4.智東(八月二十一日、木曜日、十二時五十五分)
「今しゃべった四つの駅は、いい換えれば、いずれもいつ廃止されてもおかしくない駅だ。まあ、秘境駅なんてものは、そのほとんどが廃駅候補であることに違いないけどね」
身振り手振りをつけて話する又村の横の車窓を、名寄の家並みが流れていく。
「じゃあ、廃止される前に、ぜひ訪問しておかなくちゃいけませんよね」
青葉は、ひざの上に両の手を置いて、熱心に聞いていた
「逆にいえば、宗谷本線には、すでに廃止されて、なくなってしまった駅もいくつかあるんだ」
「ええっ! それって、現役の秘境駅よりもっと秘境駅があった、ということですか?」
驚嘆の声をあげてから、自分の発した言葉がきちんとした日本語になっていないことに気づいて、青葉は顔を赤らめた。
「そういうことになるね。利用者がいなくなったために廃止された駅は、宗谷本線には全部で七つある。
南に位置していた駅から順に名前をあげていくと、
智東駅、
神路駅、
琴平駅、
下中川駅、
上雄信内駅、
南下沼駅、
芦川駅、
以上だ……」
又村が廃駅の名前をひとつひとつあげていくたびに、青葉はなんとなくやるせない気持ちに沈み込むのだ。はじめて聞いた名前なのに、どれもこれもが、脳裏の奥底に深くこびりついてきそうな、妖しげな響きを有していた。
智東、神路、琴平、下中川、上雄信内、南下沼、芦川、……。
「つまり、それらの駅は、現役最強の糠南駅よりもさらに秘境度の高い駅だった、ということですね?」
真面目な顔で、青葉が同意を求めた。
「現役最強ね……。まあ、時代の流れもあるから、一概にそう結論づけるわけにもいかないけど。
少なくとも、智東駅と、上雄信内駅、についていえば、廃止される以前に、糠南駅よりも高いランキングに君臨していたことは、周知の事実だ」
「いったい、どんな駅ですか? 想像がつきません」
青葉の華奢なからだがぐぐっと乗り出した。
「ふふふっ、ちょうどいいや。
これから、その智東駅があった場所を、この列車が通過するんだ。まずは一旦、窓の外に注目しようか」
列車が日進駅に停車した。日進駅は、名寄駅の次の駅で、すぐそばに、独特な楔形の屋根を持つ待合室があった。東側には、大きな自然公園が見える。
「駅名票をみてごらん」
又村にいわれて、青葉は、窓越しに日進駅の駅名票をのぞき込んだ。『にっしん』と大きく書かれた駅名の下に、左右に小さくひらがなで文字が書かれている。いうまでもなく、日進駅に隣接している、『なよろ』と『ほくせい』という、ふたつの駅名である。
「ほくせい、と書かれた箇所をよおく見てよ。なんか気づかないかい?」
又村が注意をうながした。いわれたとおりに目を向けると、青葉はすぐさまあることに気付いた。
「あっ、文字が、シールが貼った上に書かれています!」
ほくせい、の文字のまわりは、長方形状の紙が貼られたように浮きだっていた。明らかに、なんらかの文字が直された痕跡であった。
「そのとおり。
つまり、あの箇所には、もともと別の文字が書かれていた。ほくせい、という文字は、そこに書かれていた文字を、あとになってから修正したものだ。
そして、この駅名票に、本来書かれていたオリジナルの三文字こそが――、『ち』、『と』、『う』、だ!」
日進駅と北星駅とのあいだには、かつてひとつの駅が存在していた。
ちとう、という名前の秘境駅が……。
「智東駅は、当時の宗谷本線では断トツの、秘境駅の王様だった。
かつての二〇〇一年度版の秘境駅の初期ランキングでは、智東駅が第十位で、上雄信内駅が第十二位だ。その時の糠南駅は、たしか三十位にも入っていなかったと思うよ」
「二〇〇一年度版のランキングですか……」
あまりにも話がマニアック過ぎて、とてもついていけない。青葉は思わず苦笑いした。
「とにかく、そんなすごい駅があった場所が、もうじき見られるのですね」
「そう。進行方向の左手にね!」
日進駅を出た列車は、途中で天塩川と出会ってから景色が一変する。もはや、名寄市の街並みの面影はどこにも残ってはいない。渓流と山とに挟まれた、とてもさびしい光景だ。
列車は川の東側を走行している。車輪とレールが奏でる走行音のリズムが、かなりゆっくりになってきた。
ガタットゥトン、タタン……、ガタットゥトン、タタン……。
明らかに列車の速度が落ちている証拠だ。さらに野生動物を威嚇するためなのか、ときおり甲高い警笛が轟き渡る。
フュオワァァーーーー。
左手を流れる天塩川と線路との間のわずかにできたスペースに、車がかろうじて通行できる舗装道路があるみたいだ。でもそれは、線路わきに生い茂った雑木林に視界が遮られて、途切れ途切れにしか見えなかった。
深い森の中に入ってしまい、視界もだいぶ暗くなった。どこそことなく縦横無尽に繁殖したイタドリの大群生が、すきを見て線路わきからせり出そうとしている。むろん、人間なんて、どこにもいるはずがない。そして、間違いなくこれから、なにかしらとんでもないことが起ころうとしている。そんな予感が、ひりひりと空気を伝染してくる。
「きれいな川……」
緊張のさなか、青葉がほっと洩らした。するとその言葉を制して、又村が大きな声を張りあげた。
