第十六話
その日も晴天で、心地よいそよ風の吹く何かいいことが起こりそうな、そんな一日だった。
三時間目の言葉の羅列が並ぶ眠たい国語の授業を何とか寝ずに切り抜け、後一時間で至福の昼食タイムが始まる。授業終了のチャイムと共に日直が皆に号令を掛け、生徒一同がまばらに立ち上がって教鞭を振るってくれた教師へと形だけの礼を取った。
そして、生徒は十分程度の僅かな自由時間を談笑や、ゲーム、次の時間の予習や、読書などそれぞれのリラックスタイムとして有効利用する。
しかし、爽葵は教科書を出しっぱなしにしたままゆっくりと立ち上がり、話しかけてくる大久保や他のクラスメイトを無視し、教師が出て行き開けっ放しになった前の出入り口へと近づく。
忍者のように足音を立てずに出入り口へと近づいたかと思いきや、一瞬で最大加速をするエンジンを稼働させたかの如く猛スピードでどこかへと走り去っていった。
爽葵が走り去るのが早いか、後ろ側の扉が勢いよく開き黒いオーラを出す小柄な女子生徒が教室に一瞬顔を出したかと思われたが、こちらもすぐさまどこかへと走り去っていった。
「……綾音君どうしたんだろう?」
「また何かやらかしたんだろ。毎時間毎時間ご苦労なこって」
問いかけを投げた女子クラスメイトへ、苦笑いを浮かべながら大久保が返答する。
そう、大久保の言うとおり本日の登校から今までの休み時間全てで爽葵は逃走劇を繰り広げていた。
原因は昨日の続きなのだが、爽葵は爽葵で素直に謝れば済む話を「童顔でもロリ体型でも彼氏とかいないんだから気にするな!」などと混乱して口走ったからに杏奈の暴走劇が始まったわけである。
これには普段は仲介役の紗央莉も爽葵に借りが出来た香澄も、爽葵に対する呆れと杏奈のターゲットに巻き込まれる恐怖で見て見ぬふりを決め込んでいた。
しかし、誰も二人を止めずに放置しているわけではない。時折、毎時間廊下や階段を全力疾走する爽葵と杏奈の前に、行動を見かねた教師が立ち塞がるが、二人の威圧感に気圧され且つ疾走するスピードについて行けず注意すらも出来ていない状態だった。
これではいつかは生徒同士がぶつかり怪我をする危険性を孕んでいるし、不意に接触して物が壊れるかもしれない。
だからこそ、――とうとう彼女たちに招集がかかった。
「はい、止まりなさい」
爽葵が息を切らしながら階段を駆け上がった先に、ポニーテールで制服姿の眉間に皺を寄せた女子生徒が右手を前に突き出して仁王立ちで行く手を塞ごうとしている。
だが、必死で逃げている爽葵の耳には彼女の声は届かない。もっと言えば視界が極端に狭くもなっているため、誰かすら認識が出来ていない。
「私が止まれって言っているのが聞こえないの?」
真横を無言で通り抜けようとした爽葵の足を蹴り飛ばして宙に浮かすと同時に、背中を平手で叩きつけて床へ倒れ込ませた。さらに、逃げるために立ち上がろうとした爽葵の背中を躊躇することなく踏みつける。
顎や腹をしたたか打ち付けて、痛みによって爽葵の視界が広がり平常モードに戻った。
「っにしやがんだ! つか、誰だ!」
「愛しい私のことが認識出来てないってどういうことなの?」
「その声、まさか悠里か……!」
「正解」
倒れている爽葵からは見えないが、悠里と呼ばれた女子生徒、掛下悠里は呆れたようにため息交じりに返答をする。
爽葵の血色の良いピンクの顔色は一瞬にして青白い病的なものへと変化する。
このままではさらにまずい状況になると普段は全く働かない勘が告げていた。
とにかく逃げ出そうと、筋肉が引き千切れてもいいと思うほどいつになく全力で腕と足に力を込める――が、それも誰かに「どーん」という声と共に上から座られて無駄に終わる。
