3.名寄(八月二十一日、木曜日、十二時三十九分)
士別駅を発った列車は、ふたたびのどかな田園風景のあいまをひた走っていた。もはや目に映るのは、線路に平行して走る幹線道路と、広大な平野だけだった。
「美人のお嬢さん――、お話しかけてもよろしいですか?」
となりのボックスシートに座っていたふたりずれの男のうちのひとりが、突然、声をかけてきたので、瑠璃垣青葉はびっくりして、声がした方を振り向いた。
このふたり連れは、ひとりが、黒いTシャツにジーンズ姿の、ナルシストっぽいやせ男で、もうひとりは、度の強い眼鏡をかけた肥満体系の、お坊ちゃん風の男だった。声をかけてきたのは、やせ男の方だ。年齢はふたりともそう若くはなさそうに見える。おそらく四十前後といったところであろう。
「そうそう、あなたのことですよ。美人さん」
「私、美人じゃありませんから」と、青葉は素っ気なく返した。
「やだなあ、あなたほどの美人はそんじょそこらではお目にはかかれませんよ。黒くて長い髪に、賢そうな瞳……。
本当に僕は今、年甲斐もなく、どきどきしているんですからねえ」
やせ男は一向にひるむようすを見せない。
「あの、なにかご用でしょうか?」
うんざりした青葉は、顔を横にそむけて、形式的な応対をした。
「いやあ、そのツンツンしたところがたまらないなあ」
そういって、男は顔をさらに近づけて来て、耳元でボソッとつぶやいた。
「ふうん、名古屋から見えた女子大生さんですか。お名前は青葉ちゃんね。
うんうん、可愛らしい名前だ……」
不意をつかれた青葉は、思わず相手をにらみ返した。
「どうして?」
「ははは、ごく簡単な推理ですよ。
あなたの旅行鞄の横には名札がついていますよね。そこにあなたのお名前と住所が書いてあります。おそらく、高校時代の修学旅行に行かれた時に着けたのを、はずさずに、そのままここまで来てしまったのでしょう。
あなたの落ちつきはらったさまから、高校を卒業されているのはわかるし、頭もよさそうだから、きっと大学に進学をなさっていることだろう、とまあ、このように推理したまでです」
恥ずかしさのあまり、青葉は耳まで真っ赤になった。高校を卒業してから一年以上も経っているのに、これまで旅行をしたことがなかったから、まさか名札をつけっぱなしにしていたなんて……。
青葉の心の底を見透かしたのか、追い打ちをかけるように、やせ男がさらに自論を展開した。
「つまり、君は高校を卒業してから今まで旅をしていなかったということになる。そして、今回の旅は、見たところひとり旅のようだ。だけどそれは、君にとっては、相当思い切った行動なんじゃないのかな? もしかしたら、傷心旅行だったりしてね……」
傷心旅行か……。
当たらずしも遠からず、といったところだ。瑠璃垣青葉は二週間前に交わされた如月恭助との会話を思い出していた。
「だからさあ、青葉も俺もお互いに好意を持っているのは事実なんだし、それでいいじゃないか。わざわざ週末になるたびに会ってデートをする義務なんていらないよ。そんなことするあいだに、俺はしておきたいことがいっぱいあるんだ。俺は三十までは、自分勝手に生きたいのさ。だって、この世の中、楽しいことが無限にあるんだぜ。若いうちにしかできないことがさ……」
男性ならば三十歳を過ぎても、魅力がまだ向上するのかもしれないけど、女性は確実に落ち目になってしまう。
「だからといって、たまに取れたコンサートをすっぽかすなんて……」
青葉も必死に食い下がった。
「いつもそればっかりだな。あれはたしかに俺に非があったよ。急に用事ができちゃったからな」
と、恭助の返事は素っ気ない。
「こんなことが続くと、私、他の人を好きになっちゃうかもしれないのよ?」
思い切ってかまをかけてみたのだが、
「うん、そうなったらそうなった時だね。別に俺たちは互いを拘束し合っているわけじゃない。恋愛は自由だし、青葉に別な男ができたらそれはそれで仕方がないと思っている。逆に俺に彼女ができるかもしれないし。
まあとにかく、つき合うとかそういう面倒くさいことに俺はかまけている余裕がないんだ。
今のままでいいじゃないか。俺は青葉のことが一番好きなんだしさ……」
全く自分勝手な論理で、ついに我慢の限界に達した青葉は、こっそりひとり旅に出る決心をした、というのがことの真相だ。
如月恭助は中学と高校が同じ同級生だ。小柄で背の高さが青葉とほとんど変わらないこの青年は、自由奔放で気ままな性格を持った秀才であった。父親が愛知県警の警部で、本人は全くの一般市民の分際でありながら、父親から事件の話を聞いて、これまでに幾度となく難事件を解決し、陰ながら警察に貢献しているとうわさされている。
声をかけてきたやせ男が、ずうずうしく青葉の前の座席に、どっかと座り込んできた。長い脚を青葉のひざにぶつけないように気をつかって、斜めに腰かけている。
この人じゃ、ちょっとおじさん過ぎるか……。はっ、私、今なにを考えていたのだろう?
