だけあってそこまで苦ではないが、教科書の細かい文字を見続けていたので非常に睡魔に襲われていた。原因は勉強の疲れだけではないが。
「くぁ~」
大きな欠伸をしながら鞄から姉が作ってくれた昼食の入った黒いランチボックスを取り出す。
メニューはご飯にカツオのふりかけをかけたものと、焦げ目のない綺麗な卵焼き、太短いチビウィンナー、ほうれん草のおひたしに昨日の残り物である鳥の唐揚げを詰めたもの。
「お疲れだな爽葵」
コンビニの袋を右手にぶら下げて近づいてきたのは中学からの付き合いがある自他ともに認めるイケメン大久保。既に右手には封を開けたメロンパンを掴んでいた。
常に雑誌で流行の髪形や服装をチェックしているだけあってオシャレな格好をしているのだが、今は制服なのでその片鱗はアシンメトリーにされた茶色い髪だけだろう。
爽葵の前の女子がどこかへ行ったのでそこに腰かける。
「んー、色々あったからなぁ。……これからも色々ありそうだし」
「モテる男は辛いよなぁ」
「代わってやろうか? ノシつけて献上するぞ」
「謹んで遠慮しておく。お、卵焼き一個もらい」
大久保が左手で広げられた爽葵の弁当箱から艶やかな黄色い卵焼きをひょいと摘まみ、口へと放り込む。
「あ、テメ、俺の午後へのエネルギー源を! だったら、大久保のパンももらうからな」
今度は爽葵が大久保の右手に持つメロンパンに噛り付こうとするも、ひょいっと寸前のところで避けられる。もう一度体を乗り出してパンに噛り付いてやろうかと思ったが、これ以上は机に阻まれて動くことが出来なかった。考えてのことなのか偶然なのか、どちらにせよ諦めて自分の弁当に箸を伸ばすことにした。
「そういや爽葵さ。部活入ったんだって?」
「昨日の今日でどうして知ってんだよ……。まさか大久保も俺マニアか……?」
「何だよ、お前マニアって……。違ぇよ、昨日遊んだ女の子に教えてもらったの。何やらかわいこちゃんに暴漢から助けてもらった後、お持ち帰りされたそうじゃんか。どうだったんだよ?」
「どうもこうもない。拉致されただけだ。……まぁ、助けてもらったのは事実だけど」
昨日の一連の出来事を思い出すだけで疲れがぶり返してくる。
部活連中に襲われたこともそうだが、何よりもあの女子三人に関わってしまったことと流れであの部活に入ってしまったことが疲れの原因である。
「今日から部活動開始だろ。ま、自分を制御しながら頑張れよ」
「大久保じゃあるまいし……。つか、出る気はないよ。入部したからって絶対に出なきゃいけないなんて決まりはないだろ。幽霊部員に俺はなる!」
「おいおい、聞くところによると美少女ばっかりの部活だってのにもったいねぇな。ハーレム気分を味わういい機会だと思うけどなぁ」
「……だからそんなんじゃないって言ってんだろ。大久保は実態を知らないからそんなことが言え――」
ため息をつきながら最後の卵焼きを食べようと箸を伸ばしたが、そこにはあるはずのものが無かった。というより、ほうれん草のお浸し、鳥の唐揚げ、それこそ白米すらもそこから姿を消していた。
メロンパンを美味しそうに頬張る大久保にチラッと視線を送るが、そもそもさっきまで面と向かって話していた彼が爽葵の目を盗んでおかずを食べることは不可能だろう。
では、一体誰が――
「ゲホッ、しまっ……喉に詰まってしまいました……。ゲホッ、お茶を……」
と、高い少女の声が聞こえてきて、爽葵から見て机の右側からニョキっと手が伸ばされ、机の上に置かれた爽葵の黒い水筒の下部を音も無く掴む。
すかさず爽葵も上部を掴み、何者かに水筒を取られないよう自分側へと引っ張る。
すると下から「あれ、引っかかりました……? やばいですっ、そろそろ呼吸が……」と苦しそうな声が漏れた。
引っ張り引っ張られのやり取りを三回ほど続けると、どうやら下にいた少女に限界が来たらしい。もう姿を隠している暇はないといった風に立ち上がって、両手で爽葵から水筒を引っ掴むと、蓋を外して中のお茶を一気に飲み下していった。
「綾音さん、わたしが死んだらどうするんですか!」
サラサラな黒髪を右側で一本に纏めた瀬戸杏奈だった。よほど苦しかったのか顔色が普通よりも白く感じられた。
「『衝撃! 同級生の女子に無理矢理弁当を食べさせ窒息させた男子生徒!』という見出しで新聞に載りますよ!」
「弁当を許可なく食べた挙句、勝手に窒息しかけたのもアンタだろ! 勝手に地方新聞の一面っぽく表現すんな!」
「あ、間違えました」
「……何をだよ?」
「『同級生の美少女に無理矢理弁当を食べさせ――』が正しい表現ですね」
「どうでもいいわ!!」
二人の騒がしいやり取りを不穏に思ったり、面白そうだと思い始めたクラスメイトの視線が集まり出した。大久保は大久保で寄ってきたクラスメイトに事の顛末を面白半分で話している。
そんなことを気にも留めていない杏奈はまだ喉に引っかかりを感じるのか、水筒に残っていたお茶を再度口に含み、ついでと言わんばかりにまとめて残りのお茶も全て飲み干した。
ふぅ、と一息ついて濡れた口元を右手の甲で拭う。
「それはそれとしてお弁当美味しかったです。お姉様によろしくお伝えください」
「ああ、言っとくよ……って違げえよ! 俺の昼飯もうほとんどないじゃん! 午後の活力どうしてくれんだよ!」