爽葵の上に遠慮なく座るのは長い髪を白いシュシュで一括りにし、それを右肩から胸へと前に垂らしている女子生徒。制服の上に少しだぼっとしたベージュのカーディガンを羽織るっている。
眉間に皺を寄せている悠里とは対象にこちらの女子生徒は何が面白いのかニコニコと笑顔を絶やさない。
「駄目だよぉ爽君。廊下を走るのは皆に迷惑をかけちゃからやめようねぇ」
「マジかよ……。姉ちゃんまで……」
姉ちゃんと呼ばれたこちらの女子生徒は綾音日菜。言葉のとおり爽葵の実姉である。
突如現れた馴れ馴れしく接してくる二人の女子生徒の存在に爽葵はただただ恐怖するしかない。
周囲から見れば一介の男子生徒が女子生徒二人に調教――もといイジメられているとしか思われないが、どこからか「羨ましい……」やら「僕もサンドバックにして欲しい……」やら全く爽葵意とはそぐわないマゾ発言が呟かれていた。
「……なあ、皆が見てるから体と足どけてくれない? 息もきつくなってきたし」
「駄目よぉ。だって爽君いつもそう言って逃げちゃうじゃない」
「そうよ、爽葵。それにもう一人にもしっかり注意をしなきゃいけないわ。それが私達に課せられた義務よ」
どちらかと言えば、野次馬に見られているからというよりも、腹部を圧迫されて息がし辛いことの方が重大に思える。
さらに、背中に座られているせいで携帯すら取り出せない。これでは杏奈に追いかけてくるなと警告すら不可能だった。
誰かに助けを求めたとしても、どうやらここは一年の教室が集まる階層ではないため、呼びかけに答えてくれる生徒はまず皆無だろう。適当に走っていたのが仇となった。
「どうやら来たようね」
「……っ!」
不意に爽葵達の耳へと階段を駆け上がってくる音が聞こえた。
何故か一段一段歩くように階段を踏みしめる音がはっきりと聞こえてくる。もしかすると、上階で揉め事が起きていることを認識しているのかもしれない。
(なら、コイツの顔を見てすぐ逃げてくれればこの場は何とかやり過ごせるはず……)
だが、爽葵の期待とは裏腹に無情にも階段の音は少しずつ近づいてくる。
(来るな瀬戸……! 来たら確実に……面倒くさくなる!!)
とうとう、階段の影からその人物が姿を現した。
その姿は――だるまのように丸い体型をした男子生徒。階段を上るだけでスタミナを使い切ったのか、息が切れて汗が額から滝のように流れている。
「ふひぃ。毎日毎日この階段はシンドイ」
「誰だアンタ!! 瀬戸じゃないじゃん! つか、学校の階段ごときでスタミナ切らしてんじゃねえよ!」
「君誰でふ? あ、美女二人に押し倒されてるでふ! 僕に変わって欲しいでふ!」
「黙れ、変態!」
声だけで違う人物だと判断した爽葵は、緊張を返せと言わんばかりにツッコミを入れた。
どうやら悠里もダルマ体型の生徒の発言が気に食わなかったようで、近くにいた教室移動をしていた男子生徒から英和辞典をひったくり、思いっきりダルマ体型の生徒へ投げつけた。
ものの見事に重く硬い英和辞典がダルマ体型の生徒の顔面へヒットし、どうしてだか悦びの表情で倒れる。
「関係ない人間になんて仕打ちをしてんだお前!」
「あれ、違うの? てっきり爽葵はこの男のことが好きなのだと思ってたのだけど」
「何の話?! どうやったらそんな話にシフトすんの?!」
「え、やっぱり爽君そっちに興味があったの? 言ってよぉ、いい人紹介するのにぃ」
「余計なお世話だっつーの! つか、いい加減どけよ姉ちゃん!」
「駄目よ。あなたはこれからペナルティとして生徒会に加入するための書類を生徒会室で書いてもらうのだから」
「――それは困ります。綾音さんはすでにうちの部員ですから」
不意にどこからか声が響く。