青葉はひとりで恥ずかしそうにうつむいた。
「旅はみちづれというでしょう、美人のお嬢さん。
どちらまで行かれるのですか?」
やせ男は執拗に青葉にちょっかいをかけてくる。
「ええと、抜海駅まで行くつもりです」
とっさに返した言葉だったが、すぐさま青葉は大きく後悔することになる。だいたい、年頃のむすめが、ひとり旅で、よりによって秘境中の秘境である、抜海駅に行くなんて……。
普通の人の感覚からすれば、人知れず自殺でも企てようとしているのか、などと勘違いされてしまっても、ちっともおかしくはない。かりにそこまでひどくならなくても、果たして、この人にどうやって抜海駅という特殊な目的地を説明すればよいのだろう? せめて無難に、宿の予約を取った南稚内駅へ行きます、とでもいっておけばよかった。
「ふーん、そうか……。君は秘境駅が目当てなのだね?」
やせ男の口からは、ずばり青葉の真の目的が出てきた。
「あっ、ご存じですか?」
青葉はほっとした。
「うんうん。最近は鉄子さんも増えてきているし、秘境駅愛好家の美人お嬢さんがいても、ちっとも不思議じゃないよ。
ところで、これまでにたずねた秘境駅は?」
「いえ、今回がはじめてです」
「へえ、そうか。ちょいと意外だったな。
青葉ちゃんが住んでいる名古屋だったら、すぐ近くに飯田線や大井川鐵道もあるから、きっとそちらを制覇してのこちらへの参戦だと思ったんだがね」
「私、そんな強者ではないですけど……」
青葉は口をすぼめたけれど、やせ男が次々と繰り出すたくみな話題に、しだいに引き込まれていった。
「いやね、宗谷本線こそ『秘境駅の聖地』だと、僕は確信を持っているのさ。
日本全国に秘境駅は多々あれど、これほどたくさんの秘境駅を有する路線なんて、どこを探してもほかにないからね。牛山隆信氏もよく調べてくれたものだ……」
どうやらこの男、相当に秘境駅に精通しているみたいだ。
「僕の名前は、又村俊樹――。
片仮名のヌ、と書く『また』だ。今は札幌に住んでいるけど、出身は問寒別。だから、宗谷本線の秘境駅といったら、僕以上に詳しい人なんて、まずいないよ」
「瑠璃垣青葉といいます。よろしくお願いします」
青葉はぺこりと頭を下げた。
「ほう、『るりがき』さんね……。
さすがに名札の苗字までは読めなかったな」
「友達からは『ブル子』とか『ブルブル』って呼ばれています」
「ブルドックに似ているという意味?」
又村が意外そうな顔をした。
「いえ、たぶんそうじゃなくて、青色のブルーな子という意味だと思います」
青葉は申し訳なさそうに、又村の顔をちらりと見上げた。
「なるほどね、瑠璃に青葉だから『ブル』ね。かわいいあだ名だ」
又村が軽くうなずいた。
すると、車内アナウンスが流れてきた。
――間もなく、風連駅に、列車が到着します――。
「あっ、瑞穂駅は通り過ぎてしまいましたよね?」
話に気を取られていて、大事な秘境駅をひとつ、うっかり見過ごしてしまった。
「ああ、悪かったね。瑞穂駅は、茶色く小さな待合室の小屋がある、なかなか風情ある駅だけどね。でも、この先登場する秘境駅は、もっと個性的だよ。今から青葉ちゃんに説明をしてあげよう」
「ぜひお願いします」
青葉は例の大学ノートとボールペンを取り出した。又村が興味深そうにノートをのぞき込む。