「しっ、もうすぐ、来るぞ!」
それは、つむじ風が吹き抜けたような、ほんの一瞬のできごとであった。
鬱蒼と連なる深いやぶが突然途切れて、倉庫みたいな白い建物がすっと通り過ぎていった。かと思うと、花壇のような狭い広場がポッと現れて、そして、花火のようにフッと消えていった。
はっと我に返った時には、列車は、再び、深い森に囲まれた、暗い、さびしい世界へと舞い戻っていた。
ガタットゥトン、タタン……、ガタットゥトン、タタン……。
「今、見えたのが、かつての智東駅の通信機器室だ。
駅の待合室は撤去されてしまったから、なごりといえば、もうあれしか残っていない」
青葉の心臓はまだバクバクと鳴り響いていた。
「とうてい、信じられません。
こんな深い森の奥に、駅があったなんて……」
あまりに唐突で、理不尽過ぎて、合理的な説明ができない。そのやるせなさにいたたまれなくなった青葉は、又村に食いついた。
「だって、おかしくないですか? 誰も住んでいないのに、駅だけがポツンとあるんですよ。
そんなの、なんの役にも立たないですよね?」
又村は青葉の顔をじっと見つめていたが、やがてその口元が静かに動いた。
「だから、昔は、あそこにも人が住んでいたんだよ……」
それは優しい口調だったけど、青葉は頭をゴツンと殴られたような気さえした。返す言葉がなにも浮ばない。すべての秘境駅がたどるべき悲しき運命が、又村の発した簡素なひとことに、凝縮されていたからだ。
「智東駅は、冬になると列車が全部駅を通過してしまう『臨時駅』と呼ばれる存在だった」
又村は、『た』という言葉尻を強めて、締めくくった。
「どうしてどの列車も停まらなくなってしまうのですか?」
「それはね、駅を世話する地元の人がいなくなったからさ。
北海道では冬になると、一晩ほっとくだけで駅なんて簡単に積雪で覆われてしまう。ラッセル車は、線路上にある雪を除去することしかしない。
それじゃあ、ここで質問だ。駅のホームや駅前の小道に積もった雪は、どうすれば除去できると思う?」
「ええと、雪を除去してくれる都合のいい機械なんてないですよね?」
「構内に積もった雪は、地元の住民が、毎日駅までやってきて、除去するのさ。
でも、智東駅では、その世話ができる人が近所にいなくなり、ホームや駅前の小道が雪で埋もれてしまうようになった。そんな駅で降りてしまえば、なにもすることができないばかりか、そこにいるだけで危険だよね。だから、冬季になれば、駅を閉鎖せざるを得なくなってしまう。やがて、一年を通して列車の利用者もいなくなって、ついに駅自体が廃止となった……」
ここで又村はちらっと外に目を向けた。青葉は真剣なまなざしで又村をじっと見つめていた。
「このように、地元の住民の手助けがなくなって、冬季に閉鎖をする臨時駅が全国にはいくつかある。只見線の田子倉駅は残念ながら昨年に廃駅になってしまったが、現役の、山田線の大志田駅、浅岸駅や、奥羽本線の赤岩駅、なんかも、いつ廃止されてもおかしくない臨時駅だ。
臨時駅は、廃駅となる一歩手前の黄色信号状態ともいえる。今のうちに訪問しておいた方がいいね」
列車は、そのあとしばらく山の中を走り続けた。やがて景色が開けて、板張りホームの北星駅に、列車が到着した。
ちょっと離れたところに、木造の小さな待合室が見える。あざやかな紅色の下地に、白い文字で『毛織の北紡』と書かれたユニークな看板が、年季の入ったこげ茶色をした木肌の壁とマッチして、絶妙なコントラストを織り成していた。この美しい待合室は、北星駅の象徴として、実にインパクトがある建造物である。
「板張りホームで有名な秘境駅が、
北比布、
東六線、
北剣淵、
北星、
南美深、
天塩川温泉、
糠南、
南幌延、
だな。
中でもここ、北星駅の板張りホームの雰囲気は最高だ!」
目をうるませながら又村は最後の語気を強めた。青葉もここにやってくる前に、各種ホームページで、この北星駅の有名な待合室の勇姿は知っていた。
青葉は思った。さっきまでの、視界の閉ざされた森林地帯から比べると、北星駅周辺は見晴らしのよい人里が広がっている。裏を返せば、この北星駅の場所こそが、民家が存在できる限界地だということになろう。
ところで、この地区に住んでいる人たちは、智東の駅や森のことをどう思っているのだろう……。
五歳の少女に戻った青葉が、大好きなおじいちゃんに手を引かれて、北星の里のはじっこにたたずんでいた。すぐ目の前には小道があって、ずっと向こうまで延びていた。でも、小道のまわりにはたくさんの灌木が生い茂っていて、その先ははっきりとよくわからなかった。
おじいちゃんがしゃがみ込んで、青葉の両肩に手をかけてきた。赤とんぼが目の前をすっと過ぎていった。おじいちゃんの顔は、夕陽の影になって、よく見えなかった。
「こっから先の、智東の森にいっちゃいけねえぞ。帰ってこられなくなっちまうからな」
おじいちゃんがしてくれたお説教は、なぜだかとっても怖かった。五歳の青葉は、ただ、ぶるぶると、その場で震えあがっていた。
宗谷本線一言回想録
本当にすごいんですよ、智東駅のかつてあった場所って。