拘束されて動けないでいる視界の狭い爽葵はもちろんのこと、拘束している悠里と日菜やその他野次馬もキョロキョロ周囲を見渡すが声の主らしき人物は見受けられない。一体どこから声がしたのか。
聞き間違えだったかと誰もが思い始めたその瞬間――突然廊下の天井の一枚が捲れ上がり、杏奈がスカートの裾を押さえて飛び降りてきた。
さすがにこの登場には周囲にいる全員が目を剥いて驚く。
「忍者かあんたは!?」
「忍者ではなく、くノ一と呼んでいただければ嬉しいです」
杏奈は爽葵を拘束する二人を睨みつけると、油断と驚きに乗じて二人を張り手のように手のひらを押し付けて突き飛ばした。
ようやく拘束から解放された爽葵は、やはり呼吸が苦しかったのか咳き込みながら深呼吸を繰り返す。
「綾音さんは渡しませんよ――生徒会メンバーのお二方。掛下生徒会長、綾音副会長」
「そう言われても、爽君とあたしは一緒に住んでるしぃ。つまりはあたしの物だよぉ」
「ちょっとちょっと独り占め? 私だって貴重な幼馴染よ」
爽葵の前に立ち彼を庇う杏奈の発言に、私達のほうが爽葵に近いとふんぞり返る生徒会メンバーと呼ばれた女子生徒二人。
その発言は周囲のどよめきを大きくさせる。
どうしてだか女子三人が爽葵を取り合っているような雰囲気であった。
本人にとっては全く持って迷惑甚だしいのだが。
「そりゃ、血の繋がった姉弟だがら一緒に住んでるし、幼稚園の時からご近所付き合いあるから幼馴染なだけだろ!」
「……くっ。姉属性に幼馴染属性ですか。やはり強敵……」
「アンタはアンタでどこにダメージ受けてんだ! 属性って何?!」
「なら、わたしは幼な妻属性ってことで」
「幼な妻ですって!?」「爽君いつの間に……ロリコンに」
「同い年だけどね!」
「じゃあ、間を取って綾音さんはわたしの嫁ってことで」
「全く間取ってねえし! つか幼さ取っただけだろ!」
幼な妻とか言っている時点で自分が童顔で子供みたいな姿ですよと認めているようなものだ。いや、あえての爽葵に対する嫌味を込めた自虐なのかもしれない。
「それよりもぉ。あなたどちら様ぁ? 爽君の彼女か何か?」
「そうなの爽葵?! あなたホモじゃなかったの?」
「姉ちゃんはともかく、どっからその失礼な疑問湧いてきた?! 至ってノーマルだよ!」
「……だったら懸賞まで掛けて一昨日爽葵を筋骨隆々男達に襲わせる必要なかったわけか」
「あれはお前の仕業だったのか!」
仮に爽葵がソッチ系だったとして、どこをどう考えて行動すれば懸賞金を掛けて筋骨隆々男たちに襲わせる必要があったのか。そして、幾人かは確実に本気で爽葵を狙っていたので少しでも運命力が低下していたら貞操の危機だったかもしれない。
「わたしが助けなければあのまま掘られちゃってかもしれませんね。それはそれで残念です。けどまぁ、綾音さんだったら上手い口車で先生同様に言いくるめてたかもしれませんね」
「瀬戸さん昨日は本当すみませんでした! こんな時まで根に持たないで下さい!」
この場で唯一の仲間に裏切られればもう助かる道はない。ならば、先に折れた方が賢明といったところだろう。杏奈は肩を上下させ、仕方ない言った表情。
「あ、ちなみにわたしは綾音さんと同じ部に所属する瀬戸杏奈です」
「その自己紹介をもっと大っぴらにしてくれ!」
「どうやら援軍も到着したようですよ」
「あぁ?!」
援軍と言われすぐに紗央莉と香澄の二人を想像したが、周囲を見渡してもやはりどこにも姿は見えない。
今から行くとかメールでも送られてきたのかとも考えられるが、杏奈は携帯を触ってはいないし、そもそも到着したと言い切った。
ではどこにいるというのか。
(……まさか)