「ふーん、宗谷本線の秘境駅が書いてあるね。どれくらい知っているの?」
「牛山さんのホームページに掲載されていた写真を見ただけですよ。なにしろ数が多いので、とても全部は覚えきれませんでした」
「なるほどね。その中で気になった駅はあるかい?」
「はい。抜海駅と、雄信内駅に、糠南駅ですね」
青葉が指を折りながら駅名をあげていった。白くて細いきれいな指だ。ネイルアートは施していなくて、爪は素のままだけど、きちんと切って、手入れがしてある。
「抜海駅と雄信内駅は、いずれも木造の駅舎で有名だよね」
「はい、あと、名前が面白いと思いました」
楕円形の眼鏡のしたから、きらきらした瞳がいたずらっぽくのぞいていた。
「ははは、名前か。いわれてみれば、たしかにそうだ。
それに抜海駅は日本最北の秘境駅として有名だね、この宗谷本線にある秘境駅の中では、知名度が一番高い駅かもしれない……」
「いいですよね、最果ての地にある秘境駅って……」
青葉はしみじみとうなづいた。又村はその反応に気をよくしているようすだ。
「糠南は、いわずと知れた宗谷本線ナンバーワンの秘境駅だ。その秘境度と情緒の奥深さは、他の追随をまったく許さない。正に宗谷本線における秘境駅の王様だ!」
「そういわれると、とても楽しみになっちゃいます」
青葉がうれしそうに両手で口元を隠した。そのあどけないしぐさに、又村は、どきっと、少しときめいてしまった。
「そうだなあ……。じゃあ、たくさんある秘境駅をちょっと分類してみよう。まずは人気度の高い秘境駅からいこうか」
又村は、湧き出した感情をおもてに表さないように気をつけつつ、話を続けた。
「青葉ちゃんお好みのさきほどの三つの駅に加えて、豊清水駅。この四つが最も人気がある駅だね」
「豊清水駅?」
「うん。秘境駅ランキングも糠南駅に次いで高い駅だ。
ログハウスのようなかっこいい駅舎があって、駅周辺に民家は皆無。それだけを取れば、糠南駅をもしのいでいるよ」
「そうですか。とても楽しみです」
そういって、青葉は教えてもらった情報をさっそくノートに書き込んだ。
会話がとどこおりなく続くうちに、なよろ一号が終点の名寄駅に到着した。時刻は予定通りの十二時三十九分であった。
「おおっと、急いで向こうホームの稚内行きに乗り換えなきゃ」
そういってから、又村は荷台から荷物を下ろすと、となり座席で眠っている相棒の肥満男に声をかけた。
「おい、笹森――。名寄に着いたぞ。起きろよ!
さあ、行こうか。青葉ちゃん」
笹森と呼ばれた男は、がばっと飛び起きて、きょろきょろと辺りをうかがった。それから、無言のままで、又村と青葉のあとをついてきた。
三人は一番ホームに降りて、急ぎ足で跨線橋の階段をのぼり、反対ホームへ移動した。笹森という男は、運動が苦手みたいで、階段をのぼるだけでぜいぜいと肩で息をしていた。
三番ホームには、すでに一両編成の稚内行きワンマン列車がやってきて、停車をしていた。今度の列車は、アルミ色をした金属光沢の鋭い四角ボディに、きれいな赤ラインが描かれている。
「キハ五四形気動車――。
国鉄時代に製作された、宗谷本線の顔ともいうべき、古い型の車両だな」
又村が、列車の側面に書かれた黒い文字を指差して、さっそく解説を始めた。
「知っているかい?
