22.南幌延(九月十日、水曜日、十五時五十九分)
如月恭助が、熱心に彼を見つめる二人の顔を前にして、得意げに説明をし始めた。
「又村の計略は、笹森を殺すのと同時に、自分に疑いがかけられてもそれを跳ね除けられるくらい鉄壁なアリバイを創作することだった。
笹森を単に殺すだけなら、ことは簡単だ。その気になればいつでも実行できるが、それだけでは、いずれ自分に嫌疑がかけられる危険はまぬかれない。
又村と笹森との間にどんなトラブルがあったのかは、俺にはよくはわからないが、熊ちゃんたち有能な警察が本気になって調べ上げれば、いずれなにかが出てくるはずさ」
「先生がこちらにいらっしゃる前に、又村と笹森の間の利害関係は少しだけ調べましたが、どちらもIT業界の有能な人物ですし、叩けばなにかとホコリが出てきそうな雰囲気はありましたね」
と、熊林警部補が補足した。
「そんなふたりの間柄だから、笹森が殺されれば、真っ先に疑われるのが自分であることを、又村は自覚していた。そんな中、笹森の方からじきじきに、宗谷本線の秘境駅めぐりの旅をしたいから案内役を買って欲しい、と依頼された。
又村は、これこそ笹森を殺す絶好のチャンスだと思った。でも、鉄壁のアリバイなんて果たしてどうすれば作ることができようか?」
「だれもが思いつかないような天才的なひらめきを持って、奇想天外かつ精巧緻密で複雑怪奇なトリックを用いれば、よろしいのですね」
と、熊林警部補が鼻息を荒げていった。
「うん、それができればたしかに申し分ないよね……」
恭助が苦笑した。
「そこで、又村が今回目指したのは、偶然に支配されて生まれるアリバイだ!」
「偶然のアリバイ――?」
今度は青葉が反復した。
「そう。意図的に作ろうとしても、相当な幸運が積み重ならなければ達成できない、極めて道の細いアリバイ――。でも、万が一それが達成されるようなことがあれば、それが創作された偽アリバイだなんて誰も想像できなくなっているような老獪なアリバイだ」
「先生。もう少しわかりやすく具体的に説明をしていただけませんか?」
熊林警部補の催促に、恭助はもったいぶってコホンと軽く咳を入れた。
「又村の計略の第一歩は、宗谷本線で笹森と旅行している時に、見知らぬ車内の乗客の中から自分のアリバイを証言してくれる都合のいい同行者を見つけ出すことだった。そして、その同行者と親しくなって、信頼を得てから、笹森だけを安牛駅に下車させて、自分は知り合った同行者とともに列車に残り、さらに、その事実を同行者に確認させる。そして、証言者となるべき同行者に、眠り薬をうまく仕組んで飲ませて、次の南幌延駅に到着するまでに眠らせてしまう。
同行者が眠り込んだのを確認してから、自らは南幌延駅でこっそり下車をして、そこから車で移動して安牛駅まで舞い戻り、そこにいた笹森を殺して、再び車をすっ飛ばして、今度は幌延駅までとって返す。
幌延駅では、普通列車が四十四分間も停車するという、特殊な列車ダイヤの盲点を見事に駆使して、再び同行者がいる普通列車に乗り込んでくる。
改札口の駅員から見れば、又村は幌延駅から新しく乗り込んできた乗客だと思うだろうし、列車の運転手から見れば、幌延駅の改札口の外で一時的に暇をつぶしてから、再び列車に戻ってきた列車の乗客だと思うことになる。
列車の中に残っている同行者が、依然としてまだ眠り続けていれば、その先の適当なタイミングで起こして、あたかも自分はずっと列車の中にいて同行者の寝顔を見守っていた、と思わせることができる」
「ちょっと待ってください。南幌延駅で、又村は車をどうやって手配したんですか? まさか、タクシーを呼ぶわけにはいきませんよね」
熊林警部補が訊ねた。
「この旅行の事前に、又村は自分の車を南幌延駅まで運んで、そこに放置しておいた」
恭助があっさり答えた。
「でも、同行者――、つまり私のことよね。
私が南幌延駅に着くまでに眠らなかったらどうしたのよ。せっかく車が用意してあっても、計略を実行することはできなくなるわ」
「そう。正に、その通りなんだ。だから、この事件は極めて特異なのさ。
いいかい。又村は笹森を殺すために、少なくとも前日までに、旭川市から二百キロも離れた南幌延駅まで行って、車を置き去って準備をしておいた。
にもかかわらず、当日に、適当な同行者が見つからなかったり、同行者が自分の味方になってくれなかったり、同行者に眠り薬を仕込めなかったり、同行者が安牛駅で笹森だけが下車をして自分は車内に残っていることを確認してもらえなかったり、同行者が南幌延駅までに眠りこまなかったりする、などのいずれかの不都合が起これば、この計略を破棄するつもりでいたんだ!
