8.音威子府(八月二十一日、木曜日、十三時四十七分)
音威子府駅に到着した時に、車内アナウンスが流された。
――当駅では、列車待ち合わせのため、しばらく停車いたします。
当駅の列車の発車時刻は、十三時五十五分の予定です――。
「時間はわずかしかないけど、ちょっと降りてみようか?」
又村の申し出に、特に断る理由もなかったので、青葉は同意した。ここのホームには、なぜだかよくわからないが、木彫りのかわいらしいSLの置物が置いてある。
「冬になると、この駅にはラッセル車がよく停まっている。
DE15ラッセル車――。
こいつが、鮮やかな紅色をしていて、すっごくかっこいい奴なんだ!」
普段は冷静そうな又村が、『すっごく』と形容するくらいだから、よほどかっこがいいのだろう。
又村の解説が、さらに調子づいてきた。
「ここ音威子府駅には、常盤軒という立ち食い蕎麦屋がある。名物おじさんが作る蕎麦は、色が真っ黒だけど、味は日本一おいしい、と口コミで評判になっているんだよ。
ああ、この列車の停車時間が、せめて十五分あればなあ……。絶対に食べていくのに」
青葉たちの列車が音威子府駅に停車する時間は八分だった。八分でお蕎麦一杯をたいらげる自信は、さすがに青葉にはなかった。
「ちなみに、常盤とは、音威子府村のかつての呼び名だね」
青葉は駅舎にちらっと目を向けた。音威子府駅の駅舎は、木のぬくもりが感じられる茶色い建造物で、宗谷本線の駅舎としてはかなり巨大なものだ。駅のようすだけなら、とても活気がある街に思えてしまうけど……。
「ああ、そうそう。駅舎の中には、天北線の資料室もあるんだった」
「天北線?」
「うん。ここ音威子府村から稚内市を結んでいた、宗谷本線とは別ルートの、かつて存在していた路線だよ。国鉄がJR北海道に変わる一九八九年(平成元年)に廃線になった」
「路線ごと廃止ですか?」
「そう。天北線は、音威子府村を起点に、途中で敏音知岳など美しい山々のあいまをすり抜けて、オホーツク海に面した浜頓別町に出る。そこからさらに北上をして、最後は南稚内駅までつながっていたんだ。
ところが、国鉄民営化の時に、西の宗谷本線か東の天北線の、どちらか一方は存続させるが、もう一つは廃線とするよう、国から命令が下された。結局、宗谷本線が残されて、天北線は姿を消した」
「地元の人たちにとっては、究極の選択だったことでしょうね……」
青葉の口からボソッと愚痴がこぼれる。
かつての天北線が延びていたであろう、北の方角の線路の向こうには、美しい山並みが静かに横たわっていた。
――稚内行き、ワンマン列車です。
中の方に、お入りください――。
列車の乗車口では、キンコン、キンコン、という警鐘音とともに、同じアナウンスが、絶えず繰り返されている。
列車に乗ろうとしたのに、青葉がついて来ないので、又村は心配になった。青葉は、うつろな表情で、まだ北の山々を見つめている。
「おーい、青葉ちゃん。そろそろ出発の時間だよ。中に戻ろうか?」
「あっ、はい」
細い肩がビクッと動いた。青葉は、長い髪を手で押さえながら、走って乗車口までやってきた。
「駅のホームに降りてみるって、やっぱりいいですね」
青葉の一言に又村はちょっと驚いたが、すぐに何もなかったような顔で返事をした。
「そういうこと。駅を訪問するとは、列車の中から眺めるよりも、実際にそのホームに立った方が、数段得るものがあるよ」
「本当にそう思います」
そういって、青葉はにっこりと微笑んだ。
車内に戻ると、又村が、まずどっかと座席に腰を下ろした。対照的に、青葉は申し訳なさそうにそろそろと席に着く。
「音威子府村は、今や人口が千人を切ってしまって、北海道で最も人口が少ない自治体になってしまった。かつては交通の要所であったのにね」
青葉からの反応はなかった。又村があきらめて窓に目を向ける。
「私、こんな北までやってきたのですね……」
「えっ?」
「音威子府村――です。
私にとっては、旭川市だって最果ての町のはずなのに、まさか、そこからさらに時間をかけて、まだこんな素敵な町に出会えるなんて、想像すらしていませんでした。なんだかとても不思議なんです。
私、小さい頃にアンデルセン童話の『雪の女王』を読んで、北へ向かって旅を続ける主人公のゲルダに憧れていたんですよ。
でも、今の私は、ゲルダになれたような気分です」
青葉は、声がうわずって少し震えていた。
北海道で最も人口が少ない音威子府村を出発した列車は、さらに北を目指して走る。
でも、この時の青葉はまだ知る由もなかった。
全長二百五十九.四キロの宗谷本線の中で、最も劇的かつ神秘的な地点が、間もなく目の前を訪れようとしていることを……。
宗谷本線一言回想録
有名な音威子府駅の駅蕎麦。これを食べずに宗谷本線は語れない、と思います。