2.北比布(八月二十一日、木曜日、十一時三十四分)
永山駅を過ぎたあたりから、喧騒な街並みから閑静な田園地帯へと景色が徐々に変化し始めた。進行方向の左手遠くに、いくらかの山並みが見えるものの、そのほかは、見渡す限りフラットで雄大な平野が広がっていて、さすがは北海道といった感じがする。
青葉は鞄の中からA4版の大学ノートを引っ張り出した。中には宗谷本線の駅名が記されている。でも、それは路線にあるすべての駅名ではなくて、その中の一部であった。そして、その駅名は全部で二十個あった。
北比布(138)、
東六線(77)、
北剣淵(41)、
瑞穂(86)、
北星(38)、
智北(85)、
南美深(57)、
紋穂内(39)、
豊清水(29)、
天塩川温泉(61)、
筬島(67)、
歌内(62)、
糠南(12)、
雄信内(73)、
安牛(49)、
南幌延(57)、
上幌延(56)、
下沼(34)、
徳満(98)、
抜海(43)――。
これらは、宗谷本線の『秘境駅』を旭川側から順番に書き並べたメモだ。秘境駅とは、牛山隆信氏が個人のブログで紹介をした、利用者が極端に少なかったり、駅に停車する列車の頻度が著しく少なかったり、列車以外の手段で到達するのがとても困難な駅の総称である。ブログでは、日本全国の駅の中から二百個の秘境駅が抽出されていて、秘境度の高い順にランキングされている。
その二百しかない秘境駅の実に二十個がここに集まっているのだから、宗谷本線こそは全国屈指の秘境駅路線だともいえよう。もっともその事実は、地元の人にとってあまり歓迎できないことかもしれないが……。
青葉のメモで、駅名の後ろに書かれた括弧内の数字は、牛山隆信氏がつけたランキングの順位(二〇一四年度版)を表していた。数字が小さいほど秘境度が高い駅ということである。
列車が比布駅に停車した。この駅名はとある医療用具の商品名としても有名だ。時刻は十一時二十九分。この比布駅を出れば、いよいよ列車が、最初の秘境駅である北比布駅を通過する。とにかく、青葉にとっては、はじめての秘境駅。果たしてどんな容姿を見せてくれるのだろうか? 細身のからだをくねくねとねじらせながら、青葉は窓ガラスの向こうをじっと凝視した。
北比布駅はあっという間に通り過ぎてしまった……。
あまりの瞬時のできごとに青葉は拍子抜けした。駅があったのは、たしか田園のど真ん中だった? 正直、その程度の記憶しか残っていなかった。周辺に民家がほとんどなかったわりに、格別さびしい場所であるといった印象も、そうはしなかった。
さらに、しばらく走っていくと、列車は急に山の中へ入った。明らかにさっきから、上り坂をずっとのぼり続けている。景色がすっかり森の風景に変貌した。これこそが、青葉が期待していた秘境といった雰囲気だ。
そんな中、列車がひとつの駅を通過した。
民家はどこにも見あたらず、森に囲まれた空間に、ポツンとたたずむ木造の駅舎があった。おそらくここは塩狩駅だ。
人のためではなく、まるで森の動物たちのために存在しているかのような塩狩駅は、なぜか秘境駅には含まれていない。ちょっと不思議だ。さっきの北比布駅よりも、こちらの方が、なんだか秘境のように思えるのに……。
塩狩峠を通過すると、今度は一転して長々と下り坂が横たわっていた。それを突き進んでいくと、列車はじきに和寒駅へ到着する。進行方向右手に大きなスキー場があった。北比布駅や塩狩駅とは違って、和寒駅前にはそれなりに軒並みが連ねている。
このあと、列車は二つの秘境駅、東六線駅と北剣淵駅を通過した。その気になって注意していないと、簡単に見過ごしてしまうことだろう。どちらの駅も、北比布駅のように、田園地帯の真ん中に位置する無人駅で、ホーム付近だけが防風林で囲まれているものの、そのほかは何もない殺風景な空間で、とにかく見晴らしだけはとてもよかった。
秘境駅という名前から、ひとけのない山奥の光景をイメージしていた青葉にとって、若干あてがはずれたきらいもあったが、まだまだ旅は始まったばかり。秘境駅もいっぱい残っている。
それにしても、永山駅を出てからかれこれ一時間が経過しようとしているのに、その途中に繁華街などというものがどこにもない。停車した比布、和寒、剣淵の三駅でさえも、ほとんど乗り降りする人がいなくて、本当に鉄道の経営が大丈夫なのかと、逆に心配になってしまう。この列車に乗っている乗客は、みんな終点の名寄駅まで降りないつもりだろうか?
そうこうするうちに、列車がいよいよ士別駅に近づいてきた。
大きな川を通り過ぎると、一気に建物の数が増加して、立派な街並みが現れた。旭川市を出て最初のまともな街だ。これだけ人がいない場所を走り続けていると、この士別の街並みがなんだかとても懐かしく感じられてしまう。
士別駅のホームには、『羊のまち、士別へようこそ!』と書かれた大きな看板があった。二匹の羊の絵が描いてある。おそらく地元キャラクターなのだろう。二匹の羊の顔が黒ベタなのが、とても斬新で、つい見入ってしまうのだが、一方で、不気味感もないわけではない。それを見た子供が、夢でうなされたりはしないのだろうかと、青葉はちょっと心配になった。
気がつくと、たくさんの人がこの駅で下車をしていた。さっきまで全部が埋まっていたボックスシートも、今では半分くらいが空いている。青葉は鞄を持って、進行方向左側にあいたボックスシートまで移動した。そこに座ると、さっきの羊の看板が、今度は真正面にやって来る。それを見た青葉は、夢中になってシャッターを切り続けた。
又村俊樹は、士別駅名物のサホッチとメイの看板を、窓越しに必死になって撮影している女の子のようすを、さっきからじっと観察していた。
素直にすくすくと育てられた純粋培養の無垢なお嬢さん、といった雰囲気のむすめだ。ほっそりとした肉づきのからだが、ことさら女性らしさを強調していて、もしも許されるのならば、後ろからがばっと抱きしめたい、と欲望に駆られた男性通行人は、これまでに少なからずいたであろう。でも、そのわりに姿勢が美しいから、最初は、とても背が高い女性のように思えたが、実際はそれほど高身長ということではなさそうだ。背中まで伸ばしたさらさらの長い黒髪に、攻撃的なネイビー色のベレー帽をかぶっていて、おしゃれセンスはまだまだ未熟だが、逆に圧倒的な美少女度がその不釣り合いを強引に解消して、かえって彼女の個性として一役買っていた。一方で、知性の高さをうかがわす楕円形の赤縁眼鏡は、申し分なく、とてもよく似合っている。そして、小顔で色白の、まるで陶器人形を思わせる美しい顔立ちは、正に『清楚』という二文字がぴったりだ。
なりふりからして、旅行客であることはほぼ間違いなかろう。
もしかすると、彼女こそ、今の俺が必要としているあらゆる条件を満足した理想の人物なのかもしれない……。
宗谷本線一言回想録
士別駅の看板に描かれた羊キャラのサホッチとメイ。私の第一印象は恐怖でした。