今回が失敗してもまた次の機会を待てばいい、とでも考えていたのだろう」
「そんな、いいかげんなのですか? 殺人なのに……」
熊林警部補はポカンと口を開けていた。
「そう。大胆不敵な又村の性格でなければ成し遂げられない未曾有の計略だ」
「もしも、その……、手間取ってしまって、三時四十九分までに幌延駅まで戻ってこられなかったら、又村さんはどうするつもりだったのかしら?」
「その時は、計略失敗で破滅だね。敗北だ。
そんな危険な穴だらけの計略なんか、並みの人間には取り組む気力さえ湧かないだろうけど、うまく行った時にはこれほど鉄壁なアリバイはまずほかには考えられない。正に、ハイリスク、ハイリターンってやつだ。そして、又村って奴は、稀代の自信家であり、破天荒なギャンブラーなんだ」
この時、三人がいる待合室から出たすぐのところにある踏切が鳴り始めて、やがて、十五時五十九分旭川行きの普通列車が、南幌延駅に到着した。おおかた予想されていたことであるが、その列車で乗り降りする人物は誰もいなかった。
「計略の鍵を握る同行者を探している又村の目に、瑠璃垣青葉という女の子はどう映ったのだろう。
見ず知らず同士のあかの他人が親しくなるには、ナンパを装った声かけが、流れからして自然だ。そういう観点から、若くて一人旅をしている女の子がまずは好ましい。さりとて、やがては又村のアリバイのためにかなりややこしい証言をしてもらわなければならない。だから、単に男と見れば喜んでのこのこついてくるような、軽くてチャラい子ではだめだ。知的でまじめで、芯が強い子。冷静で第三者として、又村のアリバイを客観的に証言することができる人物。はじめはナンパを嫌がるけれども、又村が得意な奥の深い話題に共感して、ついて来そうな女性が最も好都合だ」
恭助の説明に恥ずかしくなって、青葉はひとり顔をうつぶせた。
「さらに、計略が成功した後で又村の方からその同行者に連絡が取れなければ、アリバイ証言を警察にしてもらえるはずがない。つまり、又村には、同行者の連絡先を旅の途中で手に入れなければならない、というかなり厳しい条件が課されていた。こいつが一番ハードルが高かったのかもしれないが、青葉の旅行鞄には修学旅行時の名札が付けっぱなしになっていて、名古屋市在住の瑠璃垣青葉さんであることが、ナンパする前からすでにわかっていた。しかも、名古屋市に瑠璃垣青葉さんという珍しい名前の女性は間違いなくひとりしかいないだろうから、警察が探せば必ず見つけ出すことができる。もしも、名札の名前が、鈴木まい、とかだったら、又村もさぞかし悩んだことだろうな。はははっ」
鈴木まいって誰よ、と青葉は思ったけど、口に出すのはやめておいた。
「もうひとつクリアしなければならないハードルがある。同行者である青葉が、少なくとも幌延駅よりも遠くまで旅行してくれなければならないことだ。途中で降りられてしまえば、もちろん又村のアリバイ証言なんてしてはもらえないからね。でも、話しかけてみたら、行き先は抜海駅――。幌延駅のはるか先であるばかりか、又村得意の宗谷本線や秘境駅に興味関心を持つひとり旅の女の旅行者だ。これほど打ってつけの人物はまずほかにはいなかろう!」
ハイテンションでしゃべり続ける恭助を見て、自分が褒められているのか馬鹿にされているのか、青葉にはだんだん判断がつきかねていった。
「青葉からの信頼を得ることができた又村は、青葉に眠り薬を飲ませるタイミングをひそかにうかがっていた。そして、又村は、雄信内駅で満を持して用意してきた水筒の紅茶を青葉に飲ませることに成功した。こいつは結果的に絶妙なタイミングとなった。さらに、笹森に水筒を持たせることまで、又村はまんまとやり遂げてしまった。笹森が紅茶を飲んでうとうとしてくれていた方が、殺しもスムーズに行うことができるというものさ。