キハの『キ』、とは気動車を意味する。いい換えると、モーター電動車ではないということだ。
だから、列車にはパンタグラフがついていない。そもそも宗谷本線には給電用の架線が一切ひかれてないんだよ」
そうか――。いわれてみるまで気がつかなかったけれど、北海道の列車って、全部、電車ではなくて、汽車だったんだ。だから、北海道の鉄道沿線の風景は、どこまでも見晴らしが良くて、まるで外国にいるみたいな錯覚を受けてしまう……。
又村は、さらにひと言、説明を付け足した。
「『ハ』は、いろは、の三番目。並みである『普通車』を意味する」
「キハの二文字にそんな深い意味があったなんて、ちっとも知りませんでした」
ノートの向こうで、青葉のボールペンがせわしく動いていた。
三人はキハ五四系気動車に乗り込んだ。中の乗客はまばらで、両側の席は全部ふたり用になっていたが、又村が進行方向左側の座席のひとつを前に倒して、四人座席をちゃっかりこしらえてしまった。
「ここから先は、進行方向左側の座席が、絶対におすすめなんだ!」
そういって、又村は、青葉を窓側の座席に前向きに座らせ、自分はその真向いの後ろ向き座席に座った。笹森は青葉のとなりの座席に座りたそうであったが、進行方向右側にあいているふたり座席に荷物を投げ捨てると、ひとりでそこを占拠した。
「おい、こっちに来なくていいのか?」と、又村がいちおう誘いをかけたが、笹森はいじけたようにプイっと顔をそむけて、窓の外を眺め出した。
「ふん、青葉ちゃんがあんまり美人だから、あいつ柄にもなく緊張して、横に座れなかったんだぜ。きっと。
まあ、邪魔がいなくなって、僕としては好都合だけど……」
と、又村が青葉にウィンクした。
「いいんですか?」
「ああ、大丈夫さ。しょせん、僕たちは気楽な観光旅だしね。
実は、あいつもかなりの秘境駅マニアで、今回は、僕が宗谷本線を案内することになっている。
けど、むさくるしい中年を相手にするより、かわいい女子大生の案内役の方がやりがいあるからね。あいつのことは無視していていいよ。どうせ、目的地に着けば勝手に降りていくだろう」
「どこへ行くつもりですか?」
「ふふふ。さあ、どこでしょうね? まあ、抜海駅に負けないくらいの魅力に富んだ駅だよ……」
又村は青葉の質問をあっさりとはぐらかした。
「さて、解説の続きといこう。
人気度が高い四つの駅が、豊清水、糠南、雄信内、抜海、だったよね。この次は、訪問するのが困難な四つの駅だ。
実際に、列車で駅を訪問しようとしても、全ての駅に列車が停まるわけではないんだ。利用者が少ない駅は、時間帯によっては、各駅停車のはずである普通列車が通過してしまうこともある。
列車のダイヤを考慮した時、停車本数が少なくて訪問が困難である駅、すなわち、訪問計画を立てる際にどうしても最初に憂慮しなければならない駅が、次の四つの駅だ」
「一日の旅行計画が、その駅の停車時刻のために、大きく左右されてしまうわけですね」
青葉が確認をした。
「そういうこと。宗谷本線で最も訪問が困難な秘境駅は、
北剣淵駅、
南美深駅、
糠南駅、
それに、
下沼駅、
だ」
「ここにも糠南駅が登場していますね」
さすがは秘境駅の王様ね、と青葉は心の中でこっそりつぶやいた。
――三番ホームの列車が、発車します。ご注意ください――。
名寄駅の構内にアナウンスが流れされた。時刻は十二時四十五分であった。
宗谷本線一言回想録
名寄駅といえば、なよろプリン。ぜひ一度ご賞味あれ。