「わたしのお弁当を差し上げたいところですが、三時間目の授業中に食べてしまいましたし……。コンビニにご飯を買いに行く時間もありません。困りましたね……」
腕組みながら目を瞑って考え込む杏奈。そもそも三時間目の授業中に早弁をかますとはいつの時代の人間なのだろうか。昭和の漫画でしかそんなシーンは見たことが無い。
呆れた顔で爽葵が杏奈の返答を待っていると、何かを閃いたように組んでいた腕を解いて指を鳴らした。そして、近くで友人とこちらの様子を窺いながら昼食を摂っていた女子生徒に近づいていく。
まさか、と爽葵の脳裏に嫌な予感が過ぎる。
「今からあなたたちにわたしたちメタモルフォーゼ部が勝負を――痛いっ!」
思考よりも体を反射的に動かしていた爽葵のチョップが杏奈の頭上にクリティカルヒットする。思いのほかいいところに決まったらしく、杏奈はその場で頭を抱えて蹲った。
しかも、わたしたちと言い切ったあたり確実に爽葵まで参戦させる気だったのは間違いない。
「悪い、コイツのことは気にしないで食事続けてくれ」
杏奈の襟首を引っ掴まえてまた自分の席へと戻る。
「痛いじゃないですか! 女の子の頭にいきなりチョップするなんて紳士のすることじゃないですよ!」
「うるせえ! いきなり見知らぬ生徒に勝負挑んで弁当奪おうとしてんじゃねえよ! だから生徒会長に目付けられんだろ!」
「ち、違いますよ。これは綾音さんへのご飯を効率よく確保するための手段です。決して奪ったお弁当を勝利報酬として半分もらおうなんて私欲で挑んだわけじゃありません」
「あんだけ食ってまだ食べたりないのか?!」
いくら成長期の食べ盛りだからと言っても栄養素摂り過ぎではないだろうか。違う部分の成長を促進しそうである。
「つか、メタモルフォーゼ部って何だよ……」
「ふふん、カッコイイでしょう。ドイツ語なんですよ。日本語に直すと変容、変身、転生といった意味があるんです。だから我が部活の目的は何かを変えることを目標にしているんです」
「それで、アンタらは生徒会長を倒して、自分たちの学園生活をより円満に送ろうって?」
「その通りです、生徒会と戦うことがわたし達の活動の大部分を占めますから。だから、いつか来る戦いのために勝負の勘は保っておかないと」
「……生徒会やその他部活の不正を正すために活動してるんじゃないのか?」
「ああ、あれですか。――嘘です」
「嘘かよ!!」
いかにも嘘くさい活動内容だなと思っていたものの、こうもあっさりと暴露されるとは。
「でも安心してください学校側にはそれで申請してますので。なのでたまにはそういう噂を辿って建前で不正を暴く勝負はしていますね」
「学校側は何してんだ!」
生徒達の代表として活動する生徒会の不正を調べて正す目的の部活を認めることの意味を学校側は理解しているのだろうか。はっきり生徒会を信用していないと言っているようなものである。過去何か生徒会にあったのだろうか。
……いや、きっと違うだろう。教師陣が杏奈達を面倒に思ったからに違いない。そう爽葵は結論付けた。
「じゃあ勝負の続きを……」
「せんでいい!」
理由はどうあれ自分の欲求を満たすためだけに理由なく私闘を挑めば否応なく風紀を乱す行為として目を付けられる。というより既に目を付けられているのに、さらに問題を起こせばこんどは廃部を迫られることだろう。
こめかみを押さえながらガミガミと説教を食らわす。
「あの……綾音さん」
するとものの十数秒で杏奈がちょこんと手を上げて何かを物申してくる。
「……何だよ?」
「さっきお茶を一気飲みしたせいでですね、お手洗いに……行きたいのですが」
もじもじと太ももをすり合わせて恥ずかしそうに申し出る。
「もし綾音さんがそういうプレイをお好みだというのなら、お詫びも込めてもう少し我慢しますけど――」
「そんな性癖ないし! とっとと行って来いよ!」
予想外の出来事に今度は爽葵が顔を真っ赤に染めて叫ぶ。顔中が熱くなっているだろうと容易に想像出来るほど耳まで全部朱色に染まっている。
クラスメイトからヒソヒソと「性癖?」「え、修羅場?」「ホモじゃないんだ」とか聞こえるような聞こえないようなボリュームでショックな話題も交じって話されているのも赤面の原因の一つか。
爽葵の説教から解放されて、そそくさく教室から出ていく杏奈が最後に爽葵を一瞥して一言、
「綾音さん、授業終わったらすぐ部室に来てくださいね。今日は大事なミーティングがありますので。では、また放課後に。待ってますからね」
と、向日葵のように明るい笑顔と共に手を振って約束を取り付けてきた。
大久保に横から肩をポンと叩かれる。
ここまで大勢の前で約束を取り付けられてしまえば簡単に部活をボイコットなど出来ないだろう。帰宅姿を見られれば、それこそまた噂が独り歩きしそうである。
「分かったよ。部活出ればいいんだろ出れば。はぁ、メンドクサ……」
「まぁ、それもあるんだけどな」
「ん?」
「昼休み終わりだぞ」
「……何しに来たんだあの野郎!!」
聞きなれた不快と愉快が織り交ざったチャイムが校内スピーカーから今回も一秒違わず時間通りに鳴り響く。
その後、午後の授業終了までの二時間、爽葵はクラスメイトから少々の飴やチョコをもらいながらも膨れない腹の音を鳴らしながら空腹を耐えたのだった。