こうして、全てのことが順調に進んでいく中、又村は、笹森を殺せ、という天命が下されているような気がしていたのかもしれないね。
安牛駅のホームにやってきた又村は、乗車口前で、あらかじめ用意していた紐を取り出して、笹森の背後に回って首を絞めて殺す。それから、これまた用意してきたナイフで、遺体に十二個所の刺し傷を加えて、現場から逃走したんだ」
「ちょっと待ってください。先生――。
今回の事件で一番不思議なことなのですが、どうして又村はナイフで遺体を何度も刺したのでしょう?
もうすでに死んでいるのなら、現場からいち早く逃げ出したい状況下で、あんなに残忍な行為をあえてほどこす必要はないですよね。わざわざああまでしなければ我慢できないくらいに、笹森を憎んでいたということでしょうか?」
「そうよね。冷静な又村さんにしては、そこだけがすごく感情的になっている感じがするわ」
「又村は常に冷静沈着だよ。しかもユーモアも忘れてはいない。
遺体を十二個所刺したのは、『しゃれ』だよ。有名なクリスティのオリエント急行殺人事件を見立てたんだ。結果的には、その行為こそが、俺に又村が犯人だと確信を抱かせる決め手となってしまったのだけどね。だって普通の通り魔じゃ、十二回も刺すなんてことはまず考えられない。だけど、又村って奴は芸術家気取りの自信家だ。遺体を十二回刺すというユーモアを世間に公開したいという誘惑に勝てなかったってことかな」
「でも……、それにしてもよ。十二という回数はともかくとして、わざわざナイフまで用意していたということは、事前から刺すつもりだったわけでしょ? その場の思い付きではなくて……。そもそも、なんで刺さなきゃならないのよ?」
「遺体を刺す行為自体は、計略で欠かすことのできない必要なことだったのさ。
仮にさ、刺し傷のない遺体がホームの降車口で倒れていたとして、それからどうなるかな?」
恭助の問いかけに、熊林警部補が、あっ、と声を張りあげてから、応じた。
「遺体の発見時刻が遅れてしまう可能性が生じますね。つまり、列車の運転手や乗客が、倒れている笹森に気付いても、単に意識を失っているとか、よっぱらって寝込んでいるように思うかもしれません。下手をしてそのまま見過ごされてしまうと、遺体の発見は翌朝となります。そうなると、せっかく作りあげた鉄壁のアリバイが功を奏さなくなる怖れが出てきます」
「その通り。逆に、倒れている人物が大量出血していれば、一目で殺人だとわかる。つまり、返しの列車が十六時〇二分に現場に到着した時点で、殺人がすでに行われていたという運転手の証言を、確実に引き出すことができる」
「殺人を確認してもらうために遺体を刺したのですか。なるほど」
熊林警部補が腕組みをしながら感心していた。
「そういうこと。さらに付け足すと、十二回刺すことは、結果的に犯人の異常さを演出することにもなるから、本来の目的である、運転手の証言を引き出す狙いで刺したことを、カムフラージュする効果までもあわよくば期待ができる」
とどめを刺すように恭助が議論を総括した。
「さすがです。先生。感服いたしました」
熊林警部補の尊敬のまなざしを受けると、小柄な青年は得意げに鼻をフンと鳴らした。
「あとは裏付けを取るだけだ。さあ、熊ちゃん。訊き込み開始といこうぜ!」
恭助たちは、駅前を通っている道道二五六号線を横断して、駅と向かい側にある牧場の中へ入っていった。牛舎の前で作業をしていた男性の姿を見つけると、熊林警部補が声をかけた。
「あの、警察ですが、少しばかり職務上の質問をさせてもらってもよろしいでしょうか?」
男性は一瞬怪訝そうな視線をこちらに向けたが、すぐにこくりとうなずいた。
「なんかあったんか? さっきからパトカーが行ったり来たりしとるみたいだけども……」
「先月二十一日の木曜日のことだけど、午前中に見知らぬ車がこの近辺に停まっていませんでしたか?」
「先月の二十一日……? そりゃあ三週間も前のことじゃねえけ? うーん、はっきりと覚えておらんけど、不審な車かあ……。覚えがねえなあ」
うしろで話をうかがっていた恭助が、彼としては珍しく狼狽していた。
「えっ、ないんですか? だよなあ。さすがに前過ぎるか……」
恭助のがっかりしている顔を見た男性が、横を振り向いて大きな声をあげた。
「おい、かあさん。警察の方だそうじゃ。先月の木曜日にここらに不審な車がなかったかどうか聞いとるけんど」
やがて、少し小太りのにこにこした女性が姿を現した。
「ええと、先月ですね。
あっ、そうそう。車じゃなくてオートバイが置いてあったじゃない。黒い色をした大きなオートバイが……。
敷地の出入り口に当たる道路わきにちょうど置いてあって、邪魔だから警察に通報しようかと話していたら、知らん間になくなっとったわね」
オートバイ――!
青葉は、又村がかつて咲来のライダーハウスを利用したことがある、といっていた言葉を思い出した。
「そうだ。たしかにあった! たしかにあったけど、ありゃいつのことじゃったかの。先月の後半なのは間違いねえけど……」
「はっきり思い出してください。オートバイがなくなったのは八月二十一日の午後じゃなかったですか?」
熊林警部補が詰め寄った。
「うーん、そうはいわれてもなあ……」
考え込む主人のようすを見た恭助が、小声で青葉にささやいた。
「残念だけど、三週間前のことを日にちまで正確に思い出せというのが、そもそも無理な要求かもしれないよな。だいたい、三日前の晩飯だってなにを食べたか覚えている人間なんて、世の中にいやしないんだからね」
「あら、恭ちゃん。そんなことも思い出せないの? 三日前なら日曜日でしょ。私は晩ごはんにはパスタを食べたわよ。明太子ソースの」
「ええ、本当に? いったい青葉はいつまで思い出せるというの?」
「一週間くらいなら、なんとか……」
青葉が申し訳なさそうに答えた。
「俺にそのスーパーな記憶力があれば、青葉にいつも試験で一番を取らせなかったのになあ……」
恭助が悔しそうにつぶやいた。恭助が青葉に成績で負けていたことを嫉妬しているなんて、青葉には結構意外な事実であった。
さすがに忍耐強い熊林警部補もあきらめかけようとしたその時であった。突然、婦人が、あっと大きな声をあげて、手を叩いた。
「そうそう、あの日は、新潟の高校がサヨナラホームランで勝った日だわ。甲子園のラジオ放送を聞いていたじゃない?」
「それって、八月二十一日け?
うん、それならわしも思い出したぞ。ありゃ壮絶で、めったにねえ劇的な試合じゃったからな。よう覚えとる。
そして、その試合が終わってから、たしか午前中の試合じゃったよなあ、家内と相談して、その日じゅうにいなくならなかったら、バイクのことを警察に連絡しようと話がまとまったんじゃ。けんど、夜になったらいなくなっとったから、結局はなんもせんかった……」
「甲子園か……。
熊ちゃん、すぐに調べてくれ。新潟の高校が九回にホームランでサヨナラ勝ちした試合の日にちを」
少しの間をおいて、熊林の下に天塩署からの連絡が返ってきた。
「間違いありません。問題の試合があった日は、八月二十一日――です!」
「やったぜ、熊ちゃん。これで決まりだな!」




